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第7章 計画の誤差
ファトラは顔が分からないようにフードを被り、ニーナに連れられて会議室のそ ばの部屋に入った。どうやらいくつかある小会議室の内の一つのようだ。向こうの 会議室の方にはすでに各国の王族たちが集まっている。 「ここで待っていて下さい。会合が終わったら呼びに来ます」 「うむ。分かった」 ファトラは適当な椅子に腰掛けると、フードを脱いで言った。 「よろしいですか? ファトラ王女の隙を狙って入れ換えを行います。細かいこと は私がやりますのでご心配なく。後はあなたの演技力次第です」 「分かった。任せるがよい」 「それは安心です」 ニーナは相変わらず無表情にかつ事務的に言う。これが彼女の雰囲気を近寄りが たい物にしていた。もっと友好的ならば人好きが良かっただろうに。 「ところでこれが終わったあかつきには一諸に一夜を明かしてみないか?」 それを茶化すかのように、ファトラはニーナの手をそっと掴むと、両手でさすり ながら言った。ニーナは一瞬嫌悪を感じたが、すぐに気をとり直した。 「うまくいきましたら招待してさしあげましょう」 「それは残念」 ファトラはニーナから手を放すと、全然残念という感じはなしに言った。 「どういう意味ですか?」 「いや。気にせんでくれ」 ニーナは釈然としない様子だったが、それ以上聞こうとはしなかった。ファトラ の真意など知る由もない。 「では私は会合に出席しなければならないので、これで」 ニーナはそれだけ言うと、部屋を出ていった。後にはファトラだけが取り残され る。ファトラは実に楽しげで、悪戯っぽい、邪気の篭った顔をして、誰に言うでも なくつぶやいた。 「ふふ。ひさしぶりにおもしろいことに出くわしたもんじゃな。ま、せいぜい楽し ませてもらうとするか…」 会議室内。エランディアが主催ということで、中央に相当する場所にはリースが いる。そしてその隣には会合の司会、及びリースの補佐を担当するべくニーナがい た。 「では次の議題。同盟の予算運用について。現在の予算運用の状態は----」 ルーンと誠扮するファトラは会合をそつなくこなしている。誠はちらりとニーナ を見た。固い表情と事務的な雰囲気。この特徴は出席しているほとんどの人間にい えることだが、彼女の雰囲気だけはやや違っていた。近寄りがたい雰囲気の中にど こか物悲しげな感じがするのだ。 リースの方はというとこれは王女の顔をしている。ただどこかしらはりぼてのよ うな初々しさがあり、落ち着きにかけていた。やたらとニーナとひそひそ話をして いる。肩がこっているらしかった。 王族という稼業もしんどいものだと誠は思った。 かなりの時間が経った頃、ようやくどやどやと足音などが聞こえてきた。会合が 終わったのだ。 「よし。外に出よう」 ニーナが迎えに来るのを待つまでもない。ファトラは再びフードを被ると、部屋 を出た。そもそも、ファトラがこんな長い時間を待ったということ自体が奇跡のよ うなことだった。クロノドールの悪事を暴くという“遊び”がなかったら、すぐに 部屋を出てしまっていただろう。 会合はすでに終わっており、会議室からは人が出てきている。人ごみの中にはル ーンや女装した誠の姿があった。ファトラはニーナの姿を探してあたりをややうろ つく。 ほどなくしてニーナの姿を見つけた。通路の角を曲がった向こうの方の扉から出 ようとしている所だが、何者かに呼び止められているらしい。ファトラは興味を引 かれ、気づかれないように忍び足で声の聞こえる所まで近寄った。 「ねえ、ねえや。どこ行くの?」 ニーナを引き留めていたのはリースだ。リースはニーナの服の裾を掴んでいる。 会合の間、ニーナはリースと一諸にいたのに、会合が終わった途端、ニーナがどこ かへ行こうとするので、リースが引き留めたのだ。 ニーナは困惑した様子でリースを見ていた。 「あっ、いえ。その…」 ニーナはしどろもどろになりながら答える。リースは不思議そうにニーナの顔を 覗き込んだ。 「トイレ?」 「あ…そう…。トイレです」 ニーナはできるだけ平静を装って答える。リースは悲しそうな顔をした。 「ねえや私が逃げたことまだ怒ってるの? 謝ったじゃない」 ニーナはそれを聞いて辛そうな顔をする。体を屈めると、手でリースの頬を撫で てやった。リースはやや目を細めてそれに従う。 「リースちゃん、その件は私の方で処理しておいたから。それに別に怒ってなんか いないよ」 ニーナの声はしんみりとやさしい。リースは頬のニーナの手に自分の手を添えた。 「誰かが私の命を狙っているの。逃げないと殺されちゃう…」 ニーナはリースをそっと腕の中に抱いた。リースはニーナの胸元に顔を埋める。 「誰もリースちゃんを狙ってやしないから。心配しないでいいの」 ニーナの顔には罪悪感が滲んでいる。ファトラはその表情にどこか共感する物が あった。 「うん…」 ニーナはリースを離す。リースの目は潤んでいた。ニーナは目尻の涙を指先でそ っと拭ってやる。 「じゃあ私は用があるから」 「うん。早く帰ってきてね。後でお茶にしよう?」 「うん」 ニーナはリースの首筋にそっと触れると、ファトラのいる方に小走りで歩き始め た。リースはニーナとは反対の方向に歩いていく。 いくらか歩いた所でようやくニーナはファトラの存在に気がついた。それまでは ファトラは置物の影になって見えなかったのだ。ニーナは目を白黒させていたが、 すぐに我に帰ると、ファトラの方に近寄ってきた。 「シャ、シャノンさん。何であなたがここにいるんですか?」 ニーナは努めて平静を装っている。しかし目尻がわずかに吊り上がって、ファト ラを睨みつけていた。ファトラはそれを見て薄く笑う。 「その顔もなかなかそそるぞ」 ファトラの返答にニーナはさらに目尻を吊り上げ、唇を噛んだ。丸い肩を精一杯 怒らせている。ファトラはそれを見てしてやったりという表惰をした。自分の心の 内を隠すためだ。ファトラはさっきのニーナに共感しているということを悟られた くなかった。 「ふざけないで下さい。……まあいいです。行きますよ。早くしないとファトラ王 女が行ってしまいます。別の道で先回りしますから」 気を落ちつけたニーナはファトラを先導して走り始める。ファトラはそれに遅れ まいとついていった。 ニーナはいつものように事務的な様子でいる。ファトラはそれを見ながらさっき のことを考えていた。 (さっきのは演技だったのか? それにしては妙にリアルだったが…) ファトラはリースを抱いてやった時のニーナの表情が気になっていた。悲しげな 表情だった。ファトラはそれが演技によるものではないと心のどこかで感じていた。 (そうじゃ……わらわもあんな顔で見られたことがある…。試しにひとつカマをか けてみるか…) ファトラは慎重に言葉を選ぶと、ニーナに話しかけた。 「そなた本当はどちらの味方じゃ? リース王女か? クロノドールか?」 それを聞いてニーナは一瞬ばっとファトラの方を見たが、すぐに再び前を向いた。 「…………」 ニーナは何も答えない。ただ、いまいましそうな顔をして走っているだけだ。し かし何がいまいましいのかまでは分からない。 ファトラは何とか情報を聞き出す方法を考えるが、そうこうしている内にニーナ が歩を緩めて立ち止まった。ニーナの視先の先をファトラも見ると、そこにはルー ンと女装した誠の姿がある。二人は談笑しながら歩いていた。 ニーナは気づかれないようにゆっくりと尾行を始める。ファトラもそれに従った。 しばらくすると、誠がルーンとは別の方向へ小足りで歩き始めた。どうやらトイ レらしい。ニーナはここぞとばかりに走ってトイレヘ先回りする。 誠が来るよりやや早くトイレの前へ到着したニーナは素早くあたりの状況を確認 する。後からついてきたファトラ以外誰もいないことを確認すると、ニーナは適当 な置物の陰に隠れる。置物は巨大な壷で、花がいけられており、隠れるには充分だ。 ファトラもそれにつられて壁に隠れた。 少し遅れて、誠がやってくる。かわいそうに、誠は何も知らない。テロのニュー スを聞いて、ファトラはすでに助け出されたものと思い込み、肩の荷が降りた心地 で、ファトラと対面するつもりだった。それがまさかこのようになるとは…。 誠がトイレの入口に立った瞬間、ニーナが置物の陰から飛び出して、誠の口と鼻 を手で塞いだ。手には何やら布きれのような物がある。誠は突然のことに驚いて、 じたばたと暴れるが、ニーナは渾身の力でそれを押さえつける。布きれには薬が染 み込ませてあるらしく、誠は虚ろな目をすると、まもなくおとなしくなった。 (ニーナの奴、なかなか手際がいいな) ニーナは誠がぐったりしたのを確認すると、誠から手を放して床に置く。それま でじっと傍観していたファトラがそこへ歩み寄ってきた。しゃがみ込むと、誠の鼻 先へ手をやる。 「気を失っただけです。生きています」 ニーナはファトラの疑問を正確に汲み取ったらしく、布きれを懐にしまいながら 答えた。それを聞いて、ファトラは眉一つ動かすことなく立ち上がる。 「ファトラ王女と服を取り替えて下さい」 ニーナはいつものように事務的に言う。誠は公式の衣装を身に纏っており、ファ トラは普段用の服を着ていた。ファトラは周囲をやや見回して、疑問を口にする。 「どこで着替えるのじゃ?」 「さっき私が隠れたそこの陰でいいでしょう」 ニーナはつっけんどんに答えた。ファトラは口許を歪め、ニーナを陰鬱な目で睨 んで不満を示す。しかしニーナの表情が変わらないのを見てとると、やむなく置物 の陰に入って服を脱ぎ始めた。 「わらわがこのような辱めを受けようとは…」 顔をやや赤らめて、半ばやけくそになりながら脱ぐ。しかし早く作業を終えなけ ればニーナが怪しむかもしれない。場所を変えろだの文句を言ってもいられなかっ た。 上着を脱ぐと、手や脚の肌が露になる。シチュエーションがシチュエーションな だけに、羞恥が激しい。いくらその手の趣味があるからと言って、見られることに 慣れている訳ではないのだ。 一方、ニーナの方は誠を壁の方へ引きずって、誠の服を脱がせ始めている。ファ トラは誠が男だということがばれやしないかとひやひやしたが、着替えるのは上着 だけなので、何とかばれずに済んだ。 ようやく着がえが終わり、ファトラは公式用の服に。誠はファトラの普段着に着 がえていた。ニーナは誠の腕を掴んで、背中にしょおうとする。ファトラはそれを 手伝ってやった。 「急いでルーン王女の所へ行って下さい」 「分かった」 ファトラは小走りでルーンの所へ向かう。ニーナは誠をしょったまま、別の方へ 向かった。 ファトラがルーンのいた所に戻ると、ルーンはすでにいなかった。どうやら誠は 先に行ってくれるように頼んだらしい。きっと割り当てられている別館に戻ってい るのだろうと、ファトラは別館に行くことにした。 外に出て、別館への道を進む。と、息をせききって走ってくるいくつかの人影を 見つけた。それはちょうどファトラが向かおうとする方向からやってくる。そして 次第にはっきりとしてきた。 「おお、姉上!」 人影はルーンとシェーラたちだった。ファトラも小走りでそちらへ向かう。やが て落ち合った。 「ファトラ!」 「姉上!」 「ファ卜ラ様ぁ!」 ルーンは長年ファトラと暮らしてきた経験から、自分の目の前にいるのが本物の ファトラであると見て取ると、ファトラを抱きすくめた。アレーレもファトラに抱 きつく。 「ああ、よかった…。一時は人質にされたのではないかと思ってました。戻ってき て本当によかった…」 ルーンの目は潤んでいる。彼女は手でファトラの頬などを撫でて感触を確認した。 ファトラは申し訳なさそうにルーンを見る。 「ちょっと、誠ちゃんはどこ!?」 菜々美はルーンが再会をいつくしんでいるのも構わず、問いかけた。 「そ、そうです。ファトラ、誠様はどこにいらっしゃるのですか?」 ルーンもようやく我に帰って、ファトラの両肩を掴んで問いかける。 「誠ですか。誠ならこの国の宰相の所におりまする。アレーレから事情を聞いてお りましょう。誠と入れ替わったのです。宰相は誠のことを本物のわらわと思ってお りますゆえ、誘拐の罪で破滅させましょう」 ファトラは周囲に聞かれてはまずい人間がいないか確認し、小声で話した。 「え、でも宰相は殺されたと聞きましたが…」 「いえ。わらわもよく分からないのですが、確かに生きています」 「そうですか…。それが実は、誠様は命を狙われているのです。狙っているのはお そらくその宰相だと思います。誠様が危険です」 「なんですと、誠が…。…いえ。ばれなければ大丈夫です。忙ぎましょう」 ファトラは一瞬驚いたが、すぐに冷静な顔に戻った。もし誠の正体がばれれば、 宰相を破減させることができなくなり、同時に誠の身も危なくなる。事は一刻を争 った。 「分かりました。すぐに宰相の悪事を暴きましょう」 ルーンは意志のこもった声で言うと、やさしく微笑んだ。ファトラも微笑み返す。 ルーンはこういう時ファトラをとても頼もしく感じた。 ルーンたちはなし崩し的について来た大神官たちを引き連れて、王宮の警備隊長 の所へ向かっていた。偽物ということになっているファトラと、本物のファトラと いうことになっている誠を証拠にして、宰相を捕らえてもらうためだ。 ファトラは意気揚々と歩いていく。確実な証拠----偽物だが----がある以上、絶 対に宰相に言い逃れはさせないつもりだ。誠にはねぎらいの言葉をかけてやらない といけない。アフラやミーズは久し振りに燃えるらしく、真剣な顔つきをしている。 菜々美とシェーラは腑に落ちない物があった。不可抗力とはいえ、誠が危ない目 に遭っていることがいまいち納得いかない。ファトラの責任を追及したい気もある が、ファトラにどの程度の責任があるのか定かではない。それにルーンが誠のこと をどの程度心配しているのかも疑問があった。そして菜々美とシェーラはルーンほ どことなかれ的な思考には慣れていなかった。ルーンにしてみれば、細かい経緯ま で気にしている余裕はなかったのだ。ルーンにあるのは、宰相の悪事を暴けば誠も 自動的に助かるという試算だった。頭の中のシミュレーションから、宰相が誠を人 質にして逃げる可能性は低いと考えていた。そんな稚拙な方法では失敗することが 目に見えているし、それくらいは宰相も分かっていると考えたからだ。 では誠が酷い目に遭っている理由はというと、それは単に彼の運----幸運、不運 に関わらず----だったのだ。もっともファトラが誠を影武者にし、ファトラが偽物 と間違えられたからこそ宰相の悪事が露見したのであって、二人のお手柄とも言え た。 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ 誰かが体を揺すっている。誠はそれをけだるげに手で拒んだ。しかし誰かはめげ ずにさらに揺すってくる。それに何やら声も聞こえる。どうやら起きろと言ってい るらしい。 「う…うぅん…。…あれ…ここは…」 誠は重い瞼をゆっくりと持ち上げた。最初に目に入ったのは模様の入った天井。 あたりを見回すと、見たこともないような場所にいる。そして脇には男性と女性が 一人ずついた。女性はどこかで見覚えがあった。たしかさっきの会合の時、リース 王女の隣にいた女性だ。どこか近寄りがたい雰囲気が印象的だった。 男が口を開いた。 「これはこれは。お目覚めですか、ファトラ王女。私はこの国、エランディアの宰 相のクロノドールめにございます」 ここは王宮本館の奥にある客室の一つ。宰相の臨時の事務室ということになって いる客室の隣に位置していた。名目は宰相の仮眠室である。誠はファトラの普段着 を着せられて、ベッドの上に寝かされていた。男と女はその隣に立っているのだ。 「いっ、いったいこれはどういうことで…どういうことでござりますか?」 誠は体を起こしながら、ファトラの口調をのまねを忘れることなく、目の前の男 に尋ねた。 「ふふ…。私がお招きしたのです。ま、少々方法が手荒だったかもしれませんが、 それについてはお詫び申し上げましょう」 口調は丁寧だが、態度は威圧的だ。誠をあざけるように見ている。誠はその前で ゆっくりとベっドに座った。ニーナは無表惰でそれらを見守っている。 「そ、そうか。で、では何の用でござりますか?」 誘拐された! 誠は自分の身の上を知って、泣きたくなるのをこらえて次の質問 を発した。 (ああーーっ、何でこうなるんやあ!?) 「別に。何も。ただここにいて下されば結構です。何もして頂く必要はありません。 数日の内には帰してさしあげますよ」 「そ…それはありがたい。できれはすぐに帰して頂けないでしょうか?」 こういった状態には慣れていない。誠は怖いのを必死に抑えながら、できるだけ 相手を怒らせないように話す。しかしその努力にもかかわらず、目は潤みかけてい た。相手には慈悲をこうているように見えただろう。 自分が本物のファトラでないことを明かせば許してくれるかもしれないとも考え たが、すぐに諦めた。正体がばれたら逆に口封じのため殺されるだろう。少なくと も状態は好転しそうにない。 「残念ながらそういう訳には参りませんな。私がいいと言うまではここにいてもら います。念のために言っておきますが、逃げようなどとは思わないことですぞ。扉 には全て鍵がかってありますし、ここは地上よりかなり高い。ああ、それと帰して さしあげる時には、薬で記憶を消させて頂きますので、お許しを」 クロノドールはさも楽しそうに言った。それを聞いて誠は震え上がってしまった。 しかし誠には他にも気にしなければならないことがあったのだ。 「そのー、すまんが、わらわはトイレにいきたいのですが…」 誠は申し訳なさそうに言った。 「トイレ? トイレですか。そうですなあ…」 クロノドールは何やら考えている。誠はできるだけいい返答が返ってくるのを祈 った。 「仕方がありませんな。それではこれにして下さい」 誠は自分の耳を疑い、クロノドールが取り出した物を見た時、目を疑った。そこ にあった物はどこからどう見ても紛れもない洗面器だったのだ。 「あの…本当にこれに…?」 誠はうわずった声で質問する。クロノドールは誠のことを女だと思っているはず だ。それなのに洗面器で用を足させようとは…! 「残念ながらこれで我慢致して頂きます」 クロノドールは半ばおもしろそうに言う。 「そのー、何とかなりませぬか?」 誠は両手を組み合わせ、しなを作って懇願する。しかし受け入れられる望みはあ まりにも少なかった。 「残念ながら…。今後の課題に致しましょう。まあ心配しなくても大丈夫でござい ますよ」 クロノドールが誠の隣に座る。誠は逃げ腰になるが、耐えた。多少場違いではあ るが、頬を赤らめる。 (な、なんで僕が赤くならなあかんのや…) 「ファトラ王女、私とて情がない訳ではございません。あなた様次第では立場を保 ってさしあげなくもありませんが…」 「ひっ!」 クロノドールが誠の尻を撫で上げた。誠の腰が浮く。必死の思いでこれも耐えた。 「あなたは美しい。私の所に来ませぬか? 悪いようには致しません」 「……ぃいぃぃ……」 クロノドールが誠の体を舐めるように動く。腰の部分が気に入ったようだ。体を 小刻みに震わせながら、誠は耐える。今ここで正体がばれればどうなるか分からな いのだ。しかしそれがクロノドールの嗜虐をそそった。 「かわいいお方だ」 誠は相手を怒らせないためにも嫌々従うしかなかった。しかし我慢の限界がある。 それはすぐにきた。背筋がこそばゆくなるような言葉に誠は耐えられなかった。 「ちょっ、ちょっと、やめて!」 誠はクロノドールの体を強引に押し退けようとした。しかしそれ以上の力で引き 寄せられる。 「素直に従いなさい。悪いようにはしない」 「け、結構です。とにかくトイレに!」 そうこうしている内にも、クロノドールの手は誠の胸まで到達した。若さをじっ くりと味わう。と、クロノドールの手の動きが止まった。 「ん? これは…」 感触に違和感を憶えて、クロノドールの手が誠の胸を調べる。それだけでは足ら ず、服をはだけようとした。このままでは男であることがばれると誠は必死に抵抗 する。 「ゆ、許してー!」 脱がされれば正体がばれてしまう! そうすればクロノドールは誠を口封じのた め殺すだろう。薬を飲まされて記憶を消される可能性もあったが、どちらも嫌だっ た。 誠は首を左右に激しく振る。しかしあまり動くと余計尿意が強く感じられるため、 派手なことはできない。 その時、視界にニーナの姿が入った。彼女は顔を背けて見て見ぬふりをしている。 しかし口許や肩の様子からかなり嫌悪していることが伺えた。誠は彼女の素振りに とても根の深い物を感じて、わずかばかり見入ってしまった。 それが悪かったのだろうか。絶叫空しく、服ははだけられてしまった。多少見え にくいながらも胸元が露になる。その途端、クロノドールの顔が豹変した。 「なっ!? 男!? これは一体!?」 赤くなりながらも、誠は必死に胸元を覆い隠す。しかしもう遅かった。クロノド ールの頭の中で思考が目まぐるしく働く。クロノドールは結論を出した。 「貴様、偽物だな! この私をたばかりおったな!?」 「そんな無茶な!」 誠の非難の声は無視しつつ、クロノドールは誠からばっと飛びのくと、憤怒の形 相で彼を見た。その怒りの矛先はニーナの方にも向けられる。 「おい、ニーナ! これは一体どういうことだ!? なぜ偽物を連れてきたのだ! ? 偽物は二人いるのか!?」 「どうやらそのようですね」 それに対して、ニーナはいつもの表情で平然と答える。普通の人間がこれを見た ら余計怒る所だが、ニーナがいつもこの調子であることをクロノドールは知ってい るので、別にさらに怒ることはない。 クロノドールはさらに思考をめぐらせた。誠は茫然とそれらの光景を見ている。 どうやら犯される危険は過ぎ去ったようだが、次は命の危険があった。 「ううむ…。情報によると、ファトラ王女は一昨日の夜、庭で立ちションをしたと いうことになっている。ガセネタだと思っていたが、どうやらこの男がそうらしい。 とすると、本物のファトラ王女は初めからいなかったことになる。一体どこに…」 クロノドールの脳裏にある考えが閃いた。突拍子もない考えだ。しかし考えれば 考えるほど、その考えを信用せざるにはいかなかった。 「まさか…。まさかとは思うが、あのシャノンが本物のファトラ王女だったのでは …。おいっ、ニーナ、どう思う?」 「その可能性はありますね」 ニーナはまたも平然と答える。その途端、クロノドールが絶叫した。 「ぐわああぁぁっ! そうだ! シャノンが本物のファトラ王女だったんだ! 本 物より偽物の方が本物らしいと思っていたら、偽物が本物だったんだ! ああー、 何ということだ! あの時シャノンが本物だと気づいていれば! そうすればロシ ュタリアを脅迫できたのに!」 「あの、すみません。トイレに…」 誠の頼みなど全く無視し、クロノドールは悔しがって地団太踏む。だが後の祭と いうやつだ。しかしそうもしていられなかった。 「くっ、どうする!? すでにファトラ王女はルーン王女と会っているはず。きっ と私の悪事を暴きにくる! いや、間違いない。このままでは私は破滅…。どうす る。どうすれば…。ニーナ、何か案はないか?」 クロノドールはニーナにすがる。ニーナは全ての計画を立てている。こういう時 は彼女にすがるしかなかった。 「さあ。どうしましょう…」 ニーナの返答はあまりといえばあまりにも無情だった。クロノドールは青くなり、 冷や汗をかきながら、何とか打開策を考える。 「ぐううぅぅ…。どうすれば…。おそらくもうじき捕まえにくるぞ。どうすれば…。 はっ、そうだ!」 クロノドールはそれまでベッドの上で成り行きを見守るばかりだった誠の方を向 いた。途端に露骨に笑う。気が狂ったのではないかと、誠は背筋に寒気を憶えた。 「あの…。僕が何か…」 「こいつをシャノンということにしよう! そうすれば誘拐の事実はない! 証拠 がなければどうにもなるまい! ニーナ、これでどうだ!?」 「……問題ないと思います。ファトラ王女はこの男を本物ということにして、私た ちに容疑をかけるでしょうから、証拠がなければ容疑をかけることはできないでし ょう」 ニーナは状況を正確に分析する。 「よし! ではそうしよう! ふふふ。完璧だ。相手が王族でも、こちらは一国の 大臣。王族の証言があるからといって、証拠なしに捕らえることはできまい。よし、 ではこれからくる客人のために茶でも用意しようか…」 ようやくクロノドールはいつもの余裕を取り戻し、不敵な笑みを浮かべている。 誠はといえば、事の成り行きが分からずにおろおろするだけだ。 「あのー、僕はその…トイレに…。……その…一体何の話をしておるんですか?」 「おお、お前か。お前にも聞きたいことがたくさんあるが、今はまあいい。お前に も役に立ってもらわねばな…」 「いえ。だからトイレに…」 三人は事務室の方へ移動した。誠はお情けでトイレに行かせてもらえた。茶の準 備ができた頃、事務室のドアが激しく叩かれた。 「宰相殿! クロノドール宰相殿! 入ってよろしいですか?」 「どうぞ入りたまえ」 警備隊長の声だ。クロノドールは余裕で応対した。 「失礼します!」 警備隊長以下、ルーンやシェーラたちがどやどやと中に入ってきた。部屋の中で はクロノドール、ニーナ、女装姿の誠がテーブルを囲んでお茶を飲んでいる。誠は ルーンたちの姿を見た途端、顔が硬直した。 (だ、だめや! 今やったら失敗する! 出直すんや!) 誠は断片的には事情が分かっていた。心の中で必死に叫ぶ。しかし当然のことな がら、ルーンたちに届くはずがない。仮に届いたとしても、もう遅かった。 「これはまた大勢でいらっしゃる。おお、これはルーン王女様。それに大神官の方 々も。私は宰相のクロノドールめにございます。わざわざ私の部屋までご足労頂け るとは、光栄至極にございます。して、何用ですかな? よろしければ茶など飲み ながらお話致しましょう」 クロノドールは立ち上がり、ルーンや大神官たちに向かってうやうやしくお辞儀 する。しかし彼と彼女たちの間には緊迫感が漂っていた。ルーンは唇をぎょっとつ むり、クロノドールを見据えている。クロノドールはルーンを不敵な表情で見てい た。大神官たちは事の成り行きを見守っている。 クロノドールは相手の方をちらりと見やり、そこにアレーレがいるのを確認した。 アレーレは彼の鋭い視線を感じ、菜々美の後ろに隠れる。 「宰相殿。あなたにはファトラ王女誘拐の疑いがかけられております。そこにおら れるファトラ王女、そしてあなたの使わしたこちらの偽物のファトラ王女が証拠に ございます」 警備隊長は誠とファトラを交互に指差して、淡々と言い放つ。クロノドールは眉 を少し動かしただけだ。ファトラが一歩進み出た。 「すまんな、クロノドール。ばれてしまったわ」 ファトラは薄く笑いながら、クロノドールをあざけるように見る。クロノドール はファトラの方へ歩み寄ってきて、彼女をまじまじと見た。 「ほほう。なるほど。これはよく似ておりますな。まさに本物のファトラ王女と生 き写し」 「シラを切らないで下さい。これはあなたが使わした偽物です。そちらに本物のフ ァトラがいるではありませんか。これが何よりの証拠ですよ」 ルーンがニーナの隣に座っている誠を指差す。その途端、誠はうつむいてしまっ た。自分の前に置いてあるティーカップをじっと見る。 「ほほう。あなたはこの男が本物のファトラ王女と仰いますか…」 クロノドールは面白そうに言う。その途端、ルーンの顔が、ファトラの顔が硬直 した。誠はじっと耐えている。 「ニーナ、証明して差し上げなさい」 「分かりました」 ニーナは立ち上がると、誠も立ち上がらせる。誠は目をそらせながら、力なくそ れに従った。 ルーンやファトラ、その他菜々美やシェーラたちにももはや結果は分かっていた。 誠の正体がばれる前にクロノドールの部屋に突入できればと思っていたのだが、遅 かった。 ニーナは誠の服をはだけさせる。男だった。ファトラは悔しそうな顔をする。 「これで分かって頂けましたかな? この者は本物のファトラ王女ではございませ ん。この者は昨日捕まり、私がここへ連れてきたのです。誘拐などという事実はご ざいません」 クロノドールはしてやったりという表情をする。ルーンは唇をかんだ。ニーナは 誠の服を戻してやり、一緒に椅子に腰掛け、茶を一口すすった。 「どうやらそのようですわね…。しかしこちらの偽物はどう説明なさるおつもりで すか?」 ルーンは焦っていた。それが失敗を呼んだ。ルーンは発言した後で、自分の失敗 に気づいたが、もう遅かった。この時点で引き下がっていれば、損害は少なくてす んだろうに…。 「おそらくはファトラ王女を狙う輩がいて、その輩が放った替え玉でしょう。その 者は自分の正体がばれたので、私を黒幕に仕立て上げるつもりなのです」 これは半分は真実だ。付け足すなら、輩というのはクロノドールのことなのだが …。 「そうですか…。分かりました。どうやら私の思い過しだったようです。失礼いた します」 「お待ち下さい」 「…………」 ルーンは踵を返し、そそくさと退散することにした。宰相に発言する隙を与えな いためだ。しかし呼び止められてしまった。苦々しげにクロノドールを見る。 「その者は私が預りましょう。ファトラ王女誘拐の疑いをかけられた手前、私がそ の者を取り調べ、真相を暴きとう存じます」 「それには及びません。これはロシュタリアの問題です。誘拐されたファトラの捜 索もありますし、私共でこの者は取り調べます」 ルーンは毅然として言い放つ。しかしどう見ても分が悪かった。クロノドールは 自信に満ちている。 「ルーン王女様、私に挽回の機会を与えては下さらないのですかな? このような 恥をかかされたのでは、私としても不名誉なのですが…」 (ルーン王女様…) 菜々美やシェーラたちにもルーンの懊悩が痛いほど分かる。誰の目に見ても、ル ーンの方が圧倒的に不利だった。誠はルーンを見ることができなかった。 「いえ。私共が預ります。あなたには関係のないことです」 「ルーン王女様! ロシュタリアは他人に恥をかかせておいて、何とも思わない国 なのですか!?」 クロノドールが一際強く言い放つ。ルーンはもはや冷や汗を流していた。眉間に しわを寄せて、必死に反論を考える。その時、誰かがルーンの肩を持った。驚いて 振り向くと、そこにはファトラがいた。 「ファトラ…」 ルーンは小声でつぶやく。ファトラは優しく微笑んだ。それだけの動作で、ルー ンはファトラが何を言いたいのか悟った。ルーンは涙が出そうになるのを必死に抑 えて、優しく微笑み返した。そしてクロノドールの方を向く。 「…分かりました。この者はあなたにお預け致しましょう。しかし取り調べが終わ り次第こちらへ返して下さい」 ルーンは苦々しげに言った。 「分かりました。善処致しましょう。ではその者をこちらへ」 クロノドールはファトラの方へ向かって手を出す。ファトラはそれに引かれるか のごとく、そちらへ向かって歩き出す。 「あぁ…」 ルーンはそれを見守ることしかできない。助けたいものが目の前にあるのに、助 けられないもどかしさと、自分の無力さに、胸を掻きむしられるような思いがし、 自然と喉から嗚咽のような物が洩れた。 ファトラはテーブルのあたりまで行くと、ルーンたちの方へ向き直る。そしても う一度微笑んだ。ルーンはもはやそれを正視できず、顔をそむけ、崩れそうになっ た。ミーズや菜々美が慌ててルーンの両肩を持って助け起こす。ルーンの顔は真っ 青になっていた。 「では私たちはこれにて失礼します…」 ルーンは王女としての最後の威厳をもって言った。 「ごきげんよう。お体をお大事に…」 ルーンは菜々美とミーズに支えられて部屋を出る。シェーラは最後までクロノド ールを睨んでいたが、やむなく退散した。後にはクロノドールたちと警備隊長だけ が残る。警備隊長は申し訳なさそうに下を向いていた。 「警備隊長」 「は、はい…」 警備隊長は震えながら答える。彼はルーンに無理に頼まれてここへ来たのだ。従 って彼に非があるという訳でもない。 「まあ気にするな。下がってよい」 そうは言いながらも、クロノドールは彼の今後の処遇を考えていた。 「はい…」 警備隊長は部屋を出ていった。クロノドールは部屋の扉が閉じるのを確認すると、 テーブルの所の椅子につく。 「シャノン、お前も椅子につけ」 クロノドールは重々しく言う。ファトラは無言で席についた。誠の隣だ。誠は女 装しているので、見掛け上はファトラが二人いるように見える。クロノドールは満 足げにそれを見ると、茶をすする。そして眉をしかめた。 「茶が冷えている。いれ直せ。あとシャノンにも茶をいれてやれ」 「はい」 ニーナが茶をいれる。クロノドールとファトラはそれを無言で飲む。誠はという と、必死に何かに耐えるようにしていた。偽物だとばれてしまったことが申し訳な くてしょうがないのだ。 「さて、ファトラ王女。あなたの計略は実に見事だった。この私も危うく破滅する ところでしたよ。しかし詰めが甘かったですな。それともタイミングの差でしょう か。あなたの来るのがもう30分も早ければ、私は破滅している所でしたでしょう な」 「…………」 「…………」 ファトラと誠、どちらも答えない。ファトラはすまし顔。誠は暗い顔をしている。 「ファトラ王女! 茶番は終わりだ! さっさと正体を明かせ!」 痺れを切らしたクロノドールはファトラの方を指差して言う。 「よくこの者が偽物だと分かったな。どうせ犯そうとでもして分かったのじゃろう ? この者が男ではなく、女ならばれなかったはずじゃ」 ファトラは苦々しげに言う。クロノドールの眉がぴくりと動いたのを見て、図星 だとファトラは悟った。 「そんなことはどうでもいい。問題はお前が今ここにいるということだ。そしてお 前は形式上は偽物。この意味が分かるか?」 はぐらかしても意味がないので、ファトラはさっさと答えることにした。 「わらわが本物であることをロシュタリア側が証明できない限り、わらわを連れ出 すことはできんということじゃ。すなわち、誘拐の疑いはかけられん」 しかし残念ながらファトラは現在自分が本物であることを証明することができな い。普段は証明のための細工物のような物を持っているのだが、偽物であることを 演出するために持っていないのだ。これは誠も持っていなかった。 「その通り。つまり私がお前を拘束していても、誰にも文句を言われないというこ とだ。ところでそちらの男の方なのだが、そいつは一体何者だ?」 クロノドールは誠の方を見る。誠は辛そうに俯いていた。 「言うことはできん。この者は部外者じゃ。解放してやってくれ」 クロノドールはファトラのその言葉がしゃくに触ったのか、ファトラの方を見た。 誠はファトラが自分を庇ってくれるのが不思議だった。 「私に口答えできる立場だと思っているのか? それとも取り引きでもするつもり なのか?」 「口答えできる立場ではないな。では取り引きをしよう。二万ロシュタルでどうじ ゃ?」 それを聞いて、クロノドールは鼻で笑った。 「その千倍くれるのなら考えてもいいな」 それを聞いて、ファトラは落胆した。 「残念ながらそんな額はわらわの財布からは出んな」 いくらなんでも二千万ロシュタルなどという大金はファトラの個人資産からは出 ない。国庫から支出するなら別だが。 「では駄目だ」 「となると、取り引きをしようにも、わらわには引き換えられる物がないな。では その上で頼もう」 ファトラの顔には自信というよりも、強い意思が宿っていた。 「ほほう。それで聞き入れてもらえると思っているのか?」 「では引き換える物があればよいのか?」 「だからそれはないのだろう?」 「いや。あとは……」 引き換えられる物…。金か、領土か、権限か。そのどれもが国の物だ。人を一人 助けるために使えるような物ではないのだ。となるとファトラにはもう引き換えに できる物がなかった。しかし後一つだけある。誰もが持っている物だ。ファトラは 目を閉じ、葛藤を抑え込みながら言おうとする。 「だ、だめや。ファトラ姫。そんなことしたらあかん!」 誠はそれまでずっと黙っていたが、ファトラが何を引き換えにしようとしている かを彼女の様子から悟った。突然立ち上がり、口を挟む。椅子が転がり、テーブル が揺れた。 「口出しするな。これはわらわの問題じゃ。そなたは関係ない。深入りさせすぎた わらわに責任がある。けじめをつけねばならん」 ファトラは毅然として、誇り高く誠を制した。誠と自分とを入れ替えた時には、 誠をすぐに助け出すつもりだったので問題ないが、誠を助け出す手段が失われた今 ではこうするしかないのだ。ファトラは自分の責任は自分で取る構えだ。 「だめや! それに僕、そんなことしてまで助けてもらいとうない! それに偽物 だってばれたのは僕のせいやないか! 僕は水原誠言うて、戴冠式に出るファトラ 姫の身代わりをする予定だったんや。それで僕がファトラ姫の代わりに会合に出て いる間に、ファトラ姫が偽物と間違えられて捕まってしもうたんや」 誠は大声で言い放つ。ファトラが手で目を覆った。 「バカ…。自分から正体を明かしてどうする…。それに偽物だとばれたのは何もそ なた一人の責任ではない。事情を全く伝えなかったわらわも悪い。計画その物が安 直すぎた…」 誠が偽物だとばれたことの責任については微妙な線だ。ファトラもある程度は誠 の責任だと思っている。しかしその責任はファトラの責任に較べればとても軽い物 だと思っていた。最低限、事情を説明しておくべきだったのだ。 「でも…」 「なるほどそうか。そういう訳か…。これまた随分とおもしろい。怠慢を行うため の影武者だったのか。ロシュタリアの王族というのは随分とだらしがないのだな。 ではテロについては何か知ってるか?」 「ファトラ姫を助けるように大神官の人たちに頼んだんや」 「ほほう。あのテロは大神官だったのか! どうりで強い訳だ。しかしとすると、 ロシュタリアは神官たちと癒着しているという訳か…」 これはまた何かに使えるかもしれない。クロノドールは興味深そうに言った。 「クロノドール、誠を解放してくれ。わらわの操で取り引きじゃ」 ファトラは改めて言う。誠に対する責任を断固として自分で取るつもりなのだ。 「せやからそれはあかん! ……うっ、せやからその…あかんのや…」 ファトラが誠を睨みつける。あまりの迫力に誠は気圧されてしまった。誠の目の 前にいるのは、正真正銘の王族なのだ。誠は王族の気高さをそこに見た。誠はファ トラが自分とは違う世界に住んでいる人間であることを改めて感じた。もはや自分 からは何も言うことができなくなった。 「残念ながら断らせてもらおう。本物のファトラ王女と偽物のファトラ王女が一人 ずつ…。手放すにはあまりにも惜しい。まあ、体の方については…どうしましょう かなあ…」 クロノドールはファトラの体を値踏みするように見た。ファトラの背筋に悪寒が 走る。ファトラはクロノドールの言わんとしていることが手に取るように分かった。 かっと目を見開いて、突然立ち上がる。椅子が派手に転がり、音をたてる。 「きっ、貴様、殺してやる! いいか。いつか必ず殺してやるからな! 憶えてお れよ!」 ファトラは激怒してクロノドールを見る。隣で見ていた誠の方が震え上がってし まった。 「やれるものならやってみろ。今やればお前も死ぬことになり、今やらなかったら もう機会はないな」 クロノドールはファトラの怒りなど全く気にせず言った。ファトラは今にも飛び かかりそうになったが、すんでの所で抑えた。今は分が悪すぎる。 「ではニーナ、この二人を隣の部屋へ移せ」 「はい」 ニーナはそれまでずっと平然と無表情で茶を飲んでいた。立ち上がると、ファト ラと誠を部屋の外へ導く。二人はそれに従って部屋を出た。 隣の部屋の扉を開き、ファトラと誠をその中へ入れる。逃げ出すチャンスだった のかもしれないが、テロの一件で警備が大幅に強化されている。自殺するような物 だ。 「では御機嫌よう」 クロノドールがそれだけ言うと、ニーナが扉を閉め、鍵をかう。この部屋の扉は 外側からしか開閉できないように細工してあるのだ。ニーナとクロノドールは元の 部屋に戻った。 「ふふ。本物のファトラ王女が“合法的”に手に入るとは、思いがけない収穫だな。 まさかこのようなことがあろうとは。これならばうまくすればロシュタリアをいく らでも脅すことができるぞ。ニーナ、これを計算に入れて、新しい計画を練るのだ。 素晴らしい計画ができるぞ」 クロノドールは満足げに言った。 「分かりました」 ニーナは相変わらず無表情に言った。 一方、ファトラと誠のいる部屋。二人はしばらくの間、沈黙を保ち続けた。部屋 の中に一つあったベッドにファトラが座る。反対側に誠も座った。 「誠、なぜあの時割って入った? うまくすればお前だけは解放してもらえたかも しれぬというのに…」 お互いに顔は見えない。それは幸いだった。顔を見ながら話していたら、何も話 せなかっただろう。 「ファトラ姫にそんなことさせてまで、僕は助かりとうありません。もしそんなこ とさせて僕だけ助かったら、僕は人間のクズですよ。ファトラ姫こそどうしてそこ までして僕を助けようとするんですか?」 「それはな、絶対に他人に頼りたくないからじゃ。他人に頼るような生き方をわら わはしとうない。初めわらわはそなたを助けられるつもりで、そなたをクロノドー ルの所へやった。しかし助けられなくなった以上、そなたを助けるためにはあれし かなかったのじゃ」 「そんな。僕が偽物だとばれたからじゃないですか。僕のせいですよ」 しばらくの沈黙。そしてファトラが自嘲しながら喋った。 「そなたは甘いのう。事情を話さなかったわらわが悪いんじゃよ。憶測で行動した わらわのミスじゃ」 「でもどちらにせよ、僕はあんな方法で助けて欲しくはありませんでしたよ。あれ じゃあ死んだ方がまだましです」 「後悔しないな?」 「後悔しません」 「よし」 ファトラが誠の方を向く。それを感じて、誠もファトラの方を向いた。二人の顔 が会う。 「そなたのプライドを傷つけてしまったようじゃの。悪かった。気をつけよう。し かしこの借りはいつか返すからな」 「はい。憶えときます」 「そなたはいいやつじゃ」 ファトラがそっと微笑んだ。誠も微笑み返す。 「では最後にこれだけは言っておくぞ」 「何です?」 ファトラは少し悩む。重大な宣告だ。しかしファトラは誠を信じて言った。 「助けはこないからな」 「えっ、それは一体…」 ファトラはこのことは重々分かっている。しかし誠がこの事実を受け入れられる かファトラは心配だった。誠は王族ではないのだ。 「クロノドールはわらわたちを使ってロシュタリアを脅す。しかしそのような脅し に屈する訳にはいかん。結果どうなるか分かるか?」 「つまり……見捨てられるということですか?」 「そう。その通り。助かりたければ、自分たちでなんとかするしかない」 「…そうですか…」 誠は少し間を置き、ファトラから目をそらしながら答えた。 「後悔したか?」 ファトラは目をふせながら聞く。 「い、いいえ。だったら、自分たちでなんとかしてみせますよ」 二人は再び。見つめ合った。ファトラは微笑んで、誠に向かって手を差し出す。 誠は少しはにかみながら、その手を握った。 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ルーンはあれから菜々美たちに支えられながらやっとの思いで別館に帰り、その まま寝込んでしまった。仕方なしに菜々美が介抱する。居間の方ではシェーラたち が大騒ぎをしていた。 「てやんでえ! 情けないったらありゃしない! どうしてああなるんだよ!?」 シェーラは涙目で絶叫する。誠の身が心配でならないのだ。 「まあまあそう怒りなさるな。仕方ないやおまへんか。ルーン王女様もあれが限界 だったんおす」 それをアフラが宥める。しかし効果はなかった。 「あっ、そうどす。酒でも飲みまへんか?」 アフラが酒と杯を二個持ってきた。片方の杯をシェーラに渡そうとする。 「いらねえよ!」 シェーラは杯を手で払った。杯が撥ね飛ばされて床に転がる。アフラは茫然とそ の杯を見ていた。酒好きのシェーラにはありえないような光景だった。 「酒もだめとは…。こりゃあ諦めるか…」 アフラはそれっきり、シェーラを宥めるのをやめてしまった。 「あーん、ファトラ様ぁ! アレーレは悲しいですぅ」 アレーレも泣いている。もはや誰も宥めなかった。逆に言えば誰もが宥められた いのだ。 「これからどうするかはルーン王女様次第ね。私たちにはどうにもできないわ…」 「ですな…」 「もどかしいことですなあ…」 ミーズと藤沢は割と冷静に状況を分析している。アフラもそれに加わった。シェ ーラは相変わらず絶叫し、アレーレは泣いていた。 「すみません、菜々美様。私が至らないばかりにこのようなことになってしまって …」 「いいのよ。ルーン王女様は精一杯やってくれたわ。誰もルーン王女様を責めたり しないわよ」 菜々美はルーンを落ち込ませないよう、精一杯元気を出していた。しかし心の中 は悲しさと悔しさで一杯だった。 「すみません…」 ルーンは床についたまま答える。気分が萎えていても、彼女の思考は明晰だった。 ルーンは上半身を起こした。 「あっ、まだ寝てなきゃだめよ」 「菜々美様、私、お願いがあるんですが…」 「え、何? 何でも聞いてあげるわよ」 「その…非常に言いにくいのですが…。こんなこと言ったら変に思われるかもしれ ませんが…」 ルーンは顔をうつむけて言いにくそうにしている。 「いいわよ。早く言って」 菜々美はルーンが誠たちを助ける作戦のことを言おうとしているのかと思って、 わくわくしていた。 「その…あの……もし…もし誠様やファトラが戻ってこないことになっても…、私 のこと恨まないで下さいね…」 「…………」 菜々美の思考が停止する。ルーンは泣き出した。 「ご、ごめんなさい。ごめんなさい、菜々美様。でも、でももう私にはどうするこ ともできないのです。宰相はファトラが本物であることを分かっているでしょう。 そして宰相はロシュタリアを脅迫してくるはずです。しかしそのような脅迫に応じ ることはできません。ではどうするか。ファトラたちを見捨てるしかないのです。 分かって、分かって下さい。私のこと、鬼だと思うでしょうけど、これしかないの です。もう一度強奪するなんてことはできません。危険が大きすぎます。どうか分 かって下さい」 「…………」 菜々美は惚けていた。ルーンはそれに構わず先を言う。 「ファトラはきっと分かってくれるでしょう。それにあの子なら自分で何とかでき るかもしれません。あの子は強い子ですから。でも誠様が…。ああ、許して下さい。 私のこと恨まないで下さい。国のためです。これが王家に産まれた者の定めなので す。ただ誠様が…。誠様は私のこと許してくれるでしょうか…」 しばらく時間が経つ。ルーンはさめざめと泣いている。涙がシーツを濡らした。 菜々美は突然立ち上がると、だっと駆け出し、部屋の外へ出て行ってしまった。 「許して…誠様、ファトラ、菜々美様たち……」 ルーンは自分が王族であることを呪った。