終戦の日の思い出 昭和20年7月頃、記憶ははっきりしていないがラジオはあっても、真空管 が切れていて使い物にならなかったし新聞もちいさなタブロイド版で、大本 営発表の威勢の良い嘘八百の報道ばかりで、戦争が実際はどうなってる か正確にはわからなかったが、どうやら負け戦だなあとは感じていた。 当時飯田中学は、軍国主義の最たるもので、学校は工場になり、3年生 以上は動員されて授業らしきものは、殆ど無かった。 我々二年生の動 員されなかった(役立たず)の連中は、焼け畑の開墾をしていたか、近く の雑木林に行って炊事、暖房用の薪取りをしていた。 8月15日。何だかわからないが、全員校庭に集合させられた。いやに暑 い日で、足首の傷が化膿して、そこに蝿が飛んでくるのを片方の足で追っ 払うのに懸命で、がーあーがーあーピーピーの一体何をいってるのか聞 き取れない放送もアッという間に終わってしまった。 校長が演壇に立って、天皇陛下の決断で終戦とする事が決定されたとの 説明があったが、「負けた」との意識は皆目無かった。 「終戦」という言葉 からは、敗戦無条件降伏なんて姿は全然浮かばなかった。 校長の話が終わったら、今日は工場の生産中止、全員帰宅しても宜しい との命令で、喜んで帰った。覚えているのは、戦争が無くなったから、明日 から通学に「ゲートル」をしてこなくても良いね、 今晩から「灯火管制」も 要らなくなったねそんな他愛の無い事をお互いにしゃべった、 そしてその 夜、上平の家から昨夜まで真っ暗だった飯田の町に、灯がキラキラと輝 いて見えて綺麗だったなあ、そんな事を覚えている。終戦に伴う厳しさの 大津波が伊那谷を襲うのは、それから暫くたってからだった。 |