刈藻島の高射砲部隊


在の神戸市長田区刈藻島町。かってここに三菱重工業の神戸造船所を守るための陸軍高射砲の陣地があった。

部隊の名前などは全く記憶にない。記録を調べると阪神間を防衛していたのは 中部高射砲集団」という名称で師団編成後は\高射第三師団と呼ばれていたようだ。神戸市街を担当していた部隊名は「 独立機関砲第49中隊」とのことなので私がお世話になったこの中隊の管轄の小隊だったのだろうか?

当時の旧制中学では半分強制的に軍人志望させられて、(この当時は男は軍人とほぼ相場が決まっていたが)優秀な生徒は陸軍幼年学校へ学校から推薦受験(入学ではない)資格が与えられてそれこそ羨望の的であった。私は暴れるほうは推薦の資格あり(もちろん自薦)だったが、頭の方では資格なし、そこで陸軍幼年学校は諦め、当時生徒の半数以上が願書を出した航空隊への道を志した。(海軍甲種飛行予科練習生だっただろうか?記憶なし)

ある時、志願した生徒が集められ、それぞれ何人かの集団に分かれた後、実地訓練も兼ねて神戸の各部隊に配属されることとなった。軍人志望の、当時旧制中学二年の私は晴れて神戸の空を守る高射砲部隊に期間限定ではあるが、配属されたのである。配属といっても、丁稚奉公のような形であったが、私としてはこれでも立派な軍人の端くれ、すこし誇らしげな気分であった。だが現地の兵隊にしてみれば、大して役にも立たないガキ共を押し付けれてさぞかし迷惑だったに違いない。

記憶にあるのは、ただただ「殴られた」こと。
・ やたら整列させられて殴られた。
・ 空襲あると、地下弾薬壕から2発ずつ入ってる弾薬箱を運ばされ、遅いといっては殴られた。
・ 命令を復唱しなかったといっては殴られた。
・ 軍人勅諭を言わされて声が小さいといっては殴られた。
いまから考えればまったくもって理不尽な話であるが、その当時は反抗しようなどどいう考えは全くなかった。高粱飯の雑炊を食べたことも記憶に残っている。ここの高射砲隊がB29を撃墜した記録は私が殴られている時は無かったが、その後B29が単機で夜間偵察に来た時(F-13写真偵察機だったかも?)探照灯の光に捉えられ、その直後一瞬にして爆発炎上墜落したのを目撃したが後日の発表で、それがお世話になった刈藻島高射砲隊の成果だと報じられたのを鮮明に覚えている。  

5月末だっだであろうか、軍人弟子入り期間?も終わり、中学に戻る時、兵隊から小さな「羊羹 」を一本貰った。昭和19年当時は貴重品であったのだ。大事に持って帰り、自宅で母と一緒に食べたのを微かに覚えている。




Home