受験勉強の思い出 2 

志望校はいかにして決まったのか

楽天家的発想?

時は西暦1949年(昭和24年)。私もついに高校3年生。現代の高校生なら既に1年生の時から自分の志望大学を漠然であろうが憧れであろうがとにかくめぼしをつけて受験勉強まっしぐらの日々であると思うが、当時の私は余程の楽天家かアホか3年生になってから、進学をどうすべと考え始めた。

模擬試験は落第

その頃の飯田高校は生徒自治会問題や青年共産党問題等でかなり混乱していたが、授業の方は既述した個性あふれる先生方の御努力で模擬試験とか実力テストなどが実施され受験に向けての雰囲気創りと 田舎高校が都会の進学校に負けないように配慮されたが、この試験は 強制ではなく自由受験であった。3年生の初夏だったか、そんじゃ実力を試すかと 模擬試験受けてみたら 全然歯が立たず さっぱり!数日後廊下に成績順に得点と氏名が貼り出された。勿論武士の情けで落第点の連中の名前は無く上位者のみであったが、その優秀な得点にたまげてそれ以降模擬試験は全部逃げた!

志望大学の決定は生活費が優先

そんな程度の私が受験勉強の書入れ時の夏休みを「盲腸炎」で全部フイにしたし、学年期末試験も受けなかったから 担任の「うらさー市瀬先生」が適当に点をつけておいた、 学年で 60番くらいだな  と言われても 「は〜〜あ、そうですか」で別にがっかりもせず、そうかと言って 奮起した覚えも無い。ウラサにも 「おい、 お前 何処の大学受けるつもりか?」なんて 全く言われなかったし当時は誰が何処を受験しようと ご自由に と言った雰囲気で 学年でドンジリに近い野郎が 「俺は東大を受ける」と名乗りをあげても そりゃ 無理だ 止めろなんて
言う奴は誰一人居なかった。   

その頃 どこの大学を受験するか 学力以上の重要問題があった。  それは「生活費」の問題であった。  今の高校生から見たら 理解できぬ事であろうが、昭和20年代は戦後の混乱と同時に一部のずるがしこい闇商人以外は皆な貧乏人ばかりだった。当時の貧富の差をあらわす表現に 「私学に行く奴は金持ち。国立に行く奴は貧乏人」という言葉があったくらい。だから大学の所在地の下宿とか寮の生活費がいくらであるか、その額は親の収入の許容範囲であるか、不足額は奨学金やバイトで補えるかそんな情報は夫々の大学に進学した先輩から生の数字を聞き 、A大学は このくらいだ B大学はこの程度らしいと 同級生同士で真剣に情報を交換しあった。貧乏人の私にとっては 私学は入学金授業料で問題外、国立以外受験は駄目で
上記の情報交換からどうやら名古屋が一番生活費が安いらしいとの目途がついた。

そんなわけで名古屋の大学にするべえか・・・と志望大学が決まったわけである。

どこの大学を受験しようか

さて名古屋が一番生活費が安いことはわかった。では国立の大学はどんな大学があるのだろう?親類の池田さんの影響で経済学部に行きたいと思っていたのでそれに該当するのは名古屋大学しかない。(当時の名称は法経学部)というわけであっさり志望校が決まったのである。

数学で博打勝負!


当時大学関係の情報は旺文社発行の「蛍雪時代」という受験雑誌しかなく、各大学の入試問題の解説や断片的に大学紹介が掲載されて、その中に 名古屋大学は数学が国立大学の中で一番難しく 25点とれたら合格、殆どの受験生がが零点とあった。対策として、名大の数学は4問出題されるから、3問は捨てて1問だけ 120分かけて解答すれば25点とれる とあった。 「よし!そんならやってみるか!」盲蛇におじずとはこの事だ。こうして名古屋大学を受験することをなんとなく決め、まずは数学を受験科目に選んだのである。

さて、ほかの科目はどうしようか。 
理科の科目では物理はウラサのテストの零点の後遺症でまるで駄目、化学化学記号が大嫌い、生物はトヨサ先生のもりあお蛙談話でチンプンカンプン。残るは地学だがこれが有難い事に 飯田高校には 「鹿間先生」という当時の地学レベルの最高を行く先生が赴任されて、教えていただいた内容が予想地学問題を解くにぴったり!地学は出来たばかりの学科でひねくれ問題は少なく 殆どが基礎問題中心、そりゃそうでしょう、 出題する名大側に有名先生がいなかった??
一方飯田高校には 鹿間先生と言う出題側にいても可笑しくない先生がいるのだから名大以外の 他の大学の地学の問題をやってみるとそんなに苦労せず解答できた。だから今でも名大合格の点数稼いだのは地学だったと信じている。鹿間先生有難う・・・今頃なにをぬかすかと先生の顔が目に浮かぶなあ・・・。

名古屋大学に決定

そんなこんだで何となく名古屋大学にするかなあと漠然とした考えを一挙に決定したのは、9月か10月か忘れたがそれまで一言も進学について言わなかった母親から『どこを受けろとは言わない。自分の好きな所に行きなさい。但し家にはお金が無いから国立大学 一校だけの受験にしてほしい。もし落第したら村役場で書記に採用してもらって働く事!」と宣言された時である。

飯田高校には 昔から言い伝えられた こんな歌がある
・・・入学する時や 大臣志望  卒業する時や 代用教員・・・
今と違って大昔は 中学5年生を卒業すると山奥の過疎の村の代用教員になる道があった それを 指しているが、母親から村役場の書記にすると言われた時のショックは大きかった。何となく東京や大阪名古屋の大都会に憧れて 田舎から出たい希望があったのに、落第すると 一生村役場の書記かあ・・・こりゃアカンワ!

よしっ!志望大学は名古屋大学一本にするぞ ・・・と やっと踏み切った次第。
この超スロースターターがどんな受験勉強をしたかは 次回のお楽しみ。
 


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