受験勉強の思い出 2 


受験勉強開始!

いままでのほほ〜〜んと他人事みたいに受験勉強を考えていたが、さて、志望校も決まり、何より落第したら 「村役場の書記」の一言が強烈に応えた。夏休みは 盲腸手術後の体力回復に専念したから、勉強なんてもの全然やれなかった、いややらなかったと言った方が正確な表現。そこで9月より2月までの半年間にどうやって受験勉強するか?
 
まずは予定表の作成

昭和25年の2月の試験日から逆算してどの課目を毎日どの位かたずけていくか、9月から12月までは 2学期の授業もしっかりあった記憶で 当時の古い記録を見ると 2学期は出席日数82日となっている。出席はしたことになっているが、真面目に授業を受けたかどうかは全く疑問・・・当時の言葉で言えば「内職」と称して、例えば国語の時間に一見聞いているようで 実は 英語の参考書広げて こっそり やっているそんな事で追いつく筈もないが、なにせ 喬木村から 徒歩2時間 往復4時間かけての通学、朝7時に出て帰宅するのは早くても5時か6時。
夕飯食って 一丁前に勉強するぞ と始まるのは大抵8時頃 どんなに頑張っても、勉強時間は4−5時間が精一杯。 
 さて そんな日常から受験に必要な課目を予定表に入れてみると全くの時間不足が歴然! 毎日午前3時か4時までやっても 駄目!紙の上では徹夜連続でもすれば 何とかなりそうだが、実際には出来るわけはない。なんど計算してもやり直しても 時間の不足はカバー出来ない事がはっきりと出てきた。

そうなりゃあ やる事は きまっちょる!「手抜き勉強しかない!」

英語について
有難い事に英語の単語暗記は中学二年生の時から往復4時間の田舎道で 旺文社赤尾好夫編の通称「豆単」をほぼ暗記したから単語暗記は不要、

社会について
次に社会科は 世界史を選択していたので これも教科書を通学時間で暗記した。以前書いた様に昭和24年頃は自家用車なんてものは 全く無く 木炭バスが 白い煙をポコポコ吐いて1時間に1台くらい 走っていたか、 木材か炭を積んだトラックがガタガタ 走る程度で 本を音読しながら 歩いてもぶっつかる危険は
ゼロであった。こんな調子で 12月まで なんとかかんとかごまかしの予定表で 受験勉強を進めた。

数学について
しかし どうにもならなかったのが、数学と英文法だった。英文解釈 作文は 何とかなったが 正誤問題ではさぼっていた文法の手ひどい仕返しを受けてさっぱり出来ず青くなった。
もう一つの難問は数学、 こいつは中学一年の時から嫌いな課目でそいつが最後まで糸を引いた。  受験は「解析U」で 従来の幾何 代数とは違って、順列組合せ 微分積分 確率等々 全く新分野であったが、基礎が出来ていないのは どうにもならず、 これは 出題傾向から 微分積分の計算問題を中心に あとは 確率の問題をつけたして勉強 とまったくのヤマカンをやった。

三学期の泥縄勉強
 
 こんな事で2学期もあっと言う間に終わった。ふるい記憶だが3学期は顔見世興行と称して、特定日だけ 出席すれば良い事になっていて おかげでそれこそ 朝から夜を撤しての受験勉強に専念した。当時の伊那谷の冬は今とは比較にならない程寒かった。  暖房は エアコンとか ガス:電気ストーブなんてものは 存在すら思わなかったし、 在るのは 「コタツ」と「火鉢」だけ。どの位寒かったか、当時は万年筆全盛の時代で、インクの補給は スポイトでインクビンから 万年筆にこぼさぬ様に注いだものだが、そのインクビンのインクが 凍ってシャーベット状になっている、 それを 火鉢やコタツを使って溶かして使う・・・室内の机の上のインクが凍るなんて 想像出来ますか?

唯一の暖房のコタツは 足をつっこんで教科書を読んでいると 誠に気分よく居眠りの世界に 引きずりこまれる事が多く 仕方なく しっかりと着込んで火鉢の炭火だけで 机にかじりついていた記憶がある。

問題の英文法は それこそ一瀉千里の勢いで もう一日20−30頁を読破して1月末までには 何とか 形だけでも終了した。   

数学は もう腹くくって 微分積分の演習問題と 確率問題だけを繰り返し解く事に専念。  後日談だが 確率問題で どうしても納得できない問題があり

受験の為 名古屋に出たその宿で食後まだウンウン唸ってやっていた。これこそ 将に「泥縄勉強」の眞髄であろう。こんな受験勉強でもよく合格できたなあ と感心されるかも知れないが
世の中奇跡も偶然もあるからまんざら捨てたもんじゃないです。


学校の成績

こんな泥縄勉強で合格出来たんだから日頃の学校の成績は余程上位にいるのかと誤解されては困るので 大切に保管してあった成績表を公開します。これは学年評価の分です。
 
 昭和19年 (1944年)兵庫県立第三神戸中学校 1年4組
 修身  国語  漢文  歴史  地理  数一  数二  物理  生物  
  良   優    良    良   良   可    良    良   良

 英訳  英作  音楽  書道  図画  工作  体操  武道  教練
  優   良    優    良   良   優    良   優    良

昭和19年 もう爆撃が盛んで敗色濃厚の時でありながら、三中の先生方はこんなに充実した課目と授業をされていたんだ。唯一戦時色は 「教練」位なものであろう。

昭和20年から22年までの 混乱期の成績表は行方不明

昭和23年 (1948年) 飯田東高等学校 2年 D組 担任は 澤柳(オロシ)先生
 国語  社会  数学  理科  英語  独語  体育  地学
  優   優    良   良    優   良   優    良
 昔流に言えば 中学5年生の時です。  

 昭和24年 (1949年) 飯田高松高等学校 3年B組 担任は市瀬(ウラサ)先生
 国語  文学史  世界史  解析U  地学  英語  独語
  良    良     良    可     優    優   優
  
こんな成績で、卒業の時は 順位は真ん中より ちょっと上程度でした。
世の中の受験生諸君!高校の成績なんて関係ないよ、世の中何が起こるか全くの闇、天佑を信じ 奇跡を頼み 偶然を当てにすれば 何とかなる見本がここにいたと思ってください。

おわり。 


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