神戸大空襲の記憶(1)

昭和20年


和16年12月に始まった「大東亜戦争」は、われわれ国民は勝利! 勝利!の大本営発表を聞いて、八紘一宇の神国日本がアジアの盟主として鬼畜米英を粉砕するものと固く信じていた。

しかし昭和18年に入ると 今まで聞いた事もない「ガダルカナル」とかラバウルでの激戦、ソロモン諸島からジリジリと戦線が北上してどうも押されているらしいの噂が出始めた。
そんなバカな事は絶対にないと当時の中学生は心から勝利を信じきっていた。しかしサイパン島での玉砕が伝えられるに至り、「全滅を玉砕の言葉で置き換えていたんだ」と真相にだんだんと気が付き始めた。ちょうどこの頃からB29による日本本土空襲が始まった。

空襲に備えて、神戸の下町では火災の延焼被害を食い止める為に、強制立ち退き命令が軍から出されて、兵隊によって家屋が壊され、その跡が道路になった。そして各家ごとに「防火用水」と「防空壕」を用意する様指示が出された。昭和19年末の「防空壕」は 部屋の畳を上げて床板をはがして、そこに人間がしゃがんで入れるだけの「穴」を掘る、空襲警報が鳴ったら、畳:床板をはずして、その穴の中に身を潜める。空襲の実態を何も知らない軍部とお役人の指示をまともに信じて隣組の全員が一軒一軒みんな手伝って小さな「」を掘った。そして訓練と称し
て、老人子供はその穴に入り、大人は男女を問わず「防空頭巾」・・これがどんなスタイルか、目的は何かがすぐわかった方は戦争体験者か 余程の戦史研究者でしょう・・・。。

この頭巾をかぶって、「火たたき棒」を持つ係り、バケツリレーの係り、とそれぞれ分担して、指揮者の号令の下に消火訓練を真面目にやった。実際に一回でも空襲を体験すると、そんなマヌケな訓練は役立たず個々の家の床下に作った防空壕も全く無駄であることが瞬時にして理解出来るのだが、それまでは これで爆弾を防ぎ、火災も消せると信じていたから、可笑しいよりも悲しくなってしまう。

こんなのんびりとした現実無視の対策に明け暮れしている中、20年になると今まで九州や東京に来ていたB-29が突如明石に飛来して、爆弾の雨を降らしたのである。これを皮切りに2月になるとひんぱんに大阪が爆撃され、夜、東の空が赤々と燃えているのが見えたのを記憶している。神戸も3月16日に徹底的に絨毯爆撃をやられてしまい、中心部は殆ど壊滅した。 爆撃の跡かたずけに、我々が駆り出されて焼け焦げたトタン板や崩れた煉瓦の山を殆どが素手でもっこに入れて広場に積み上げた。焼け崩れた家の中から焼死体も何体か発見され、その遺体を運ぶ作業もやったが目茶目茶に破壊された街を見ていると神経が麻痺して、恐怖心も消えて、只機械的に作業を繰り返しただけの記憶がある。無残な焼死体と表現すれば簡単だが、爆撃されて手足,頭部の無いのは当然、 焼死体の手足を引っ張ったらどんな風になるか、あまりの悲惨さに詳細については筆を運ぶことが出来ないがそんな直視出来ない惨状の中で僅か15歳の中学生が処理に黙々と従事していたのである。戦争は狂気だと戦後言われたが、当時の雰囲気はいま思えばまさにその通りで、もっと恐ろしいのは誰も自分達が狂ってるなどと思いもしなかった事である。

いささか長くなり過ぎましたが、空襲の記憶とあわせて当時、いかに戦意高揚のため、理性が麻痺していたかの事実をしてもらいたい為長文となりました。次は我が家が被爆した時の事を(2)で書きたいと思います。



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