名古屋大学の受験そして合格



1:受験場所


【名大の受験票】
和25年(1950年) 2月いよいよ名古屋大学の入試を受ける事になった。名古屋の親類のお世話で今の東区の民宿か下宿屋みたいな所に泊まる事になったが、名古屋の地理なんて全くのチンプンカンプン、名古屋駅から市電で平田町行きに乗れと事前に手紙で教えて頂いたが平田町を「ヘイデンチョウ」と読む事は書いてなかった。  

駅前で「ヒラタマチ」行きの市電は何処から出ますか? え? ヒラタマチ行き?しらんがや。  坊主頭で詰襟の田舎者が駅前で立ち往生!何人目かの親切な人がそれは「ヘイデンチョウ」と読むのだと教えてもらってやっと市電に乗れた。そんならそうと初めから書いてくれれば良いのにと 恨んでも後の祭り。これが最初の失敗。

 やっと宿に着いてからこんな事じゃ大変だ!受験場所の下見に行かねばと宿の人に散々聞いて昭和区滝子にあった旧制八高の場所を確認してやっと安心して、受験場所の指示書を見たら私の受験番号は八高ではなく桜山の名古屋高商になって居るのを発見!心臓が止まりそうなショック!滝子から桜山へはさいわい歩いて15分程の距離にあったが、そこまでの遠い事、やっとの思いで たどり着いたら もうへばりこんで 正門の横で座り込んだ。 50年以上たって街の様子もすっかり変ったが、今でもへたり込んだその場所はここだ!とはっきり覚えている。もしあの時に下見に行かなかったら、 受験番号での区分に気がつかずそのまま 思い込みで八高に行っていたら・・・考えただけでも ゾッとする神様がこの田舎者を可愛そうに思われて助けてくれたんでしょうね。

2:受験問題

数学
これが一番の難関、数学は一番の不得意学科、さらに名古屋大学の数学問題は国立大学の中で一番難しいとの前評判予想通り4問の出題、最初の問題は微分積分の計算式が二問第四問が 確率の問題だった。 四問中 一問正解なら 25点とれる名大の数学で25点取れたら合格する と言われていたのを信じて確率の問題だけ 殆どの時間を使って計算解答、微分積分の計算式はやっつけ半分の解答を書いて終了。本人は確率問題は100%正解であると信じていたが、その後の模範解答で間違っていた事がわかり本当にがっくりした。やっつけ仕事の微分積分の計算問題二問のうち一問だけ正解で数学の点数は25点の半分12.5点だけである事がはっきりした。
 
世界史  
どんな問題だったか 忘れたが 次の項目について知ることを述べよの問題で「アルブケルケ」とあった。 他の項目は いい加減な事を書いて誤魔化したが、この「アルブケルケ」だけは 全く記憶に無かった世界史なんて 記憶力さえあれば何とかなるさと たかをくくったがこれだけは 知らなかった。正解は1453−1515年 ポルトガルの植民地征服者。今でもこの問題が出来なかった事を覚えているのはよほど口惜しかったんだろう

地学
これは高校の時の鹿間時夫先生に三拝九拝、本来ならば 鹿間先生は大学試験問題作成委員の中に居られるべき人その先生に教えて頂いた。こりゃあ どんなバカ生徒でも地学では絶対負けない学力がつく筈。どんな問題だったか記憶に無いが地学で点数を稼いだ事は間違いない。合格出来たのは地学のお陰と今でも鹿間先生に感謝感謝です

余談だが、当時の理科選択科目は 物理,化学、生物と地学の四課目より一課目選択することになっていた。地学を選んだ理由は単純明快である。

物理=電車の動く原理を説明せよの期末試験で零点取った後遺症で大嫌い
化学=あの化学記号たるものが全然理解出来ず 最後までチンプンカンプン
生物=担任の先生の迷講義(諸君は製糞器である)に納得しただけ。
地学=信州伊那谷がどうやって出来たたか教えてやると言われて感激
それだけで 受験は地学じゃと決めた結果が万歳三唱につながった
人間万事塞翁が馬何がどうなってどうなりますか神のみぞ知るですわ。
 
英語と国語
全く記憶に無い所から推察すると 何とかかんとか 誤魔化したんでしょう。

3:合格通知
 
願書提出時に予め自分の住所氏名を書いて8円(80円ではない)切手を貼った封筒を入れておく事になり 合格通知はこの封筒がくる事になっていた。3月25日合格発表の日名古屋の叔父が発表を見に行ってくれる事になっていた。当時の叔父は三菱製作所の設計主任をしており 日中に見に行ってくれる難しさが理解出来ず、伊那谷でいらいらして結果を待っていた。今なら携帯メイルファックスなんでもありだが当時電話は村長か医者か駐在所しか無く緊急は電報と決まっていた。

午後になっても 知らせが無く 駄目だったかと涙がこぼれそうになった夕方「電報で〜〜す」と自転車に乗った配達員が差し出した「電報」が キンピカに輝いて見えた!!

ゴウカクオメデトウ 

たったこれだけの文字でエネルギー百万倍、 とにかくこれで代用教員もやらずにすむし 村役場の書記にならなくても良い こんな嬉しい事は無かった。翌日 喜び勇んで担任のウラサに合格したあ と報告したが ああそうか良かったなの一言、随分冷てーえ祝辞だなと思っていたら 次々と合格、合格の知らせが入って今までの最高の合格者数となりウラサはじめ先生方は合格の言葉で耳にタコが出来ていた為だったそうだ。
   
名古屋大学からの「合格通知」は50年以上経って茶色に変色しているが今でも大事に手元に保管してあります。

【合格通知書】


                                          平成18年11月4日作成
                                          平成19年10月15日加筆


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