英語で苦労した部品の輸出
平成21年3月21日


◆部品の輸出

1:欧州進出計画

 昭和34年頃製品の輸出累計が100万台を突破したが 欧州向けの実績は全く微々たる物であった。これは当時の英:独:仏ほか欧州各国との通商条約がからんで 潜在需要は素晴らしいのに日本からの輸出は抑えられていた。 しかし当時の営業部の先輩達は欧州市場開拓を目標に昭和33年にアイルランドに支局を設立して、欧州市場への橋頭堡を築くのに努力されていた。その結果アイルランド政府との間で現地生産 計画が締結されて 昭和35年初めに現地工場設立立ち上げ、生産開始の為の技術者派遣等々着実にその生産拠点の充実を図り、一方では 西独の通販大手のK社と長期の販売契約を結ぶのに成功してこれで一挙に欧州市場進出計画が具体化した。当時の情報通信網や交通手段は現在と比べ物にならぬ位不便であった中諸先輩の先見の明とその素晴らしい努力で市場開拓された手腕には全く頭が下がります。
 
ただ、肝心のアイルランドの産業基盤が当時は貧弱で殆どの部品が現地調達出来ず、日本より部品として送って現地工場で組み立て完成品にして市場に出荷の方法を取らざるを得なかった。日本側でも現地の動きに対応してその準備を整えつつあったが、さて現実に部品として短期間に何万台分も輸出するのは始めての経験で輸出営業部の自社だけでなく 外注工場の生産能力まで含んだ一大プロジェクトとなった。

2:部品表の作成

運よくか運悪くか、輸出営業部での担当はこの私と決定、有無を言わさず即日作業開始となった。 製品を分解してバラバラの部品数百点全てに英文の部品名をつけて部品表を作成しなければならないが、その担当の私自身が個々の部品の日本語名すら知らず 、またその機能も理解出来ていなかった。いい加減な英文名をつけて現地に送ったら現地の技術者のみならず作業者も混乱を来たす事は容易に想像出来た。普通なら 営業部の諸先輩からの助け舟が期待される所だが、流石の大先輩も部品一つ一つの英文名までは知らなかった。 私自身も設計者や現場の方のお知恵拝借で少しずつ
出来上がってきたが、船積みの期限までには輸出申請書類全て完了させねばならずノー天気の楽天家も少々ノイローゼ気味! 

天の助け!
私が国内販売会社に在籍した時、S社にいたAさんが国内販売会社に転職して来られて、彼とはウマがあって仕事も飲み会も一緒の事が多かった。私が輸出に転籍 してからはあまり会う機会は無かったがある日偶然彼と会って旧交を暖めた時に今 部品の英語名で苦労していると話したら、彼が偶然にもS社のパーツリストを持っていてそれを貸してくれた。それを元に設計者と一つ一つ詰めていったら、今迄不明だった部品の英語名がわかり、更にこれで良いと思っていた英語名が現地では通用しない英語名であったりしたミスが発見されてこれで一挙に完成スピードが速くなり、何とか船積みに間に合わせる事が出来た。偶然とはいえ、あの時にAさんに会う事が無かった ら多分部品表は間に合わず、出来たとしても現地で通用しない英語名で大混乱が生じた事で、間違いなく「首」は吹っ飛んだと思う。  あれこそ将に天の助けであったと感謝しています。
 
参考までに どうしてこんなに英語名で苦労したか、その一例を挙げますと部品の一つに小さなバネがあるのですが、それは通称「ピンピン」と呼ばれて初めからある部品に組みつけられていたので今迄ばらした事は無かったし単品での出荷も皆無それにどの様な英語名をつければよいのか、まさか発音通りに「pinpin]と書いたら現地の作業員は目を白黒される? このバネが何の役割機能をもつのかそれを理解してはじめて糸調節バネとしてそれを英語にする、そんな回りくどい作業ばかりでした。

しかしこのお蔭でどの部品がどの部分に付くのか、その機能は何かと言う事が理解出来て、日本語名 英文名そして現物がすぐ一致出来る様になり 一年後の資材部へ異動 しても部品名と実物がすぐ繋がるので本当に助かりました。今から思いますのに、その時は本当にノイローゼ寸前まで行っても必ず誰かが助けて くれましたし又苦労した経験が後々不思議な位役に立って心底有難く思いました。

3:部品梱包

  現地組み立て工場のあるダブリンへの直行便の船便は当時は月一本だけだったのでこれを逃がすと大変な事になる。 毎月何千台分の部品の中には、色々なトラブルで どうしても間に合わない部品も発生した。 こんな時にはこの船の次の寄港地の神戸とか横浜までトラックを走らせてそこで船積みをする綱渡り的な事もちょいちょい発生。その度に船積み担当のS社のT課長に奔走して頂いて事無きを得て冷や汗を乾かす事 が出来た。 表には出なかったが、こうした裏方さんにどれだけ助けて頂いたか・・・それだけ担当のお前がとんまだったと言う事か・・本音は将にその通りでありました。

さて、肝心の部品梱包だが、これは当時の「輸送課」が担当していた。 おおまかに国内向けの製品の梱包と輸出向けの梱包とは課長も担当者も別々だった。 毎月何千台もの部品が運び込まれてそれをサイズ重量別に、長期の輸送に耐えられるよう梱包するのは本当に神業としか思えない位見事な物であった。出荷直前の梱包された部品箱を見るたびに一体どうやってこのように均一に梱包出来たのか、餅は餅屋と言われるが すべて手作業で行うのだから 将にこれこそ「職人芸」と言える素晴らしい技術だった。



梱包の手伝いに来ました!

 この担当のS課長は会社中鳴り響いた位の癇癪餅で有名、一日に一度は作業場の天井が吹っ飛ぶ位の「ばっかやろう」が聞こえないと作業終了しないとまで言われた名物課長。ある時何かの都合で梱包が予定より遅れていた時があったので 納期に間に合わせて欲しいと電話で依頼したら、私の表現が不味かったせいか課長の逆鱗に触れて「机の上で紙切ればかりいじくっている奴に梱包の苦労が分かるか、文句言う前にお前が梱包やってみろ」と怒鳴られた。

こりゃえらい事になった、あの課長がへそ曲げたら大変な事になるわと思ったのでその後 輸送課に行って「梱包の手伝いに来ました」とやったら そこの係長が目を丸くして 「お前 本当にやる気で来たんか」とすぐS課長に報告に行った。私自身本気で梱包を経験するつもりで、背広から作業服に着替えて行ったのだが S課長がすぐ飛んできて「何しに来た!」ともう頭から湯気が立ち上っている状態、こりゃ不味いなと思ったが正直に「先日は電話で失礼しました 梱包の難しさを体験するために来ました」と話したら、とたんに「お前みたいなトーシロがやったらめちゃめちゃだ。ひっこんでろ」と一喝された。係長が気の毒がって 作業場の隅に連れて行ってくれてここで皆なの作業振りを見ていなさいと慰めてくれたので暫く見ていたら、湯気の収まったS課長が来て、「お前 本当にやる気で来たのだな?  おめえは変わった奴だな」の一言で その日は終わり。

それからと言うものは何故かS課長が気に入ってくれて 後々 無理な追加注文の船積みで休日出勤しなければならない時も、ちゃんと間に合わせて 頂いた事が何度もありあの時に現場に行って良かったなと実感した次第。でも 若しあの時に「それじゃやってみろ」と実際に梱包作業をやったら 多分私のやった梱包は全部開梱されてやり直しでそれこそ「どえらい」迷惑を掛けた事になったと思います。係長も課長もそれが分かっていたから、手をだすなと言ったんでしょう。この名物課長さんも係長さんも既にお亡くなりになって、今では懐かしい思い出の人になりました。 ご冥福をお祈りします



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