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第9章 夢幻と現実
ある客室。男が一人事務処理をやっている。不意に扉が叩かれた。 「クロノドール宰相。ニーナです」 「入れ」 「失礼します」 ニーナは扉を開けて中に入ってきた。相変わらず事務的な態度だ。 「例のファトラ王女とその偽物のことについてなのですが…」 「何だ?」 クロノドールは椅子から立ち上がり、ニーナの方に向き直りながら聞いた。 「ファトラ王女は女ですが、あの偽物は男です。一緒の部屋に入れておくのはまず いかと存じます」 それを聞いて、クロノドールは指を顎の所へやった。 「うーむ…。確かにそうかもしれんが、まさかあの偽物が王女に手を出すような、 そんなだいそれたことはしないのではないか?」 「しかし夕方すぎの時、私が二人に食事を与えに行ったら、あの二人は揉み合って いました。その時は私が止めましたが、やはり危険でしょう」 「そうか…。そういえば物音がしていたな。しかしではどうするのだ? 他に閉じ 込めておけるような所はないぞ」 「私に心当たりがあります。私がどちらか片方を預りましょう」 「心当たりとはどこのことだ?」 「私の部屋の隣です。いけませんか?」 「…よし。それならいいだろう。ではそうしておいてくれ」 「はい」 クロノドールはそれだけ言うと、再び机の方に向き直って事務処理を始めた。別 にわざわざニーナにつきあう必要はない。 ニーナは一礼すると、部屋を出て行った。 ニーナはファトラと誠のいる部屋の扉を開いた。事前に物音で気づいていたらし く、ファトラと誠はニーナの方をじっと見ている。ニーナは二人をしばらくじっと 見比べた後、口を開いた。 「そちらの人、私と一緒に来て下さい」 「ん、わらわか?」 ニーナは普段着のファトラ王女の方を指差した。普段着のファトラ王女は自分の 顔を自分で指差して確認を取る。 「はい」 ファトラは誠に目くばせすると、立ち上がった。そのままニーナの方へついて行 く。ニーナとファトラは部屋を出た。ニーナは部屋の鍵を掛けようとする。 その刹那…。 「誠も一緒に出してもらおうか。城外まで案内してもらおう」 ファトラは声を低くして言った。ニーナの首筋にファトラの果物ナイフが当てら れている。しかしニーナは動じる様子はない。 「ファトラ王女、ご自分の腹の所を見てごらんなさい」 「?」 ファトラは自分の腹のあたりを確認した。ナイフが突きつけられており、そのナ イフを握っているのはニーナだ。ニーナはファトラが動揺した瞬間を見計らって素 早く部屋の鍵を掛けると、鍵を懐へしまった。 「人を呼んでもいいんですよ。それをこっちへ渡して下さい」 「……やむをえん…」 今の状態では圧倒的に不利だ。ファトラは舌打ちすると、果物ナイフをニーナに 渡した。ニーナはそれを自分のナイフと一緒に懐へしまう。 「そう心配しなくても大丈夫です。一緒に来て下さい」 「分かった」 「ではこちらへ」 ニーナはファトラの右腕を左手で掴むと、ファトラを前にして歩き始めた。 ファトラは背中に何か突きつけられているのを感じる。それが何かは分からない が、あまり逆らわない方がいいだろう。それにニーナがどこまでクロノドールの味 方なのかという疑問もあった。ひょっとしたらニーナと取り引きできるかもしれな い。 「この部屋へどうぞ」 「うむ」 しばらく歩いた後、ファトラはある部屋へ通された。あたりにはうず高く書類が 積まれており、筆記用具などが散乱している。おそらく誰か----ニーナの事務室だ ろう。振り向くと、ニーナは何も持っていなかった。どうやら背中に突きつけてい たのは指だったらしい。 「ご自由にどうぞ。何か飲まれますか?」 「いや。いい」 ファトラは適当な席に座った。ニーナはファトラと向かい合う位置に座る。 「一体何の用じゃ? 尋問でもする気か?」 「いいえ。あなた言ったじゃないですか。『私と一緒に夜を明かさないか』って。 それで私は『うまくいったら招待してさしあげる』と言ったはずですよ」 ニーナは妖艶な笑みを浮かべて言った。ファトラは怪訝な顔をする。そういえば、 ニーナのこんな表情を見たのは初めてだ。今は事務的な感じがしない。 「ほほう。しかしそなたは『うまくいったら招待する』と言ったはずじゃぞ。うま くいったことなどあったかな?」 ファトラはニーナに負けじと、艶っぽく笑いながら、皮肉の篭った返事をする。 何とかして話を自分のペースに持ち込みたい。 「うまくいったことですか…? なくはありませんよ。現に、あなたが今ここにい るんですから」 悪戯っぽく笑いながら、ニーナはファトラを指差した。 「…………」 ファトラは口ごもってしまった。確かに今、自分がここにいて、しかもロシュタ リアが手を出せないというのは、ニーナたちにとって都合のいいことだ。しかし、 “うまいこと”があったからといって、あんな冗談が通る訳がない。何しろ今、ニ ーナの目の前にいるのは一国の王女であって、人質なのだから。 (一体ニーナは何を考えておるのじゃ? それさえ分かれば何とかなるかもしれん というのに…) ニーナの目的は理解しがたい。ただ言えそうなことは、クロノドールの差し金で はなさそうだということだ。もっとも、裏をかいてそうということもあるだろうが。 「ではこれは招待だというのか?」 「そうですよ」 「まさか。本当のことを言うのじゃ」 「そうですねえ…。まあ少なくとも招待ではありますよ。招待主は…まあその内お 教え致しましょう」 「招待主はクロノドールかな?」 ファトラはふざけた口調で聞いた。 「ははっ。まさか!」 ニーナは大げさに、全身で驚いてみせる。ファトラには少々予想外の反応だ。 「ほほう。ではそなたはスパイだったのか。そうすると、クロノドールを撃ったの もそなたかな?」 「いいんですよ。そんなことは。取り引きをしましょう。取り引きが成立すれば、 招待主に会わせてさしあげます」 ニーナは悪びれる様子もなく言った。もうあの事務的な感じは微塵も残っていな い。ファトラはかえって気味が悪くなった。 「取り引き?」 「そうです。あなたとあの誠とかいう男性を解放してさしあげましょう。その代わ りに私の提示する条件を飲んでもらいます」 「なるほど。それは一体どういう条件じゃ?」 「政治裏工作の手伝いをして頂きます。私たちは敵が多い。敵を排除するのを手伝 って欲しいのです。ちょっとしたことで済みますよ」 「敵とは誰じゃ?」 「それは言えません。しかし少なくともロシュタリア関係ではありませんのでご安 心を。お受けして頂けますか?」 「気が速いな。わらわはそなたたちのことについて何も知らんのじゃぞ。とりあえ ず、せめてそなたの正体を明かして欲しいな」 「私の正体ですか? 私の身分はこの国の第2王妃ルルシャ様のメッセンジャーで す。クロノドール宰相との関係は特にありません」 「で、正体は?」 ファトラは声を低くして聞いた。ニーナは一瞬口ごもる。 「……ではこうしましょう。私はクロノドール宰相を口で言いくるめて操っていま す。それは今でも続いています。表向き、私はあなたをあの偽物の男性と別々の部 屋に入れるということで連れ出してきています。早い話、あの男性は宰相の人質で あると同時に、私の人質でもあるのです。あなたの返答次第ではあの男性の命は保 証できません。分かりますか?」 「分かるとも。わらわを脅迫するのじゃろう?」 「言葉は悪いですがそうです。しかし私が提示する条件はたいしたものではありま せん。私の条件を飲んで頂いた時点であなたを解放し、条件が達成された時点であ の男性も解放しましょう。悪い話ではないはずですよ」 「かもな。しかし肝心のその条件とやらがはっきりしない。だいいち、条件が分か らないのにそれを飲むなんてことは不可能じゃろう?」 「まあその通りですね。では議論に応じて頂けるかをまずお聞きしましょう。議論 に応じて頂けますか?」 「分かった。議論には応じよう。多少の裏工作ならば手伝おう」 この際だからあまり贅沢はいっていられなかった。ただ、幸いなことはニーナは クロノドールより話の分かる人間だということだ。条件というのがどんなものか分 からないが、うまくいけば自分と誠は解放されそうだ。 「懸命な判断です」 「では招待主に会わせてくれ」 「その前に約束して下さい。変なまねはしないで下さいよ」 「ああ。分かった」 「ではこちらへ」 ニーナは立ち上がった。ファトラもそれについで立ち上がる。二人は部屋を出て いった。 ファトラの心にはようやく事態が打開できそうだという安堵感と、一体これから どうなるのかという不安感があった。 またしばらく歩いた。あたりの風景はよりきらびやかな物へと変化してきている。 おそらくはこの王宮の一番豪華な区画だろう。王族の居住区か、高級な来賓をもて なす区画だ。 ニーナはある部屋の前で足を止めた。あの事務的な雰囲気が戻っている。 「招待主の方は神経質な方ですので、無礼なことはしないで下さいよ」 「さっさと扉を開けろ」 「では…」 ニーナは扉の方へ向き直ると、手の甲で扉を叩いた。 「ニーナです。客人をお連れしました」 その時、ファトラがふと廊下の奥の方を見ると誰かいた。リースだ。彼女はファ トラに気づかれたことを悟ると、どこかへ消えてしまった。ニーナはリースの存在 には気づかなかったようだ。 扉の内側から返事が返ってくる。 「入りなさい」 「はい」 ニーナは扉を開けた。まずニーナが中に入り、ついでファトラが中に入る。 部屋は豪奢な装飾が施されていた。瀟洒な絨毯とカーテンがあり、使ってある物 の贅沢さの割にはさっぱりとした感じがする。そして大きなベッドには線の細い華 奢な女性が一人座っていた。女性はファトラを興味深そうに見る。 「まあ、かわいらしい。おいで…」 女性はファトラに向かって手をさしだす。 「かわいらしい…?」 その女性の言葉はおそらくファトラに向けられた物なのだろう。しかしファトラ にはなじみの薄い言葉だった。美しいと言われることはあるが、かわいらしいと言 われたことはあまり記憶にない。しかし悪い気はしなかった。 なにはともあれ、ファトラは女性のそばまで歩いていった。 「自己紹介をお願いします」 「ああ。私はこのエランディアの今は亡きゼメキス王の第2王妃、ルルシャです。 宰相のクロノドールがあなたにご無礼を働いてしまい、大変申し訳なく思っており ます。私としてはロシュタリアとはいい仲を保っておりたいのです」 ファトラはこの一言でだいたいの事情を悟った。おそらくこのルルシャという女 性の言っていることは嘘ではないだろう。そうすれば、やはりクロノドールは利用 されていただけなのだ。 「そなたが招待主か?」 「招待主? ああ。あなたをここへ連れてくるように言ったのは私ですよ」 「なるほど。わらわはロシュタリア第2王女、ファトラじゃ。ニーナはそなたのス パイか?」 ファトラはニーナが差し出した椅子に座りながら言う。 「ニーナは私の友達です。よく働いてくれますよ」 「ではクロノドールはよく働いてくれたかな?」 ファトラは皮肉っぽく聞いた。 「ああ、宰相もよく働いてくれましたよ。お陰でとても助かりました」 ルルシャは笑っている口許を手で隠しながら言う。 「ではリース王女はそなたの娘か?」 「そうです」 やはりな…。というのがファトラの感想だった。ルルシャはリースを王位につけ るために裏工作を行っているのだ。ルルシャがやけに若いのが気になったが、こん なことで嘘をついても仕方がない。調べればすぐに分かるのだから。 「ルルシャ様、用件をお話し願います」 喋りすぎていると思ったのか、ニーナがルルシャをたしなめた。 「ああ。では…。何をして欲しいのか手短にお話し致しましょう。この国の官僚を 勤めている貴族や豪族たちの中に、私たちのことをあまり良く思っていない者たち がおります。ここまで話せば後はお分かりでしょう?」 ルルシャは背筋を曲げて、ファトラの目の中を覗き込んだ。分かるも何も、さっ きニーナから説明を受けている。 「そいつらを失脚させるのを手伝えというのか?」 「ご名答です。今までは宰相にやってもらっていましたが、彼の権力や利害関係の 都合上、彼にはこれ以上は無理ですからね」 「ふむ。ところでさっきそなたが言ったことなのじゃが、“私たち”というのは誰 と誰のことじゃ?」 「答える必要はありません」 「そうか…」 裏工作としてはそれ程珍しい物ではない。政敵を罠にはめるなど、日常茶飯事だ。 ただ、ルルシャの言う“私たち”というのが気にかかった。 「すでにニーナから説明を受けているとは思いますが、男性を一人こちらで預って おります。なんでも仲の親しい方だそうで、あなたはその方を大切にしていらっし ゃるようですね」 「あれはただの友人じゃ。しかしけじめをつけたくてな」 「そうですか。まあいいです。重要なことはあなたが彼を助けたいということです」 「それで?」 ファトラのそっけない答えに、ルルシャは自嘲気味に言葉を続けた。 「単刀直入に聞きましょう。裏工作を手伝って頂けますか?」 自嘲気味だが、語気は強い。ファトラはやや考えた。しかし、今の状況から考え て答えは決まっている。ファトラはため息を一つしてから、答えた。 「分かった。手伝おう。しかし誠の身の安全は保証してもらうぞ」 相手は次期女王の母親だ。権威からしてみれば、ファトラと肩を並べる。今行っ ている議論はいわば、非公式の首脳会談なのだ。状況は圧倒的にファトラに不利だ し、親しい仲になっておけば後々いいこともあるかもしれない。 「ありがとうございます。あなたと彼の身の安全は保証してさしあげましょう。ね、 ニーナ?」 「はい。ご安心下さい」 ニーナはそっけなく答えた。 「大丈夫じゃろうな? 事が済んだら、背中からナイフでぐさりなんてことはない じゃろうな?」 ファトラのその言葉を聞いて、ルルシャはくすくすと笑った。 「心配しないで下さい。私だってロシュタリアとの関係はいい仲にしておきたいん ですから」 「そうか…」 ファトラはほっとした。多少心配は残るが、これで誠の身の心配はしなくていい。 ようやく肩の荷が降りたような気がした。 「では裏工作の内容を聞こうか?」 「はい。ニーナ、説明してさしあげなさい」 「はい。とりあえず、クロノドール宰相を失脚させます。彼はこの件に関わりすぎ ていますからね」 「どうやってじゃ?」 「宰相の計画書をさしあげますので、それを証拠にしてロシュタリア側から働きか けて下さい。計画書は後でさしあげます」 「なるほど。分かった」 その後、ファトラはニーナからいろいろな人物に対しての計画を聞いた。計画の 中には犯罪をでっちあげるなんていう物もあり、場合によってはかなり危険な橋を 渡らなければならなくなりそうだ。しかしロシュタリアに影響が出そうな物はなか った。あくまでうまくいった場合だが。 小一時間程過ぎた頃。 ようやくニーナが全ての計画を話し終わった。 「これで全部です」 「結構な量じゃな」 何でこんなに量が多いのかはだいたい想像がつく。しかしファトラは口には出さ なかった。 「では果実酒などいかがですか?」 「ん、ああ。もらおうか」 いつの間にかルルシャが杯に酒を注いでいた。ファトラは緊張が解けて、喉が渇 いていた。 ルルシャが三つある杯の内の一つをファトラに向かってさしだす。ファトラはそ れを受け取った。ルルシャとニーナもそれぞれ杯を持つ。毒が入っている可能性は ない。今ファトラを殺せば、計画が無駄になってしまうのだから。 「では、乾杯」 「乾杯」 ファトラは杯を一気にあおった。上等な酒だ。さすが王妃といった所か。 「もう一杯いかがですか?」 「ああ」 空になったファトラの杯に、ルルシャは再びなみなみと酒を注ぐ。ファトラはそ れを遠慮もなく飲み干す。ルルシャやニーナも杯を重ねた。 そして何度目かの杯を重ねた頃。 ファトラは自分の精神が不安定になってきていることに気づいた。意識を集中し ていないと、精神が拡散しそうになる。 (ん…。なんじゃ…これは…? 酒に酔ったのではないようじゃが…) ルルシャとニーナの様子を確かめる。二人は別に変化はないようだ。 「どうしたんですか? 酔いましたか?」 ファトラの様子に気づいたらしく、ルルシャが問いかける。表情が少しばかり笑 っている。酔うのが早いことをからかっているのだろうか。ニーナは普段の表情を している。 「いや。大丈夫じゃ」 ファトラは不審に思いつつも、さらにもう一杯飲んだ。 変化はその時起きた。 視界に突然霧がかかると----真っ暗になり----無数の光の点が現れ----どんどん 増えて----視界を埋めつくすほどになると----落ちてくる。 「うわああああぁぁっっ!!」 ファトラは杯を放り出すと、床に転がり落ちた。両手で目を覆い、床の上を転が り回る。 光の点がぶつかると----頭に激痛が走る。 「ど、どうしたんですか!?」 ニーナが仰天してファトラを取り押えにかかる。しかしファトラはそれを払い除 けた。ニーナはどうしていいか分からず、茫然としている。 「光…。光が…落ちてくる…!」 「光? 何のことですか?」 「ああっ、くそっ! 酒に何を入れた!?」 押し潰されそうな意識の中で、ファトラはかろうじて声をしぼり出す。何とかし て意識をつなぎとめようと頭を押さえてかがみ込むが、意識は普通ではない方へ傾 いていく。外部からの感覚はなくなり、宙に浮くような感覚がする。そして何が何 だか分からない何かがどんどん意識の中に浸透していった。何かの中に浸け込まれ た意識は自分の意識ではなくなっていく。 「何も入ってはおりませんよ」 ファトラはぐったりとして、動かなくなった。目はうつろで、焦点があっていな い。頭をゆらゆらと揺らしたり、ときおり意味のない小さなうめきをあげるだけだ。 ニーナの声にも反応しない。 ニーナはその様子を見て、それが明らかに薬による物だと悟った。そしてさっき からルルシャがファトラの様子を静観していることに気づいた。 「ルルシャ、酒に何か入れたの?」 「ちょっとだけ、魂を解放する薬を…」 ルルシャは邪悪な笑みを浮かべながら答える。酒に混ぜたのはLSD系の幻覚剤 にさらにいくつかの薬物を混ぜた物だ。 「何てことするの!? こんなことする必要なかったのに!」 ニーナはルルシャを睨みつけた。 「えー、だってこの子がちゃんと言った通り動いてくれるか分からないじゃない。 それに人質を解放した後のことが心配でしょ。だから念のために術をかけておこう と思って…」 ニーナに気圧されたのか、ルルシャは肩をすくめながら答えた。 「そういうことを断りもなしにしないでよ。まったく。一体どうするつもり?」 ニーナは頭を掻き、いらいらした様子で言う。 「この子の中に新しい人格を作って、元の人格とすり替えるの」 ルルシャはふざけて、わざと真面目な顔を作って言った。 「そんなにうまくいくの?」 ニーナはうんざりした様子で言う。 「いく訳ないじゃない。まあ、実際には意識に私たちのことをすりこむだけだから」 ルルシャは笑いながら答えた。 「そう…。その程度ならまあいいけどね…。どうせうまくいかないだろうし…」 「大丈夫よ。操作したことは記憶には残らないから」 「運がよければでしょ?」 「悪いとは限らないよ」 それに対してルルシャはそっけなく言った。 「相変わらず楽天家ね。リースちゃんのこと以外は」 それを聞いて、ルルシャは鼻で笑った。 「じゃあ、この子をベッドに載せるのを手伝って」 「どうなっても知らないからね」 ぐったりとして半分意識のないファトラをルルシャとニーナはルルシャのベッド の上に載せて、横たえた。ニーナはファトラの乱れた髪や服装を整えてやる。ファ トラは自分の状況が分かっているのかいないのか、反応がない。 ルルシャはファトラの隣に横になる。ニーナは椅子に座って再び酒を飲み始めた。 ルルシャが何をやるのか様子を見守っている。 「ねえ。何か悲しいことはない? 欲しい物はある?」 「…ん…あぁ…うぁ…」 ルルシャはファトラの頬をそっと撫でる。初めの内は反応がなかったが、何度も 撫でたり、声をかけている内に次第に反応を現し始めた。 「ん? ねえ?」 ルルシャはファトラの体を抱き寄せ、彼女の上になった。銀髪がファトラの顔に かかる。ファトラはうつろな目をしているだけだ。 「…んん…悲しいこと…?」 「そう。ねえ。満たされないことはある?」 ファトラの黒髪を指でもてあそびながら、うつろな目を覗き込む。 「あ…あぁ…」 ファトラの脳裏に声が響く。あらがうことのできないそれは意識の網をすり抜け て、記憶へアクセスする。記憶から返ってきたデータも意識をすり抜けて、外へ流 れ出した。まるで水をすくった手の隙間から水がこぼれ落ちていくように。 これは自分の意思なのだろうか。そんなことも分からない内に口が動いた。 「ぁ…は…母上…」 遠い記憶。母が死んだ日のことを思い出した。もう長い間思い出していない記憶 だ。自然と目から涙が一筋流れ出た。 「ん? お母さん? お母さんか…。じゃあ、私があなたのお母さんになってあげ る」 なった。 「あぁ…は、母上…」 「んん」 ファトラは頬を撫でているルルシャの手を取った。視線がルルシャを捉らえる。 しかし見えている物はルルシャではない。 ルルシャは上半身を起こし、ファトラも起こさせると、自分の胸の中に抱擁した。 ファトラは心地好さそうにそれに従った。 シェーラは別館から外に出た。もう真夜中だ。涼しい風が頬を撫でる。あたりを 確認すると、歩き始めた。 その時。 「どこ行くの?」 「!?」 突然声が響いた。菜々美の声だ。彼女は物陰から出てきた。どこかしらはればれ とした表情をしている。 「そんなのあたいの勝手だろ」 シェーラは目をそらしながら答える。 「私も行くわ」 「……どこ行くか知ってんのか?」 「誠ちゃんの所でしょ?」 菜々美はしれっと答えた。シェーラはぎくりとする。 「……勝手にしな」 追い返す訳にも行かず、シェーラは歩き出しながら答えた。 その時、また別の声が響いた。 「私も行きます」 びっくりして二人が声のした方を向くと、アレーレがいた。思い詰めたような表 情をしている。 シェーラと菜々美はすぐに事情を理解した。 「勝手にしな」 「みんなにはないしょよ」 「はい」 こうして三人は夜の闇の中へ消えて行った。 ファトラはルルシャの膝で心地好さそうに眠っている。ルルシャはファトラの髪 を軽く撫でてやった。 「首尾はどう?」 それまで黙ってルルシャとファトラの様子を見守っていたニーナだが、ファトラ が眠ったようなので、声をかけた。 「いいんじゃないの? でもこの子もかわいそうな子ね。この年で母親がいないな んて…」 「それが?」 ニーナは無感情にそっけなく言う。 「それが…って、何も感じないの?」 「別に…。母親なら私たちだっていないじゃない」 「ああ…、ニーナは捨てられたんだっけ…」 「あなたは誘拐されたんでしょ?」 「あー、でも普通の人と較べればかわいそうじゃない?」 ルルシャは悪戯がばれた子供のような顔をして言う。 「じゃあ、私たちと較べたらどうなるの?」 「幸せなんじゃないの?」 「じゃあ別にかわいそうと思う必要はないじゃない」 「そりゃそうだけど、リースちゃんならかわいそうと言うはずよ…」 ルルシャは肩をすくめてみせた。 「当たり前のこと言わないでよ…。あなたが派手好きなのは分かるけど、薬を飲ま せる必要なんてなかったよ。せいぜい何も憶えてないことを祈りましょ」 ニーナは頭を掻き、いらいらしながら言った。 「ふーん、そんならこの子をリースちゃんの姉にしてみようかな? うまくいった ら私の勝ちね」 ルルシャはファトラの顔をおもしろそうに撫でる。 「くだらないこと考えてないで、もうちょっとまともなこと考えなさい。明日…い え、夜が明けたら戴冠式なんだから。それに宰相の始末はまだ済んでいないし、私 だって宰相のことを全て把握している訳じゃない。ひょっとしたら私の知らない所 でリースちゃんを殺すかもしれないんだから」 ニーナは語気を強めて言う。 「そういうことがないようにあなたがいるんじゃない。まあ私も気をつけてるけど …」 それを聞いて、ニーナは笑った。 「気をつけてるなら、何で逃げ出されたりしたの? リースちゃんはどうやって自 分の命を狙われているって気づいたの? この計画を言い出したのは誰? ガミュ ア王子を殺したのは誰だっけ?」 「いじわるね。あなたも子供を産めばよかったのに。この子を産んだ母親はどんな 気持ちでこの子を産んだんだろうね」 ルルシャはファトラの顔を再び撫でた。ファトラは起きる様子はない。 「じゃあエリシア王妃はどういう気持ちでガミュア王子を産んだのかな? エリシ ア王妃もその子の母親もあなたみたいに子供のために命をかけるの?」 ニーナの言葉にはルルシャに対する批判がこめられている。曰く、人の親がどう して人の子を殺せるのか? ルルシャのしたことは自分たちがされたことと同じだ ということが…。 ルルシャは少し考えてから、話題を変えることにした。 「この子が起きるといけないから、あなたの部屋で話をしましょ」 ルルシャはファトラの頭を膝からそっとどけると、ベッドからおりた。 「…そうね」 別にルルシャを追及するつもりではないので、ニーナも立ち上がる。 ニーナとルルシャは近くにあるニーナの私室へ移った。ニーナはメッセンジャー なのだが、ルルシャと極親しいので王族と同じ区画に部屋を持っているのだ。 ルルシャはベッドに座る。ニーナは椅子に座った。 「ねえ、ニーナ。別に私はあなたと仲たがいしたいんじゃないんだから。あの子を リースちゃんの姉にすると言ったのは冗談よ。ただあの子のことがちょっとかわい そうになって、親代わりになってやりたいと思っただけなんだから。気を悪くしな いで」 ルルシャは肩をすくめて弁解する。 「母親ねえ…。あなたは子供を産んだことがあるけど、私はないからね。それに私 は親なんて知らないから…。そういったことではあなたが感じていることも正しい のかもしれないね…」 「親にはなれなくても、リースちゃんの姉にはなれたんじゃない?」 ルルシャの問に、ニーナはため息を一つ洩らした。 「そうね。いい勉強になったよ」 ニーナは酒の杯を二つ取り出すと、一つをルルシャに持たせる。酒瓶を持つと、 自分もベッドに座った。ルルシャの杯に酒を注ぐと、自分の杯にも注ぐ。 「とりあえずはルルシャの言う通り。私も変わった。二人でリースちゃんを育てま しょ」 ニーナは酒を一口飲むと、ルルシャをベッドの上に寝かせた。自分もその隣に横 になる。 「昔は一緒に寝たね」 「今でもたまに寝るでしょ」 「そういう時は昔を思い出すな…」 「思い出したくない?」 「忘れるようにしてるよ」 「そう…」 ニーナはルルシャの喉のあたりを撫でた。