疎開先と通学の思い出



信州への疎開先


祖父民夫(62)母 三千代(36)私 眞彦(12) 昭和17年撮影


昭和20年6月の空襲で7月の末頃止む無く信州へ疎開したもう一ヶ月遅

かったら終戦で、多分あの台所の吹っ飛んだ家を何とか住める様にして、

そのまま住んでいたかも知れない。

そのまま神戸にいた方が良かったか、それとも信州に疎開した方が良

かったか、50年以上たっても、ふっとその事を想像する時がある。

信州の疎開先は、諏訪湖に端を発した天竜川を下って飯田市の近くの

喬木村 」であった。 市町村合併で近隣の村がその名前を次々と変更し

ていく時代にあっても、頑として「村」で頑張っている。私の住んでいた喬

木村の上平と言う場所は、「羽生」の先祖代々の住んでいた所で、1キロ

ほど離れた小高い雑木林は、400年ほど昔「羽生城」のあった場所で、

武田信玄の南信侵略の時に、合戦に敗れて城は炎上、羽生の殿様は切

腹とか、祖父から、昭和のはじめ頃城跡付近を掘ったら、「焼けた米」が

出てきたという話を聞いた。

井上靖の「風林火山」に「羽生は斬ったか?」という下りが出てくるがこれ

が私が知っている唯一の証拠らしい証拠である。


落城後、羽生一族がどうしていたのか、今となっては古文書も流失して

調べようがないがその後も上平一帯の大地主として、相当羽振りの良い

生活をしていたらしい。今でも上平一帯は羽生の姓を名乗る家が沢山あ

る。終戦の年、米軍が「日本刀」の所有を認めず、隠した者は厳罰との

役場からの通達で、それをまともに信じた祖父は、蔵に仕舞ってあった

先祖伝来の日本刀を全部座敷に並べて眺めていた。

全部で7〜8振りあったかな、それを惜しげもなく全部役場に提出してし

まった。それがどう処分されたかわからないが、今となっては、本当に惜し

い事をしたと思ってる。 ひょっとしたら、重要古美術品か国宝指定品も

あったかも?


通学の思い出

喬木村から、転校した飯田中学 までは、約8キロの田舎道だった。終戦当

時、現在では想像もつかないだろうが、全く物が無かった!通学に便利な

自転車はあっても、肝心のタイヤが戦前からの使用で古タイヤを切って補

修してあるから、走るとガタガタ振動が響いて長時間乗ってると「尻」が痛

くなる代物しか無かった。 それでも自転車があるだけ良い方だった。  

通学の足、 運動靴なんてものは、戦時中は生産中止で物が無し、革靴

なるものは、軍隊からの払い下げ品の「軍靴」があったが、それも抽籤配

給制で、貴重品であって、皆なの垂涎の的。そんな事で8キロの道は、

もっぱら「朴歯」(ほうば)の下駄をはいての通学となる。 高さ5センチの

下駄の歯が大体一週間で磨り減り村の下駄屋は、大繁盛だった。

片道2時間の通学、村道を本を読みながら歩いても、ぶっつかる相手が

いない!自動車なんてものは、お尻から煙をはいてポコポコ走る木炭バ

スが1時間に一本くらい、後は時たま材木を満載したトラックに会う位。 

物資運搬の主要手段は当時は殆どが馬車で、運が良いとこれに乗せて

貰う事が出来たが人間の歩く早さより遅いので、気持良く揺られている

と、遅刻!てな事があった。腕時計なんて、誰一人持っておらず、時間を

知るには、道路端の家の柱時計を覗くしかなかった。当時はどの家も、玄

関も居間も戸を開けっ放しで、誰でも勝手に覗け、 夏の暑い時には、庭

にあるポンプから冷たい水を自由にくみ出して、喉を潤して又歩き始め

る、そんなのんびりした環境であった。

楽しかったのは、秋、丁度10月から11月、この月になると、伊那谷一帯

の果樹園で、りんご、ぶどう、なし、が実りだす、通学の途中で、こっそりと

りんごを1個掠め取って、歩きながら食べた、その美味かった事、ぶどうも

狙いをつけておいて、熟した頃に、黙って頂戴してくるのだが、先方もちゃ

んと目をつけているので、油断すると目をつけておいた「ぶどう」が一足先

に収穫されて、がっかり!てな事もよくあった。

辛かったのは、やはり冬の通学だった。 当時は今と違って寒さもきびしく

雪も良く降った。朴歯の下駄の歯に雪がはさまり、それが段々固くなって

取れなくなると、最後は裸足で雪道を歩くはめになる。 雪が降ってる時に

は重い番傘をさして、下駄を片手にぶら下げて 汗をかいて雪道を歩いた

ものだ。これは、私だけではなく当時「村」から通ってる生徒は殆どが同じ

スタイルで通学していた。

流石に女学生だけは、裸足の通学は無かったが、似たり寄ったりであっ

た事は間違いない。喬木村から飯田中学までは、天竜川を大きく迂回し

て8キロ歩かねばならなかったが天竜川を直線的にわたれば5キロくらい

であった。そこで真夏の暑く渇水時の天竜川の水量が少ない時、何時も

の通学コースからはずれて、河原に集合、当時は村々から通う生徒は集

団で登校していたので、喬木村の生徒も全員上級生の指示で河原に集

まって、教科書やズボン:シャツを縄でくくって、パンツ一枚で、天竜川を

渡った。 大井川の「川越人足」そっくりと思えば間違いない。

背の低い下級生の教科書や衣服は、上級生が担いで渡ったが、中にはド

ジな奴がいて、川の真ん中で 足をとられて、ドボチン! そんな奴に限っ

て教科書も服もビタビタに濡らしてしまうんだ。 仕方ないから下級生はそ

のまま学校に行けと指示して、上級生はそいつの服や教科書を河原の熱

い石の上に広げて乾かした。勿論学校は遅刻だが、皆な「それがどうし

た」と平然としていた古きよき時代であった。この川越通学は昭和20年か

ら23年位まで続いたと記憶しているが、その年あたりから、新しい自転車

も増え、バスもガソリン車となり便利になってきたので、自然とこの風習は

廃止されてしまった。当時の天竜川は、今とは比べ物にならない位綺麗な

水が流れて、下校の途中でかばんを投げ出して、水泳を楽しむ事ができ

たが、今では巨大なヘドロ川と化して、昔の面影は全く無いのが残念だ。






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