第10章  夢幻の終演


 ルルシャとニーナが部屋から出ていった後。ファトラはまだ眠っていた。
 不意に部屋の扉がゆっくりと音をたてずに開かれた。若い女性が一人入ってくる。
彼女はファトラがいることを確認すると、ファトラの方へ寄って行った。
「起きて。起きて下さい」
「…ん…んん…」
 薬のせいか、ファトラはなかなか起きない。しかし女性の方はそんなことは知る
由もない。ファトラの体を揺すったりして、声をかけ続ける。
 しばらくすると、ファトラはようやくうっすらと目を明けた。
「…ん……うぁ…母上?」
「違います。リースです。起こしてしまってすみません」
「リース?」
 ファトラはベッドに横になったまま、視線だけ動かしてリースを見る。もっとも、
リースの姿がきちんと見えているのかは謎だ。
 リースはファトラの目を見てぎょっとした。正気の目ではない。
「は、はい。リース王女です。あなたはファトラ王女でしょ?」
「母上はどこへ行った?」
「……出て行きましたよ」
 ファトラの質問の真意がよく分からないので、リースはとりあえず当たり障りの
ない返答をした。
「さっきまでいたはずなのじゃが…。戻ってはこんのかな…」
 ファトラは怠惰な動作で寝返りをうった。
「…さあ…。…その…ちょっとお話がしたくて来たんですけど…」
 リースは立ったまま、うつむいて話す。とりあえず別の話題から入ることにした。
「あなたは誘拐されたと聞いていたんですが、なんでここにいるんですか?」
 ファトラの耳にはリースの声その物は届いている。しかしファトラはそれをリー
スの声とは認識しなかった。どこか、自分の内部からの声のように聞こえる。
「誘拐などされてはおらん。ここに招かれたのじゃ」
「そうなんですか…。その…ルルシャ王妃とメッセンジャーのニーナには会われま
したか?」
 リースはファトラがルルシャとニーナに会ったことは知っている。ルルシャとニ
ーナがいない時を見計らって部屋に入ってきたのだ。
「ああ。会ったとも」
「どんなお話をされたんですか?」
「話? ああ、それはな、宰相を失脚させる計画とかを練っておったのじゃ」
 自分の内部から聞こえてくると感じられる声に対して、ファトラは自分自身に言
い聞かせる感覚で答えた。
 ファトラの言葉を聞いた瞬間、リースの心臓はどきりとした。
「そ、それじゃあ、ルルシャ王妃は何か計画しているのですか?」
 リースは生唾を飲み、冷や汗を流しながらさらに聞く。
「そうみたいじゃな」
 リースのことなど知らないという風で、ファトラはもう一度寝返りをうった。
「そうですか…。それじゃあ…」
 リースはさらに質問を始めた。

 少しばかり時間がたった頃。リースはファトラから彼女の知る情報を全て聞き出
していた。ファトラの目の方は多少正気を取り戻している。
「……そうだったんですか…。分かりました」
 リースはきゅっと唇をつみ、小刻みに震える体を両手で抱きかかえるようにして
いる。冷や汗がだらだらと流れた。非常に落ち着かず、そわそわしている。
「母上はどこにおるか知らんか?」
 ファトラはベッドに寝転がったまま尋ねる。
「…私の母親なら知ってますけど、あなたの母親は知りません…」
「いや、わらわの母親じゃ。さっきまでいたはずじゃが…」
「さっきまでここにいたのは私の母親だと思いますけど…」
「おかしいなあ…。わらわを抱いていたはずなのじゃが…」
 リースは首を傾げた。一体ファトラは何のことを言っているのだろうか。ひょっ
としてニーナがファトラの母親なのだろうか…。
「あなたの母親はニーナなんですか? あの人なら出て行きましたけど…」
「いや、違う」
「…うーん、他には人はいないはずなんですけど…」
 リースは記憶をたどりながら答える。非常に気持ちが落ち着かないのだが、こう
して話し相手がいると、多少気持ちが落ち着いた。
「いたぞ。こう…優しい…とても優しい人が…」
 ファトラは嬉しそうに答える。
「ふーん。あなたの母親は優しい人なんですね」
「うん。わらわが幼い時死んでしまった」
 ファトラは悲しそうな顔をした。
「へっ? だってさっき会ってたんでしょ?」
「そうとも」
 ファトラは再び嬉しそうな顔をする。
 どうもファトラの思考は支離滅裂なような気がしてきた。しかし別に話し相手が
欲しいだけなので、気にしない。それにかえってこういう人間の方が気取らなくて
いいので、話しやすかった。
「…いいんじゃないですか。優しい母親で。私の母親は、母様は最近優しくなくて
…。そう思ってたら、こんなことしてたなんて…」
 リースの目に涙が浮かび、しゃくりあげるような声を出す。
「いや、きっとそなたに幸せになって欲しくてやったんじゃ」
 ファトラの声には訳の分からない説得力があった。
「そうでしょうか…」
「何か嫌なことでもあるのか?」
「いえ。別に…」
 リースは目をふせる。ファトラはリースの方へ寝返りをうった。
「何じゃ? 言ってみろ」
 ファトラの目は優しげだ。リースは迷ったが、ファトラの目を見て悪いことには
ならないと思って、言うことにした。何か喋ってないと、不安でしょうがないとい
うこともある。それに母親がいないと聞かされて、不思議な連体感も生まれていた。
「その…母様とねえやは…その…私は、その、母様は優しくしてくれるんですよ、
私に。その…最近はあんまり優しくないんですけど、昔は凄く優しかったんです。
それで…今だけじゃないんですけど…その…か、母様とねえやは二人だけで、私に
はしてくれないようなことを…じ、自分達だけで…するんです…。二人はそれを隠
してるんですけど…その…たまに私偶然見ることがあるんです…」
 リースは言葉を選びつつ、どもりつつ言う。
「どんなことを?」
「あの…変に思われるかもしれませんが、その…キ、キスしたりとか…。私…その
…羨ましくて…。き、きっと私のこと、好きじゃないからなんですよ。優しくして
くれるのも…ほ、本当は嘘なんですよ…」
 リースは赤くなっている。自分が何を言っているかは分かっているらしい。落ち
着かないらしく、おどおどして足をもじもじさせている。
「…………」
 ファトラはしばらく何も言わない。リースはそれを冷やかしと受け取った。
「ご、ごめんなさい。こんなこと、人に言うようなことじゃないですよね。すみま
せん。聞いてくれるだけでよかったんです。忘れて下さい」
 リースはうつむき、暗い口調で言う。
「してみたいか?」
 ファトラは怠惰な動作で上半身を起こす。黒髪がさらさらとこぼれた。やけに冷
静な口調だ。瞳にも正気が戻っている。
「えっ?」
「わらわとでよかったら、キスしてみるか?」
「え、その…私は…」
「どんな感じがするか、試してみたくはないか?」
 ファトラの声は甘い感じがする。視線をそわそわさせつつリースは悩んだが、投
げやりな気持ちも手伝い、好奇心の方が勝った。
「じゃあ…やってみます…」
「…………」
 ファトラが無言で手をさしだす。リースはその手を取った。ファトラはリースを
ベッドの上へ誘導する。リースはベッドの上で座る格好になった。
「目を閉じろ」
「はい…」
 リースはそっと目を閉じる。胸がどきどきして、頭の芯が痺れるような感じがす
る。目を閉じている分、他の感覚は敏感になった。
 ファトラはリースの肩を掴むと、彼女の体を自分の方へ引き寄せた。さらに左手
を彼女の頭の後ろへ延ばし、二人の顔を接近させる。リースは多少抵抗するものの、
嫌悪は示していない。
 ファトラはそっと…優しく彼女の唇を奪った。
「んっ…んん…」
 リースがくぐもった声をあげる。息ができないらしい。ファトラはそれに構わず、
さらに口付けを続けた。優しい口付け。優しく。唇が切れる程度に優しい口付けを
…。
「ん! んんっ!」
 傷みを感じてリースが暴れ出す頃、ファトラはリースを放してやった。リースは
ファトラを突き飛ばすようにして、彼女から離れる。口許からは赤い血が一筋流れ
ている。リースはそれを指ですくい、唇が切れたことを悟った。
「酷い。何するんですか…」
 リースはやや青ざめながら抗議する。
「どんな感じがするか…分かったか?」
 ファトラは冷静な面持ちだ。
「えっ?」
 リースは不意を突かれたような顔をした。
「つまり、そんなに簡単にあこがれてはいかんのじゃよ」
 ファトラの顔に寂しげな表情が読み取れる。
「意味がよく分かりません…」
 リースは怪訝な表情でファトラを見た。
「それなら分かる時が来るまで憶えておけ。人と交わることの意味を…」
「はあ…」
 ファトラの言いたいことが全く理解できないらしく、リースは取って付けたよう
な返事しかできなかった。
 ファトラは疲れたように再びベッドに横になった。
「じゃ、じゃあ私はこれで…」
「ああ。おやすみ」
 リースはベッドから降りると、逃げるように部屋から出ていった。

 リースがルルシャの部屋から出て、数メートル歩くと、ちょうどルルシャとニー
ナに出くわした。タイミングからして、ルルシャの部屋から出てきたことは気づか
れていないはずだ。
「ああ、何してるの?」
 ルルシャがリースに声をかける。リースは飛び上がるほど仰天した。ひょっとし
たら、事の真相を知ってしまったことがばれたのでは…という何の根拠もない妄想
が頭の中をよぎる。心臓が高鳴り、無意味に汗が流れた。ルルシャやニーナの顔を
見ることができない。
「あの…その…ノックしてみたんだけど、いなかったもんだから…その…」
 リースはしどろもどろになりながら弁解する。ルルシャはリースが唇から血を流
していることに気づき、リースに駆け寄った。
「リースちゃん、その怪我は?」
「えっ、その…ちょっと、転んじゃって…」
 リースは適当に言いつくろう。ルルシャはかがんで、リースの顔を自分の方へ引
き寄せた。リースはルルシャを突き飛ばしたくなるが、怪しまれたくない一心で平
静を装う。それでも様子がおかしいことがばれるのではないかと心配だ。
「じっとしてて」
「あっ…」
 ルルシャはリースの血をそっと舐めてやった。リースの背筋を不思議な感覚が襲
う。それは恐怖のような、幸せのような、不思議な感覚だった。今まで味わったこ
とのないような感覚。何かが満たされるような、減っていくような感覚。
「ニーナ、手当てしてあげて」
「じゃあ、リースちゃん、ちょっと一緒に来て」
「あ、はい」
 ルルシャ、ニーナ、リースの三人はニーナの部屋へ行って、リースの怪我を手当
てしてやった。その後ルルシャはリースを彼女の部屋に送り、再びニーナと一緒に
自分の部屋へ戻ってきた。
 扉を開けると、ファトラがベッドの上に横になっている。ルルシャはファトラの
方へ近づいて行った。ファトラはルルシャの顔を見ると、にっこりと微笑む。
「起きてたのね。いい子にしてた?」
「はい」
「そう…」
 ルルシャはベッドの上で座った。ファトラはそれに擦り寄ってくる。
「薬はもう切れた頃なんじゃないの?」
「でも効いてるみたいよ。ほら」
 ニーナの問いに、ルルシャは膝の上にいるファトラの頬を撫でてみせた。ファト
ラはルルシャの存在を感じて、心地好さそうにしている。
「母上…」
「なに?」
「ずっと一緒にいてくれますか?」
「あ、んん。いてあげるよ」
 ルルシャは優しく答えると、再びファトラを撫でてやる。
「嬉しいです」
 ファトラはルルシャの胸に顔をうずめる。ルルシャは気づかなかったが、ファト
ラの顔には最高に幸せな表情ととてつもなく悲しげな表情が混在していた。ルルシ
ャもファトラを抱きしめてやる。
 ファトラは一時の悦楽に身を任せた。

 次の日。その日は朝からよく晴れていた。戴冠式には絶好の日和だ。
「起きろ。いつまで寝ている!? 起きるのだ!」
「ん、なんやあ?」
 誠は重いまぶたをゆっくりと持ち上げた。と、目の前にはクロノドールがいる。
誠の目は一瞬にして覚めた。
「あ、その…お、おはようございます」
 何と言えばいいのか分からず、誠はとりあえず一般的な挨拶をした。
「ふん。お前は偽物の方か。ニーナの奴め、本物の方を連れていきおったな。まあ
いい。お前には今日一仕事してもらう」
 クロノドールはいらいらしながら説明する。
「知っているとは思うが、今日は戴冠式が行われる。戴冠式の後、御前試合が行わ
れる予定なので、お前はその時にリース王女を暗殺するのだ。警備の方は私が甘く
しておく。分かったな?」
 それを聞いて誠は仰天した。
「そ、そんなことできる訳ないやんか!」
「分かっているとは思うが、ファトラ王女は私の手の内にある」
 クロノドールは吐き捨てるように言った。
「うっ…」
 クロノドールの言いたいことはよく分かった。要するにやらないとファトラに何
かよくないことが起こるのだろう。ファトラは昨日連れ出されてしまっているため、
誠は彼女のことが余計心配になった。
「やってくれるな?」
 クロノドールは誠の肩をポンと叩いた。
「しゃ、しゃあない…」
 誠は仕方なく承諾した。ファトラに対しては申し訳ない気分があったし、何より
も彼女が心配だったからだ。
「そう言ってくれると思ったよ」
 クロノドールはにいと笑った。

             ◇  ◆  ◇  ◆  ◇

 ファトラはルルシャの部屋で眠っていた。
「起きて。起きて」
「…ん…うぅん…」
 優しい手がファトラの体を揺すっている。ファトラはうっすらと目を開けた。と、
ルルシャの顔が目に入る。ファトラはルルシャのベッドの上で横になっていた。
「気分はどう?」
「んん…大丈夫…」
 ファトラは寝返りをうつと、怠惰な動作で上半身を起こした。すると、ベッドの
脇にニーナがいることに気がつく。
「お起きになられましたか。ではこれからルーン王女の所へ帰してさしあげます」
「ルーン…?」
 ファトラは弱い声音で聞き返す。
「はい。ルーン王女の所です。誠とかいう男性はまだ帰してさしあげることはでき
ませんが…」
 ニーナの言葉がファトラの頭に染み渡るのには時間がかかった。
「ああ、姉上…、誠…。あぁ、行かないと…」
 使命感のような物を感じたファトラは、緩慢な動作でベッドから降りる。ニーナ
はファトラの手を取って、それを助けてやった。
「さようなら、ファトラ姫。またいつか会いましょうね」
 ルルシャはファトラに向かって微笑みながら、軽く手を振った。
「ああ、さようなら。機会があればまた会おう」
 ファトラの言葉には若干の哀愁が込められている。
「ではこれを被って下さい」
 ニーナはファトラに向かってフードをさしだした。顔を隠すためのものだ。
「ああ」
 ファトラはそれを受け取ると、被った。
「では行きましょう」
 ニーナはファトラを先導して部屋から出ていった。ファトラは多少足元がおぼつ
かないながらもこれについていく。

「気分や体調はどうですか?」
 いつものように事務的な雰囲気でニーナが問う。
「ああ。大丈夫じゃ」
 ファトラはニーナに連れられて、王宮内の廊下を歩いていた。窓からは日の光が
差し込んでいる。光を浴びて、ファトラはようやくいつもの調子を取り戻していた。
「途中までお送りしますので、後はご自分で戻って下さい」
「ああ。分かった」
「それとこれをお持ち下さい。宰相の計画書と、あなたに実行して頂く裏工作の詳
細です」
「ああ」
 ファトラはニーナから書簡を二つ受け取った。それを懐にしまう。
「何度も言うようですが、条件は分かっていますね?」
「分かっている。何度も言うな」
「こちらで預っている男性の身がらについては、あなたがこちらのいう通りに動い
て頂いて下さっている限りは保証します」
「くれぐれも丁重に扱ってくれよ」
「はい」

 そうして二人は王宮本館の出口のあたりに到着した。出口といっても、通用口の
ような物だ。あたりに人通りはない。ただ太陽だけがさんさんと照っていた。
「ここからはご自分で戻って下さい」
「ああ」
「では、お互いに忠実にいきましょう」
「ああ」
 ニーナは踵を返すと戻っていった。後にはファトラだけが取り残される。
 ファトラはしばらくの間、黙ってあたりの光景を見ていた。そして呟く。
「行かないと…」
 ファトラはルーンたちのいる別館へ向かって歩き出した。

 しばらく歩くと、いきなり人影が一つ飛び出してきた。
「ファトラ様ぁ!」
「おう、アレーレか」
 ファトラはフードを被って顔を隠しているにも関わらず、アレーレは目ざとくフ
ァトラを見つけたらしい。走ってファトラに抱きついてくる。
「心配したんですよ。ご無事でなによりです」
「ああ。心配させてすまん」
 ファトラは顔をほころばせる。
「おい、ファトラ。誠はどうしたんだよ?」
「そうよ。誠ちゃんはどこ?」
 アレーレに続いてシェーラと菜々美も出てきた。二人はかなり興奮している。
「なんじゃ、おぬしたち。何でこんな所におるのじゃ?」
「助けようと思ってきたんですけど、結局朝になっちゃったんです」
 アレーレがファトラの質問に答える。要するに助けようにも手のつけようがなか
ったらしい。アレーレたちが無理をしなくてよかったとファトラは思った。
「いいから、質問に答えろよ」
 シェーラがいらいらして言う。
「ああ。誠はまだ捕まっておる。取り引きをしたのじゃ。誠が解放されるのはだい
ぶ先のことになりそうじゃ」
「それってお前だけ逃げてきたってことか!?」
 シェーラがファトラを殺しかねないような勢いで睨んだ。
「人聞きの悪いことを言うな。わらわにだってこれが限界じゃった。少なくとも誠
は無事じゃ。わらわが連中に言われた通りに動けば誠は解放される」
 ファトラはニーナと話した計画のことをかいつまんで部分的に話した。誠に関す
る部分とクロノドールに関する部分だけを。
 それを聞いて、シェーラと菜々美は多少安心した。
「じゃあ、ファトラ姫は言われた通りにするの?」
「するつもりだ。なに、たいしたことではない」
 ファトラはアレーレを撫でてやりながら言う。
「絶対だろうな?」
「ああ。絶対だ。わらわの名にかけて誓おう」
「でも、相手が裏切る可能性はないの?」
「それは大丈夫じゃ。連中だってロシュタリアとの関係を悪くしたくはない。わら
わはこれから姉上の所へ行く」
「そうか…。うーん、それじゃあとりあえずあたいたちはどうしようか…」
 シェーラと菜々美は大丈夫だと聞かされても、やはり心配だった。しかしファト
ラがこう言っている以上、自分たちが口出しすることはできない。しかし後味の悪
さが残った。
「念のためにクロノドール宰相の動きを見ていてくれ。ただし無理なことはせんで
いいからな」
 ニーナの手を離れてクロノドールが勝手に動く可能性もある。ファトラは念のた
めにシェーラたちに見張らせることにした。
「ああ。分かった」
 シェーラはファトラの言葉に従うしかなかった。どうやらかなり難しいことにな
っているらしい。こうなってくると、シェーラたちにはお手上げだ。
「では、わらわは姉上に会ってくる」
「ああ」
 ファトラは再び歩き出した。アレーレはファトラとシェーラたちをしばらく見比
べていたが、シェーラたちと一緒に残った。
「すみません、ファトラ様。私はシェーラお姉様たちと一緒にいます」
 アレーレは申し訳なさそうにお辞儀する。さすがにシェーラや菜々美をおいてい
くのには気が引けた。
「ああ。構わんさ」
 ファトラは後ろ手に手を振った。

             ◇  ◆  ◇  ◆  ◇

 ルーンたちは朝になって、シェーラと菜々美とアレーレがいないことに気づいた。
慌てたミーズや藤沢たちはあちこちを探し回った。
「この建物にはおらんようです」
 藤沢が頭を掻きながら報告する。
「うちらの方の別館にもおりませなんだ」
 アフラが努めて冷静を装いながら報告する。
「ひょっとしたら勝手な行動に出たのかもしれません。申し訳ございません。探し
てまいります」
 ミーズはおろおろしながらも、強い口調で言った。
「ええ。お願いします」
 ルーンは焦った。ひょっとしたら取り返しのつかないことになってしまったかも
しれない。それともやはり解決の可能性が出てきたことを言っておくべきだったの
だろうか。しかし今となってはそんなことも後の祭りだった。
 ミーズとアフラと藤沢はいなくなった3人を探すために出ていった。

 その後、ルーンはニーナに会わせてくれるようにエランディア側に要請したが、
戴冠式で忙しいので会うことはできないとのことだった。果たしてこれが会いたく
ないからなのか、本当に忙しいからなのかは分からないが、おそらく両方の理由だ
ろうということでルーンはいったん引き下がった。それに交渉が遅れても影響が出
ることは少ないだろう。いなくなったシェーラたちを除いて。シェーラたちについ
てはミーズたちに任せるしかなかった。

 ルーンたちの別館。ルーンは戴冠式のための準備をしていた。ルーン以外には侍
女と近衛の兵しかおらず、淋しい感じがする。
 と、その時、若い女の声がした。聞き覚えのある声だ。ルーンはびっくりして、
声がした方へ走って行った。胸が期待でふくらむ。
「ファトラ! ファトラじゃないですか! ああ、よかった…」
 そこにいたのは紛れもなくファトラだった。彼女はいつものような様子で、そこ
にたたずんでいる。顔には明るい表情が宿っていた。
 ルーンはファトラに抱きついた。ファトラもルーンを抱きしめる。ルーンの顔に
は嬉し涙が浮かんでいた。
「姉上、心配をかけて申し訳ございません。わらわはこの通り、戻ってまいりまし
た」
 ファトラははみかみながら言う。
「ああ、よかった…。本当によかった…。心配したんですよ」
 ルーンは何度もファトラの感触を確かめる。ファトラはルーンの体を少し離した。
「それがそうも言っておれんのですよ。誠がまだ捕まっております。わらわは条件
つきで解放されたのです。早く誠を助け出してやらねばなりません」
「そ、そうですか。誠様が…。それは急がなければなりませんね」
 ルーンは頬を伝う涙を手で拭きながら言った。

 ルーンの部屋。ルーンとファトラはお互いに向い合って座っている。
 ファトラはルーンに事の経緯を全て説明した。ファトラはルーンからルルシャと
ニーナに関することを聞かされて、愕然とした。
 まさかあの二人にそのような経緯があったとは。てっきりルルシャは単に歪んだ
愛情からあのようなことをやっているのかと思ったが、それだけではなさそうだ。
それに----ファトラはルルシャに会った時から何かを感じていた。圧倒的な虚無と
でもいうべきものを。それは悲しみや退廃とも言い換えられるかもしれない。
 ルルシャには一人の人間が持つとは到底思えないような莫大な虚無があった。あ
まりに大きいので、ファトラは今彼女のことを思い出してみるまでそれに気がつか
なかったのだ。そして何であんなに虚無的なのかはルーンの話からおおよそ想像で
きた。
 ファトラはルルシャの心の中を考えただけで、まるで自分の心の内面を見ている
かのような気がして吐き気がした。自分も母親が死んで虚無に襲われた。それは今
でも心の奥底では続いている。自分の同性愛趣味はそれが原因なのではないかと自
分でも思っている。自分の虚無の部分だけを切り取ったかのような存在であるルル
シャに対して、ファトラは畏怖を感じた。
 ----近づいてはいけない。
 ファトラはそう思った。これ以上ルルシャに接触することがあれば、自分は虚無
に耐えきれずにどうかなってしまいそうな気がした。
 ----自分の心をえぐり出されるような感覚。
 ファトラがルルシャのことを考える時に感じる感覚だ。自分とあまりにも近い人
間。自分の弱い部分を見せつけてくる人間。鏡のような人間。ファトラにとっての
それがルルシャだ。自分の内面を見せつけられることがこれほど気持ち悪いことだ
とは思わなかった。
 ルルシャと会った時、彼女の過去のことを知らなくて本当によかったとファトラ
は思った。もし知っていたら----考えるだに恐ろしかった。
「分かりました。条件については飲めないことはありませんね。この程度ならなん
とかしましょう」
 ルーンはファトラから渡された書簡を見ながら言う。
「いえ、これについてはわらわの問題ですので、わらわが一人でやります」
 ファトラはルーンから書簡を受け取りながら、凛とした口調で言った。
「そうですか。別に構いませんが…」
 ルーンは意外そうな顔をした。
「すみません。姉上」
 ファトラは自嘲気味に言う。
「それで、宰相の失脚のことなんですが、いつ行うのですか?」
「証拠があるので、いつでもできます。まあ、とりあえず戴冠式が終わってからの
方がいいでしょう。今やれば混乱を招くだけです」
 ファトラは今後の計画を頭の中で建てながら言った。できるだけ早く条件を達成
する。しかし宰相の検挙は今は無理だ。タイミングを計らないと、かえってこっち
が怪しまれてしまう。
「そうですか。分かりました。ではファトラも戴冠式には出席して下さいね」
「はい」
「ああ、それとシェーラ様と菜々美様とアレーレなんですが、昨夜からいなくなっ
てしまいました。おそらく誠様とあなたを助けに行ったんだと思うんですが、どう
しましょう…」
 ルーンは心配そうに頬に手を当てながら言った。
「ああ、それならわらわがさっき会いましたよ」
「ええっ!? そ、それでどうしたんですか!?」
 ルーンは仰天しながら言う。
「はい。とりあえずクロノドールの動きを見張っているように言いました」
「あ、はあ…。戻ってくるようには言わなかったんですか…」
「クロノドールがどう動くかはまだ分かりません。リース王女暗殺の件もあります
し、見張っておくのが的確かと思いまして…」
「そうですか…。その…見つかる可能性がありますので、できれば連れ戻したいの
ですが…」
「はあ。そうですか…。ではちょっと様子を見てきましょうか。必要なら連れ戻し
て来ましょう」
「いえ。あなたが外を出歩くのは危険です」
「いえ。ちょっと見てきます。わらわが誘拐されたというのはまだ公にはなってい
ないのでしょう?」
「それはそうですが、そういう噂が広がっています」
 ルーンの顔に暗い表情がよぎった。こういう噂はよくない。
「だったら、わらわが外を出歩けば、誘拐の事実はなかったことになるじゃないで
すか」
 ファトラはルーンを諭すように言う。
「それは…そうですね…。じゃあ…」
「シェーラたちを探してまいります」
「じゃあ、お願いしますね」
「はい」
 ファトラは立ち上がると、部屋から出ていった。

 別館を出ると、離れの廊下を使い、本館の方へ歩いて行く。とりあえずどこに行
こうかと迷ったが、中庭へ行くことにした。あそこからならクロノドールの部屋の
様子を伺うことができる。おそらくシェーラたちもそのあたりにいるだろう。もし
シェーラたちが建物の中に忍び込んだのなら、捕まってしまうだろうし、おそらく
は外から偵察しているだろう。それにファトラが歩いていれば、寄ってくるかもし
れない。
 ファトラがクロノドールに見つかる可能性も多分にあったが、別に構わないだろ
う。もう偽物というレッテルは剥がれているし、形式上、偽ファトラは二人ともク
ロノドールが捕らえていることになっている。クロノドールは手が出せないはずだ。
 ファトラが三人もいる状態というのは、ややこしいが、なかなかおもしろかった。

 しばらく歩くと、中庭のあたりに到着した。あたりを眺め回す。しかしそれら
い人影は見当たらなかった。
「当然か…」
 ファトラはひとりごちると、さらに歩いていった。シェーラたちはファトラの姿
を見つければおそらく来るだろう。要はとにかく歩き回っていればいい。
 と、いつか見たテーブルと椅子のセットが目に入った。2日前にここでリースと
会い、偽物と間違えられて捕まったのだ。さすがに嫌な記憶があるので、あまり近
寄りたくない。しかし見ると、椅子にはリースが座っていた。
「…………」
 2日前と全く同じシチュエーションだ。きっとあの茂みにはガブリエルがいるに
違いない。そしてファトラは小走りにリースの方へ近づいていくのだ。
 別にリースに会う必要はない。ファトラはそう判断すると踵を返し、リースに気
づかれないように戻っていく。
 しかし----リースはファトラの存在に気づいてしまった。彼女は走ってファトラ
に近づいてくる。逃げようかと思ったが、そうもいかない。逃げればまた捕まって
しまうかもしれない。やむなくファトラはそこへ立ち止まっていることにした。
「ファ、ファトラ王女ですか?」
「あ、ああ。そうじゃ。何の用じゃ?」
 リースは息をつき、頬を紅潮させながら聞いてくる。ファトラはぎこちなくそれ
に答えた。
「あの…その…昨日ルルシャ王妃の所にいましたよね…?」
「ん…ああ。いたとも」
 ファトラはリースと目を会わせないようにしながら答える。ひょっとしてまた捕
まるんじゃないかという気がして、どうにも気がのらなかった。
「その…立ち話もなんですから、あちらでお茶を飲みながら話しませんか?」
「えっ!? いや…その…」
 リースの好意は気を使ってのことだろう。しかしファトラにしてみれば嫌がらせ
にすぎない。おそらくリースは2日前に会ったのが本物だとは知らないのだろう。
 ファトラの頭の中でいろいろなことが渦巻いた。昨日リースとキスしたことは憶
えている。それにこれはどうも自信がないのだが、裏工作のことをリースに喋って
しまったような気がする。きっとリースはこれについて聞きたいのだろう。となる
とリースと話して、一体彼女がどこまで知っているのか確かめておく必要がある。
「わ、分かった」
「じゃあこちらへ」
 リースはファトラの手を引いて、テーブルの所まで連れていった。ファトラは近
くにガブリエルがいないか警戒する。
「どうぞ」
「ああ」
 新しいカップを取り出して、リースが茶を注ぐ。ファトラはそれを一口飲むと、
ようやく落ち着いた。
「その…それで…ルルシャ王妃が私の母なのは御存知ですよね」
 リースは真剣な面持ちで話し始める。
「知っているとも」
「それで…その…あなたは昨日ルルシャ王妃と何の話をしていたんですか?」
 ファトラはどきりとした。やはりリースは何か知っている。どこまで知っている
か慎重に聞き出さねば。
「そなたはもう知っているんじゃないのか?」
 ファトラは努めて冷静を装いながら答える。リースの顔が強ばった。
「……知っています。でも信じられなくて…」
「どこまで知っているか教えてくれるか…?」
「…言えません」
 リースはうつむきながら答える。昨日会ったファトラと今会っているファトラと
が違うような気がするからだ。
「秘密の計画のこととか…?」
 リースに何とか喋らせるため、ファトラはヒントを出した。リースははっとして
ファトラの顔を見る。
「…じゃあ少しずつ言います…」
 リースは昨日ファトラから聞いたことを少しずつ話し始めた。時折口ごもるたび
にファトラがヒントを出し、先を続けさせる。
 結局リースの話を全て聞いた結果、リースは計画のことを全て知っていることが
分かった。ファトラは呆然としてしまった。あの時全て聞き出されてしまったのだ。
それにどうやらリースはファトラから聞くまでは計画のことなど全く知らなかった
らしい。きっとルルシャはリースに知られたくなかったのだろう。それにニーナが
ファトラにリースに計画のことを話してはいけないと言わなかったのはおそらくそ
れをネタにして脅迫されることを恐れたからだろう。
「リ、リース…。その…何というか…。気にするな…」
 一体何と言えばいいのかファトラには分からなかった。とりあえずありきたりの
言葉をかけてやる。
「…ふ…ふえ…」
 一方、リースは半泣きになっている。昨日聞いたことが間違いではないというこ
とが分かり、かなりショックらしい。
「そのー、こういうことはそれほど珍しいことではないのじゃよ。だからそなたも
気にすることはない。慣れればなんともなくなる」
 ファトラは必死にリースをなだめる。このままではルルシャたちの気をそこねて
しまい、誠の命が危ないかもしれない。それはまずかった。
「…こ、こんなことになって…わ、私一体どうしたらいいのか…」
 リースの細い肩が震えている。表情も青ざめていた。
「じゃから、気にするな。ルルシャやニーナにも黙っておれよ」
 うっかり本音が出てしまった。慌てて言い繕おうとするが、リースの方が先に話
し始める。
「ね、ねえ! 私一体どうしたらいいでしょうか?」
 リースは語気を強めてファトラに話しかける。ファトラは誰かに聞かれやしない
かと冷や冷やした。
「んー、気にするでない! 全て忘れるのじゃ。忘れてしまえばいい!」
「そんなあ!」
 リースは半ば錯乱状態にある。ファトラは焦った。普段は冷静を誇っている自分
が嘘のようだ。やはり状況を楽しめる立場にないと冷静でいることは難しい。窮地
に立たされるとどうしても焦ってしまう自分をファトラは叱咤した。
「あー、し、しかしこうなった以上、もはや後には退けんのじゃ」
 何だか言っていることが支離滅裂になってきた。
「後には退けないって…でも…そんな…。母様やねえやがこんなこと…」
 リースの目には涙が浮かんでいる。
「いや、そのー…。あ、ああ! そうじゃ! 一度話し合い…いや、そのー…」
 話し合われるのはまずい。誠の身が危うくなってしまう。ファトラは頭を掻きな
がら心の中で舌打ちした。しかしリースはファトラの言葉に反応したようだ。
「…話し合い…ですか…。でも…それは…」
 リースはゆっくりとかみしめるように言う。
「いや、そのー…」
 困った。もしリースがルルシャやニーナと話し合うなんてことになれば、誠の身
が危うい。まあ、もし殺せばファトラの方が言うことを聞かなくなるので、殺され
ることはないだろうが、待遇はさぞかし悪くなることだろう。この状態を打開する
には…。ファトラは考えた。こうなればリースを誘拐して誠と人質交換するか…。
「話し合いは…無理ですよ…。私には無理です…」
 リースはうつむきながら、暗い表情で言う。
 と、その時ファトラの脳裏に名案が閃いた。表情がぱっと明るくなり、いつもの
調子を取り戻す。
「うん。そうじゃ! わらわが話し合いをさせてやろう」
「へっ!?」
 リースは不意を突かれたような顔をした。

             ◇  ◆  ◇  ◆  ◇

「おい、ニーナ」
「何ですか?」
 王宮内の一角。クロノドールがニーナを呼び止めた。ニーナは戴冠式の準備で忙
しい。今は最終調整の真っ最中だ。
「リース王女の暗殺だが、誠とかいうファトラ王女の偽物に暗殺をやらせるから、
リース王女周辺の警備を甘くしておくように」
「分かりました」
 ニーナは事務的に無表情に答えた。
「うむ。それとファトラ王女が外を歩いているという情報が入ったのだが、これは
一体どうなっておるのだ?」
「おそらく新しい偽物でしょう。ロシュタリアはファトラ王女誘拐のことを公には
したくないのだと思います」
「そうか…。まだ偽物がいたとはな…。ならいい」
 クロノドールは言うことだけ言ってしまうと、どこかへ消えていった。
 その後、ニーナは警備隊長を呼び出してリース周辺の警備を強化しておくように
伝え、自分が指示したことは黙っておくようにも伝えた。

 準備が一段落したので、ニーナはルルシャの部屋へ足を運んだ。
 ルルシャは侍女たちによって一応それらしい服装に着替えさせられている。
「戴冠式出席の準備はよろしいですか?」
「一応はね。でも私は見ているだけですからね。プログラムにはいっさい参加しま
せんから」
 侍女がいるので、ルルシャは普段とは違う言葉遣いをする。
「はい。それで結構です」
 しばらくして着替えが完了すると、侍女たちは一礼して出ていった。
「そういえば、リース様は今日また中庭で一人でお茶を飲んでおられましたね。ま
た何かあったんですか?」
 ルルシャたちは普段は三人で茶を飲んでいるのに、今日はリースはこの前のよう
に一人で茶を飲んでいた。前回の理由は分かるのだが、今回の理由は分からない。
「さあ。分からないけど、きっと緊張してるからでしょう」
「そうでしょうかね…」
 実際、ニーナにもそれくらいしか見当がつかなかった。

 ミーズたちの必死の捜索にも関わらず、シェーラたちは見つからなかった。賊が
入ったという情報がないということが唯一の幸いだった。
「申し訳ございません。どこにもおりませんでした。お許し下さい。王宮の奥にい
る可能性もあるのですが、そこまでは私たちも探せませんので…」
 ミーズは申し訳なさそうにぺこぺこと頭を下げる。
「わらわも見つけられませんでした」
 と、こちらはファトラ。平然としている。
「いえ。見つけられなかったのならば仕方ありません。自分から帰ってくるのを待
ちましょう」
 ルーンはミーズたちに気を遣い、ねぎらいの言葉をかける。
「申し訳ございません…」
「いえ。それよりももうすぐ戴冠式が始まります。大神官の方々も準備なさって下
さい」
「はい…」
 ミーズとアフラはお辞儀すると、自分たちの別館の方へ戻っていった。
「では、ファトラ。あなたも準備して下さい」
「分かりました」
 ファトラは身支度に入った。


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