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第4章 それぞれの刻
エランディア王宮内でも奥の方にある一室。広く、絨毯が敷かれている。窓には カーテンがかかっており、外からの光を遮るようになっている。もっとも夜だから 光など入ってはこないのだが。部屋の主は若い、どことなく影のある女性だ。病気 ではないかと思えるほどの白い肌と華奢な体をしており、やわらかい銀髪に指を絡 ませながら何やら葉巻のような物を吸っている。葉巻からは紫煙が出ていた。 何者かが部屋の扉を叩く。彼女はどこかうつろな目をいったん扉の方にやってか ら葉巻の火を消し、それに応じた。 「入ってらっしゃい」 「はい、母様」 扉を叩いた主、リースはゆっくりと扉を開け、しずしずと部屋の中に入って来る。 目の前には大きなベッドがあり、そこには部屋の主が寝転がってリースを見ている。 彼女は体を起こすと、腕をリースに向かって差し出した。リースはその手を取ると、 ベッドに腰掛ける。 「もうすぐ戴冠式ね。心の準備はできてる?」 「はい。大丈夫…」 「そう…。いい子ね」 「母様、みんなは私のことをよく思ってないみたい。どうしてなのかな…。私は何 もしていないのに、どうして嫌われちゃうんだろう…」 リースは涙で目を潤ませる。部屋の主はリースを腕で引き寄せると、胸の中に抱 く。リースは母の匂いを感じると、そっと目を閉じた。 「あなたは何も悪いことはしていないわ…。がんばっていればいつか必ずいい結果 が出るわ…」 「うん…」 (そう…。悪いのはあいつらなんだから…) 彼女はリースがうなずくのを確認してから、心の中でそう付け加えた。 「さ、疲れているでしょ。眠りなさい。子守り歌唄ってあげる」 「うん…」 彼女はリースをそっとベッドに寝かせ、自分もその隣に横になる。もっとも15 にもなる娘に子守り歌などないようにも思われるが。 「いい子ね…。ゆっくりと…お休みなさい…」 彼女はリースが寝付くまで子守り歌を唄ってやった。 「ルルシャ様、よろしいでしょうか?」 「入ってらっしゃい」 「失礼します」 扉を開けて若い女が入って来た。年の頃は26。部屋の主より一つ上だ。こざっ ぱりとした感じの服を着ており、顔はまったく無表情。そのせいか、彼女全体から は硬質な雰囲気が発散されている。 「官僚のまとめ上げの作業は予定よりも遅れておりますが順調です。リース様が即 位なされればすぐにでも稼動可能かと思われます」 「そう。さすがに手際がいいわね」 「恐れ入ります」 「う…。ふふ…」 部屋の主は彼女の表情があまりにも無表情なので、薄笑いを浮かべた。口許が見 えないように手で隠す。 「ニーナ、あなたっていつもそうね。どうしてそんなに無表情なの? もうちょっ と表情豊かになりなさいよ」 声はあくまでもゆっくりと、穏やかに、抑揚がなかった。 「私はルルシャほど気楽に生きてはいない…」 それに対してニーナと呼ばれたその女性はぶっきらぼうに答える。 「失礼ね。私たち仲間じゃない」 「昔はね…」 「今でもそうでしょう?」 「さあ…」 「私あなたのそういう所好きよ…。でもこの子は何て言うかしら…」 ルルシャは自分の隣で眠っているリースを目で指した。 「愛しているの?」 「何を?」 「その子を」 「…そうね…。ときどき殺してやりたくなることがある。でも唯一血がつながって いる。私にとっては大切なものよ。この子がいたからここまで来れたんだから…」 「そう…」 ニーナはリースを邪気の篭った目で見た。 「さ、藤沢様、遠慮なさらずにどうぞ」 「いやー、すみませんねえ…」 「いえいえ。遠慮なさらずに。さあさ、もっとどうぞ」 「では、お言葉に甘えて」 藤沢はミーズたちの別館で酒を飲んでいた。ミーズは藤沢に際限なく酒を飲ませ る。その隣ではアフラがちびちびと酒をやっていた。 「けれども、ほんに、シェーラはどこに行ったんでっしゃろなあ。あの娘が酒を飲 まへんなんて、悪いことでも起こるような予感がしてなりまへんわ」 その時、突然部屋にシェーラが入って来た。 「おう。今帰ったぜ」 「今までどこほっつき歩いていたんどすか? 酒があるって分かっていたでおっし ゃろ? 体の調子でも悪いんどすか?」 アフラは立て続けに質問する。それには答えず、シェーラはどっかと床に座ると、 盃を取って酒を注ぎ始めた。 「そうそう。それが一番あんさんらしいわ。さ、どんどんやりなはれ」 「うるせいなあ! どうしようとあたいの勝手だろうが!」 シェーラはアフラを怒鳴りつける。アフラはその剣幕に驚いてしまった。 「そ、そらあんたの勝手どすな…」 シェーラは鼻を鳴らすと、酒を一気にあおった。 (まったく…。なんでえ、あいつら…) 「大丈夫、誠ちゃん?」 「ああ。大丈夫や、菜々美ちゃん。おおきに」 自分たちの部屋がある別館へ戻った後、菜々美は誠の怪我を手当てしてやってい た。 「これでいいわ」 菜々美は誠の包帯を留めながら言った。 「うん。おおきに」 「でもあれ、本当に何だったのかしらね」 「シェーラさんはス夕ッバーって言ってたけど、暗殺者みたいやね」 「みたいやねって、どうして誠ちゃんが狙われなきゃならないのよ。誠ちゃんそん な狙われるようなことでもしたの?」 「うーん…、あんまし覚えがないなあ…。あ、でも全くないことは…」 誠はリースのことを思い出した。ひょっとしたらあれと関係あるかもしれない。 「何? 何か心当たりでもあるの?」 「うーん、とりあえずルーン王女様に相談してみようやないか」 「そうね。それがいいわ。じゃあ私呼んでくるから、誠ちゃんはここで待っててね」 「うん。分かった」 菜々美は立ち上がると、部屋から出ていった。 しばらくすると、ルーンを連れて菜々美が戻ってきた。ルーンは心配そうな顔を している。 「誠様、命を狙われたというのは本当なのですか?」 「え、ええ。まあ、その、シェーラさんがいてくれたおかげで助かりました」 誠は意味もなく笑う。ルーンは包帯を巻いている誠の手を取った。 「怪我をされているじゃないですか。大丈夫なんですか? シェーラ様には後でお 礼を申し上げなければなりませんわね」 「でも誠ちゃんは何で命を狙われたりしたのかしら」 「そうですわね。何か心当たりはありますか?」 「心当たりといっても、ここの王女様に偶然会ったことくらいしか…。何でもここ の王女様はあまりよく思われてないそうですね」 「そうですか…。誠様、よく聞いて下さい」 ルーンは急に改まる。誠は不思議そうにそれを見た。 「エランディアの王室では最近不穏な噂がたっています。先代の王が亡くなり、王 位を継ぐはずだった王子も最近亡くなられてしまい、そこで代わりにリース王女が 王位を継ぐことになりました。リース王女は官僚の整備を進めておりますが、官僚 の間には動揺が広がっており、中には野心に燃えている者もおります。ひょっとし たら誠様はそれに巻き込まれたのかもしれません」 ルーンの言葉を聞いて、誠はびっくりした。 「ええっ! それって大変なんじゃないですか!?」 「そういうことになりますわね…」 「なりますわねって、どうしたらいいんですか…?」 「おそらく誠様は何か重要なことを知ったために、口封じの目的で命を狙われたの でしょう。知っていることを誰にも言わないようにして、じっとしているのがいい と思います」 「はあ、そうですか…」 「大変なことになっちゃったわね」 「誠様はこれからはいつも女装していて下さい。ファトラを装っている限り、命を 狙われることはないと思います。それとリース王女と何を話したのか教えて頂けま すか?」 「はい。分かりました」 誠はできるだけ平静を装いながら、リースと話したことを話し始める。しかし内 心は気が気でなかった。 「そうですか…。野心家の宰相がいると…。分かりました。私の方は何が起こって いるのか調べてみましょう。警備に関しては強化しておきます」 「はい。すみません」 「では私はこれで失礼します。おやすみなさいませ」 「はい。お休みなさい」 ルーンは部屋から出ていった。 「じゃあ僕たちももう寝ようか」 「そうね。そうしましょ。あ…でも…」 「ん、なんかあるんか?」 「その…スタッバーって、また来ないかな。狙われてるのは誠ちゃんだけど、私も 顔見られてるし、大丈夫かな…」 菜々美は心配そうに手を口許へやる。 「うーん…、ちょっと分からへんなあ…。でもそうすると、シェーラさんも危なく ないかな…」 「あの人はもし襲われても戦えるんだから、大丈夫じゃないの?」 「そうかなあ…。うーん、じゃあ僕の部屋で寝るとええんやないかな。あそこはフ ァトラ姫の部屋ということなっとるし、安全やと思うで」 別に何か下心がある訳でもなく、菜々美を巻き込んでしまったことを後悔しての ことだった。もっとも誠に非があるかというと、そういう訳でもないのだが。 「うん…。じゃあそうするわ。でもいやらしいことしちゃだめよ」 それが一番安全だろうということで、菜々美は同意した。言葉の最後の方は顔が 笑っている。 「な、何言うてんのや、菜々美ちゃん…」 誠は苦笑した。 誠と菜々美は誠の部屋に来た。もっとも誠の部屋といっても形式上はファトラの 部屋ということになっている。襲われたのは“誠”であるから、“ファトラ”であ れば襲われることはないだろう。 「じゃあ菜々美ちゃんはベッドで寝て。僕はソファーで寝るさかい」 部屋にはベッドが一つしかない。あとは昨日アレーレが寝ていたソファーと椅子 があるだけだ。誠はファトラの寝間着に着替えるとカツラを被って、ソファーに寝 る準備を始める。スタッバーに狙われている以上、誠はしばらくの間は自分を葬り 去らなければならない。 「あ、誠ちゃんベッドで寝ればいいじゃない。私ソファーで寝るから。それにだい いち、王女がソファーで寝てるなんて不自然よ」 「え、でも…」 「…あ…。その…」 二人とも次の言葉が出ない。お互いに立って向かい合ったまま、気まずい沈黙が しばしの間流れる。沈黙を破ったのは誠だった。 「…その…。…僕はええんやよ。気にせんといて…」 「…え…でも…。その…じゃあ…い、一緒に寝る…?」 視線をそらしながら誠は喋る。それに対して菜々美は赤くなりながら答えた。ベ ッドは貴族用の仕様の物なので、かなりの大きさがある。 「えっ…。いや、菜々美ちゃんの好きにしてええんやよ。僕はソファーでええんや で」 「その…」 さらに沈黙が流れる。今度は菜々美が沈黙を破った。 「ううん。一緒に寝ましょ」 「ええの? 僕はええんやで」 「ううん。私が押し掛けてきちゃったんだもん。構わないわ」 「そ、そう…。じゃあ寝よか…」 誠はぎこちない動作でベッドに近づく。 「あ、その…。私ちょっとシャワー浴びてくるわ」 「え、あ、そう?」 菜々美はぱたぱたとシャワールームへ向かった。誠は菜々美の後ろ姿を見送ると、 ベッドの上へ腰を降ろす。そしてごろんと寝転がった。手の怪我はまだちょっと痛 むが、それ程ではない。 (菜々美ちゃんがあがったら、僕もシャワーを浴びよう…。そういえばアレーレが あれから姿を見せてないな。どこいったんやろう…。ファトラ姫は結局牢の中で一 夜を過ごすことになった訳やけど、アレーレが心配やなあ。変なことにならんとえ えんやけれど…) シャワールームからの水の音を聞きながら、誠はそんなことを考える。 (それにしても一緒に寝てええんかなあ…。こんなこと初めて…いや、昨日ファト ラ姫としたか…。その前にもアレーレとしとるな…。でもファトラ姫やアレーレと 菜々美ちゃんは違うからなあ…。やっぱり一緒に寝るなんていわん方がよかったか も…。でも形の上ではファトラ姫と菜々美ちゃんが一緒に寝ることになる訳やから、 同性愛……考えるのよそう…) 思考が別の方へ流れていきそうになったので、誠は考えるのをやめた。 しばらくすると菜々美があがってきた。 「あ、僕もちょっとシャワー浴びるわ」 「うん。いいお湯だったわよ。でも包帯はいいの?」 「大丈夫やて。じゃな」 誠はシャワールームに入ると、服を脱いでシャワーを浴びる。手の包帯は湯がか からないように気をつけている。誠はシャワーを水に切り替えた。冷たい水が体を 濡らし、冷やしていく。 「はあー、さっぱりしたで…」 誠はシャワールームから出てきた。 「あっ、誠ちゃん、包帯が外れてるじゃない。直してあげるわ」 「ん、ああ。頼むで」 誠の手の包帯は外れていた。もっとも実はこの包帯は外れたのではなく、誠が外 したのだが。菜々美は包帯を巻きなおしてやった。 「おおきに菜々美ちゃん」 誠と菜々美はしばらくすずんだ後、ベッドに横たわった。 いくらかの時間が過ぎた。誠と菜々美はお互いに反対側を向き合っている。 (うーん…。やっぱり寝付きにくい…。それにこの体勢も辛くなってきた…) その時、誠は菜々美が寝返りをうつのを感じた。 「誠ちゃん…」 「ん、何…。菜々美ちゃん…」 「手…。怪我させちゃってごめんね…」 「ええんやよ…そんなこと…。……あ…」 菜々美は誠の背中に寄り添うようにしてきた。しっとりとした暖かみと感触が背 中から伝わってくる。 「ごめんね…」 「ん…。うん…」 菜々美の吐息が誠の首筋にかかる。誠は菜々美の方へ寝返りをうった。 「あ…。やだ…。髪がくすぐったい…」 「えっ、ごめん…」 誠はカツラを着けているため、その髪が菜々美にかかっていた。 「いいのよ」 「ん…。うん…」 「藤沢様。藤沢様。どうなさったんです? もうお酒はよろしいんですか?」 「うーん…酒ぇ…」 「ちょっと、ミーズの姉貴、いくらなんでも飲ませすぎじゃないのか?」 「うーん、そうかしらねえ…」 藤沢はすでにぐでんぐでんに酔って、眠りこけていた。 「じゃあ、もう寝ましょうか。あなたたち、藤沢様を寝室に運ぶのを手伝って頂戴」 「ん、分かりました」 「仕方ないな…」 ミーズたちは三人で藤沢を抱えると、部屋を出た。 「で、どこに運ぶんだよ?」 「決まってるじゃないの。私の部屋よ」 「大方そうでっしゃろなあ…」 アフラはあきれる。ミーズたちは藤沢をミーズの部屋へ運んだ。 「さ、これでいいわ。じゃあ、あなたたち、おやすみ」 「おやすみ」 「じゃあな」 アフラたちは部屋から出て行った。ミーズはいそいそといろいろな準備を進めて いる。藤沢との既成事実を作るつもりらしかった。 次の日。朝。 「誠ちゃん、誠ちゃん、起きて…。朝よ」 「ん、んんっ…。あ、菜々美ちゃん…。おはよう…」 菜々美が誠の体を揺すっている。誠はゆっくりと目を覚ました。 「うん。おはよう」 「うん…」 誠は起きあがると、ベッドの横に座る。菜々美は誠のカツラを直してやった。 「じゃあ私自分の部屋に戻るからね」 「うん。じゃあな、菜々美ちゃん」 「じゃあね」 菜々美は自分の部屋へ戻っていった。誠はそれを見送ると、侍女が来るのを待っ て、ファトラの格好に着替えてから昨日と同じように会食室へ向かった。 会食室の扉の前では昨日と同じようにルーンと菜々美が待っている。しかし藤沢 はいない。 「ファトラ、ちょっと来なさい」 ルーンは誠の手を取ると、テラスの方へ連れて行った。 「誠様。おはようございます」 「おはようございます、ルーン王女様」 「昨晩は大丈夫でしたか?」 「はい。何もありませんでした」 「そうですか。それはよかったです」 ルーンは軽い安堵の表情を顔に浮かべる。 「そういえば、藤沢先生はどこにいるんですか?」 「藤沢様は大神官の方々の所にいます。昨日から戻っていらっしゃらないんです」 「は…。はあ。そうですか…」 どうせ酒でも飲んでいるのだろうと、誠は苦笑した。 「実はちょっと知らせたいことがあるの」 「え。なに? 菜々美ちゃん」 「それが、昨晩ある国から来た方が一人暗殺されました。誠様たちも危ない所でし た」 「ええっ!? それって…その…」 誠は突然のことにびっくりする。 「はい。おそらく誠様たちを狙ったのと同じ輩の者による仕業でしょう」 「もしシェーラさんが助けてくれていなかったら私たちも殺されていたんじゃない かしら。今思うとぞっとするわね」 「あ、その…。えらいことになりましたね…」 「夜も一緒にいてよかったわね。私ひやひやしちゃったわよ」 菜々美は心配そうな顔をしている。 「ん…。ああ。そうやね」 「菜々美様は誠様と一緒におられたのですか?」 「え、いえ。その…。ひょっとしたらまた狙われるかもしれないと思って、一緒に いたんです」 菜々美は誠と一緒にいたことを適当に言いつくろう。 「そうですか…。それはよい判断だったと思います…」 「はあ。どうも…」 「詳しいことは食事の後にしましょう」 「はあ…」 食事をとった後、誠たちは別室に集まった。 「事態は思った以上に深刻なようです。即急に解決しなければならないでしょう」 「はあ。僕はあんまり細かいことは分かりませんけど、大変なんですか?」 「それはもう。ロシュタリアが関係ないといっても、これは場合によってはエラン ディアの国家の危機になるやもしれません。そうなれば、ロシュタリアだって安泰 では済まなくなります」 「そうですか…」 「この件については私共の方で対処いたします。誠様は危険がないようファトラの マネをしていて下さい。菜々美様はあまり外を出歩かないようにして下さい。護衛 もつけることにしましょう」 「なんだか仰々しいことになってきっちゃったわね…」 「何か僕にできることはありませんか?」 「いえ。誠様は巻き込まれただけですし、こういうことは政治的な問題になってき ますので結構です。私にお任せ下さい」 ルーンはやや固い面持ちでこれを断った。 「そうですか」 「この件はここまでにいたしましょう。次はファトラに関する件なのですが…」 「なに。ファトラ姫がどうかしたの?」 「ああ。菜々美ちゃんにはまだ言ってなかったんやっけ。実はファトラ姫がここに 来てるんや」 誠は手を頭に当てながら喋る。菜々美はちょっと驚いたようだ。 「えー!? ファトラ姫来てたの。だったらなんでさっさと誠ちゃんと交代しない のよ!?」 「それがな、ファトラ姫は偽者と間違えられて牢に入れられてしまったんや」 「それって自業自得ってやつじゃない?」 菜々美はあきれた顔をした。 「まあそうかもな…。で、何とかファトラ姫を牢から出す方法を考えてるんや」 「あれからファトラを出す方法をいろいろ考えました。しかし合法的に出すことは 非常に困難です。ないことはないんですが、時間がかかりすぎます」 「じゃあ、どうするんですか?」 「脱走にみせかけるしかありません。そこで方法を考えたのですが…。誠様にご迷 惑がかかってしまう方法です。よろしいでしょうか?」 「はあ…。やっぱりそれしかないですか…。できる限りのことは手伝いますよ」 「ありがとうございます。方法なんですが、まず誠様とファトラをうまく入れ替え て、見掛け上は何も起きなかったように見せかけます。そうして誰もいなくなって から誠様が女装を解いて、ファトラが脱走したことにするんです。誠様はファトラ が脱走するのを見つけて、ファトラに気絶させられて牢に放り込まれたことにする んです。早い話が脱走を演出する訳です。私に思いつくのはこれが精一杯です。た だ誠様は命を狙われていますので、危険が伴ってしまいます。これについてはでき る限りバックアップ致しますわ」 ルーンはすまなさそうな顔をした。 「はあ。じゃあそれでいきましょう。他にいい方法もないですし…」 誠は苦笑する。 「すみません。誠様。ご迷惑ばかりおかけして…」 「いえ。いいんですよ」 「誠ちゃん、ほんとにそれでいいの? 私心配よ…。命狙われてるのよ」 菜々美は誠を心配そうに見つめる。 「大丈夫やて。ファトラ姫の方も早く助けんことには危ないしな」 「そうなの…。いろいろ問題が多いわね…」 「心配せんでええて、菜々美ちゃん」 「うん…」 「ではそういうことで実行致しましょう。公式の予定の方についてはなんとか調整 致しますわ」 「はい。ああ、それとアレーレなんですが、姿を見ませんでしたか?」 誠がアレーレを見たのは昨日の朝が最後だった。ファトラは牢にいるし、帰って こないので心配になっている。 「アレーレですか。私は見ておりませんが」 「そうですか…。昨日から姿が見えないんですよね。ひょっとしてアレーレも何か に巻き込まれたんでしょうか…」 「そうですか。ではアレーレも探してみましょう」 「すみません。お願いします」 「では誠様は準備をお願いしますわ」 「はい。分かりました」 「ああ…。退屈じゃ…。退屈で退屈でしょうがない…。このままではここから出る 前に退屈で死んでしまうわ…」 結局ファトラは一夜を牢の中で過ごしたのだった。固いベッドに横たわりながら、 あくびを一つする。 「いっそのことさっさと脱獄してしまおうか…。しかし警備がなあ…」 戴冠式が行われるということで、王宮の警備は厳しくなっていた。通常の警備な らうまくやりすごせるかもしれないが、今の状態ではそれは無理に思われた。へた に脱獄して、見つかったりすればそれこそその場で殺されてしまうかもしれない。 それはいくらなんでもリスクが高すぎる。 「あー、酒と美少女がない夜というものがこうもつまらん物だったとは…。わらわ は産まれて初めて知ったぞ」 これはちょっと極端な発言だが、ファトラにとって酒と美少女がない夜というの は夜とは定義されないという意味だ。何もしない時でも美少女に膝枕させたり、酒 を注がせたりしている。 「まったく。わらわをこんな目に遭わせるとは、実に腹立たしい」 もとはと言えばファトラのせいなのだが、そんなことはファトラにとっては関心 のないことだ。もっともそれくらい神経が太くないことには王族などとても務まっ たものではない。 「誠のやつはちゃんと方策を考えておるのじゃろうな。まさかあいつのことだから、 放っておくということはないじゃろうけど…」 その時、牢の外で足音がした。ファトラは足音の方へ意識を集中する。足音は三 つ。誠の物ではないようだ。 「こやつが昨日捕まえたファトラ姫の偽者でございます」 「うむ。さがってよい」 「はっ」 一つの足音が遠ざかって行った。 「ん。なんじゃ…」 ファトラは起き上がると、格子の方へ向かって立つ。格子の向こう側には男と女 が一人ずつ立っていた。男は中年くらいで、立派な身なりをしている。女の方は若 く、こざっぱりとした衣装を着ていて、無表情。おそらくはこの国の官僚クラスの 人間だろう。二人は格子を通してファトラをしげしげと見つめた。 「なるほど。これは凄いな。信じられないほどよく似ておる」 「まさに生き写しでございますね」 「うむ。ここまでくると恐いくらいだな」 当然のことだ。何と言ったって、こっちが本当の本物なのだから。しかし彼らは 当然のごとくファトラの偽者だと思っている。 「なんじゃ、そなたたちは?」 ファトラは硬調な態度で二人に向かって問いかける。するとその二人はますます 感心したような顔をした。 「ほほう。見事だ。何もかも寸分の狂いもない」 「私もここまでとは思いませんでした」 「なんのつもりじゃ。見せ物ではないぞ」 ファトラはやや気を悪くする。しかしどうやらファトラがいろいろと振る舞えば 振る舞うほど彼らは感心するようだ。 「ふふ…。これはいい。よし、ニーナ、出してやれ。私の部屋へ連れてこい」 「はい。分かりました」 「うむ」 男はそれだけ言い残すと、去って行った。女は警備の兵に牢を開けるように命令 している。 (わらわを牢から出すのか…。どうやらおもしろいことになってきたな…。それに してもなかなかそそる女じゃな…。機会があれば懇ろになってみたいものじゃ…) ファトラはニーナの美しさの方にも興味があるようだ。ニーナが年上だからとい って怯むようなファトラではなかった。 ファトラは牢から出されて縄をかけられ、連れていかれる。しかしファトラはそ の顔に不敵な笑みを浮かべていた。それはニーナに対してなのか…、これから起こ るであろう出来事に対してなのか…。