神戸大空襲の記憶(2)

昭和20年6月 


和20年3月の空襲で神戸中心部は殆ど焼け野原の状態となり、三中も爆撃で校舎の一部が焼けてしまった。はっきりとした記憶はないが、校庭に6角形の焼夷弾の燃え殻が沢山積まれていたのを覚えている。

その後何回と無く爆撃があったと思うが、もうその時には家の中の「防空壕」など役立たずと言う事がわかり、近くの空き地に、深さ2米位幅1米位の穴を掘り、側面に戸板を立て、天井は古畳を敷いてその上に土を被せて、焼夷弾程度なら直撃されても大丈夫と言う本格的な防空壕が出来た。

1−2回位その防空壕に避難したが、大人でも10人以上入れる頑丈な作りで、空襲警報解除までその壕の中でじっと潜んでいた。その間にも戦争は益々不利になり、サイパン玉砕、沖縄上陸特攻作戦の日常化で、新聞もタブロイド判のインクで手が汚れる紙質の悪い、掲載された報道はもっと粗悪きわまる大本営発表で埋め尽くされていたが、それでも、当時の私は最後に「神風」が吹くものと信じて疑わなかった。

れもしない6月5日、この夜も空襲警報が鳴った、B29の大編隊が神戸方面にむかいつつあるとのラジオ情報で、すぐ隣の3軒長屋のおばさんが、今夜はひどいようだから、防空壕に避難しなさいと言いに来てくれた。だが、この時なぜか母は「結構です」と誘いを断ってしまったのである。防空壕は危ないと判断したのか、それとももう入る余裕が無かったのか、いまでも分からないが、この日、私と母の二人は自宅の玄関の上がり鼻に腰をおろして空を眺めていた。次第にB29の爆音が響いて来た。独特の音だ。同時に遠くの方で次第にズシンズシンと腹に応えるような爆発音が聞こえてくる。

「だいぶ近づいてきたな・・・」思った瞬間であった。
一瞬のうちに私と母の座っている玄関全体が真っ赤に染まったのである!
爆発音も恐ろしい爆風も何も感じなかった。

何事かと振り返ったらのの台所から火の手が上がっていた。無我夢中で外に飛び出して「焼夷弾落下」と叫んで応援を求めたら、近所の人々がすぐに駆けつけてくれて、とにかく火を消してくれたのである。その直後、「防空壕に直撃弾だ!」の叫び声があがった。母も私も家から20米位離れた空き地の防空壕に見に行くと、既に隣組の人々がシャベルで埋まった防空壕を掘り出している所であった。暗闇にの中、提灯の僅かな灯りの中で懸命の救助作業が行われ、次々に掘り出される遺体が戸板に乗せられて三軒長屋の前に並べられた。誰一人として満足な姿を留めている人はおらず、その光景は50年以上たっても未だ目に焼きついている。直撃を受けた防空壕は、ついさきほど長屋のおばさんに誘われた壕だったのだ・・・。

6月6日。長かった夜も終わり、朝を迎えた。次第に周囲の状況が分かるにつれ私と母がいまここに生きているのが将に奇跡としか考えられないような状況であった事が判明した。自宅に落ちた爆弾は実は焼夷弾ではなく、250キロ爆弾 であった。250キロ爆弾は家の台所の屋根を突き破って床板を破り5〜6m程地面にもぐって爆発したのである。

・台所の下の地面が比較的柔らかい粘土質であった事
・そのために爆弾がもぐり込んだ事
・爆発の衝撃が殆ど真上に吹き上がり、爆弾の破片も爆発による爆風も全て台所の天井を吹っ飛ばす垂直方向に飛んだ事

このため 爆弾落下地点から一番遠い玄関先にいた私と母には破片も爆風も当たらず爆発の閃光が目に入っただけと言う、もう信じられないような奇跡だった。隣組の大勢の人が現場を見に来て、生きているなんて信じられないと 幸運を祝ってくれた。台所の爆弾の先端部は粘土の中にもぐって破裂せずにその原型が残っていたが、その日のうちに隣組の方が掘り出して空き地の防空壕跡に捨ててくれた。

10人近くが亡くなった防空壕はやはり250キロ爆弾の直撃を受けて全員が即死状態だったと後から聞いたが、無残な遺体は、誰にどう連絡して良いか分からず 主の居なくなった長屋から引っ張り出した着物で覆われて翌日までそのままだった。防空壕に避難した住民は死に、その家はなぜか焼け残ったのである。防空壕には未だ肉片がこびりついておりこの時ほど恐怖心を覚えた事は無かった。

もし、あの時の避難勧告を受けて防空壕に入っていたら

爆弾の直撃で即死して

今こうして書いている私の存在は無かっただろう。


どうしてあの時母が誘いを断ったのか
どうして二人とも玄関に座っていたのか、
どうして爆弾が一番遠い台所に落ち、
しかも地中にめり込んで爆発したのか??

単なる偶然と片付けてよいことでは決してない。
これは神仏のご加護以外何物もないと感謝の気持を今でも忘れない。
この6月の空襲で神戸にはもう爆撃する目標は殆ど無くなったと思うが
その後も空襲は散発的に続いたと記憶している。

余談になるが台所が吹っ飛んでからその後の食事はどうしたか?の疑問が生まれるが実は水道管は蛇口がついたまま残っており、台所にあった「米びつ」が蓋の付いたまま屋根に飛ばされ、それを降ろしたら貴重な米がそのまま無事残っていた。四散した鍋釜茶碗など 程度の良いのを拾い集めて使用、 崩れた煉瓦を利用して折れた台所の柱や板を燃料にして食事の支度を何とかこなした。

当時母は、阪神大震災で壊滅的被害を受けた長田区の菅原通りの近くの「御蔵(みくら)小学校」に奉職しており、被害の状況を聞いた父兄から貴重品の味噌、醤油や漬物の差し入れがあり、これで随分と助かった事を覚えている。もう既に半世紀昔の遠い遠い思い出と成ってしまったが、人情の有り難味は今でも身に沁みている。 

2007.03.12】記事の間違い

本頁で我が家が被災したのを6月5日と書きましたが、これは3月17日の間違いである事が分かりました。昭和20年当時 神戸在住の Aさんより 自分が被災したのは6月5日で その時は「昼間爆撃」であった事、3月17日は夜間爆撃であった事を資料と共にご指摘を頂戴いたしましたので、ここに誤りを訂正いたします。薄れ行く記憶を頼りに書きました思い出話を読んで頂き、またその誤りを教えて頂き本当に感謝、感謝です。Aさん有難う御座いました


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