飯田高校の先輩達 その3 平成20年1月26日加筆


長らく中断してしまったが第三弾としてここでは飯田高校の先輩達のことを紹介する。

1.阿島の池田さん

  私が中学三年の時、喬木村の阿島に池田さんと言う親類がおられました。そこのオヤジさんは 既に他界されておられましたが、当時としては珍しい大倉経専(現一ツ橋大学)を卒業されて伊那谷では群を抜いた企業家であったと聞いている。

経済学全集との出会い

  そのオヤジさんの書院に入ったら 書庫の棚に「経済学全集」がずらりと並んで、多分2−30冊はあったと思うが、その本に何となく興味を持ちおばあちゃんの許可をえて、そこで読まさせて頂いた。一度に読める筈も無く 又意味もわからずに只行を追って読んでいただけと思うが、中学四年生、五年生になっても時々阿島の池田さん宅に上がりこんで経済学全集を引っ張り出して読んでいた。

今でも印象に残っているのは、全集の中にカールマルクスの「資本論」があった事だ。昭和22年23年頃は伊那谷一帯を共産党の旋風が吹き荒れて 資本主義は悪!人民の為の人民による国家とか 吾が祖国はソ連であるとか威勢の良いスローガンが何も知らない我々中学生を魅了していった。赤旗を読み、スローガンを叫び 打倒資本主義なんて叫んでると時代の最先端にいる感じで一種の陶酔ですらあった。そんな時に共産党が宣伝しているマルクス理論の元になる資本論の本を見つけたのだから、もう熱中して読んだ。中学四年や五年の青二才には 資本論の真髄は理解出来なかったと思うが、わかったのは 共産党の理論と資本論の説く内容とは全くと言ってよいほど乖離している、

これはおかしいぞ!そう感じてそれ以来距離を置いて見る事が出来た。もしあの時に資本論を読まなかったら多分上滑りのお調子者のお先棒担ぎでその後にひどい目にあっただろう。

 さて、高校三年生ともなれば 受験と共に自分の進むべき道もぼんやりでも決めなくてはならない。当時は疎開の無一文の貧乏暮らしで余裕など全くなく就職してまず生活の基盤を作る事が先決であった。その時に大きな影響をもたらしたのは、経済学全集だったと思う。中学三年の時から読み始めて何となく経済学なるものに憧れを感じていたから、大学の学部も迷わず「経済学部」と決めて何の違和感も持たず当然と思っていたが今となって振り返るとあの何も分からなかった時に出合った「経済学全集」が私の進路を決める大きな要因になっていたんだなあと思う。飯田高校卒業して、名古屋大学の寮に入る為池田さん宅にお別れのご挨拶に行った時、おばあちゃんに記念に「資本論」の本を欲しいと厚かましいお願いをした所 気持よく頂く事が出来、大学から社会人になってもその本は暫く手元に置いてあった事を覚えている。

雑誌「LIFE」でカルチャーショック!

  さらに話は続いて、池田さんの娘さんの結婚相手は飯田中学31回(昭和7年卒)で偶然にも私の伯父(忠良さん)と同期であった。結婚後も新居に何度となく遊びにいったが、当時としては珍しい「LIFE]の国際版を定期購入されておられ、その雑誌を貸していただいた。興味のある箇所だけ辞書片手に何とか読んだがとにかく魂消た!食料難の貧乏時代に米国の生活内容が写真と共に紹介されもう文字通りびっくり仰天!今でいう「カルチャーショック」を受けた。何度となく「LIFE]を借りて世界はこんなに広いのか!英語が出来ないと駄目なんだなあ やはり伊那谷を出て新しい場所で生活してみたい。それには英語をもっと勉強しておかないと駄目だなと感じるようになった。

神戸の三中では 英語は文法より先ず耳から覚えよと一年生の時に叩き込まれた、そして飯田高校で名物教師の「うらさ」の実に上手な英語指導で益々興味を持つようになり 一方では池田さんから借りた「LIFE]の刺激もあって 外国語に対する関心は一段と高くなってきた。この事が大学卒業して社会人になった時どのくらい助かったかそれは又別の機会に譲るとして、本当に知らず知らずに多くの方々から教えを受けていた事に今更ながら感謝する次第です。

2.林 和良さん
写真は喬木村の原写真館で昭和25年の大学入学記念に撮影したもの。前列右が林さん。
残念ながら1991年12月に64歳の若さで他界されてしまったが、喬木村阿島の出身で海軍兵学校に入学され、終戦と共に飯田中学に復学、4年先輩で僅か一年余りのお付き合いだった。一緒に伊那北の方にスケッチに行ったり阿島の安養寺の住職の本山さん(写真:前列左)と一緒に飯盒持参で小諸まで一泊の旅(小諸のお寺にただで泊めてもらった)に連れて行って頂いた。東京高師の英文科に入学されたが一年で魅力無しと退学されて東大受験されて合格、本郷の寮に一度訪ねていった事を覚えている。

その時に林さんから もっと英語勉強しろと英-英辞書を頂いた。昭和23年高校二年生の時で旺文社の豆単に熱中している時に「英-英辞書」をいただき、英語の勉強方法を開眼した。今でもその貴重な辞書は手元にある。既に茶褐色に変色し、ボロボロになっているが殆ど全頁の単語に赤線が引いてある所をみると、結構勉強したんだなと感心する。


林さんは東大卒業後就職されて 私が名大を卒業、社会人になった時に東京から出張の帰りに名古屋に来て頂いて豪華な料理をご馳走になった。彼はその後アラスカ州のバンクーバーで木材輸出関連業務の社長をされ遂にはアラスカ州政府の日本代表となり帰国後も 在日代表として活躍された。その間 絶えず文通は続いていた。私が輸出業務担当でバンクーバーに立ち寄った時に、無理してでもお会いしておけば良かったと今更ながら悔やまれる次第。92年3月 喬木村安養寺での法要の時に参列させて頂き奥さまとご家族にご挨拶し林和良さんのお墓にお礼の合掌をした事が昨日の様に覚えている。
  
こうして振り返ってみると、人と人との出会いの不思議さとその影響の大きい事、そして如何に自分を導いて頂いたか本当に私は幸運に恵まれて今日まで生かされて来て有難いと心底思っている。                                         平成16年1月31日


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