新米社員の社会人生活(7)
結核診断と治療の日々  
平成20年2月12日


これって結核ね

昭和29年の3月入社してそれまでのぐうたら生活から7時には市電に乗り 8時前には机の前にいる、そして順調に推移すれば4時に終わる・・・筈だがそんな事は滅多になかった。また今日も勘定が合わねえ・・って事になるのが常だったがこの頃になると勘定が合わなくても先輩もK女史も自分で処理しなさいとさっさと お帰りになる、残された私は 汗かきながら伝票をめくり帳簿の転記を調べる。Y君もT君も一緒になって算盤入れたり帳簿の転記を調べてくれたりして手伝ってくれてやっと 誤り見付けて訂正印押し捲ってやっと終わるのが6時近く。それから三馬鹿揃って近くの屋台に行って得体の知れぬドテ鍋をつつき二級酒で憂さ晴らしするのが
常だった。 
 

大学生活四年間貧乏生活だろうと 成績が悪かろうと全く意に介せず気楽トンボでおよそストレスなんてものとは縁遠い生活であったのが急に8時から4時まで机に座り言われた事をだだやるだけ、おまけにヘマばかりと来ればどんなバカでもノー天気な奴でもストレスが溜まって来るのである。そしてその日は来たのだ。


7月頃から体がだるくて食欲も無くなる。夏ばてだろうと軽く考えてヘボ麻雀には喜んで参加し 三馬鹿の屋台通いも皆勤賞を貰う位で不規則のお手本になるような日常生活をしていたが8月になったら急に痩せて来て麻雀もやる気なし、酒も飲みたくない・・・さすがにこれはおかしいと 事務所の隣の会社が経営している病院に駆け込んだ。

診察して頂いたのはN女医さんだった。そのN女医さんから
「貴方は会計課のHさんね。妹がお世話になっております。」 との言葉

「? 妹さん?」

私の机の前に居たのは確かにNさんだったがまさか妹さんだったとは!旧悪や悪評がばれてはいないかと内心ヒヤヒヤの一幕がありました。ほんとに世の中狭いです。

さて肝心の診察結果ですがレントゲンを撮ってしげしげと見つめていたN女医先生

やさしい声で一言

 
「これって結核ね」

「はい、結核?


青天の霹靂どころか当時最高額の100万円の宝くじにでも当たった様なショック・・・・ああ 俺はもう駄目だ、入院して骸骨みたいにやせて死ぬんだ どうするべ・・・。あんまりにも私が青い顔したんでしょう。N女医先生は結核の入り口の肋膜炎ですヨと慰めてくれたが暫く呆然!
これからどうすれば良いのですか恐る恐る聞いたらまだ初期段階だから注射で直しましょうと言ってくれた。事務所に帰りK課長にこれこれしかじかと報告したらいとも平然と 「ああそうですか。それでは毎日午後病院での治療に行くのを許可します。」と了解してくれた。

早速翌日午後から病院に行ってN女医先生自らでっけい注射器で静脈注射開始。2,3分もたつと体の中が熱くなる。ぼーっとベッドで暫く横になって気分が回復してから職場に戻って仕事開始。こんな治療を8月から9月頃まで約三ヶ月して頂いて途中何度か検査があったが食欲も回復し体重も60キロに回復してきて秋口にはN女医先生からどうやらこれでもうよろしいでしょうねと回復のお墨付きを頂くことが出来た。 
  
この時の薬のせいか食欲は戻ったが無罪放免の祝い酒をみんなで飲んだ時僅かの量で酔っ払ってしまった。久しぶりの酒だったせいか?と思ったがその後酒を飲むとすぐ真っ赤になり、しかも量は日本酒なら一合も飲めず、ビール瓶半分でもうダウン、ブランディーなら舐めただけでもう千鳥足。この状態が10年たっても20年たってもとうとう今日まで回復していません。でも お酒は大好きです。種類を選びません 日本酒 ワイン ビール ウイスキーからブランディー
カクテル用のリキュール類 みんな大好きですから酒飲むぞと誘って頂ければ喜んですっ飛んで参加してコップ半分のビールで誰よりも真っ先に真っ赤になりご機嫌になります。はい。


後日談
こうやってN女医先生の治療のお蔭で初期段階で完治したがその後の定期健康診断のX線撮影では毎回肺に影があると言われて再検査の対象になり、その都度説明して私はもう無罪放免でありますと説明しなければならなかった事を思い出します。あの美人のN女医先生どうしておられますかなあ?



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