山の想い出
 昭和20年台後半からの山登り
 


◆山の想い出

信州伊那谷は文字通り赤石山脈と木曾山脈に囲まれた盆地で何処を向いても山又山の景色。何処かに 遊びに行こうと計画するのは殆どが飯盒持参の山歩きだった。そんな生活をしていたので名古屋に来て社会人になってみるともう無性にお山が恋しくなってヒマと金さえあればお山に行っていた。ただ残念ながら昭和29年ー31年初め頃は カメラが無かった(いや 金が無かった方が正解)為全く記録が残っていない。やっとカメラが買えたのが昭和31年の夏だった。 カメラは買ったが今度はフィルムを買う金が無い! 車を買ったがガソリン買う金が無くて車を見ているだけそんな笑い話があったがそのくらい当時のフィルムも写真やでの現像焼付け代も高価だった。手元にある数少ない写真から当時の山の想い出を語ってみようと思う。

昭和31年8月 馬篭峠日帰り
中央線で中津川まで行き バスで馬篭に出て そこからテクテク一人歩きで 馬篭峠を越して 雌滝雄滝を見て妻籠を通って 三留野駅(現在の南木曽駅)へ行った。三脚を使って撮った大昔の峠道の姿をおみせします。


【昭和31年8月 馬篭峠】

背中のリュックに飯盒と米、缶詰、味噌、水筒入れて峠を越えた辺りの小川のそばで昼飯を炊きのんびりと昼寝をした。誰一人通る人(観光客)もなく静寂そのもの。今行ったらその差にびっくりするだろうね。

昭和32年8月 穂高の某所(と記憶)

当時名大工学部一年生の稲垣君と一緒に穂高に行ったときの写真です。テントは 帆布製で重たくその上防水機能も劣化して夜露でもびっしょり濡れ益々重たくなった代物 (これは 彼が名大山岳部より借りてきた物)寝袋なんてものは無い テントの中で薄い毛布かぶってのごろ寝、飯は飯盒炊爨に決まっていた。おかずに目刺を持参して焚き火の残り火であぶって食べたのは今でも生唾が出る位美味しかった。



当時はテント設営場所の制限など何も無くキャンパーもほとんど居なかったので何処でも好き勝手に設営した。この写真でも絶好の場所なのに他のテントは全然ありません。ただ「きじうち場」だけは後ろの森の中に作った事をかすかに覚えている。

穂高ではどこをどうほっつき歩いたか記憶が無いがザイルやハーケン使うような所には行かず、もっぱら麓辺りをうろついたんじゃないかと思ってます。(この装備じゃ行ける筈が無い!!)

鈴鹿の山々
名古屋から手っ取り早く行けるお山といえば誰に聞いても「御在所山」を挙げると思うくらい老若男女みんなが楽しめる鈴鹿のお山があります。(正確にはありました、の過去形)神戸だったら六甲山を想像してください。

近鉄名古屋駅より四日市へでて、そこから湯ノ山線に乗り換え、終点から今度はバスで湯ノ山温泉(終点)で下車。現在はそこから御在所ロープウエイで 簡単に御在所の頂上まで行く事が出来るが 昭和32年33年にはまだ無かった。(*1

T君の指導
経済学部の同じゼミナールにT君がいた。彼はスポーツ万能選手で 特にテニスは大学代表選手として各地の対抗試合に出場した位の腕前であった。その彼から山登りの基本を指導してもらった。信州の山猿で山の中歩き回るのは誰にも負けないがお山の基本となる「地図の読み方」を 25000分の一の国土地理院発行の地図を元に等高線から実際の傾斜度やガレバの状況を読み取る方法を懇切丁寧に指導してもらった。そして一緒に 御在所に行き沢登りで谷川に墜落ドボンを
やって二人とも河原で火をたきパンツ一枚で濡れた衣服を乾かした・・・当時は余程のマニアで無い限りこんな沢登りをする人はいなかったので 裸姿でも平気の平左だったのを覚えている。

今では全国的に知られるようになった「藤内壁」でハーケンの打ち込み方やザイルの使い方等 岩登りの基本も教えてもらいほんの10米位と思うが実際に壁を登ってみてこりゃ駄目だ!俺の趣味にあわない?(本当は高所恐怖症)で 一度で止めた。そんなこんなで 彼とは一体何回くらい鈴鹿のお山に行ったか忘れるくらいの懐かしいお山なんです。

湯ノ山山荘

昭和29年春にわたしは社会人になったが、この会社の有難い事は終業が4時であった事。だから 土曜日出勤の朝は登山道具一式全て会社に持参してロッカーに入れて4時になったら ソレっとロッカーで着替えして 名古屋駅に直行して近鉄で湯ノ山行き。バスを降りてから とことこと山道を登る。夕方近く今頃から登る人は誰もおらず夏は6時過ぎでも明るかったが、秋から冬はもう真っ暗でヘッドランプを頼りに湯ノ山山荘に行った。

そこで夕食を頂き 狭い「おかいこ棚」で毛布被って寝る、いつか冬に登ったとき 風呂場の窓を開けて そこにあった雪を掻きこんで 熱い湯をうめた事を覚えている。翌朝 朝食(熱い飯と味噌汁と佃煮が定番だった)を食べてから武平峠に行き鎌に登ったり御在所に登ったりして夕方山荘に戻りそこで又一泊して 翌朝は朝飯なしの5時出発して一番のバスに乗り 近鉄で名古屋駅、そこから名鉄で堀田に来て タイムカード押すと 丁度8時の始業サイレンが鳴る!  守衛さんも 私が堀田駅から 重いザックをしょってよたよた小走りに走ってくるのを門の外で見ていてくれて危ないときは 時計を止めて待っていてくれた。そのお蔭で 本当は2−3分の遅刻だが タイムカードは8:00と刻印で セーフ! なんて事が 数回ありました。そのあとロッカーに行って 山の荷物をしまい 登山姿をワイシャツ背広に着替えて ひげそりをして仕事開始。

内緒の話

山荘を 朝飯なしで出発して8時飛び込みセーフをやらかすののだから 食事する時間がない。  最初の頃は 背広に替えてから 事務所の裏の作業場で かくれて 乾パンの残りをぼそぼそ 食べて朝飯としてたが あるとき 女子社員の可愛いコちゃんが 見るに見かねた?か パンの差し入れをしてくれて それが 二,三回続いた。 ひょっとして 俺様に気があるんじゃないかと 胸わくわくしたがあっさりと結婚退職でこの夢物語もチョンと幕引きになりました、はい。

始めのころは課長も呆れた様な顔しておられたが 毎週の様に 土曜日の4時にはすっ飛んで姿を消し月曜日の8時には ひげ面で出社する私に慣れたのかまたか という顔されるだけになった。あのときに課長から いやみの一つでも言われていたら 多分今日まで続いている「山は ええな〜〜」は駄目になっていたと思う。遅刻を助けてくれた守衛さんと 目をつぶってくれた課長さんに 感謝感謝であります。

昭和32年の秋に鎌ケ岳に同様のU君と行った時の写真



飯炊き姿は多分国見岳の近くで 一人で行った時。(三脚で撮影)



冬の写真は 昭和33年の12月 雨乞から永源寺に抜ける道を歩いた時です。
この時の靴に御注目あれ!

登山靴の思い出

昭和32年。入社も3年目。やっと賞与も一人前に貰える様になり、大須にあった「鈴鹿山荘」で 登山靴を注文しました。鈴鹿山荘では山の道具類をおやじさんのアドバイスを貰いながら 色々買いましたが、登山靴もほしくてたまらぬ物でした。

やっとなんとか払える賞与を頂いたので山荘のオヤジさんに注文。寸法を測ってもらい半月くらい
待ちましたかとにかくソレを手にした時の喜びといったらなんと表現したらよいのかわかりません!片方だけで 1キロの重量があります。それだけに頑丈そのもの何度も履きましたが水がしみる事は一度も無く信頼性は100%でした。残念ながら体力の無くなった今では大事に保管して時々保革油を塗って往時を偲ぶだけになりましたが素晴らしい登山靴でした。

支払った代金?はい絶対に忘られません!1万円支払いました!!頂いた賞与は3万円位だったと覚えております。現在の金額に換算したら多分 目が廻るか 卒倒?する位の金額でしょうね。

平成20年3月28日

(*1)御在所ロープウェイ開通は昭和34年4月29日


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