62年の歳月を経て
神戸池田小学校と神戸三中の同級生の消息が判明!


1.母校を息子と訪問
平成14年の7月、西宮市に住む息子と二人で私の母校である池田小学校と長田高校(旧神戸三中)を見て、池田上町から広町 御船通りを散策しました。池田小学校は昭和19年(1944)卒業、神戸三中入学するも、戦災で信州に疎開、伊那谷で4年間過ごして飯田高校卒業、名古屋大学に入り以後52年の月日を名古屋で暮らしています。年齢も70歳後半になると、そろそろ先が見えてくる感じで、昔の友の姿が無性に懐かしくなりますが、名古屋に住んでいますと、神戸にいると思われる同級生の消息を知る事は殆ど不可能に近く、このまま誰の事もわからぬjまま時を過ごすのかなと諦めの心境でおりました。そこで、その思いを私の「昭和一桁男のほうむぺいじ」で池田小学校時代の思い出として同級生の欄にて「昭和19年卒の同級生の消息は全く判らない。池田小学校の同窓会長に問い合わせしても、昭和19年卒の消息は皆無との返事。近々出来る予定の池田小学校のホームページを利用して、同級生の消息を知りたい・・・と書いていました。

2.旧友の死と新たな発見

池田小学校の同級生でたった一人消息の判っていたのが胡谷忠道君だった。小学校時代御船通りに住みその後兵庫県警勤務、平成7年に50年ぶりに池田小学校で再会、これから多いに旧交を暖めようと約束したが平成13年に倒れて其のまま逝ってしまった。彼は兵庫区菊水町から北区の若葉台に転居したが、同級生の消息は知らず、同級会なども全く知らないと言っていたので、彼が居なくなってから、知りうる同級生は一人もいなくなった。

Aさんからのメール
そうこうする内に平成15年(2005)の9月、突然四国のT市在住ののAさんから「昭和一桁男・・・」を読んで、ひょとしたら、亡父荒木宏の同級生ではありませんかとのメールを頂いた。手元に奇跡的に残っていた池田小学校の昭和19年卒業写真に「荒木」姓が一人だけいたので、早速その写真を郵送し、その後のメールのやりとりで、彼が同級生である事が判明した。荒木君も私と同様に戦災に遭い、徳島に疎開。Aさんは父上が神戸の池田小学校の卒業とは知っていたものの、資料や記録はすべて焼けてしまって手元に何も残っておらず、娘さんが亡父の想い出を残す為にネットで色々調べているうちに「昭和一桁男・・・」のホームページに当り、その結果、彼が同級生である事が判明っと言う誠に嬉しい事があったのである。しかし、残念ながら彼も既に他界していた。こうして不思議なご縁で消息がわかっても、再会が出来ない事は60年の歳月の長さをつくずく思い知らされた感じだった。神戸三中二十四回生の同期の事も 昭和20年の爆撃で罹災したり転居、疎開等でばらばらになり、信州に疎開する時も同級生に別れの挨拶もできずに出発した。以後62年の年月が経たが同級生の消息は誰一人知るすべも無くもう殆ど諦めの境地でおりました。

3.晴天の霹靂
同級生の事は思い出すでもなく忘れるでもなく、と言って積極的に手を打つでもなく ただ漠然と頭の隅に漂っていた。そんな平成18年6月夕方、ひさしぶりにパソコンに向かいメールを開くと不思議なメールが目にとまった。「神戸三中を検索中、昭和一桁男・・のHPに当たった。貴方は三中一年四組にいたHさんではないか?」という内容だ。見ず知らずの他人から突然氏名を言い当てられる!「はて?」と思い件名を見るとなんと「三中二十四回のH田とあるではありませんか!瞬間わが目を疑うとはこの事でしょう。 自分のホームページにも「三中24回生」と書いてはあるが、まさか外からのメールにその署名があるなんて! しかも一年四組で担任は小林先生とあった。間違いなく同級生だ、しかも生きている同級生だ!(失礼)

三中には二年生の途中までで、信州に疎開し卒業はしていないから、当時の同級生で果たして私の記憶があるかどうか?その疑問もありましたが、今こうして現実にH(私の苗字)ではないか?と呼びかけられるとタイムマシンに乗って三中の正門をくぐって行く様な気がします。 昭和20年三中におさらばして以来62年後同級生からのメイル、それだけでも奇跡に近いのに、もっと驚くべき事実がありました。 私のHPの中で小学校一年生は 長田小学校に入学して、担任は「西脇貞子先生」と書きましたが、彼も長田小学校入学し、さらに「西脇先生は私の小学校同級の西脇真君の叔母さんに当たり、一時その西脇酒店の二階に寄寓されていたのでお顔を覚えています」との知らせに、もう頭の中が波打つ様でした。西脇先生は長田校から池田校に来られその後結婚されて近藤姓となられ姫路近くの揖保川で昭和63年(1988)お亡くなりになるまで、文通が続いていた素晴らしい先生のお一人です。 今思い出しても、池田小学校時代「ワルガキ」の代表みたいに暴れて、何度教室の後ろに立たされたり、廊下に追い出されたか、覚えが無い位、多分一度や二度は西脇先生に物差で頭ひっぱたかれた事はあったでしょうね。

神戸池田小学校の同級生判明!
メールを下さったH田さんは長田高校から阪大医学部を出られて長田で内科医院経営をされておられるとか、その彼から更に驚くべきメールが来たのです。古い62年も前の資料を調べて昭
和19年に池田小学校から三中に入学した私の同級生の消息をしらせてくれました。今まで長い間どうしようも無かった同級生の消息が今目の前に懐かしい名前とともに書いてありました。調べてくれたH田さんに、一体どうやってこの喜びと感謝を表現すれば良いのか語彙の乏しい事と表現力の貧弱さが今更ながらに恨めしい!

知らせて頂いた同級生の中に既に他界してしまった名前もありました。
井出祐雄君
物静かで頭の切れる学者タイプだった。
島本泰君 
記憶が違っていたら大変だが ガキ大将で喧嘩させたら校内一番の腕っ節の強い男だが頭もそれに比例して素晴らしかった。
田口博愛君
ワルガキで一緒に悪い事ばかりやりまくったが、あるとき運悪く先生に見つかって絞り上げられた、しかし彼はその時一緒にやった私の名前は絶対に漏らさなかったそうで、後でその話を聞いてなんと男気のある奴だと感心したのを今でも覚えている。

生きている同級生の事
池田小学校から三中に進学して、その後元気でおられるだろうと推測される同級生の名前は K君、中西君、山道君 梶君 谷口君 富田君 浜口君 直原君となんと八名の同級生の名前と住所が判明した。 これだけでも驚くべき事であるのに、更に驚いたのは、彼がK君と親友であった事だ。池田小学校時代 私とK君は4年、5年、6年と三年間同じ学級であった。 ワルガキ代表の私と違って彼は学年でもトップクラスでずーっと級長に任命されていた秀才で、当時私の住んでいた池田上町の家から坂道を二百米位下った所にK君の家がありよく遊びに行った。 彼の部屋には 世界文学全集の様な本がびっしりあり、その他にも雑誌類が山の様にあった事を覚えている。 私が四年生の時に急性盲腸炎で学校を休んだ時には、自宅に来てくれて、授業内容を教えてくれたので、回復して学校に行ってもそんなにひどい遅れにはならず、有難かった。 そんなこんなで彼とは三年間親友の間柄であったが、爆撃を食らってからのドサクサのまま疎開して、それ以来彼の消息も途絶えてしまったのである。

メールをくれたH田さんは三中時代からK君との親交が続いており、K君の卒業後の遍歴をつぶさに知らせてくれた。世の中広い様で、こんなに狭い物かと溜息が出るくらいのメールでした。これから一人一人に手紙を出し、機会あれば浜田さんはじめ神戸大阪在住の同級生諸氏に直接会って見たいと計画しています。お陰さまで何だか急に元気になった様な気がします。
あらためて、この吉報を知らせてくれたH田さんに 感謝、感謝です。 本当に有難う御座いました。 (平成18年6月18日)

◆平成20年12月17日追記
池田小学校の同級生K君に昭和20年以来63年ぶりに昨日手紙を書いた。こんな長い年月全く音信不通で果たして彼の記憶に残っているか若干の不安があったが、今夜手紙を見たと K君から電話があった。
「俺だ 俺だ 池田小学校のKだ、元気か?」
お互いに近況をしゃべったが、この長い長い空白があっという間に消えてしまった感じだった。
この不思議な感じをどの様に表現してよいか適当な言葉が見当たらない。あれだけ探しても見つける事が出来なかった同級生のK君からこうして元気な声を聞いているとほんの数日前に
会ったような気持すらして一度に気が抜けた。来年早々会おうと約束して 電話は終わった。
14歳の中学二年から 今お互いに77歳の高齢者、その間どんな人生を送り どの様に変わったか再会が楽しみでもあり反面怖いような気もする。来年彼と再会して そのほかの同級生の消息を聞けるだろうし運がよければ 何人かに会えるかもしれない。一期一会の重みを痛切に感じた電話だった。

平成23年8月4日追記
◆同級生の写真を見て
私は神戸池田小学校を昭和19年(1944)に卒業したが、同期の消息については、前項に書いた通りで、殆どが消息不明のまま。 奇跡的に数人の消息が判明したが生来の「ズボラ」が祟ってまだ誰とも会う機会がないまま今日まで来てしまった。

私の頭にあるのは67年も昔の卒業の時の顔のままだ。 皆な 今はどんな風に変わってきたのか、67年もの時の流れが、彼らの顔にどんな年輪を刻み込んだだろうか、間違いなく言えるのは、今突然街で会っても、知らん顔だろうし、又名前を名乗られても、67年前の顔と現実の顔との落差を埋めるのに時間がかかるだろうね。

飯田高校の同期の連中が定期的に会合を開いているが残念ながら出席の機会がなくその都度幹事さんに出席の諸兄の写真を名前入りで送って貰っているが、写真にある顔と名前がすぐ一致するのは数人程度で、残りは何度見ても名前と顔とが結びつかなかった。 そんな事で、池田小学校の同期のA君・・彼は残念ながら昭和62年に56歳の若さで他界してしまったが、彼の娘さんに依頼して生前のA君の写真を送ってもらった。 67年昔のA君と56歳の彼の写真を較べてみて、感無量だった。

変わって当たり前だ、自称紅顔可憐な美少年でも現在は「しわの海」に目鼻がついている状況、何を今更驚いているか、 毎年いや数年に一度でも会っていれば、ギャップは少なくそう違和感はないと思うが全く会う事なく突然に現実の姿を見て平然としておれる野郎なんていないと思うよ。ま お互いに今日まで年輪を重ねてきたんだ。
我輩もこれから鏡に自分の顔を映して、少年の頃とどう変わってきたかじっくりとご対面してみましょう。


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