豊川振風寮での学生生活 (2)


豊川振風寮 北寮

1.冬の寒さ対策

寮は冷暖房完備と書いたが、夏の暖房対策と同じく冬の冷房隙間風対策もしっかりと講じた。信州伊那谷のインクが凍るような寒さを経験した山猿連も豊川の寒さには閉口した。記述した様に15畳の部屋と窓枠全体がガタガタしているガラス戸で隙間風は遠慮なく寒さを運んでくる。

最初の内は下着を重ね、次に高校時代からのボロボロまんとを頭から被っていたが それではどうにもならなくなると登場したのが「火鉢」だった。何故か火鉢は先輩の置き土産として部屋に一個だけあったが肝心の燃料たる「炭」が無い。これもなけなしの金を出し合ってどっかで買ってきたのを火鉢に入れて寮全体を数回回覧されてボロボロになった雑誌の頁を破ってそれに火をつけて炭をおこす。伊那谷の連中は皆経験済みだから器用に火をつけるが馴れない奴は火鉢の中が雑誌の灰だらけになってもまだ火がつかぬ、大抵そんな時はお〜〜いと声が掛かるので、助っ人として行って、帰りに炭をくすねてくるのが常だった。


しかし12月になると たった一個の火鉢の暖房ではこの寒さをどうにも我慢できなくなる。隣の部屋の連中がある晩 天井板を引っ剥がして火鉢で燃やして暖をとったがその煙が寮中流れて苦情殺到し、一度だけで止めになった。どうにもならない寒さ対策で最高の傑作と自負しているのが押入れ別荘に避寒した事だった。部屋にある押入れの中身は下着入れの行李か雑嚢程度。布団は三人とも「万年床」で敷きっぱなし。他の部屋の連中が来て青春談義??で 夜明けまで談笑、ふと気が付くと俺の布団に誰かがもう寝ているなんて事は日常茶飯事の事だから押入れの中身を部屋のすみに放り出してその中に文机とスタンドを持ち込み、なかで掛け布団を頭から被れば暫くすると自分の体温で押入れの中が暖かくなる。 ただ窮屈でうっかり頭上げたりするとガツンと目から火がでるのだけはどうしようも無かった。押入れ別荘に避寒していると 外から見れば誰も部屋にいないし電灯も押入れに引き込んでいるから真っ暗しばらくはあの伊那谷の山猿三匹は何処に消えた?と噂になったそんなこんでこれは我々の特許だと自慢したがすぐに寮全体に広がって一時は寮が暗いお化け屋敷のようになった。当時はこれで特別不平不満言う奴もおらずこれが当たり前だったそんな気風で寒さを凌いで来た懐かしい思い出が残っている。

2.岡崎高等師範学校について

振風寮には 先輩の方々が既に住まわれていた。初めは良くわからなかったが、岡崎高師の皆さんだった岡崎高師は昭和20年7月の空襲で校舎が焼失、12月にこの豊川市牛久保に移転した。昭和24年5月新制名古屋大学が出来た時に包括されたが岡崎高師の名前は残り 昭和27年3月に閉校となった。ちなみに名古屋大学教育学部には 岡崎高師の機能は全く継承されなかったと記録されている。そんな歴史を持った岡崎高師の先輩は 我々の様な騒々しい集団と違って非常に落ち着いておられ我々より、はるかに大人の雰囲気を持っておられた。名大新入生との交流は余り無かったが、寮生としては仲間に入って頂き i多いに啓蒙された。 いまでも記憶に残っているのは、数学の教授が出された宿題が誰も解けず、寮生であった岡崎高師の数学科の方に頼み込んで解答を頂きその夜の内に寮内にその解答書の写しが廻って 翌日宿題解答書を出したのは寮生だけで自宅通勤の野郎は皆白紙解答だったと言う思い出がある。

3.振風寮の食事

昭和25年(1950)時代は まだまだ食料難時代。まだ配給制度が厳然として残っていた時代だ。だから当時の寮の食事を作られる賄方は大変な苦労をされただろうと思うがこっちは「腹減った」とわめき 量が少ない、味が悪い、もっとうまい物食わせろと 勝手放題の要求・・・今頃反省しても・・ と思うがとにかく食うものが無かった!
戦時中の名残で 食堂の食器は 軍隊で使用されたアルマイトの金属茶碗が使用されていた。飯も汁も同じ容器で 殺風景そのもの三度の食事のうち一度はパン食だった。バタージャムがあってトーストされたパンと思うのは現在の食事、その時に出されたものは食パン半斤の山と ララ物資を使った粉末ミルクを溶いたのが金の茶碗に入っているだけ。(ララ物資が何だったかは 70歳以上のご老人様にお聞きください。*LARA=Licensed Agencies for Relief in Asia:アジア救援公認団体)。それだけの物だったが残す様なヤワな野郎はいなかったな、いや 残した奴もいたと思うが隣の野郎連中がちゃんと始末したと思う。

食事の中でうめ〜えと思ったのは 向うが透けて見える位薄く切ったハム状の肉片をフライにしキャベツを添えて出してくれた二口か三口で終りになる量だったが慢性飢餓状態?の寮生にとっては当時の最高料理であったと記憶している。

食えなかった物もある、 まず 味噌汁だ。信州味噌と違って赤色の沸騰しからかした味噌汁には最後まで馴染めなかった。更に味噌汁の実が「たまねぎ」の「ネギ」の部分が入っていた事軍隊と違って朝何時何分から5分でメシクエ!なんて風には行かずのんびりと寝坊してくる野郎が多かったから 散々煮返した味噌汁とくたくたになった「ネギ」となったのは当然だが それにしても味は最低だったなあ。

もう一つある。名付けて「ゆでサンマこげ目付き」料理!200人以上の寮生に さんまを炭火で一匹ずつ焼いていたのでは間に合わない、だから 大釜に湯を沸かして 大量のさんまをドッバア〜と放り込んで湯であげて、それをガスこんろの上でざ〜〜と焦げ目をつけて 醤油を2−3滴かけて ハイ どうぞ!こんな物食えるか なんて事言っていたら 腹へってぶっ倒れるのが
関の山、だから ブツクサ文句タラタラ言いながらでも全部食べた。少し大袈裟過ぎやしませんかとおっしゃる方、好奇心ある方はご自分で一度試食してください。如何に素晴らしい味であるか保証いたします。このお陰でさんまが大嫌いになった。

先にも書いたとおり当時の賄いさん達のご苦労は本当に大変であったし 今こんな勝手な文句を書くのは申し訳ありませんが今でも強烈に残っている「クイモノ談義」としてお許し下さい。

4.栄養補給
夕飯は5時過ぎには、食い終わっていた。だから8時頃には「はらへった〜〜」となるのは必定。でも何も食うものは無いLet them eat cake なんて抜かす奴がいたら即ギロチンだ。だがどうにも我慢出来なくなると 部屋の火鉢で飯盒飯を炊く事がある。田舎に帰ったときに、こっそり持ち帰った米を飯盒に4合入れて 火鉢の炭火と、何処からか調達してきた板切れを混ぜて火力強化して飯を炊く。普通食は出来上がる寸前に配給の岩塩を鉛筆の尻で潰したのを飯盒の蓋あけて入れると塩飯の出来上がり。特別食は 鮪か鰹のフレーク缶詰を開けて炊き上がる寸前に飯盒の中に入れるもの。これはもうこの世の中にこんなうまい物があるか!最高の味だった。塩飯もフレーク飯も同室三人で食って別にどうって事ないのだが不思議な事に隣や向いの部屋の連中に、「お〜い 飯炊いたぞ食いに来いや」と声をかけると 「ごっさん」の声と共に5−6人が食堂からくすねてきた金の茶碗もって入って来て車座になって食べた。飯盒一杯炊いても四合が限度、誰も腹一杯にはならないがそれでもみんな満足して食後の煙草一本を皆でまわして吸った。我々だけでなく他の部屋で飯を炊いても大抵声がかかって金の茶碗と箸持ってすっ飛んでいった。殆どが塩飯だけだったがそれでも不思議に満足したものだった。

時効だから書けるが、寮の周りは畑ばかり、秋には色々な野菜の収穫時。経験者ならこれだけ書けば「はは〜〜あ」とすぐ納得出来る筈。そうです、その通りです。夜中に特攻隊を編成して めぼしを着けて置いた「さつま芋」畑に行って素手で 掘り出してくる。すぐ洗面所で洗って部屋で飯盒にいれて煮た・・・アツアツのさつま芋に岩塩の粉をつけて食べた時の幸福感!!勿論一人一本なんてありゃしない、2−3本を数人で分けるのだからほんの一口だけ。それで満腹するわけは無いが共通の連帯感?でみんなニコニコだった。畑の持ち主には申し訳ありません!三拝九拝です。




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