第8章  過去と現在


「何で…。何で…。酷いわ…」
 菜々美はバルコニーで泣いていた。手すりに肱を付け、その上に頭をもたげてい
る。しゃくりあげるような嗚咽があたりに洩れ、頬を伝う涙を涼しい風が乾かした。
「ルーン王女様…。そりゃ私だって分からない訳じゃないけど…。誠ちゃん…」
 菜々美は自分の中にいやしい気持ちが広がってくるのを感じた。必死でそれを拒
もうとするが、拒みがたい。
「う…。嫌…これ…」
 自分が嫌な人間になってしまいそうな感覚に、菜々美はどうしようもない葛藤に
浸るのだった。

「ううん…。いや。やめて…。その子は…私の…と…も…だ…ち…。殺さないで…。
ああっ…。だめ…。許してあげて…」
「ルルシャ! ルルシャ!」
「はっ!? ニーナ!」
 ルルシャはニーナによって起こされた。今まで昼寝していたのだ。気がつけば自
分の部屋で、隣にニーナがいる。心臓が激しく脈打ち、冷や汗が額を流れる。
 ルルシャは華奢な手で胸を押さえた。ニーナはそれを心配そうに見守る。
「大丈夫? また昔の夢?」
 最近ルルシャは夢を見ることが特に多くなっていた。ニーナはルルシャの目を覗
き込む。ルルシャの目はどこかしらうつろで、精気がない。
「え、ええ。大丈夫。心配しないで…」
 そう言いながら、ルルシャはゆっくりと体を起こした。銀髪が肩を流れる。
「そう…ならいいんだけど…」
「ニーナ、あんたは夢にうなされることはないの? 私なんかしょっちゅうよ。あ
あ、いまいましい。リースちゃんはどこ?」
 さっきまでの夢をかき消すように体を揺すり、ルルシャはニーナに問う。ニーナ
は呟払いを一つすると、いつもの事務的な調子に戻った。しかしルルシャにしてみ
れば、別にニーナが感情を表に出さなくとも、感情を感じることができる。ニーナ
の態度が急に親身になったり、事務的になったりするのは見た目には滑稽だが、ル
ルシャはすでに慣れていた。たまに茶化すことはあるが。
「私もたまにうなされますね。リース様は自分の部屋におられます。呼びますか?」
「ああ。ええ。そうしてちょうだい。その前に何か伝えることとかある?」
「クロノドール宰相は本物のファトラ王女を表向き偽物という形にして、形式上合
法的にロシュタリア側から奪い取りました。おそらくロシュタリア側の脅迫に使用
する物と思われます。またそれとは別にもう一人ファトラ王女の偽物が宰相の手中
におります。この二人は親密な関係のようです」
 それからニーナは事のいきさつをかいつまんで話した。ルルシャはそれに対して
興味深げに耳を傾ける。
「宰相の体には何か細工がしてあるようです。おそらくこの前発見された先エルハ
ザード文明の何かだと思います。詳しいことは分かりません」
「それはまあいいでしょ。別に殺さなきゃならない訳じゃないんだから」
「まあそうですけどね。ただ予想外のことであることは確かです」
「それにしてもファトラ王女ねえ…。それを脅迫に…。その誠とかいうのを使って
裏工作とかさせるんでしょうね。それにしてもロシュタリアは赤っ恥かかされたも
んね」
「そうする予定です。ロシュタリア側はすでに立場がありません。しばらくは表立
った行動にはでられないでしょう」
 それを聞いて、ルルシャはわざと大げさな反応をして、手をひらひらと振った。
「ああ、予定だなんて。ロシュタリアとの関係は円滑にしなさいな。宰相には少し
不自由してもらいなさい。それにあれはもういらないんじゃないの?」
「分かりました。では宰相の手中からファトラ王女を連れ出しましょう」
「手荒なことしちゃだめよ。ファトラ王女は私たちで使いましょ。他にも連中はた
くさんいるんだから」
 言葉の最後の方で、ルルシャの顔が一瞬憎々しげになった。
「はい。そうしましょう」
「じゃ、お茶にしましょ。リースちゃんを呼んで」
「はい。そういえばリース様はおとついは中庭で一人でお茶を飲んでましたね。き
つく怒ったんですか?」
 ルルシャたちは普段は三人で茶を飲む習慣になっていた。
 ルルシャにしか分からないが、ニーナの言葉にはルルシャとリースの仲の危惧が
含まれている。ルルシャの顔が不満げになった。
「あの子は…。あの子ったら私のいうことを聞いてくれなくて…。大丈夫だと言っ
てるのに。あー、私の…私の夢なのに…。必ず幸せになれるのに…。私の子供なの
に…。血がつながっているのに…!」
 ルルシャは両手で頭を挟んで体をよじり、苦悩を表現する。リースはルルシャに
とって唯一の血のつながった人間であるため、愛情はやたらと強かった。
「無理をしないことですね。ではリース様を呼んできます」
 ニーナは部屋を出ていった。

「リース様、おられますか? ニーナです」
「はい。どうぞ」
 ニーナはリースの部屋に入った。リースは何やら経済の本を読んでいる。女王に
なるということで、無理矢理教え込まされているのだ。
 そのかたわらでは、リースのペット、コモドオオトカゲのガブリエルがいた。
「ルルシャ様とお茶にしましょう。ルルシャ様の部屋へ行きますよ」
「あ、はい」
 気のない返事をし、リースはぱたんと本を閉じると、そのままテーブルの上に置
いて、椅子から立ち上がった。あまり嬉しくはないらしい。もっとも訳の分からな
い本を読むことはもっと嬉しくないことだったが。
「返事はもっとはっきりとお願いします」
「分かってるよ。そんなこと。でもなんでねえやはいつもそんなふうに他人行儀な
の? 他に誰もいない時くらい普通に喋ってよ」
「ルルシャ様は王妃、リース様は王女。そして私はルルシャ様のメッセンジャー。
その私がどうして親しく喋ることができると仰るのですか?」
 それを聞いてリースの顔が曇った。
「たまに普通に話してくれるじゃない。じゃ、ガブリエルは連れてっちゃだめ?」
「できれば置いていって欲しいのですが…」
 ニーナもルルシャもガブリエルは苦手だった。リースはなぜこんな動物をかわい
がるのか見当もつかない。
「あー、分かったよ。じゃ、行こう」
「はい」
 リースはニーナを先導して、さっさと部屋を出て行った。
 リースは最近親離れが進んでいる。そして反抗期だ。愛情を求めたり、拒絶した
りを繰り返している。しかし徐々に矛盾を排除し、確実に自立の道を歩んでいた。
ルルシャはそれが嫌らしい。思えばリースに初経がきた頃から急にルルシャはあれ
これ心配しだし、それが今ではこのざまだ。リースはルルシャヘの反発だと言わん
ばかりにガブリエルを飼い始め、いろいろと他には言えないようなことをニーナに
頼む。リースはルルシャとニーナの関係のことをよく知っていたし、ニーナも最近
はリースの扱いにてこずるようになっていた。
 リースはニーナのことを姉のように思っている。ルルシャのようにいろいろ強制
してこないからだ。頼られることはニーナも悪い気はしなかったが、ルルシャとの
かねあいで、いろいろと骨が折れた。
(リースちゃん…。世の中には知らない方が幸せなことがあるんだから…。そりゃ
確かにルルシャは強引だけど、知らない方がいいの…)

 ルルシャ、リース、ニーナの三人はルルシャの部屋で茶を飲んでいた。
「リースちゃん、いよいよ明日ね」
「はい…」
 リースは肩を強ばらせながら返事をする。
「きっと素晴らしい道が歩めるよ」
「はい…。でも他の世界を見てみたかったような気もする…」
「それはどういうこと?」
「私の判断力は国のためにあるの? 自分のために使ってはいけないの?」
 これはリースが王位を継ぐことが決まって以来、リースが持っていた疑問だ。身
の回りの環境が、決められた道を歩むだけという環境に変わり、フラストレーショ
ンが溜まっていた。突然王宮を抜け出すという行為はそれに対する反発のつもりだ
った。
「そんなことはないよ。きっとよかったと思えるようになるから…」
「そうかな…」
 ルルシャの胸の内ではいらいらが広がっていた。リースが自分の理想とならない
ことに不満があった。
(リースちゃん…。私の望み通りにはなってくれないの…!?)
 ニーナはルルシャとリースの様子を冷静に見守っていた。家族ごっこはそろそろ
限界なのかもしれない。いや、そうではなく、お互いに利害が絡みすぎているのだ。
ルルシャもニーナもリースもそれぞれ目的がばらばらだから、まとまりが悪いのだ。

 涙を拭きつつ菜々美は居間に向かった。と、ただならぬ光景が目に入る。
「ちょ、ちょっと、何やってんのよ!?」
「あ、ちょっとシェーラを押さえるのを手伝ってちょうだい!」
 シェーラがルーンに掴みかかっている。それをミーズたちが止めていた。菜々美
もその中に入ってシェーラをルーンから引き剥がす。
「べらぼうめい! 何が見捨てますだ! おめえそれでもファトラの姉貴かよ!?」
「…………」
 シェーラがルーンに罵声を浴びせる。ルーンは押し黙っている。何も言わずに、
ただただ床を見つめているだけだった。
「申し訳ございません、ルーン王女様。何卒お許し下さい」
 ミーズはへこへこしながらルーンに謝る。
「いえ。いいんです。こうでもされた方が気が安らぐというものです」
「ちょっと、ルーン王女様、大丈夫なの?」
「大丈夫です。気にしないで下さい」
 ルーンは凛として言った。
「うう…。ファトラ様…。だめなんですか…?」
 アレーレは泣いて充血した目でルーンを見ながら言った。
「ファトラは…ファトラは強い子です。自分で帰ってきてくれることを祈りましょ
う。あなたもファトラを信じているでしょう?」
「はい…」
 アフラ、ミーズ、藤沢は気難しい顔をして、いつまでも黙っていた。

             ◇  ◆  ◇  ◆  ◇

 あれからファトラと誠はお互いに事のいきさつを話し合った。お互いに初めて分
かったこともあり、驚いたりもした。
「それにしても、ファトラ姫が宰相と取り引きしようとした時って、凄い迫力でし
たね」
「まあな。王族というのはなめられたら終わりなのじゃ」
 ファトラは何やら果実をかじっている。部屋には丸テーブルが一つあり、その上
には酒やら果物が置いてあった。おそらく誠がここで寝かされていた時に、クロノ
ドールとニーナが自分たちのために持ってこさせた物がそのまま残っているのだろ
う。
「王族というのも大変なんですね」
「今頃気づくな」
「はあ…」
 二人を包んでいる雰囲気は初めこの部屋に来た時よりもだいぶなごんでいた。フ
ァトラは誠に対していろいろ話してくれるし、誠もだいぶ気が落ち着いた。
「酒でも飲まんか? なかなか上等なのがあるぞ」
 ファトラは酒瓶を誠の前にちらつかせる。
「いえ。それよりも、いったいこれからどうするんですか?」
「うーむ。どうすればいいものかのう…」
 ファトラは一人で勝手に酒を飲み始めた。
「とりあえず逃げることを考えた方がいいと思うんですけど…?」
 誠はファトラが呑気なことにやきもきして、当たり前のことを口走った。
「うむ。それはもちろんじゃ。しかしとりあえず服を元に戻そう」
「服をですか? 分かりました」
 今、ファトラは誠が着ていた正装を着ている。誠はファトラの普段着を着ている。
正装の方は誠が着やすいように若干細工がしてあるため、ファトラには着づらかっ
た。
「ではわらわはこちらで着替えるから、そなたはそちらで着替えろ。脱いだ物は投
げてよこせ」
「はあ…」
 ファトラはそそくさと家具の陰に隠れる。誠はその家具の反対側に隠れた。
「ほら」
「はい」
 ファトラが帽子やらなんやらを脱いだ順番に誠のいる方に投げる。誠も上着など
を順番にファトラの方に向かって投げた。
「誠、変な気を起こすなよ」
「起こしゃしませんよ」
 二人の間を阻んでいる家具はそれ程大きい物ではない。注意していないと相手の
方が見えてしまいそうになる。ときおりファトラの肌が見えて、誠はどきどきした。
「よし。わらわは済んだぞ。そなたはまだか?」
「もうちょっとです」
「手伝ってやろうか?」
「いえ。結構です」
 そうこうしている内に、ようやく誠の着替えも完了した。二人は再びベッドに腰
掛ける。
「ではさっそく、どうやって逃げるか考えよう」
「見つからないように逃げるのがいいんじゃないですか?」
「無理じゃな。警備が厳しすぎる。あっという間に見つかってしまうのがオチじゃ」
「じゃあ強行突破というのは駄目ですか?」
「わらわたち二人で何人相手にすれば突破できるのか、見当もつかんわ。それにだ
いいち部屋の扉が開かん」
「そうですか。まあそうですよね。僕こういうことには慣れてないもんで、すみま
せん」
 誠は申し訳なさそうな顔をする。ファトラは口許を歪めた。
「わらわだって慣れてなどおらんわ。まあ、唯一の救いはわらわたちが二人とも偽
物で、ロシュタリアの人間ではないということになっていることじゃな。どんなこ
とをしてもロシュタリアの評判に傷はつかん」
「じゃあ、無茶をしてもいいってことですか?」
「まあな。ではとりあえず人質を取ることにしよう」
「人質を取るって、いったいどうやるんですか?」
「誰かがこの部屋に入ってくるように仕向ければいい。まあ耳を貸せ」
「はあ…」
 またろくでもないことにならないことを祈りながら、誠はファトラの計画に耳を
傾けた。

 日が暮れた頃。ニーナはファトラと誠に食事を与えるべく、盆に二人分の食事を
載せて運んでいた。二人がいる部屋の前に来ると、中から何やら悲鳴が聞こえてく
る。ニーナは眉を少し動かすと、片手で盆を持ち、もう片方の手で部屋の鍵を開け
た。
「ああっ! やめて! やめんか! いやーーっ!!」
 目に飛び込んで来たものは、正装のファトラ王女が普段着のファトラ王女をベッ
ドの上に押し倒している光景だ。普段着のファトラ王女は両腕をベッドの上に押し
つけられながらも必死にあらがっている。正装のファトラ王女の方はというと、や
けくその表情で自分の下になっている普段着のファトラ王女を押さえつけようとし
ていた。
「ああーーっ、助けて!」
 ニーナは扉の前でその様子をしばらく観察していたが、別に何をするという訳で
もなく、口許を少し歪めただけだった。彼女はテーブルの方に歩いていって、盆を
その上に置く。
 普段着のファトラ王女はニーナの様子を見ていたが、止めに入る様子がないと悟
るや、正装のファトラ王女を撥ね飛ばして、ニーナの方にだっと駆け出した。しか
しニーナはぱっと後ずさって、一定の距離をとる。正装のファトラ王女がバランス
を崩して、ベッドの上から転がり落ちた。
「ああぁ…」
 普段着のファトラ王女はその場に座り込むと、両手で顔を覆い、肩をふるふると
震わせ始める。
(ええい! もう少し。もう少しこっちへこい!)
 ファトラは懐に果物ナイフを持っている。ニーナが近づいてきたらそれで脅すつ
もりだ。しかしニーナは近寄ってはこない。この距離では逃げられてしまう。
 正装のファトラ王女がベッドの上にはい上がってきた。しかしこちらも動きをと
ることができず、じっと二人を見守っている。
 業を煮やしたファトラは指の間からニーナを見た。するとニーナは顎をしゃくっ
てみせると、部屋から出ていってしまった。鍵の掛けられる音がする。部屋の中に
いるのは再びファトラと誠だけになった。
「…………」
 ファトラは泣き真似をやめて、無言で立ち上がった。
「…失敗しちゃいましたね…」
 ベッドの上から、誠は作り笑いを浮かべながら声をかけた。
「ふ…。初めから演技だとばれておった。そなたのやり方が下手だったのじゃ」
「そんな! あれでも精一杯…」
「ええい! 本当に犯すつもりでやれと言ったじゃろうが! あの程度ではすぐに
演技だと見透かされてしまうわ! そなたはあれで本気でやったのか!?」
 誠の演技はおおよそリアリティーに欠けるものだった。押し倒されている時も、
誠からは全く欲望のような物が感じられなかったのだ。それはニーナも同じだった
のだろう。
「う…その…それは…。すみません…」
 誠はどう答えたらいいものか分からず、謝ってしまった。
「うーむ、まあわらわが犯す方の役をやるべきじゃったかのう…」
「はあ…」
 計画では誠が取り押えられている間に、ファトラがナイフで、取り押えている人
間を脅すことになっていた。配役はこの方が有利だと考えたからだ。運動能力では
誠よりファトラの方が勝っている。
「まあいい。ニーナは食事を置いていったようだし、食べながら他の方法を考えよ
う」
「そうしましょうか…」
 ファトラはかなり長い間悲鳴をあげていたので、疲れていた。

 夜。ルーンは一人である離れの廊下を歩いていた。ここは王宮の敷地内でも人通
りが少ない場所だ。空には星が瞬き、大気はしっとりと落ち着いていた。あたりは
静寂に包まれ、発光植物が柔らかい光を放っている。
 と、目の前に一人の女官が現れた。彼女はルーンに向かってうやうやしくお辞儀
すると、ルーンをある部屋に招き入れる。ルーンはそれに従ってその部屋に入った。
女官は外で扉を閉める。
 そしてルーンの目の前には中年風の女性がいた。彼女は椅子に座っており、向か
いの椅子を手のひらで示す。ルーンは彼女に向かってお辞儀すると、示された椅子
に腰掛けた。
「突然このようなことを申し出まして、誠に申し訳ございません。何としてもお話
がしたかったのです。お許し下さい」
「こうも急に私を呼びつけるとは、よほど重要なことがおありのようですね。では
用件を聞きましょうか?」
 女性はゆったりとした口調で話した。不愉快という様子ではない。むしろこれを
待っていたかのようだ。
 彼女はエランディアの第1王妃、エリシア。彼女の息子であり、この国の王子で
あり、王位を継ぐはずだったガミュア王子は1〜2ヵ月前に殺されている。世継ぎ
がいないということで、今では彼女の権力は微々たる物になっていた。現在権力が
強いのは、次期女王であるリースの母、第2王妃のルルシャだった。
 今晩の密会はルーンがエリシアのメッセンジャーに直接会って、強引に頼み込ん
だ非公式の物だ。密会の事実などがばれないように細心の注意を払っている。
「昼間私共が起こした騒動は御存知でしょうか?」
 ルーンはまずは相手にカマを掛けてみる。これで相手の出方を探るつもりだ。
「知っていますとも。何でもクロノドール宰相の所に押し掛けてはみたものの、そ
れがとんだ見当違い。結局大恥じをかいたとか…」
 エリシアは感情をこめず、淡々と言った。 
「誠にその通りでございます。今晩はその件でお話があるのです。私共は宰相の悪
事を暴くことには失敗いたしました。しかし、残念ながら、大変失礼ではあるので
すが、宰相が悪事を働いていることは真実なのです。よろしければ宰相の悪事を暴
くお手伝いをして頂きたいのですが…」
 表面では平静を装っているが、緊張は極限にまで達している。このように、エリ
シアに助けを請うということ自体、大変な賭けだ。場合によってはエリシアは激怒
するかもしれない。
「…………」
 エリシアは何も話さない。何か考えている風だ。ルーンは心の中で祈った。
「……この際ですからお話ししましょう。どうやら御存知のようですしね。……宰
相がなにやらよからぬことを企んでいるらしいということは私もうすうす感ずいて
おります。しかし何分証拠が全くない状態で手が出せません。全くお恥ずかしい…」
 エリシアは目を伏せながら言った。それはルーンにとっては狂喜にも値する言葉
だった。これならいけるかもしれない。
「それでは悪事を暴くことにはお手伝い頂けるのですか?」
 心なし声が昂ぶっているが、それを押さえながら慎重に言う。エリシアは再びし
ばらく考えてから言った。
「……できる限りのことは致しましょう。私の息子を殺した犯人が誰なのかも知り
たい所ですしね。私の知る限りではこの国の第2王妃、ルルシャが自分の娘を王位
につけるために宰相に私の息子を殺させるように仕向けたようです。それ以上のこ
とは私は知りません。それに私の情報が間違っている可能性もありますしね」
「えっ。私が調べたところでは、宰相が自分が王位につくために王女を殺そうとし
ているということでしたが…」
 これはアレーレの証言によるものだ。エリシアの情報とルーンの情報とでは宰相
の目的が異なっている。よく考えてみると、宰相の部屋に押し掛けた時、ニーナが
部屋にいた。また、小耳に挟んだ情報によると、ニーナはリースの摂政をする予定
らしい。この場合、宰相が王位についても、リースが王位についても、ニーナは得
をする。ニーナは宰相とルルシャのどちらについているのだろうか。
「ルルシャ王妃は自分の娘を王位につけるためにいろいろと暗躍しています。宰相
の悪事もその一環でしょう。おそらく私の息子を殺したのも宰相です。しかし宰相
がリース王女を殺そうとすることはないと思いますが…。もっとも詳しいことは分
かりませんがね…」
「そうですか…。そういえばルルシャ王妃にはまだお会いしておりませんが、大変
お若い方だそうですね」
 ルーンは話題をいったんすり替えた。二人の情報を突き合わせてみると、矛盾が
多い。しかしあまり根掘り葉掘り聞こうとして、エリシアの機嫌を損うのはまずい
と判断したからだ。それにこれだけでも大変参考になった。エリシアに権力がない
ことはルーンも分かっている。エリシアはこれ以上は役にはたたないだろう。
「若い? そう。その通り。よく御存知でしたわね。リース王女が15歳であるに
も関わらず、ルルシャ王妃は25歳なんです。ルルシャ王妃が人前に出ることが少
ないのはこれを隠すためです」
 ルーンはそれを聞いて仰天した。いくらなんでも若すぎる。それではルルシャは
10歳でリースを産んでいなくてはならないではないか。
「それは養子か何かの関係なのですか?」
「いいえ。正真正銘親子です。これについては深い事情があるのです…」
 エリシアの表情が沈む。ルーンは深い事情という物に非常に興味を引かれた。う
まくすればその事情というのを使ってファトラと誠を解放させることができるかも
しれない。
「その…できればでよろしいんですが、その事情というのをお聞かせ頂けないでし
ょうか?」
 ルーンのその言葉を聞いて、エリシアの表情がますます沈んだ。
 沈黙が二人の間を流れる。しばらく経った頃、ようやくエリシアが固い表情で、
何やら話し始めた。
「……仕方ありませんね。このことを誰かに話すことはないと思っていたんですが
…、私も息子のかたきを打ちたいですからね。よろしいです。お話しましょう。い
いですか。これから話すことは我がエランディア王室の恥部です。もしこれから話
すことが公になったりしたら、大変なスキャンダルになります。従って、絶対に公
言しないことを約束して頂きます。教えはしますが、あくまでルルシャ王妃たちと
の取り引きにのみ使用して下さいよ。よろしいですか?」
「はい。重々承知致しました。私の名にかけて誓いましょう」
 ルーンは胸に手を当てて力強く言った。
「結構です。それでは順番に事情を話していきましょう」
 エリシアの手によってエランディア王室の過去が徐々にひもとかれていった。そ
れはある意味ではどこにでも転がっているような話であり、ある意味では恐るべき
話だった。彼女の話はこうだった。

 先代の王、ゼメキスがエリシアと結婚する前。当時ゼメキスはまだ若かったのだ
が、すでに王位を持っていた。さらにその前の代の王が病気で早死にしたためだ。
 ゼメキスは精悍な若者で、将来を有望視されていた。しかし王位を継ぐのがあま
りにも早かった。度重なる政治的災難や、官僚の取りまとめ、賄賂などの複雑な取
り引きにより激烈なストレスを受けた彼は、女性と戯れることが多くなった。その
戯れも次第に暴力的になり、ついには死者まで出る有様となった。
 官僚は人買いから買ってきた人間を賄賂の一種として献上することもあった。そ
してその中にルルシャとニーナも含まれていた。しかし当時彼女らはあまりにも若
く、ゼメキスの興味はさほどではなく、しかしそれでもルルシャは妊娠した。
 ルルシャはリースを産み、仲間のニーナと一緒に彼女を育てた。
 結局ゼメキスの性癖はエリシアと結婚することで収った。しかし献上された物は、
逃げたり死んだりした分を除いて、残った。そのなかにもやはりルルシャとニーナ、
そしてリースが含まれていた。そういった者たちはエリシアの取り計らいで、厳重
に口封じされた上で、王宮で仕事を与えられた。大半は宮女とかそういったものだ
ったが、スパイなどにも使われたらしい。
 ルルシャやニーナは官僚間のメッセンジャーなどをやらされていた。彼女らはこ
の間に政治などに関する知識を学んだのだそうだ。そしてルルシャがもう少し成長
した時。彼女は非常に美しくなり、それをいたく気に入ったゼメキスは強引に彼女
を妻にしてしまった。この時、ニーナはルルシャの仲間ということで、離れ離れに
ならずにすんだ。結婚の際は、ルルシャは貴族の娘ということに偽装したのだそう
だ。
 そしてそのまま数年の時が過ぎ、ゼメキスはその先代の王と同じく病気で早死に
した。これは間違いなく病死だったそうだ。あとには第1王妃エリシアとその息子
ガミュア王子、第2王妃ルルシャとその娘リース王女。それにルルシャのメッセン
ジャー、ニーナが残った。
 そしてガミュアが暗殺されて今に至る。

「私とゼメキスの結婚は政略結婚でしたが、ゼメキスの性癖を直すことも目的の一
つでした。残った女性たちは、彼女たちは被害者でしたし、私が職を与えました。
王宮で働かせたのは常に目の届く所へ置いておくためですしね。しかしルルシャ王
妃を妻にすることには私は反対でした。彼女たちは闇の人間ですし、あまり強い権
力を与えれば復讐の危険もあります。しかしゼメキスは…おそらく更正しきってな
かったんでしょうね。あんまり彼女が美しかったもので、周囲の猛反対を押しきっ
て妻にしたんです。この時は大変でした。あらゆる手を使って偽装しました。彼女
にはすでに子供がいますし、この理由をつけるのは大変でしたよ。まあ、結局うや
むやにしてしまったんですけどね。そしてゼメキスが死んだ途端、この有様です。
あれは復讐ですよ」
 エリシアは長い話を終えた。ルーンはそれを完璧に記憶した。
「そうですか。分かりました。貴重な情報をどうもありがとうございます。このこ
とは決して口外致しませんからご安心下さい。必ずや宰相の悪事を白日の元にさら
してごらんにいれましょう」
「エランディアの評判に傷がつくことはあまりしないで下さいよ。それにルルシャ
王妃を捕まえることはスキャンダルになりますので避けて頂きたいです。彼女につ
いてはあきらめましょう。いずれにせよ、リース王女が王位を継ぐことは確実です
し、リース王女が王位をついだ所でなんら問題は生じませんからね。ルルシャ王妃
やそのメッセンジャーのニーナは優秀ですし、国が傾くようなことにはならないで
しょう。そのへんのことは彼女たちも分かっているはずですからね。手をつけるの
は宰相周辺のみにして下さい。宰相だけは危険人物のようですからね」
「分かりました。それでは私はこれで」
 ルーンは椅子から立ち上がった。
「この程度のことしかできなくて申し訳ございません。何分、今の私の権力ではこ
れが精一杯ですので…」
「とんでもございません。それでは…」
「はい」
 ルーンはお辞儀すると、部屋から出ていった。外に出るとさっきの女官がいる。
彼女はお辞儀をした。
 エリシアが息子のかたきをうちたいがために、重要な機密を教えてくれたことは
幸いだった。これで何とかなるかもしれない。ルーンは行きに来た通路を戻りなが
ら、これからのことを考えた。
 まずはニーナに会って、今聞いた情報を使って彼女を脅し、ファトラと誠を解放
させる。そうしたら今度は宰相たちの悪事を暴く。
 おそらく今回の一件にルルシャ王妃が絡んでいることは間違いないだろう。そし
て宰相がこれに一枚噛んでいる。問題はニーナがルルシャについているのか、宰相
についているのかだが、このあたりのことはルルシャ王妃と話し合って折り合いを
つけるしかないだろう。また、ルルシャ王妃を失脚させることは避けなければなら
ない。
 そういったことをふまえると、トカゲのしっぽ切りの要領で宰相を失脚させ、場
合によってはニーナも失脚させるのが最良だろう。あとこれらのことは菜々美たち
や大神官たちに知られるのはまずい。彼らには何も知らせないことにしよう。
 身内に対して非情な人間を演じ続けなければなければならないのは心が痛むが、
仕方がない。こういった裏での交渉はファトラが割と得意としていたが、今は彼女
はいない。これはルーンが一人でやらなければならないのだ。
 悲しい過去を背負った彼女たちに対して同情の念もあったが、これからの展望が
ようやくひらけ、ルーンの歩みは多少なりとも楽になっていた。


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