新米社員の社会人生活(5)
松岡さんとの出会い、そして麻雀修行編  
平成20年2月12日


世の中には不思議な出会いと言いますか本当に どうして?と思われるような事があります。
これからの話はその事です。


昭和29年(春)
写真で向かって前列左が松岡さん。右は経済学部一年先輩の長瀬さん
後列 左が私で 右が 同期の Y君です。

 君達は麻雀出来るか?

新米社員が会計課でへまばかりやって顰蹙を買っていたその時に ある日 突然 当時の営業担当部長のKさんが我々の席に来て三人の顔をじーと見て「おい!君等麻雀出来るか?」と聞かれた。

麻雀の言葉は聞いていても 実際にはやった事など全くないので 三人とも「知りませ〜〜ん」
途端に大音声で

販売会社に来て 麻雀も出来んとはこんな馬鹿よく採用したな!

と事務所中聞こえる大声でどやされた。会計課所属の人間を営業関係の部長がどやしつける、普通なら 越権行為とか何とかまたは会計の部長がまあまあとかなんとか取成してくれる所だがみんな下向いて笑いをかみ殺しているだけ。誰一人助っ人にきてくれなかった。

後で聞いたらこのK部長は販売の叩き上げで義理人情を絵に描いたような人、 1+1は 時には3になったり100になったり絶対に2ですなんて言った物なら 「誰がそんな事決めた、つら洗って出直して来い」と 江戸っ子顔負けの威勢のよい啖呵が飛び出す名物部長だった。

3年後そのK部長の下に異動した時実際に経験した話だがかねがね 販売担当は取引先との接待がある、出された酒は絶対に断るな、相手より先に酔い潰れるな、翌日は二日酔いでも必ず定時に出社せよと言われていた。ある日 その接待があったが相手の方が酒豪でこっちは
もうふらふらの状態。やっと解放されて相手の方をタクシーに乗せてお見送りした・・・次の瞬間暗がりに飛び込んで盛大に小間物屋を広げてた。 ガタガタ震えながら午前様で帰宅。

翌朝はもう二日酔いでふらふら、今日は欠勤だと思ったが日頃K部長から言われていた 「必ず出勤せよ」の言葉を思い出して青白い顔で8時に出勤したらK部長が傍に来て「ご苦労であった 今日は もう帰って寝て来い」と言うではないか!まさか、冗談でしょ と思っていたら 先輩が 「いいんだ 部長の許可が出たんだから 帰っていいよ」と教えてくれた。有難う御座います!ふらふらのまま また市電に揺られて帰宅 そのまま終日寝てしまった。翌日大丈夫かなと
出勤してK部長に「お早う御座います」と挨拶したら 「うん、お早う」で後は何もなし。こんな事が後2−3回あったが次第に酒の飲み方のコツがわかって上手にごまかして飲む事を覚えたので二日酔いも無くなりました今こんな事をさせてくれる部長さんっているでしょうか?閑話休題

麻雀の教官はなんと下宿の大家さん!

K部長から 麻雀が出来んとはとどやされたが一過性の物と気にもしなかったが、夕方になってまたまたK部長の胴間声が響き渡った。「松岡君、きみな、この三バカに麻雀を教えてやれ!今日からだ」指名された松岡さんに応接室に呼ばれた。やれやれ麻雀のお勉強かよ と思って座ったら松岡さんから 君がT君  君がY君 そして君がH君だね・・・

「君は昭和28年ごろ桜山の近所で下宿していなかったかい?」

「はあ〜? そうですが・・。」
「そうかその下宿は僕の家だよ。」

確かに下宿の大家さんは松岡と言う姓であったが奥様や子供さんたちには会っているもののご主人には一度も会った事も無かったし仕事先も聞いた事もなかった。えっ!あの下宿の大家さんでしたか! すんません、ご無礼致しました、はあ〜あの松岡さんですか〜〜。まさかこんな所でお目にかかるとは思っても居なかったし下宿先が「松岡姓」であった事も半分忘れていた。「下宿代 溜め込んでなくて 良かった・・・」と心底思った次第である。

さてその松岡さんから 麻雀覚えるのは社命と思ってほしいと釘をさされた。何処で教えて頂けるのかと思ったら今夜から私の家でやりますとの事。4時仕事終わってから四人揃って松岡さんの自宅に行った。

奥様にお目にかかったら 「あんたHさんじゃないの!なんでどうして?」と矢継ぎ早の質問・・・かくかくしかじかと 説明したらなんという不思議なご縁でしょうと暖かく歓迎して頂いた。麻雀のほうは毎回松岡さんの自宅でお寿司や熱いうどん、時には奥様の手作りの夕食をご馳走になりながらの学習??その上 松岡さんは酒豪であったので 自宅にはウイスキーが常時おいてあった。それも当時我々ペースケの給料では手の届かぬサントリーの角瓶があった。ペースケ達は最低のトリスか二級酒と決まっていたので図々しくその角瓶を多いに楽しませて頂いた。こんな楽しい社命はあるだろうか、学習より世間知らずの三人の与太話を松岡さんが聞き役で色々教えて頂いた。会社では絶対に教えてくれない またわからない裏話もそれとなく教えて頂いて本当に今思い出しても楽しい社命による学習経験でした。

松岡さんは東京の物理学校を卒業後、海軍に入られて戦時中は機雷掃海の技術開発に従事されて中尉さんで終戦。暫くしてこの販売会社にはいられたとか、私が製造会社に転勤になった後中部地区の販売の最高責任者として業績拡大に努力され定年後は広島に移られ数年前に他界されたとお聞きした。改めて当時お世話になった事に感謝すると共にご冥福をお祈り致します。

卒論作成の為ほんの短い期間だけ下宿したその大家さんが販売会社におられ、そして再び麻雀指導でご家族皆様とも再会するなんて信じられないような事がありました。


                                          平成20年2月11日(月)

<追記>
この記事を読んだ妻からこんな話を聞きました。

高二か高三(昭和27年か 28年)の時に文中に登場するK部長と若き日の松岡さんにお会いした事を思い出しました。勿論「昭和一桁男」さんの入社以前の話。当時私は盛岡の寄宿舎から学校に通っていましたが、K部長より電話で 「是非会いたい」と電話があり盛岡の旅館に一人で尋ねて行き、当時としては大ご馳走の「かきフライ」を頂いた事を今でもおぼえております。
当時K部長と松岡さんは盛岡に出張中との事でY社長の依頼で私を呼んだとの事でした。
縁とは不思議なものですね。

やっぱりご縁があったんだなあ・・・。


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