神戸三中の先生達



和19年春、晴れて神戸三中(現:長田高校)に私は進学した。三中では入学年度を創立から何年目

に入学したか、それを当てはめて我々は、「24回生」と呼ばれた。以後先輩や後輩との話に必ず、私は

XX回生ですと言う台詞が出てきて、これで ぐっと親密感が増してくるから不思議なものだった。

一年生の時は3組の33番であった。

さて肝心の先生の話だが、残念ながら昭和20年7月に信州の中学(現:飯田高校)に疎開転校したため

はっきりとした記憶がない。もうすこし正確に表現すると先生の本名の記憶がないのである。どこの学校

でも同じと思うが、名前よりもまず「あだ名」が先に頭にはいるものだ。きつね、たぬき、いたち、 ごり

ら、かば、まむし、ひきがえる、おんま(馬)、なんだあ、お前の学校は動物園かあ?と言われそうだが、

どこでもこのあだ名の先生は居たと思う。

こんなことが実際あった。

電車の中で三中の制帽を被っていた私に乗客の一人が尋ねてきた。

「私は三中の卒業生だがXX先生はまだお元気ですか?」

「わかりません。」

「それでは△△先生は?」

「わかりません、あだ名を教えていただければ分かると思います。」

「あ〜そうか、××先生はタヌキやったな、タヌキ、タヌキ」

「タヌキ先生は元気でおられます。」

こんな会話をしたのを 覚えている。



他にもこんな先生が居た。

かんてき」先生。

この名を見てそれがどんな意味かわかった人は 典型的な関西人でかな。標準語では「七輪」と言う。炭

をいれて火をつけるとすぐ「おこる」→「燃える」→「怒る」ややこしい解釈で、要はすぐ怒る先生のあだ名

だ。

ペリカン」先生。

これはもう顔見た瞬間に動物園のペリカンを連想させる素晴らしいあだ名と感心した。その息子が24回

生で同級、そいつについたあだ名が「コペリ」。私が転校するまでそいつは「コペリ」だったが、多分卒業

するまで同じあだ名だっただろうと想像している。

エアシッポン」先生

最後に素晴らしい先生を紹介しよう!英語の先生で本名は進藤先生と言う。足が悪くていつも軽くビッコ

をひいておられた。その先生のあだ名が 英語風に表現すればAirShip,日本語で言えば 「エアシッポ

ン」 わかるだろうか。先生は片足が悪いから良い足は一本しか無い。これを関西弁で表現すると

ええあしいっぽん,早く発音すると、「エアシッポン」 わかった?このあだ名をつけた先輩にユーモア賞

を進呈したい位英語の先生にぴったりのあだ名だった。

すごいのは ソレダケデハナイ、当時鬼畜米英なんて言葉が流行して英語表現は全て日本語表現せよ

との命令がまじめに出ていた。信じられないだろうが、ベースボールは野球、これはもう定着しているか

ら、違和感はないだろうが、ストライクは「よし!」ボールは「だめ!」と審判員が判定していた。こんな島

国根性丸出しのアホな事でバンカラの二中は敵国語である英語の学習は廃止!になってしまった!ち

なみにニ中は日の丸弁当だけしか持参を許されず、食事も立ったままさせられたという話を聞いて「あ〜

三中でよかった〜」と当時しみじみ思ったものである。

だが、三中は英語学習廃止などとんでもないことだ!と止めるどころかあろうことか強化の方向に進ん

だのである。進藤先生のすごい所は、一年生のABCも知らん連中にいきなり英会話を持ち込んで、朝

は「GoodMorning Sir」 と言わせ、さらに毎回徹底的に復習をさせて、毎週月には 小テストの実施

をした。出来ない奴は次の週に黒板の前に立たされてクラス全員の前で小テストの答えを書かされた。

こりゃたまらん!とこれを契機に私は真剣に英語の勉強をしはじめたのである。

その後、疎開先の信州の中学の英語の時間、主語、動詞、助動詞、補語等々の文法専門の英語を見

てその授業内容の落差に驚かされたものだ。ただ後に進藤先生にも勝るとも劣らぬ素晴らしい先生に

私は出会うことになるのだがそれは別のところで語るとしよう。

私が英語を好きになり、社会人となってから外国相手の商売でそれほど困らなかったのはこの進藤先

生のお陰であるといまでも硬く信じている。あの戦争中に英語の必要性を堂々と主張して英会話重視の

授業をされた先生と中学はそうざらには無かったと思う。

当時の三中にはそんな素晴らしい先生がおられたのだ。




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