豊川振風寮での学生生活 1950年
2007.03.12追記


豊川振風寮 北寮 1950年

1.教養学部って何だ?
名古屋大学経済学部合格だ! と喜んだまでは良かったが、有頂天な気分が落ち着いて来ると判らない事だらけだった。今から思うと本当に「井の中の蛙」の典型的な楽天家だったが、 先ず春休みに帰郷している先輩から「教養学部」で一年学ぶと言われて、何が教養学部じゃ 俺は経済学部に入学したんだと心の中で反発、教養たるもの何だかさっぱりわからず。後々 専門分野を学ぶ前に広い学問の知識が必要で、高校では受験勉強ばかりのかたよった「リコウバカ」を叩き直す必要から出来たとか何ととか 聞いたが 半世紀だった今でも 納得出来ずにいる。

2.豊川ってどこ?
次に入校は「豊川分校」とあって 名古屋市内とばかり思っていたので びっくりして一緒に合格した同期に聞いたら、志望した学部に関係なく法学部、医学部、経済学部文学部はいずれも豊川分校行きの通知がきている事がわかってお互いに安心したが一緒に送られて来た「入寮申し込み書」を見て早速小田原評定開始、とにかく場所は飯田線牛久保駅より徒歩30分、名鉄豊川線「岡崎高師前」前より徒歩5分とあった。昭和25年(1950年)は 戦後5年たったと言うものの 戦後の復興の言葉とは遥かにかけ離れたどん底時代で我々地方出身者には寮が無ければ通学が出来ず、否応無く入寮を決めた。有難かったのは 同室者を選べた事で、高校で同じクラスで学んだ「山口(医)吉沢『医)の秀才組と同室できた事だった。

3.振風寮入寮
3月。重たい冬布団の入った行李、文机(机と椅子セットではない、そんなしゃれたものは 金持ちか余程恵まれた環境の野郎しか無く、私の文机も叔父の使った払い下げだった。) 

それとリンゴ箱に新聞紙を貼ってカッコウつけた「本箱」と当座いると思われる辞書類と多少の参考書、あとは下着類新品なのは「角帽」だけ。 余談だが、最近、大学入学して一番嬉しかったのは何ですかと聞かれて角帽をかぶれる事だったと返事したら 角帽って何ですかと聞くので当時の写真を見せたら「カッコワル〜〜」の一語にがっくり。60年前とはえらい違い様です。
憧れの角帽と共に 1950年

さて3月某日 飯田線の飯田駅から各駅停車のボロ電車(もちろん急行とか特急なんてなかった・・・)に揺られて4時間近くかかって 牛久保駅に到着、埃だらけの道路を迷い迷い山口吉沢の三人組で辿り着いた「振風寮」はなんと畑のド真中に立っていた。

寮はオンボロの木造2階建ての5棟の寮だった。事務所でどの寮のどの部屋なのか割り当て表をもらって指定の「北寮」に行ったら部屋の中に送った布団袋やリンゴ箱やらが放り込んであった。
15畳の部屋に我々三人だけで 送られた荷物は部屋の隅に放り出しておいても寝るのには何の問題も無い。何でこんな広い寮なんだと聞いたら戦時中の海軍工廠工員養成所として造られ昭和20年8月7日の豊川工廠への大空襲の時には亡くなった方々の遺体安置所に使われていたとかなんとか散々脅されたが真偽の程は不明。とにかく若さでそんな幽霊が出るような話は吹っ飛ばした。(ような気がする)
吉沢、私、山口と共に。振風寮の屋根の上にて

部屋の設備、 戦時中の建築だからとにかく使用材料は限度ギリギリのちゃちな物ばかりで、我々は幸い2階だったので恵まれたが一階の連中はドタドタ歩き回る足音で大分悩まされたらしい。

冷暖房は完備していた。夏は蚊付き暖房が良く効き、冬は隙間風冷房がしみこんでくる超自然派。先ず夏。困ったのは風を入れる為窓ガラスを開けると待ってましたとばかり蚊と共に色々な虫が飛び込んでくる。扇風機など誰も持っていないし エアコンなど想像出来ぬ世界の話、困り果てて考え付いたのは この部屋に「蚊帳」をつりその中に机を持ち込む事だった。そんな中で勉強出来るのかと思われるだろうが、なんとかやってきたらしい。(後で説明します)

困ったのは照明だった。15畳の部屋で裸電球が2つ天井からぶら下がっているだけ。二つ点灯しても60Wの白熱灯じゃ暗くて本もろくすっぽ読めない状態。仕方なく金を出しあって、二股ソケットを買ってそこにはめこんで 電灯線を蚊帳の中に引っ張り込んで机の上のスタンドに接続した。当然三人いるのだから二股からさらに四つ股の蛸足配線になってきた。寝るのも同じ蚊帳の中。夏の暑さで寝相の悪い野郎が夜中にコードに足ひっかけて 大騒動になった事も二度や三度では無かったような記憶がある。この説明で当時の部屋の状況が納得出来た方は文字通り「昭和一桁の世代」である事を認めます。

次に認識して欲しいのは現代の寮は冷暖房完備は当然でトイレは温水シャワー付き便座 
洗面所は冷温水が出るし簡易キッチンは付いて狭くてもシャワーつき風呂も部屋にあるのが
常識とされているが、我々の振風寮はこの全てが「無い」寮であった。冷暖房は先に説明したとおりだが、洗面所やトイレは寮から出た離れた所にあって寮生全員が共同使用。トイレなんて言葉じゃなくて伝統的な「ボットン便所」で下が丸見え!
戦時中はこの便所には戸が無くて 筵がぶら下がっていたとか 我々が入寮した時はちゃんとした「戸」がついていただけ進歩したんだと妙なところで感動。

洗濯は全て手洗い、洗濯機なんて物はまだ5−6年先の話で、洗面所に置いてある丸いタライに水を汲んでなけなしの石鹸を使って洗い板で ごしごし やって部屋にロープはって そこに干すのが通例だった。

寒さのあまり唐辛子を足の裏に塗って飛び上がったことも。金が無くて本当にまずしかった。教科書や本が買えずに仕方なくタイプライターで一文字ずつ打って代わりを作成した。





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