奨学金とアルバイト


1.奨学金の申請

昭和25年(1950年)時代、寮生活で最低必要生活費は,月1800円で2000円もあれば御の字であった。既述したように大学に入ったら生活費は自分で工面する事が条件であったが豊川の畑の真ん中ではアルバイト先が全く無い!

そこでとる方法は二つ。先ず奨学金を頂く事であるが、事務所に行って申請手続きをしたら、事務員曰く「成績優秀者のみに支給する。君の場合は前期の成績によって決定される。」とのたもうた。これは大変な事になった、早くても10月頃からの支給、それまでどうするか・・・次の第二の手は 「俺は貧乏人だから 前期の授業料免除してくれ!」と嘆願すること。当時はそんな救済手段があったんだ。授業料は月300円 六ヶ月1800円!そいつを免除してくれと頼み込んだら、君が本当に貧乏人か?調べてから決める。なんとその「調べる」のは同じ伊那谷から来て寮の同室の山口と吉沢両君に「あいつは本当に貧乏なのか?}と聞いたらしい。

後日談だがこの二人が口を揃えて「本物の貧乏人や」と力説してくれたお陰で、幸運にも1800円が免除になった持つべきものは「親友」の言葉通り。今頃感謝しても遅いか!

奨学金については前期の試験結果次第と言われてこれは本気で勉強した。蒸し暑い部屋の中で 渋ウチワばたばたやりながら、机に座り込んで勉強、大学四年間で一番勉強したのがこの時だけたったと記憶している。結果は何とかごまかして奨学金頂ける事になり万万歳!卒業するまで、大助かりであった。卒業、就職して社会人になって、いっぱしの給料を頂く様になってから少しずつ返済して4年目か5年目で全額お返ししてほっとした事を今でも鮮明に記憶している。

2.アルバイト

生活費を工面する為に働かなくてはならないが、所詮学生のその場凌ぎのアルバイト。豊川から 名古屋の桜山の校舎に来てみると事務所の掲示板には今で言う「求人票」が貼ってあってアルバイト先が書いてある気に入ればすぐ申し込んで「早い者勝ち」となのだが、大抵は文字通りの「日雇い労働者」と同類の仕事しかなかった。百貨店の地下倉庫での荷作り作業、塗装業者のペンキ缶の配達、名古屋港の倉庫の荷物運搬、当時の日当は一日240円(通称ニコヨン)だったが、一週間働けば約1700円弱これに奨学金プラスすると一ヶ月の生活費と本代が楽に出る大金持ち気分!

色々アルバイトで仕事をやったが一番面白かったのは「競馬場の馬券売り場」のアルバイトだった。出走する前に、売り場の窓口に百円札を掴んだ手が次から次と出てきて馬券を掴んで行く、ものすごい量の札が床に置いた箱の中に山積みになって目を廻した位一レース終わると又同じように、札の山が築き上げられる。見事当てた馬券の交換に意気揚揚とくる人、スッテンテンでがっくりする人、人間模様の面白さを見せてもらった。レースの合間に俺でも当たるかなと想像して馬券を買ったつもりで結果を見てみると一回も当たらなかった、こりゃ俺には「博打の才能」は無いと自覚して、学生時代は一切買わなかった。




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