容姿端麗なる?就職活動(1) 1953年


就職活動

昭和29年三月卒業予定の我々にとっての最大の関心事である就職活動は昭和28年の夏休み以後おおよそ9月から10月頃から開始された。 

当時の経済界は不況で新規採用は今でいう「氷河期」であった。業界に繋がりのある教授は 自ら学生の為に就職の斡旋に奔走しその業界に就職出来る様にしてくれた。ただしその対象は成績優秀な学生に限定 (俺様は勿論対象外である)されており、経済学部の先輩が役員をしている企業ではその先輩の配慮で優先的に入社が出来た。(所謂 コネと称するものだ)この関係で学生の大体半分位が内定を貰ったと思う。

現在の就職活動と根本的に違うのは自分が将来何をやりたいか、その事が自分の人生目標に
合致しているか、その会社で自分の長所が伸ばせるか等々の自己分析のような 事前対策は殆どやらなかった。理由は単純明快。自己分析や業界:企業研究をやって自分の将来に展望があるとか、ないとか そんな事をやってる余裕がない。まずどっかの会社にもぐりこむ事が最優先だったからである。

特に私の様に成績平々凡々のくせに、金勘定に終始する銀行は行きたくない、生き馬の目を抜く様な証券業界も嫌 当時の一流商社の三井住友伊藤忠等は教授推薦状無しでは入社試験すら駄目といわれた状態で大学の掲示板に出ている採用申込み会社とにらめっこする日々が続いた。 

駄目で元々と大阪の中堅商社の採用選考テストに行ったら、受付で最初にご苦労様ですと往復の旅費の入った封筒をくれた。これにはびっくりした。選考テストは人事担当者?による面接で何を聞かれたか返事したか全く記憶に無いが10日ほど経って採用通知が来た。採用されるとは全く思ってもいなかったのでそれから慌ててその会社の様子を調べてみたら商社は新規採用者はすぐ沖縄か北海道勤務の噂でそれだけで嫌になって辞退した。その後この商社は急成長したが投機に失敗して倒産した事が新聞紙上で大きく報道された。あの時に入社していたらどうなっていたか倒産の記事を読んだときは感無量であった。

次にやはり大阪で海上保険の会社のテストに行った。ここも簡単な面接で採用の通知を頂いたが、保険契約のノルマが最初から厳しくて親、兄弟親類友人に泣付いて契約を採らねば駄目の世界だと説明されてとても性にあわないので辞退した。そんなこんなで勝手気ままな就職活動で成果があがるわけは無い・・・。

どこか無いかなと掲示板見ていたら 名古屋市の南のほうにある製造業の会社からの募集要領が目に止まった。初任給11000円也!他の大企業ですら当時は 9000円位のが1万円を越えた初任給は大の魅力である。ところが、募集条件を良く見たら両親健全である事、ま これは仕方が無いとして次の条件を見たら何と「容姿端麗なる事」 とあった。

色々な条件は見たがこんな条件は初めてで学部内でもあの会社が何故容姿端麗が条件になるのかと笑い話の話題になった。しかし初任給の高さと地元の会社であるとの事でここを受けて見ようと事務局にお願いしたら 「お前が容姿端麗かよ? 写真選考でおっこちるだから 止めときな」とカラカワレたがもう11月になり就職の決まっていない学生がしだいに少なくなった事もあって書類だけでも送ってくれとお願いしたら採用試験に来るようにとの葉書が来た。

ちなみに就職活動用に撮影した写真はコレ。


幸いにも この時の葉書が残っているので 見て頂ければお分かりの通り明治か昭和初期の 官庁用語の文面で弁当持参で勤労部とあった。この葉書を友人達に見せたらこりゃすげ〜え会社だぞ!日常会話もござ候で大変だ!今時勤労部なんて言葉を使うとはねえ!と話題になった。最後に「お前が容姿端麗かそれなら俺なんか映画スターだ、」と散々冷やかされたが本人も同感だから苦笑するより手が無かった。



さて、次は容姿端麗なる(?)私の就職試験の様子を記憶の限り綴りたいと思う。

平成19年11月22日



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