神戸三中の受験と想い出
昭和19年3月


神戸三中の受験時に撮影した写真














和19年に池田国民学校(現池田小学校)を卒業し、それぞれが進学や就職に別れて行った。当時は戦時色濃厚で物資も配給制で余裕など全く無かったから、謝恩会やお別れ会の類は一切無し。いまのような卒業アルバムも卒業名簿のようなものもなく、6年生男女全員の写真、クラス別の写真、恩師の写真、須磨の海岸での水練、修学旅行の奈良行きの写真、数枚をまとめて貰った程度で、今となっては殆どの旧友の名前すら記憶が薄れている。

昭和19年当時、神戸には一中、二中、三中と三つの中学があった。戦争が激しくなるにつれて通学交通機関の制限があり、当時の林田区(現長田区)は三中が指定校となり、県立志望は否応なく三中へ願書を出す事になっていた。その他にも工業や商業の学校はあったと思うが記憶に無い。ただ村野工業と言う学校があり、喧嘩は神戸一番と言われる位強く村工(むらこう)とは喧嘩するなと忠告されたのを覚えている。

その頃は生徒数が多くて、須磨に県立として4番目の四中が昭和19年代に出来た。一中:秀才  二中:バンカラ  三中:坊ちゃん  四中:アホ(OBさんごめんなさい)というのが当時の一般的評価だった。

三中の入学試験は 19年から筆記試験が廃止され(そんな余裕が無くなったのが本音らしい)面接試験だけとなった。 ぼんやり覚えているのは 算数で大小の歯車の回転数を暗算で計算して答える問題があった事と 受験番号が「3119」であった事。大学の入試番号なんてさっぱり覚えていないが、何故か三中の受験番号は 鮮明に覚えている。 発表は今と同じように大きな戸板に合格番号表が張り出されてそれを三中の校庭まで見に行った。
   
合格のお祝いに母と一緒に元町に行って、当時すでに不足がちな文房具を色々買って貰った。 その時に買ったペン先入れの小さなセルロイドの箱が58年たってもまだ手元に「10銭」の値札がついたまま残っている。当時市電が7銭で乗れ、うどん類が15銭も出せば食べることができ、上寿司が50銭だったのだからこのペン先入れの「10銭」は高い方だった。


10銭の印のあるセルロイド製のケース
58年前のペン先

ペン先が二つに分かれているもの:MIKADO−PEN製。ちゃんと小さく「Made in Japan]と刻印されている。これは 通称「鉄道ペン」と言われたもので、ペン先をインク壷に入れて紙の上を走らせると 2本の平行線がキチンと書ける様になっており、鉄道の軌道を書くのに最適の事からこの名称が付けられたと聞いている。 

ペン先がぐっと太くなっているもの:ISHIKAWA&CO。ブランド名はZEBRAでTOKYOJAPANと刻印が入っている。用途は英語のペン習字専用。 当時は筆記体が重視されて 細い所太い所をキチントと書かないと不合格の烙印を押されたので、このペンを使って一年生の時に練習した。夫々2本ずつ残っているのは 奇跡に近いと思っている。

さらにこんなものが出てきた。三中入学の際に書いた誓約書だ。正副二枚書いてそのうちの自宅用の控えを母が大事に取っておいてくれたのだ。よくぞ焼けずに残っていたものである。スキャナーに収まりきらなかったので不恰好ではあるが、ごらんいただきたい。





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