飯田高校の同級生達 その4 平成16年1月31日
平成20年1月25日追記

第四弾は飯田高校の同級生の紹介をしたいと思う。

◆小川彰一君
昭和18−19年は日本中の大都会は爆撃で壊滅状態になり、そこから多くの人が、この信州の伊那谷まで疎開で来られた。殆どが東京方面からで父親は東京で、奥さんと子供達が親類の家や離れでの生活するのが一般的な形式であった。喬木村にも、飯田中学へ転校してきた疎開者が多かった。その中で色々と影響をうけた同級生に小川彰一君がいた。兄弟三人と母親と四人で阿島橋の近くにすんでおられたが、彼は中学二年生の時にすでに世界文学全集を愛読し、特に「詩」の世界に滅法詳しかった。ハイネとかリルケ ボードレイルの詩集を手にしたのは彼のお陰であった。彼は終戦後まもなく東京へ引き揚げて行ったが、交際はずっと続いていて、昭和27年1952年に 再会した時に彼が私に「フランス抒情詩集-河出書房」を贈ってくれた。その本は未だ大事に手元に持っている。彼は大学卒業後 小西六に入社して 北海道地区の責任者そして仙台では東北地方管轄の社長として活躍した。年代は忘れてしまったが、私が仙台に出張した時に一度ほんの僅かな時間だが再会した。 95年退職して千葉の我孫子に新居を構え悠悠自適の生活を始めて、これから ゆっくりと会えるねと再会を楽しみにしていたら2000年末体調を崩して療養中との知らせがあり回復を願っていたら2001年3月にあっという間に他界してしまった。 合掌。  

◆.原 富士雄と松沢文雄君

  同じ喬木村阿島に原富士雄君がいた。彼も東京組で昭和21年に引き揚げていったが、彼からは勉強の方法を教わった、と言うと変に聞こえるが中学二年生で終戦のドサクサで、教科書も設備もろくな物が無くその上食料難でハラペコ、勉強なんて全然その気が無かったが、彼は既に東京で添削教育を受けており彼の自宅で英語の問題を出され私の解答に対して赤ペンで添削してくれた。そして英語は先ず単語の暗記から始まるとカード式の単語帳を見せられ、びっくり仰天。今まで試験なんて一夜漬けの山掛け専門できちんと組織的に勉強なんてやった事がなかったのがが〜〜んと頭殴られた感じ。将に「目が醒めた」と言うのはこの事だろう。それからは 予定表を立てて旺文社の「豆たん」と称する英単語の本を通学片道2時間、往復4時間を 英単語の暗記に努めて中学5年の時には殆ど暗記してしまった。彼に会わなかったら多分のんびりとした中学生活で、卒業後は喬木村役場辺りの三等書記官程度で定年まで過ごしていたのではないかと思う。彼は東京に行ってから大学の医学部を卒業して 田無市で開業医で成功を収めた聞いている。今でも文通が続いている懐かしい友人の一人だ。

  同じ喬木村の同級生で朝鮮から引き揚げてきた松沢文雄君がいる、引き揚げの時に随分と苦労したらしいが 愚痴一つ言わず何時も明るい態度が印象的だった。金沢大学卒業後旅行関係の仕事を現在まで続けている元気者で勿論文通は続いている。

◆山口 峻君
忘れてはならないのが山口峻君だ。彼は飯田の伝馬町にあった山口医院の長男で、学業優秀だが品行方正とは行かなかった。(山口、済まぬ・・・)学業の方は学年トップテンの中に入ってるが、品行の面は私とあまり変わりはなかった・・・だから今でも友人として付き合いが続いているんだろうね・・・彼とは高校時代同じ組だったし、名古屋大学の一年生の時も 同じ寮の同じ部屋で、卒業後も名古屋に在住現在彼は豊田市の老人施設の責任者で現役である。彼から影響を受けたのは音楽であった。当時は感度の悪い真空管ラジオで NHKの放送を聞くのがやっと。音楽界とかコンサートなどこんな田舎の街には滅多に来ないし、来ても高くて入場券だど買える訳がない。そこでラジオ以外に音楽なるものを聞く手段はたった一つ、レコードだけだった。それも戦前発売された古いレコードを物資不足から 金属針が無く代用針で手回し蓄音機にかけて辛うじて聞ける程度だったが、それでもすさんだ当時の我々の心に 干天の慈雨の如くしみこんできた。当時蓄音機とかレコードを持っている家はほんの僅かでそのうちの1軒が山口の家だった。放課後飯田の彼の家に行って何回もレコードをかけて聞かせてもらっている内に彼が蓄音機とレコードを喬木村のお前の家まで貸してやると言われ、天にも昇る気持で、自転車の荷台に座布団をくくりつけその上に大事に載せて文字通り飛ぶように田舎道を走りに走って帰宅、母と一緒に何回も聞いて、2−3日経ってから又自転車に積んで返しに行く、そして何日かたって又次のレコードと共に借りて来ると言った繰り返しをした覚えがある。今現在ポピュラークラッシクと称して放送されたり演奏されている曲の殆どは山口君から借りたレコードで馴染みのものとなっていた。当時としては非常に貴重品であった蓄音機とレコードを気軽に貸してくれた彼のふとっ腹には本当に感謝している。

昭和25年1950年 卒業生 227名 既に30人以上が他界した。色あせた卒業名簿を見ていると 50年以上の昔々の思い出が鮮明に甦ってくる、 あいつはこいつはと一人一人の顔と教室や運動場での想い出が昨日の様に心の中を走り回っている。もっともっと多くの友人の思い出があるがそれは次の機会に譲るとしましょう。            平成16年1月31日

◆卒業名簿


昭和25年(1950年)の3月わたしは飯田高校を卒業した。その時の卒業生名簿が出てきたのでそれをお目にかけます。

戦後五年たっても当時はまだまだ物が無く、この卒業生名簿もたぶん事務の方が手書きで原稿を作成して謄写版で一枚一枚手で刷り上げ編集して卒業式に配布されたものと思います。
まさに古色蒼然 わら半紙の色も褪せ 品質も劣化して強く引っ張ると簡単に裂けてしまう状態です

■俺達の卒業生は一体何人?
昭和25年の卒業生名簿には222名となっているが平成13年(2001年)発行の同窓会名簿は227名となっている。そして平成19年(2007年)発行の最新同窓会名簿ではなんとなんと226名となっている!俺たちの卒業同期の人数は一体何人が正解なんだろうか。名誉会員?

 昭和25年 222名
 平成13年 227名 5人も誰が増えたんだろう
 平成19年 226名 一人減った、誰だろう
退屈しのぎに一度名簿の人名を照合して 5人も増えたのが誰で今度は逆に誰が消えてしまったのか調べてみようと思いますが結果が楽しみです。私の名前が無かったらど〜しよう〜。


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