輸出営業部へ 
平成20年12月17日




◆輸出営業部へ

  昭和29年に国内販売会社で経理修行をして大阪で訪問販売の勉強、そして名古屋に戻ってから本社業務の傍らPX販売も担当し5年の月日が経った。新入社員も少しずつ社会人としての知識経験も積み 同時に 「適当に息を抜くこつ」も分かって来て、さあ これからのんびり仕事をやるかと 楽しみにしていたら昭和34年の4月初め 突然上司から4月21日より君は製造会社の営業部に転籍だとの宣告。は〜〜? どうして? なんで?理由もへったくれも一切無し。今と違って当時の異動転籍は適材適所とか家庭環境とかその様な斟酌配慮サラサラ無し。上官の命令は天皇陛下の命令である!戦中派の方は この言葉のもつ意味を充分におわかりと思いますが異議申し立ては一切無しで とにかく 各支店へ手書きで転籍の挨拶状を送り 後任の方と業務引継ぎをして 製造会社の営業部に21日朝8時出勤した。



◆輸出拡大促進方針
  昭和27,8年当時は、販売収益は圧倒的に国内事業からであったが安井社長はじめ幹部の方々は国内だけで無く 輸出にもチカラをいれて会社発展の基礎を作ろうと計画され 昭和29年東京赤坂に輸出専門商社を設立、その子会社をニューヨークに作って製品販売の基盤を作られた。その結果輸出は急速にその業績を拡大していったが先進国を自負する欧米諸国より「ダンピング」とか最低価格問題とか日本よりの輸出を制限する動きが高まってきて 早急にその打開策を立てる必要に迫られつつあった。

  昭和34年当時は 輸出を取り巻く環境変化や輸出の将来性など私自身さっぱりわかっていなかったが、振り返ってみると 安井社長の陣頭指揮でこの難しい局面を次々と乗り越えて会社発展の基礎を作られた当時の輸出関係者の英断、先見性には頭が下がる思いです。最敬礼!

◆輸出営業部の陣容 


(国内営業部と区分する為輸出営業部の名称とします)昭和34年の陣容は 上田部長(1983年没)河嶋課長(後の社長、1995年没) Nさん Kさん ほか三名の男性と 美人ばかりの三人の女性で合計10名でそこへ私が新米として入って11名の陣容となった。

◆上司の思い出
上田部長は軍人上がりで やる事なす事の素早いのに閉口、なかでも食事の早さには同伴を命ぜられて一緒に食事すると半分も食べないうちに上田さんは全てを空にして終わっている。 私だけのんびり食べている事が出来ないので渋々箸を置くと「君は若いのに小食だねえ」と言われてがっくりした事を覚えている。後で同僚に聞くと 皆な同じ経験をして 上田部長と一緒の食事は誘われても色々理由をつけて婉曲に辞退申し上げていたそうだ。

河嶋課長は 戦前香港で貿易関係の仕事をされていたとお聞きしたが物静かな方で 最初に挨拶にお伺いしたとき 「この輸出業務は 全て自分で判断して業務を推進しなさい。 細かい事いちいち報告する必要はありません」と言われたのが強烈な印象として残っている。  そのせいか 輸出営業で実務担当してから どうしましょうと報告に行った記憶はあまりなく 同僚とどうしようと 鳩首凝議して 結果だけ報告した、今から思うと 知識も経験もない あるのは猪突猛進の体力だけの若造に よくもまあ これだけ任せて頂いたものと感謝、しかし 反面 任せるよと言われたら 逆に慎重に色々検討してから行動に移すから 大過無く来たとも言えますなあ、 天邪鬼のつぶやきです。

同僚の U君
名大経済学部の後輩で、名前を「常晴」、本人が僕は「always fine]ですと自称しているだけあって何時も愉快で明るい性格で皆なから好かれた。当時は課単位の行楽、慰安会があったが 彼は最高のエンターテイナーで座持ちのよさは最高で 楽しませてもらったが 唯一の欠点であり長所は時々大ポカをやらかす事だった。

某月某日 輸出営業部全員で一泊で慰安会に行く計画があり 女性社員の希望だと思うが 宝塚の歌劇を見に行こうと話が決まり、切符は彼が予約購入した前夜散々飲んで騒いで目的地の宝塚迄行ってさあ入場しようとしたら「切符が無い!」と 彼が騒いでいる。彼の服のポケットからバッグの中まで入り口で衆人環視の中でひっくり返して探してもとうとう無し・・・どうにもならず 全員そのまま電車にのって(新幹線はまだ無かった)名古屋に戻った。念のため彼と一緒に事務所に戻って 彼の机の上を見たら その切符はそこに鎮座ましましているではないか!バカアホマヌケと散々どやされてその後暫くは女性社員からいびられて俺は名前を変える「always cloudy」やとしょげていたのを覚えている。
その元気者の彼も1990年11月56歳で癌で他界してしまった。 きっと天国でも みんなを楽しませているだろうなと思う。合掌。

輸出営業部の仲間たちと(三重県大王岬にて)


◆輸出業務の習得

現在なら新入社員とか異動で来た人には夫々の部門での業務内容説明とか事務処理要領とかがあり期間の長短はあっても先輩がついて指導するのが慣例となっていると思うが昭和34年当時はそんなものは一切無し知りたかったら自分で探して覚えろだった。輸出担当地域は欧州と決められたが 何処の国の誰と取引があるかその程度は教えてもらったが実務はさっぱり!有難い事に前述のU君が 見るに見かねてと思うが色々と実務を教えてくれた。経済学部のゼミで外国貿易を勉強したが為替変動の理論は頭にあっても信用状とか船荷証券とかFOB,CIFなんてチンプンカンプン。机の上の勉強と実務とは如何に乖離していたか痛感した。その頃は輸出拡大で 先輩諸氏の活動のお蔭で海外販路が次々と拡大してその応対に輸出営業部が女性を含めて全員が超多忙の時期。中古新人について教えているヒマと時間が無かったのが実情でしょうね。

8時始業で 4時ごろまでは取引先との商談や現場との会議で走り回り事務処理は 夕方からと決まっていた、だから殆ど毎晩終わるのが8時過ぎ夕食は近所のうどんやから出前を取るのが常、冬はともかく夏場はエアコンも無く扇風機だけで 蚊取り線香を机の下に入れて残業した。 女性社員は大変だっただろうねと 今頃になって同情(遅すぎるわ!)  当時は土曜日は休日ではなくフルタイムの出勤日で仕事。若手は殆どが日曜日もでて仕事をしていたので残業期間は 平均して毎月100時間を超えていた(残業制限なんてケチな話は無し) だから私を含めて 当時のU君 F君 S君から ガールフレンドの話など聞いた事も無かった。若しいたとしても こんな状態なら三日で愛想尽かされておさらばされたでしょう。でもこの四人仕事命でとてもとても女性にもてるタイプじゃ無かったのが本音かもしれませんな。

◆課長のおごり

後の社長になられた河嶋課長も我々ペイスケと一緒に遅くまで仕事をされた。某月某日 河嶋課長「おい皆 今日はもう仕事やめて 飲みに行こう!費用は私が持つ」そういわれて結構ですなんて言う朴念仁は一人もいない、机の上の書類はあっという間に消えうせて課長以下4人が嬉々として行列作って今池の繁華街に市電に乗って繰出した。どっかしゃれた料亭で なんと思ったら大間違い、 当時の今池周辺は雑多な繁華街で赤提灯の屋台が至る所にあり、その屋台の一つに全員が首突っ込んで 「おい オヤジさん 餃子焼いてくれ、ついでに酒もだ」 当時 酒はクラスがあって 特級酒 一級 二級 どぶろくで焼酎もあったがこれは殆ど飲まなかった、 で屋台で飲むのは二級酒と決まっていた。


一升瓶からコップになみなみと注いでもらって 課長以下全員が「かんぱーい」で餃子をぱくついて満足、話はこれで終わりではないんです。いい加減飲んでご機嫌になったら、「ほい、皆な次に行くぞ、おやじ勘定だ」と課長が先頭きって 二次会行き これがすぐそばの 屋台、今度は餃子ではなく焼きそばとどぶろくと相場が決まっていた。全員課長を囲んで多いに意気投合 終電車までわいわいがやがや。  翌日出勤すると 女性社員から「ニンニク臭い」と 非難されても 課長以下全員が臭いのだから平然として仕事、ただ部長からお前ら ほんとに臭せ〜〜なあと言われた時だけ 小さくなっていたが。こんな事はよくありました 変化したのは屋台から 小さな中華店になっただけそこで餃子と酒、 仕上げは やきそばと クイモノには変化ありませんでした。大事な事を一つ 支払いは 最後まで全額課長さんでありました。ご馳走様でした。






Home