新米社員の社会人生活(8)
会計監査と京都長期出張  
平成20年2月12日


会計監査は肉体労働だった・・・

散々ヘマばかりやっていた新入社員も昭和29年末には伝票記入もどうやら順調になり それと平行して色々の帳票の作成を 指示されるようになってきた。勿論それには鬼軍曹のN先輩の指導や我々が村長さんと名付けた温厚なI先輩とおなじみのK女史のバックアップがあった。色々と怒られたが意地悪とか足を引っ張る様な陰湿なものは全くなく怒られ叱られした事はすべて納得この出来の悪い新米を諦めずに良くここまで辛抱強く指導して頂いたかと今更ながらに感謝感謝です。

御陰様で総勘定元帳や貸借対照表から損益計算書までなんとか形だけでも作成出来るようになったらK課長のかばん持ちで各地の支店(当時は支店とか出張所SSとか色々な名称があったが便宜上全て支店の名称にします)へ会計監査の出張があった。今でこそ公認会計士か監査法人による会計監査が義務つけられているが当時の会社規模ではその必要性なし。でも こんな駆け出しがどうして監査のお手伝い出来るのか不思議だったが現地に行って氷解!帳票とか法規制されているものがきちんと整備されているか難しい事は全てK課長自らチェック、 で、我輩の役割は在庫のチェックであった。

これは机の上の仕事ではなく支店在庫の照合のために時には離れた倉庫に行き、シャツ一枚で棚の上や床に積まれた在庫の確認をする大型製品の在庫はすぐ出来ても細かい部品になると 抜き取り検査だけでも一日かかる、これは頭脳より体力勝負である・・・だから浅学菲才の我輩が選ばれた次第。 ただこの在庫のチェックをすることによって死蔵品がいかに経営に影響するか肌で感じた事が後々の資材管理にとても役立つ事なった。その時はつまらん!と思っても仕事と言うものはいつ何処で役にたつかわからないけれど真面目にやっておくものだと痛感した次第である。

 さて、夕方中間報告を報告し、支店長はじめ関係者と夕食を食べながら協議をして旅館に帰るのが大抵11時頃。有難い事にK課長は下戸であったので二人とも すぐ煎餅布団であっという間に白河夜船。この支店での食事は昼は近所の一膳飯屋の定食で夕食は会議しながらの食事なので殆どが天丼か親子丼と何処の支店に行っても同じような物ばかり。その地方の独特の名物料理を食べたいと K課長に話したら仕事に来たのだからそう言う可能性はゼロです  とあっさりと却下されてしまった。食い物の恨みってものは 恐ろしいもので今でも支店の名前を聞くとそこの名物料理食べ損ねた事を思い出しますなあ〜。このK課長は全くの石部金吉金甲(意味おわかり?) で渇しても盗泉の水は飲まずの典型的タイプ、 ぐーたらの私が少しずつ 仕事らしきものが出来る様になったのは先輩のご指導のお蔭もありますが このK課長の仕事ぶりを 目の前にして見習った賜物と思います。特に金銭的な問題に対処するやり方は素晴らしく、私が営業に異動した時に売り掛け金と回収の重要性が十分に理解できたのはこのK課長のお蔭です。

京都支店の火消しに

7月末頃からか京都の目抜き通りの四条河原町の通りに面した藤井大丸前にある京都支店の支店長の具合が悪くなって本社との間に色々と問題が生じてきた。当時は小人数で全て事務処理をする体制であったので支店長自ら会計の事務処理を担当していたが体調不良でその会計処理が乱れてきてこのまま放置すると破綻する恐れが出てきたので誰か応援に行って会計処理をしなければならなくなった。 

こんなトラブル解消にはベテランが行くものと のんびりと対岸の火事と決め込んでいたら突然K課長から「H君、きみな、明日から京都へ行ってくれ。」との指示が来た。
否応なしに当座の着替え程度を持って一週間位かと軽い気持ちで京都支店に向かったのである。

相変わらずのの楽天家気分で支店に入ったもののはてさて一体何が何処にあるのやら。支店長は体調不良で尋ねる事が出来ず、彼一人で経理処理をされていたので営業関係の方は全く何も知らずの状態。私一人でロッカーの中や書庫の中を探しまくって少しずつ帳票類を整備する事が仕事。その間に今まで止まっていた営業からの売上げ伝票や、取引先からの入金処理、又同時に業者への支払い事務処理等が殺到してその処理だけでもう日中はてんてこ舞い!一週間で何とかと予想していたのはもうとっくに吹っ飛んで 正常に戻すには一体何時になるか皆目見当もつかぬ事になった。

日中は一日の業務の会計処理を 6時頃までに済ますのが精一杯、それから支店の近所の「飯屋」に行って夕食を済ませ、そこから未処理の帳票類の整備にかかるものの肝心の元になる伝票類がバラバラでそれを探し出して照合して確認する作業が毎日10時頃まで・・・・今思えば社会保険庁の杜撰な年金処理もこんな風だったんでしょう。

エアコンなんてある時代ではなく夜になったら蚊取り線三つ四つ一度に燃やしシャツ一枚で扇風機をブンブン回して机に向かっての記帳や床に座り込んでの伝票仕分け作業の連続。どうしても分からない事があると それもメモにして翌日本社に電話、ファックスとかメールとかそんな便利な情報交換手段は全くなく電話もその都度交換台に申し込んでから相手が出るまで待たなければならない・・・回線がふさがっていたら 20分や30分待たされるのは当然の時代・・だからつながったら 一気呵成に質問事項をぶっつけて教えて頂く事がしょっちゅうだった。

時には会計の責任権限以上の問題も発生したが、いちいち本社に聞いていたのでは 余計にこじれると判断したした時はこの新米が自分の判断で決定した事も多々あったが今から思うと よくまあ やったものだと感心・・・・出来た理由は簡単である。会計の真髄をまだ理解していないし営業もさっぱり知らない。だから 「知らぬが仏」で決定したのか 「盲 蛇におじず」で突進したんだろうと思います。そんな日々を夢中で過ごしているうちに8月も終わり9月に入ったが 相変わらず夜10頃の帰宅?いや帰旅館が続き日曜日も 事務所にでての仕事をやっていた。

ある日、旅館の女将に呼ばれて・・・

私の泊まっていたのは商人宿より少し程度の良い旅館だが風呂・洗面所・トイレは共用で私の部屋は二階の四畳半、しかも隣との仕切りはふすまだけ。だから隣の泊り客が酔っ払ってふすまを開けて俺の顔見てぎょぎょってな顔で退散した事なんかしょっちゅうだった。朝飯だけは下の広間で来た順に飯、味噌汁、海苔、漬物。時には卵焼きか塩鮭が出る程度のそんな朝飯を済ませて出勤。私はすでに30日以上泊まっているので旅館の女将さんがラジオを貸してくれた。ガーガーピーピーの雑音だらけであんまり聞いた記憶が無い。

9月に入ったある日珍しく早く夕食を済ませて部屋に戻ったら旅館の女将さんがちょっと Hさん 私の部屋に来てとの話、宿賃はきちんと支払っているので何だろうと思って部屋に行った。

女将さん
「Hさん、そこに座りなさい。」


「?はい」

女将さん
「貴方 まだ24,5歳でしょう。毎晩夜10時過ぎまで帰ってこない、日曜も出て行く。名古屋のご両親も心配していると思います。」


「はあ?」

女将さん
「夜遊びもいい加減になさい!」

と突然のすごい剣幕である。
もちろんまったく実に覚えのない話である。

きょとんとする私を置き去りにしてさらに女将さんは

「一度や二度は貴方も若いから駄目なんてそんな野暮な事は言いませんがもう少し慎みなさい。貴方も言い憎いでしょうがXXXやOOOにはそう度々行ってはいけませんよ。」

なぜ、女将さんが私を叱り付けたかこの地名(XXXXやOOOO)を聞いて瞬時に理解できた!少し説明が必要になるが昭和32年はまだ売春禁止法案が成立しておらずいわゆる「赤線地帯」がまだまだ大繁盛の時。京都には格式高い伝統の祇園があるがそれ以外の赤線地帯も高級から低級まで方々に存在した。だから毎晩10過ぎまで帰らず日曜日も出てしまう私の行く先が「赤線地帯」であろうと心配してこのお説教となったわけ!


「とんでもない。全くそんな所には行ってません。行き先は会社の支店です。」

運よく旅館は支店の裏にあり、廊下の窓から丁度私の居る会計課の部屋が見える。そこで私はずっと事務所で仕事しており、廊下の窓から私の姿が見えるから何時でも遅いときは見てくれとと懸命に無罪(?)を説明したが、なんだか女将さんは納得出来ていなかった様子だったが、その場は開放された。数日後、再び女将さんから部屋に呼ばれた。

「Hさん 本当に毎晩遅くまで仕事していたんですね、廊下の窓から時々みたら貴方の姿が見えました。あの時はてっきり悪所通いかと思って変な事言ってごめんなさい」との言葉。

誤解が解けて本当に良かった。しかし旅館の女将さんが泊り客に夜遊びもほどほどにしなさいなんて注意してくれる、こんな事がいまどきあるだろうか。その時はびっくりしたが今考えると当時は人情味あふれる人が一杯居て道を踏み外さないように守ってくれたんだと思う。世間知らずの青二才の私がヘマばかりやっても何とかここまで来れたのもこんな素晴らしい人々に教えて頂いたからだと心から有難いと思います。その後女将さんとその一家とはとても親しくなり、夕食は私たちと一緒に食べなさいと待遇が跳ね上がった。店屋物ばかりであきあきしていた時だったので煮物や焼き魚等、家庭料理を頂く様になって嬉しかった事をいまでも覚えています。・・・でも 宿賃は元のままでした ハイ。



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