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第3章 それぞれの企み
誠とルーンはようやく会合が終わり、いったん別館へと戻ってきていた。 「はあー、緊張したあ…」 誠はカツラを取って上着を脱ぎ、だらしなく椅子にもたれかかっている。 「ありがとうございます、誠様。おかげで助かりました」 「誠ちゃんお疲れ様。はいこれ、喉渇いたでしょ」 「ああ、おおきに菜々美ちゃん」 菜々美は誠たちに飲み物を配る。彼女はこういう所はとても気が利いていた。 「それにしても今日もこの国の王女様はいませんでしたね」 飲み物を飲んで多少元気になった誠は椅子に座り直して喋る。 「そうですね。ひょっとして病気でもしてるんでしようか…」 ルーンは心配そうに頬に手を当てて答える。 「心配せんでもその内会えるだろう。それよりもお前は大丈夫なのか?」 藤沢は相変わらず酒を飲みながらではあるが、誠のことを気づかっているようだ。 「ぼ、僕は大丈夫ですよ」 「そうか。ならいいんだが…」 「誠様、何でしたら今日はもう結構ですよ。ファトラは気分が悪くなって休んでい ることにしましょう」 「えっ、でもいいんですか?」 「午後の予定は施設などの視察ですし、構いませんよ。私一人で十分です」 「でも…」 「誠ちゃん、そうしなさいよ。どうせ無理矢理やらされてるんだし、いいじゃない」 「はあ…」 「誠、この際なんだからそうしとけよ」 「じゃ、じゃあそうします。すみません」 誠は好意に甘えることにした。さすがに疲れているので、顔が自然と綻んでくる。 「いえ。いいですよ。そのかわり明日はまたしてもらいますから、しっかり休んで 下さいね」 ルーンはにっこり微笑む。誠はそれを見て、やはり自分の運命が束縛されている ことを悟った。 「はあ…。(本当は本人が来てるんやけどなあ…)」 「決まりね。じゃあ午後からは何しようか」 菜々美は嬉しそうにはしゃいでいる。 「それでしたら、大神官の方々がもう来られるはずですから、会われてはいかがで すか」 「ああ、そうですね。そうします。いやー、久しぶりやなあ」 「そうね。そうしましょうか」 「じゃあ俺はどうしょうかなあ…」 「あっ、藤沢先生も一諸に来て下さいよ」 「ん、でも俺はなあ…」 「藤沢様も会えばよろしいじゃないですか」 ルーンは藤沢の気も知らずに会うことを勧める。 「はあ…。じゃあ仕方ない。会うか…」 藤沢はしぶしぶ承知する。 「では昼食にしましょう。誠様はもう女装を解かれて結構ですよ」 「はい。分かりました」 誠はとりあえず一時的にしろファトラの身代わりをしなくて済むということで、 ほっとした。誠の正体を知らない人は彼の女装を見て皆美しいと言うので、誠は気 がめいっていたのだ。 誠は女装を解くために自分の部屋へ来た。ひょっとしてファトラがいるのではな いかと思ったが、誰もいない。 「だれもいないか。ファトラ姫はどこにいったんやろなあ…。アレーレの姿も見え るせんし…」 誠はファトラのことが少し心配になったが、彼女のことだから心配ないだろうと 思い、それ以上は考えないことにした。手早く女装を解いていつもの格好に戻る。 「できれば早く代わってくれんかなあ…。でもファトラ姫、人に見つかったら自分 のことをどう説明するつもりなんやろう…」 誠は鏡で自分の姿を確認すると、脱いだ服を片付けて、部屋を出て行った。 昼過ぎ。誠たちは朝食を済ませ、大神官たちが到着する予定になっている飛行艇 の発着場へ来ていた。ルーンはすでに視察に出かけている。 「それにしても、シェーラさんたちに会うなんて久しぶりやね」 「うん。そうね。楽しみね」 「あー。俺はちょっと不安だなあ…」 誠たちはそれぞれの思いを抱いて大神官たちを待つ。しばらくすると、空に大神 官たちの飛行艇が予定通り現れた。大神官以外にも通常の神官たちの飛行艇もある。 「あ、おーい!」 誠は腕を振りながら声をあげる。飛行艇はゆっくりと降下し、音も無く着地した。 誠たちは飛行艇のそばへ駆け寄る。 「いよう。誠じゃねえか! 久しぶりい!」 最初に飛行艇から出てきたのはシェーラ・シェーラだ。タラップを使わずに、甲 板から飛び降りてきた。 「んまあ、藤沢様、お久しぶりですわあ!」 「いやあ、どうも」 次にミーズ・ミシュタルがタラップから降りてきた。歓喜の表情で藤沢に抱きつ く。藤沢は苦笑しながらそれに答えていた。 「どうも。久しぶりでおすな」 最後にアフラ・マーンがゆっくりとタラップから降りてくる。大神官の中では彼 女が一番年下だが、彼女が一番大神官らしく見える。 「みなさん、久しぶりです」 「みんな元気してた?」 「おう。あたいは元気だぜ」 久しぶりの再会ということで誠たちははしゃいでいた。菜々美も懐かしそうだ。 「こんな所で会えるとは思ってもおりませんでしたわ。本当に感激です」 ミーズたちはエランディアで誠たちに会えるとはあまり思っていなかった。 「いやあ、いろいろと事情がありまして…」 「私、藤沢様にお会いできただけで幸せですわ!」 「はあ…」 ミーズは一方的に話を進めていく。藤沢は細い目をますます細めた。 「それにしても、戴冠式に出席だなんてつまんねえなあ…」 シェーラたちは荷物を片付けると、誠たちと一緒に王宮の一角でくつろいでいた。 シェーラは足を組んで、ソファーの背もたれにもたれかかっている。アフラはお茶 を飲み、ミーズは藤沢の腕に抱きついている。 「あらあ。私はこうして藤沢様に会えただけでも幸せよ。ね。藤沢様?」 「はあ…」 藤沢は相変わらず困った顔をしている。誠と菜々美はその隣で飲み物を飲んでい た。 「ところで、シェーラたちはなんで戴冠式に呼ばれているの?」 「ん、それはなあ…。ええと…」 シェーラは理由を考えている。しかしなかなか思い出せないようだ。 「大神官の権限は諸国の王族に肩を並べるものであり、身分の上では王族に匹敵す るんどす。せやからこのような重要な行事が行われる場合、必ず出席するんどす」 「へー。そうなんですか」 アフラが隣から横槍を入れた。誠はアフラの言うことが分かっているのかいない のか、気の抜けた返事をする。シェーラはソファーから立ち上がった。 「おい、アフラ・マーン、なんでお前が説明するんだよ」 「あんたじゃロクに説明できへんでおっしゃろ」 アフラは余裕の様子でお茶を飲んでいる。 「そんなことはねえよ!」 「じゃ、神官の権限について説明してもらいましょか」 「おう。それはだな…。えーと…。…なんだっけ…」 シェーラは再び考え始める。しかしなかなか答えがでない。 「やっぱり駄目じゃないどすか」 「ほ、ほっとけ!」 シェーラは再びソファーに座ると、そっぽを向いた。 「大神官の権限って、そんなに大きかったのね」 「そうよ。各国の王族は国を治めているのに対し、大神官は先エルハザード文明の 遺物を管理しているの。この二つの権限は対等な物であり、お互いに抑制しあって いるのよ」 「権力バランスを保ってるんですね」 「そういうことになりますな」 「へー、知らなかったよ。そんなに凄い人たちだったのか」 「いえ、そんな。私にはそんな物必要ありませんわ。私に必要な物は…。ねっ、藤 沢様?」 「はあ…」 藤沢はさっきから押されっぱなしのようだ。はたから見ると、逃げ出したそうで ある。 「ああ。戴冠式では御前試合をやる予定なんだ。期待してくんな」 シェーラは突然話題を切り換えた。 「そうそう。私たち全員が出ますの。応援して下さいね」 「じゃあみんなで応援しますね」 「いやー、あたいはこれだけが楽しみなんだ。これがなかったらすっぽかしている ところだよ」 「あんさんはそれしかないんかいな」 シェーラは楽しげな表情だ。しかしアフラは相変わらず冷静につっこみを入れる。 「なんだよ。いいじゃないか」 「別に構いまへんけどな。神官が出席する目的は権力の問題以外にも、警備の事を 考えてなんどす。万が一の時は神官たちが対処にあたる訳なんやから、気いつけと いてや」 「わ、分かってるよ」 「へー。そういえば、私もさっき賊が一人入ったって聞いたわね」 「神官は主にはテロ行為などを扱います。せやからそういったのは管轄外どす」 「ふーん。なんでもファトラ姫の変装をしてここの姫を暗殺しようとしていたんで すって。でも、ファトラ姫の変装をするなんて、誠ちゃんみたいな人がいるのね」 「なんだ。誠。おまえまた女装してたのか。ファトラ姫は見つかったんじゃなかっ たのか?」 菜々美は無邪気に笑う。しかし誠はその言葉を聞いて、心当たりがあることに気 がついた。 「えっ!? 菜々美ちゃん、それ本当かいな?」 「うん。本物のファトラ姫と見間違うくらい完璧な変装なんですって。誠ちゃんが 会合に出席していたもんだから、偽物だって分かったそうよ」 「あっ…あかん…。(そりゃ偽物やなくて、本当の本物やないか…)」 誠の顔から血の気が引いて行く。菜々美もそれに気がついたようだ。 「どうしたの、誠ちゃん。気分でも悪いの?」 「い、いや。そうやないんやけど…」 「どうかしたの?」 「な、菜々美ちゃん。僕ちょっと急用を思い出したわ。ごめん」 「ま、誠ちゃん?」 「おう、誠。どこ行くんだよ?」 誠は突然立ち上がると、部屋を出て行った。 一方、そのころルーンは一人でエランディアの色々な施設の視察を行っていた。 もちろん、お付きの者は一緒にいるが。 「さ、ルーン王女様。ここが先エルハザード文明の研究所でございます」 「はい。まあ、立派ですこと」 そこはエランディアの誇る先エルハザード文明研究所だった。多くの人間がひっ きりなしに動き回っており、いろいろと訳の分からない物が作業台の上に置かれて いる。 「ここは遺跡の発掘を行う部署、発掘された物の解析を行う部署、解析によるデー タを元に先エルハザード文明の技術を再現する部署で構成されております」 「かなり規模の大きい施設なのですわね」 「はい。ファトラ姫にもぜひこれを見て頂きたかったものです。誠に残念でござい ます」 「はあ。誠に申し訳ございません。ファトラは幻影族の一件があって以来、ちょっ と病弱になっておりまして…」 ルーンは適当に言い繕った。 「はい。一刻も速い回復をお祈り致します」 「はい。ところで、これは何ですか?」 ちょうどルーンのすぐそばに人が入れるほど巨大なタンクがあった。中にはやや 緑色がかった液体が満たされており、気泡が漂っている。 「はい。これは物質を変化させる性質を持った液体です。顕微鏡で見ると、小さな 粒を見ることができます。現在、この粒の正体を調べているところです」 「物質を変化させる粒ですか…」 「はい。物質の構成を変化させたり、単純な物質から複雑な物質を構成することが できる模様です」 「そうですか…」 係の人間は得意気に話す。ルーンは再びタンクの中を見た。タンクの中のコロイ ド溶液はいつまでもたゆたっていた。 誠は王宮で働いている人間に牢の場所を聞くと、一人で牢のある場所に来た。牢 は王宮に入った賊を一時的に拘束しておくためのもので、それほど大きな施設では ない。牢に入っている人間もほとんどいない状態だ。 「すみません。賊が一人入ったって聞いたんですけど、会わせてもらえませんか?」 「向こうの牢にいるのがそうですよ」 「はい。ありがとうございます」 警備の兵はわりとあっさりと通してくれた。誠は急いで廊下を走って行く。兵の 言った通り、いくつ目かの牢にファトラの姿があった。 「あ、ファトラ…。あ、いや…。ちょっと、もしもし」 「おおっ、誠ではないか!」 それまでベッドに横になっていたファトラだが、誠の姿を見て、すぐに格子の所 まで歩いてきた。その顔には歓喜の表情が現れている。 「いやー、すまん。うっかりしていてな。捕まってしまったわ」 「あの、もうちょっと静かに喋りません?」 誰かに聞かれやしないかと、誠は心配していた。 「そうじゃな。まあいろいろあってな。そなたがわらわの代わりをしていたもんじ ゃから、わらわが偽物ということになって、しかも賊と間違えられて捕まえられて しまったのじゃ。姉上に頼んで、なんとかならんか?」 「なんとかって、どうするんですか?」 ファトラと誠はお互いにひそひそと話し合う。 「そなたの女装のことを明かすことは避けたい。スキャンダルになってしまうから な。じゃから適当な名目で、わらわをここから出して欲しいのじゃ」 「でもファトラ姫は賊ということになってるんでしょ? 無理じゃないんですか?」 「だったらどうしろというのじゃ。このままではわらわは処刑されてしまう。なん とかして適当な理由をつけてうまいことごまかすんじゃ!」 ファトラは両手で格子を掴んで誠を睨みつけた。 「えっ。処刑ですか?」 誠にはなじみの薄い言葉だ。 「そうじゃ。わらわはここの姫を暗殺しようとしたことになっておる。はっきり言 って立場的に非常にまずい。しかもファトラの偽物ということになっておる。身分 が証明できん限り、処刑されてしまうわ」 「でも身分を証明するとスキャンダルになるんでしょ」 「じゃから、何とかしろと言っておるのじゃ! 正体を明かすことは最後の手段じ ゃ。姉上に相談して、何とかうまい方法を考えるのじゃ」 「そんな無責任な。もとはと言えば、ファトラ姫のせいじゃないですか」 「分かっておるわ! しかしなってしまったものは仕方ないじゃろうが! これは わらわ個人の問題ではなく、国の問題じゃ! わらわがいないと、姉上一人で国を 治めることになる。それにもしわらわが本当に処刑されれば、そなたは一生わらわ の身代わりを勤めることになるぞ! それでもいいのか?」 「えっ。それは嫌ですよ」 「そうじゃろ。じゃったら何とかするのじゃ」 「はあ…。だったら、もう僕に身代わりをさせないと約束してくれますか?」 誠はファトラの立場が弱くなっているのをいいことに、条件を持ち出した。 「そのような約束はできんわ。こんな便利な物をみすみす逃してたまるか」 「そこから出られなくてもいいんですか?」 「もし出られんかったら、そなたが一生女装することになるだけじゃ」 「もしそうなったらファトラ姫は病死したことにしますよ」 誠はとにかくファトラを言いくるめるために、酷なことを言い出した。さすがに 言っているそばから良心がちくちくするのを誠は感じる。 「うっ……」 さすがにこれにはファトラも言葉を詰らせた。 「そ、そなたはそんなにわらわを殺したいのか?」 ファトラは誠を恨みがましそうに見る。 「み…身代わりさせないと約束してくれればいいんですよ」 誠の言葉や表情には動揺が混じっている。ファトラはそれを目ざとく見つけた。 「そなた本気ではないな。わらわを殺すつもりはないのじゃろう。要は条件を飲ま せたいだけじゃな」 「うっ……」 誠は眉間に眉を寄せた。 「とにかく、なんとかするのじゃ。条件については考えておこう」 「はあ……」 やはりファトラの方が一枚上手である。誠はファトラに条件を飲ませることはも はや無理と諦めた。 「じゃあ正体は明かさずになんとかするんですか?」 「無論じゃ。スキャンダルになるからな」 「分かりました。じゃあルーン王女様に相談してみます」 「要はファトラの偽物であるということをなんとかごまかせばいいのじゃ。暗殺に ついてはここの姫が弁解してくれるじゃろう」 ファトラは誠をなだめるように言った。 「はい。それじゃあ」 「うむ。そういえばそなた女装は解いていていいのか?」 「ああ。ファトラ姫は具合が悪いことにしてあるんです。大丈夫ですよ」 「ふーん。まあいいじゃろう。もしいい案が思いつかんようなら脱獄することにす るから、その時は道具を持って来い」 「だったら始めから脱獄すればいいじゃないですか」 「もしそれでうまくいかずに捕まったら、それこそもう手の施しようがなくなる。 そうなったら、もう身分を明かして国の恥さらしになるしかなくなってしまうじゃ ろうが。それともわらわが処刑を甘んじて受けるかじゃが…」 「分かりました。それじゃあ…」 「早いところなんとかするのじゃぞ」 「はい…」 「そう嫌な顔をするな。うまくいったらまた二人で楽しもう。もっともいかないと 困るのじゃが…」 「はあ…。じゃあさようなら」 誠はファトラの入れられている牢の前から去って行った。 (こうなった以上、仕方ないのかなあ…。でももうちょっと反省して欲しいよなあ …。でもそうするとファトラ姫はここの姫に会っているのか…。じゃあ病気とかし ている訳じゃないのかな…) 誠はルーンにどう説明するか考えながら石畳を歩く。結局のところ、ファトラが 処刑されようがどうなろうが誠には関係ないことであったが、だからといって放っ ておくことはやはり出来なかった。 「これからどうしようか…。って、ルーン王女様に知らせて方法を考えないといけ ないんだよな。早くしないとファトラ姫が処刑されるかもしれないんだから、急が ないと」 誠は小走りに渡りを進んでいく。まもなく十字路に差し掛かる。誠はそこを右へ 曲がろうとした。 (どしんっ!) 「うわあっ!」 「きゃあ!」 誠に向かって何かが体当たりする。それとも誠が何かにぶつかったのか。誠は反 動で床に尻餅をついた。 「あいたたたた…。なっ、なんやあ?」 「うー、いたい…」 誠にぶつかってきたのは、誠より少し年下くらいの少女だった。青緑の髪と薄紫 の瞳をしている。その瞳には涙が浮かんでいた。 「だ、大丈夫?」 「あ、大丈夫です…」 誠は立ち上がると、少女を助け起こしてやる。 「ご、ごめん。すみません。怪我はありませんか?」 誠はちぐはぐな言葉をかける。少女がどんな人物か分からないからだ。 「あ、すみません…。…あっ…つ…!」 少女は誠の腕に掴まって立ち上がろうとするが、突然の苦痛に左足の踵の関節を 押さえて、再び床の上に尻餅をついてしまった。痛みのため少女は眉間にしわを寄 せている。 「ど、どうしました!?」 「ちょっとくじいちゃったみたいです…」 少女は関節をさすっている。誠は心配そうに少女の手許を見た。 「あっ、その…。すみません。医者を呼びますか?」 「いえ、それほどじゃありませんから…」 「そうですか…。あの、じゃあおぶってあげますよ」 「えっ、いいんですか?」 「構いませんよ。さ」 「すみません…」 誠は少女を背中におぶってやった。少女の体は見かけ通り軽く、簡単に持ち上が る。 「じゃあどうしましょうか?」 「えーと、じゃあ中庭の方へお願いします。そこで休みましょう」 「はい。分かりました」 誠は離れの廊下から外れて、中庭へ出た。少し歩くと、大きな木が視界に入って くる。 「あ、ここでいいです」 「分かりました」 誠は少女を木の根元のあたりの芝生に降ろしてやった。少女はスカートの裾を直 して、膝を崩した状態で座り込む。 「本当に大丈夫ですか? なんだったら医者を呼びますけど…」 「心配しなくていいですよ」 「はあ…。あ、僕、水原誠。ロシュタリアから来たんです」 「ああ。ロシュタリアの人ですか。戴冠式に来られたんですね」 「あ、ああ。はい。僕はー、その…従者です」 「はい。御苦労様です。私の名前はリースです。一応、ここの者です」 リースはにっこりと微笑んだ。ちなみに誠はリースという名前を忘れている。 「はあ…。あっ、じゃ、ちょっと足を見せてくれますか?」 「はい」 リースは靴を脱いでみせた。誠はリースの前にしゃがみこんでリースの足を診て やる。リースの肌は白く、足首は折れそうなほど細いが、腱はしっかりしており、 爪はきれいに整えられていた。誠は踵の関節の周りを撫でてみるが、別に腫れては いないようだ。 「大丈夫みたいですね」 「はい。すぐ良くなると思います」 リースは再び靴を履く。誠は心の中に軽い安堵が生まれた。それと同時に自分が やらなければならないことを思い出す。 「えーと、あのー、そろそろ…その…」 「え? どうかしましたか?」 誠はファトラのことで気がせいていた。しかし当然のことながらリースはそんな ことは知る由もない。 「どこかへ行く途中だったんですか?」 「いえ、その…。気にしないで下さい」 誠は気がせくのを隠すようにして、リースの隣に座った。 「そうですか…」 「まったくもう…。誠ちゃんたらどこ行っちゃたんだろう…」 「おめえ心当たりはないのかよ?」 「ある訳ないでしょう! だいたい私たちは昨日ここにきたばかりなのよ!」 「分かったよ…」 菜々美とシェーラは誠を探して王宮の中を歩いていた。しかし誠はどこにも見つ からない。今いるのは王宮本館の本廊下だった。侍女たちがせわしそうにいろいろ な物を運んだり、掃除などをしている。 「誠のやつ、いったいどんな用があったんだろうな」 「さあ。そんなこと分からないわよ」 「でもおめえが賊のことを言った途端に誠のやつはどっかへ消えちまったじゃない か。何かそれと関係あるんじゃないのか?」 「賊? なんで誠ちゃんが賊と関係あんのよ。そんな訳ないわ」 「じゃあトイレにでも行ったんじゃないのか?」 「どれだけ待ったと思ってんの。トイレならすぐ戻ってくるはずよ」 「それもそうだけど…」 「それにしても何の用かも言わずに行っちゃうなんて、絶対に変よ。捕まえたらと っちめてやるんだから」 菜々美はずんずんと廊下を歩いて行く。シェーラはその後から腕を頭の後ろに組 みながらついて行くのだった。 「と、ところでよう…」 「何?」 菜々美は歩きながら、無愛想にシェーラの方を向いた。 「その…。お、おめえと誠は…その…なんだあ…あの…あれが…いや、その…」 シェーラは赤くなった顔を菜々美と視線が合わないように背けながら、しどろも どろに話している。 「何? 何なのよ?」 「いや、…その…なんでもない!」 「……ならいいわ。さっさと探しましょう」 「お、おう…」 誠とリースはしばらくお喋りしていた。 「あなたがあの幻影族を倒したという人だったんですか!?」 「え、ええ。まあ…その…そうなんです」 誠は苦笑しながら頭の後ろに手をやった。 「へー。凄いじゃないですか」 「そ、そうやろか…」 リースは誠からいろいろなことを聞き出していた。誠の正体、どこからきたか、 何をしていたかなど…。もっとも誠は何をしていたかは適当にごまかしたし、何の ためにここにきているのかは明かさなかったが。 「リースさんはここのどんな人なんですか?」 「知りたいですか?」 リースは子悪魔のごとく微笑む。誠はそれを見て背筋が寒くなるような気がした。 「で、できれば…」 誠は笑ってごまかしながら、適当にいい繕う。 「そうですね…。この中庭って綺麗ですね。ここの庭師って優秀ですね」 リースは誠から目を離すと、あたりを眺めた。 「は、はあ?」 誠はリースが突然訳の分からないことを言い出すので、混乱した。思えばさっき から誠はリースのペースにどっぷりと浸かっている。誠はあたりを見回した。場所 は中庭。あたりには色々な木や草花が茂っている。明らかに人の手が加えられた物 であるが、見掛け上はわりと自然な感じがした。今度は自分たちの上に影を落とし ている大きな木を見てみる。樹齢はかなり高そうだ。どっしりと貫禄がある。そし てその根元のあたりには花が咲いていた。淡い青紫をした花だ。それは上品な花弁 と花びらを持っており、とても美しかった。 「あっ、こんな所に花が咲いていたんですね」 「本当。綺麗ですね」 花は誠たちのすぐ近くにある。香りがここまで漂ってきそうな感じさえした。 「そうだ。占ってみましょうか」 「何をです?」 「あなたが私の思っているような人かどうか。私の思っているような人なら私の正 体を教えてあげますよ」 リースはそう言いながら、体をずらすと腕を延ばし、花を一つ摘み取った。 「あ…」 誠はリースのその行動にどきりとした。さっきまで地面に咲いていた花が一輪リ ースの胸の中にある。リースはその花びらを無雑作に一つづつちぎり始めた。 「教えてあげる…。教えてあげない…。教えてあげる…。教えてあげない…」 リースの膝の上に花びらが次々と落ちていく。誠はリースに言いようのない戦慄 を憶えるのだった。 「教えてあげない…。教えてあげる…。教えてあげない…」 そこで言葉は止まった。もう花に花びらは残っていない。誠は心配になった。 「教えてくれないんですか…」 誠はリースの顔を覗き込む。リースは再び微笑んだ。 「そうですね…。それじゃあ約束してくれますか?」 「何をです?」 「これから言うことを他の誰にも言わないと」 「え、ええ。いいですよ」 リースはにっこり笑い、こくりと頷くと、再び花に手をかけた。花びらのついて いない花をどうするのかと誠は怪訝に思う。 「教えてあげる…」 リースは花の茎を掴むと、二つにちぎった。二つになった茎はリースの膝の上に 落ちる。リースは誠の方へ顔をあげた。 「じゃあ、教えてあげます。正体は…。あっ、冷たい!」 その時、突然雨が降り出してきた。にわか雨だ。空はたいして曇ってはいない。 リースは両手で頭を覆うようにしている。 「ああ、場所を移りましょうか」 「あ、ああ…!」 誠はリースの背中と膝を両腕で支えると、胸の前に抱きかかえた。そのまま建物 の方へ歩いていく。 「私はエランディアの王女、リース・ミュウハ・ノース・エルシウムです」 「ええっ!? 王女ぉ!?」 誠は仰天した。そして腕の中にいる少女を凝視する。少女はにっこり微笑んだ。 「そうですよ。まあ、今度の戴冠式で女王になりますけど…」 「えっ、いや…。その…あの…。そんなことはつゆ知らず、その…」 「気にしないで下さい。気にされると私の方が気をつかってしまいます」 「はあ…」 誠はリースを抱え直し、歩く速度を落とした。 (う…。足のことは大丈夫だろうか…) 誠は色々と心配し始める。酷ければファトラみたいに捕らえられるのではないか などと誠は思った。 「でもここの人たちって私のことあんまりよく思ってないんですよね。本当は私の 兄が王位を継ぐ予定だったんです。でもその兄がある人たちに殺されてしまって…。 それで私が王位を継ぐことになったんです。でも野心家の宰相がいて…。ひょっと したら、私を殺して自分が王位を継ごうとしているのかも…」 「は、はあ…。それは…困ったことですね」 「すみません。忘れて下さい」 「はあ…。でもそれって大変なことなのでは?」 「それはそうですけどね。いえ。別に誰かに喋りたかっただけですから。気にしな いで下さい」 「はあ…」 誠はリースが自分が何を言っているのか分かっているのか疑問に思った。 「王女!」 その時、突然声が響いた。声のした方を見ると、数人の兵士と侍女がいる。 「ああ、すみません。ここで降ろして下さい」 「ああ。分かりました。足はいいんですか?」 「もう大丈夫です」 「はあ…」 ここはもう屋根のある場所だ。誠はリースをそっと降ろしてやった。リースの足 はすでに良くなっているらしく、リースはうまいこと床に着地する。そこへ兵士と 侍女たちが近づいてきた。 「この方はロシュタリアの方です。偶然会ってお話していたんです」 「そうですか」 リースは兵士や侍女たちに説明する。誠は問題が出たりしないかひやひやしたが、 大丈夫のようだ。 「お世話をかけました」 「いえ。いいんですよ」 侍女の一人が誠にお辞儀をする。リースの方は侍女に何やら服装を直されている ようだ。 「それでは私たちはこれで…」 侍女の一人が誠にうやうやしくお辞儀した。 「誠さん。今日はここまでです。楽しかったですよ。ありがとうございました」 「はい。さようなら」 リースの顔は少女の物ではなく、王女の物になっていった。リースは侍女たちに 連れられてどこかへ去っていく。誠はそれを見送った。リースの後ろ姿にはどこと なく哀愁が漂っている。後には誠と兵士が残った。 「あなたはロシュタリアの方なんですか?」 「ああ、はい。そうですよ。水原誠です」 「ロシュタリアのどのような方です?」 「いえ。僕はただの従者ですよ」 誠は作り笑いを浮かべている。 「そうですか。分かりました」 兵士は去っていった。あたりには雨の音だけが響いている。誠は独り、複雑な思 いにふけるのだった。 「ああっ、いたいた。誠ちゃーん!」 「ああ、菜々美ちゃんとシェーラさん…」 気が付くと、菜々美とシェーラが誠へ向かって小走りに走ってきていた。 「もう、一体どこ行っていたのよ。探したんだから」 「いやー、ごめん。菜々美ちゃん」 「おう、誠。一体なにしてたんだよ?」 「え、ええと…。それはやなあ…。そのー…。(ファトラ姫のことは言わん方がえ えかなあ…)」 誠はとりあえず喋らないことにした。 「シェーラったらね、誠ちゃんのこと心配してんのよ」 「おい。誰が心配なんかしたかよ!? だいたいおまえだって心配してたじゃない か。ひょっとしてどこかで迷子になってるんじゃないかって」 「ま、迷子やて…。そんな訳ある訳ないやないか…」 誠は苦笑いした。菜々美とシェーラは赤くなっている。 「そ、それはいいのよ。もう。雨降ってきてるし、もう戻りましょうよ」 菜々美は誠の方に寄ってきて、誠の腕を掴んだ。 「あ、ああ。そうやね」 「じゃあ、シェーラももうさようならね。また明日会いましょ」 「お、おう。じゃあな」 菜々美はシェーラに手を振る。シェーラは軽く片手を挙げると、回れ右をして自 分に割り当てられている部屋へと戻っていった。しかしその仕草はどことなく名残 惜しそうである。 「さ、行きましょ。雨降ってるし、冷えるわよ」 「うん。そうやね」 誠と菜々美は部屋へと戻っていった。 夕方ごろ。ルーンが視察から帰ってきた。誠はファトラのことをルーンに相談し てみた。 「まあ。そうですか…。困りましたね」 「何とかなりませんか?」 「何とかと申されましても、偽物ということになっているファトラを一体どうやっ て牢から出すのですか。偽物扱いされているのでは、理由をでっちあげることも難 しいですわよ」 「そりゃそうでしょうけど…」 「偽物と見られている以上、何らかの犯罪を犯すつもり、もしくは犯していると見 られているはずです。こうなっては正体を明かすしかないと思いますが…」 「でもそれだとスキャンダルに…」 「それは承知の上ですわ。しかしやむを得ないことです」 「はあ…。あの、僕でよかったら手伝いますから、何とかなりませんか? ファト ラ姫は、方法がない場合は脱獄すると言っていますよ」 「誠様が手伝って下さると仰いましても…。それにいくらなんでも脱獄なんて無理 でしょう…。一応今晩方策を考えてみますわ。なんとかうまくいく方法を考えまし ょう」 「はい。お願いします。ああ、それとこのことは黙っていた方がいいでしょうか?」 「ごく親しい人になら構いませんわよ」 「分かりました」 ルーンは難しそうな顔をしている。実は誠も、正体を明かす以外にまともな方法は ないと考えているのだった。誠はルーンにお辞儀すると、部屋を出た。 夜。雨はやみ、あたりはすでに暗くなっている。月明りの中、誠と菜々美は王宮 内を散歩していた。今は表側の庭にいる。ちょうど通路を挟むようにして池が造っ てあり、水路にかかっている橋の上にいるのだ。 「雨が降ったおかげで空気が澄んでいるわね」 「うん。そうやね」 ちょうどその時、誠たちの様子を見ている人影が木の植え込みの中にあった。シ ェーラである。 (ああ、もう! あいつら何やってんだ。菜々美のやつ一体どういうつもり何だろ う…) 「ところで誠ちゃん、昼間は本当に何してたの?」 菜々美は橋の手すりに手をかけて、きらきらと月光を反射している池の水面を見 ながら喋った。 「ん、ああ。それはやなあ…」 誠は菜々美の方へ近寄ろうとする。刹那、植え込みの中から突然人影が飛び出し た。それは大きく跳躍して誠の方へ向かってくる。誠の後頭部を素早い風のような 物が通り抜ける。誠は歩いていたため、これには接触しなかった。 「なっ、なんや!?」 人影はいったん地面に着地すると、再び誠の方へ飛び掛かってきた。人影の手許 には何か光を反射する物が握られている。細身のナイフのようだ。 「菜々美ちゃん、危ない!」 「えっ、何!?」 菜々美は何が何だか訳が分からない。人影は誠をめがけて再び攻撃してきた。ナ イフの鋭い刃先が誠の喉元めがけて突き刺さろうとする。誠はこれをほとんど転倒 するようにしてかわした。 「きっ、きゃあああぁぁっ!!」 ようやく状況を理解した菜々美が悲鳴をあげながら、後退する。誠は地面にひざ まずいているため、素早く動くことができない。人影はナイフを持ち直すと、誠の 背中に突き立てようとする。 「危ない! 誠っ!」 しかしその直前にシェーラが飛び出してきた。人影に体当たりをして、跳ね飛ば す。地面の上に人影が叩きつけられ、月明かりでその姿が露になった。黒い戦闘服 に身を包み、顔をフードで隠した誠と同じくらいの背丈の人物だ。性別は分からな いが、どうやらスタッパーのようだ。 「シェ、シェーラさん。何でこんな所に…」 「うるせい! さっさと逃げな!」 スタッパーは素早く立ち上がると、さらに向かってきた。シェーラはそれに応戦 する。誠は立ち上がると、菜々美の方へ走って、菜々美をかばうようにした。 「菜々美ちゃん、大丈夫?」 「わ、私は大丈夫だけど、シェーラさんは…」 誠はシェーラとスタッパーの方を見た。二人は派手な立ち回りを演じている。 「うわあっ!」 スタッパーはシェーラの腕をとると、軽々と持ち上げ、投げ飛ばした。そうして からスタッパーはまた誠の方へ突進してくる。ナイフを前に突き出して、誠の喉を えぐろうとする。 (避けたら菜々美ちゃんに当たる!) とっさにそう判断した誠は、スタッパーのナイフを持っている手を掴もうとする。 しかし完全に掴むことはできなかった。ナイフの刃が手の皮膚に押し付けられる。 しかしそれに構わず、誠はスタッパーの腕を無理矢理下の方へずらしながら捻りあ げようとする。手に鋭い痛みを感じるが、それどころではない。しかしスタッパー は誠の脇腹に蹴りを入れると、誠を転倒させた。誠の手から出血した血が地面に点 々と赤い跡を作る。 「うわあっ!」 「きゃああっ!!」 「誠っ!」 シェーラはスタッパーにもう一度体当たりを喰らわせる。スタッパーはえび反り になって、うつぶせに転倒した。シェーラはスタッパーの背中に向かって炎を出し ながら全力でパンチを入れる。烈火が背中を焼き、肉の焦げるにおいがする。しか しスタッパーは跳び起きざまにシェーラに蹴りを入れると、猛烈な勢いで逃げてい った。 「誠、大丈夫か!?」 「な、なんとか大丈夫です」 「そりゃよかった…って、お前血が出てるじゃないか!」 シェーラは誠を助け起こしてやる。スタッパーを深追いすることは避けた。 「いえ、この程度大丈夫ですよ」 「ご、ごめん、誠ちゃん…。私のせいで怪我させちゃって…」 「いいんややよ。でも今のは何やったんやろうか…」 「あれはスタッパーっていって、暗殺者の一種だ。もっとも正確には違うがな。お 前狙われるようなことでもしたのか?」 「そんな心当たりはないですよ」 「理由もなくスタッパーに狙われるなんてことがあるもんか」 「でも本当に知りませんよ」 誠の手からは血がだらだらと滴り落ちてきている。菜々美は誠の手をとると、怪 我の具合を診てやった。怪我そのものは皮膚を切っただけのようだ。シェーラは誠 の傷から、それがナイフを受け止めてできた傷だということを察した。 「菜々美に当たりそうだったから誠が受け止めたのか?」 「せやかて僕が避けたら菜々美ちゃんに当たりそうやったから…」 「そうか…。でもそれでもしナイフに毒でも塗ってあったらどうすんだよ!?」 「…そこまでは考えてなかったな…」 「ごめんね。誠ちゃん…。すぐに手当しないと」 「あ、うん…」 誠たちは自分たちの別館の方へ向けて歩きだした。シェーラは気難しそうな顔を している。 (もし誠の後ろにいたのが菜々美じゃなくてあたいだったら…、誠はナイフを受け 止めただろうか…。いや、だいたい何で菜々美のために…) 「誠…」 「なんですか、シェーラさん」 「あたいはちょっとさっきのやつのことを調べてくるよ。じゃあな」 「あっ、シェーラさん!?」 シェーラは挨拶もほどほどに、どこかへ走っていってしまった。