第12章  優しい人と悪役を演じる人


 リースはとりあえず逃げようと、ワーウルフが大神官たちと戦っているのを確認
すると、物陰から出た。周囲を見回し、安全と思われる所へと駆けて行く。と、
「おう、リース! 大丈夫か!?」
「ファ、ファトラ王女!」
 突然目の前にファトラが現れた。彼女は息をせききらせ、その様子からはかなり
走り回ったのであろうことが伺われる。
「私は大丈夫ですけど、一体どうなってるんですか?」
「わらわにもよく分からん。しかしクロノドールの悪事がばれたようじゃの。あや
つ、化け物なんぞになりよったわ!」
 ファトラはリースの方に近寄り、彼女が怪我などしていないか確かめた。
「その…これからどうしたらいいんでしょうか…?」
 リースはすがるような目でファトラを見る。
「うむ。とりあえずは逃げるのが先決だろう。さすがにあれは危険すぎる」
 ファトラはちらりとワーウルフたちの様子を見た。なぜかは知らないが、誠が参
戦している。どうやらそのお陰で戦況は有利なものに変わっているらしい。あちこ
ちに点々とワーウルフの死骸があった。
 しかし油断できない。リースの周りに信用をおける人間がどのくらいいるかも分
からないし、ルルシャとニーナもいないようなので、当分の間はファトラがリース
の面倒を見なければならないだろう。リースが死んだ場合、余計面倒なことになる
可能性がある。まあ、誠はすでに助ける必要なくなったようだが、余計な問題をわ
ざわざ引き起こすこともないだろう。
「あ、あの…。さっきした約束の方はどうなるんでしょうか?」
「約束? ああ、分かっておるとも。しかし今は逃げるのが先じゃ」
 約束に関しては誠を助ける必要がなくなったため、実際のことを言えば遂行する
必要なくなった。誠が再び捕まるということはないだろうし、そうだとしても、ロ
シュタリアの力でもってうやむやにしてしまえるだろう。だいいち、エランディア
側より先に誠をこちらに引っ込めてしまえば、エランディア側も手だしはできまい。
 しかしだからといってリースとの約束を反故(ホゴ)にするのも心が痛んだ。
 今、現在の状況から考えるに、状況はロシュタリア側に有利だ。誠は戻ってきた
し、ファトラも戻ってきている。それにクロノドールの計画は露見し、今ちょうど
クロノドールを倒す所でいる。ルルシャとニーナのことに手をつけることは難しい
だろうし、その必要もないだろう。早い話、もうこれでこの一件は解決した。そう
すると、リースとの約束についてはファトラ個人の意思で処理してしまって構わな
いとファトラは判断した。
 ファトラはリースの腕を掴み、引っ張ろうとする。しかしリースはそれを拒んだ。
「ん? どうした? なんならおぶってやってもいいぞ」
 ファトラはリースの顔を除き込む。その表情には何やら決意のようなものが浮か
んでいた。ファトラが喋ろうとするよりも早く、リースが喋る。
「今は…だめですか?」
 それを聞いて、ファトラは仰天した。
「な、そんな無茶な!」
「でも…! どさくさに紛れてやった方がいいのではないですか?」
「いや、しかしだな…。いくらなんでも状態が…」
 ファトラはリースを説得しようと、リースの目の前に立つ。
「今やらないと今度はいつになるか分からないじゃないですか。それにこの状態の
方があなたの負担が軽くなるのではないですか?」
「ん…。まあ…それはそうなのじゃが…」
 ファトラはリースの顔から目をそらす。約束についてはファトラ個人の意思で処
理して構わない。ならばどのように処理してもいいのだ。
 ファトラは再び考えた。もうすでにルルシャたちは誠という切り札を失っている。
おそらくルルシャたちは今度は自分たちが危うくなるのを恐れるのではないだろう
か。それに約束を達成するにはリースと一緒に行動する必要がある。今後、リース
と一緒に行動できる機会はまずないだろう。ルルシャは絶対にリースと会わせてく
れまい。そう考えると、今の内にしこりを取り除いた方がいいのではないだろうか。
ルルシャとリースがこの一件のことについて話し合うことができれば、状況は安定
するだろう。それにその話し合いをファトラが取り持ったということになれば、信
用が生まれるかもしれない。抑止力を確保することも可能だ。話し合いさえうまく
いけば、これから先のことも保証されるのだ。そしてチャンスは今しかないかもし
れない。
 ファトラは決心した。
「よ、よし。では今やろう」
「はい」
 リースの顔には決意の色が満ちていた。

「よし、次!」
「はい!」
 誠たちはワーウルフの能力を低下させる作業を続けていた。すでに数体を倒して
いるが、まだ半分ほどだ。自己修復能力を失っているとはいえ、ワーウルフはなか
なかに手ごわい。ミーズや藤沢たちも全力で戦い続けていた。
 爆炎がなにそれ構わず焼き、カマイタチが肉を断ち、高圧水流が骨を断つ。まさ
に大神官たちの本領発揮だ。藤沢もそれに負けじと鉄挙を打ちまくっていた。
 シェーラとアフラが目標に向かって突進し、ワーウルフを身動き取れなくする。
そして誠がワーウルフに飛びつこうとした。が、
「うがああぁぁっ!」
「うわあっ!」
「きゃああっ!」
 さすがにワーウルフも状況が分かってきたらしく、渾身の力で対抗する。シェー
ラとアフラは撥ね飛ばされ、ワーウルフは誠を速攻で亡きものにしようとする。
「ぐわあっ!!」
「危ない、誠お!」
 藤沢が誠をかばう。しかし誠は少しばかり攻撃を受けてしまった。
 誠は地面に転がり、腹を押え込む。腹部を強烈に打たれたのだ。
「大丈夫か?」
 シェーラが誠の所によってきた。
「な、なんとか大丈夫です」
 誠はなんとか声を絞り出す。内蔵に傷がついていないかが心配だった。
「そうか。じゃあまだいけるか?」
「は、はい」
「よし。じゃあいくぞ」
 シェーラは誠を助け起こすと、彼の腕を自分の肩にかけた。誠は半ば引きずられ
るようにして歩いて行く。
「誠、早くしろ!」
 藤沢たちがワーウルフを押え込んでいる。誠はワーウルフの背中に乗ると、さっ
きやっていたのと同じように神経を集中する。しかし傷みのため集中は散漫な状態
だった。作業には時間がかかる。藤沢たちもそれが分かっているのか、急かすこと
はしなかった。実際、誠はグロッキー状態に近かったのだ。
 さっきまでの倍ほどの時間をかけて、作業は完了した。誠は再びシェーラに連れ
られて、ワーウルフから離れる。
「い、いいですよ」
 誠が言うまでもなく、藤沢たちは攻撃を開始していた。ワーウルフはほどなくし
て倒される。
「次行くぞ!」
 と、新たな攻撃目標を設定しようとしたその時。それまでも響いていた罵声や悲
鳴が弱くなり、なにやら驚きのような声があがり始めた。
「な、なんだあ?」
 兵や挙闘士の内のいくらかが、同じ方向を向いている。シェーラたちも同じ方向
を、ただしワーウルフの攻撃を警戒しながら、見た。
「あ、あれ…。ファトラ姫やおまへんか!?」
 アフラが信じられないといった様子で言う。
「えっ!? まさか…」
 誠も同じようそちらを見る。そこにいるのは紛れもなくファトラだった。
 ファトラはイベントホールの高台の部分に立っていた。そしてもう一人女性を従
えている。それはリースだった。ファトラはリースを後ろから抱き抱えるような状
態で立っている。そしてファトラの手には半月刀が握られていた。二人は固い表情
でこちらの方を見つめている。
「い、一体どういうことだよ!? あれひょっとして脅迫してるのか!?」
 どうみてもそれは脅迫のように見えた。ファトラがリースの首筋に半月刀を当て
て脅迫しているのだ。
「いったいどうして…。どういうことなの…」
 ミーズが困惑の声をあげる。
「あいつひょっとして気でも狂ったんじゃねえのか?」
「ま、まさか。でも何のつもりか見当がつきまへんな…」
 しかしそうこうしている内にもワーウルフは攻撃してくる。ワーウルフの中の一
体がミーズに攻撃してきて、ミーズはこれをかろうじてかわした。
「と、とりあえずこっちが先よ! こっちを片付けなきゃどうにもならないわ!」
「し、仕方ねえな…」
「急ぎまひょ」
 かくしてシェーラたちは再びワーウルフたちとの戦闘に入った。

             ◇  ◆  ◇  ◆  ◇

 ルルシャたちがリースを探して、彼女がいそうな場所をあちこち探し回っている
時。舞台の方でなにか起こったらしいことを、ルルシャたちは聞こえてくる音の変
化で感じ取った。
「舞台の方で何かあったみたいね」
「行ってみる?」
「じゃ、ちょっと行ってみましょうか」
 ルルシャたちはとりあえず国賓用の観覧席の方に来た。そして彼女らはリースが
高台に登っているのを見て仰天した。
「ちょ、ちょっと…あれ…」
 ルルシャはリースの隣にいる女性を指差して言う。
「一緒にいるのはファトラ王女だね。どうやら裏切ったみたいね」
 ニーナは冷静に状況を分析した。
「す、すぐにあっちに行こう!」
 ルルシャは言うそばから駆け出している。
「ん、んん…。それしかないか…」
 ニーナはため息をつくと、一緒に駆け出した。ワーウルフとの戦いで兵士は全て
出払っているし、今から新たに指示を出し直すというのは時間がかかりすぎるため、
とりあえずルルシャとニーナの二人で行くしかなかった。相手はファトラだし、フ
ァトラがそう極端な行動に出るとも思えないので大丈夫だろう。
 ニーナは念のためにそこらに転がっていたシャークガンと半月刀を拾っていった。
おそらく兵士が落としたものだろう。臆して逃げてしまった兵士も少なからずいる
のだ。ニーナはふがいなく思った。

 ルルシャとニーナはファトラとリースのいる高台へと急いだ。通路を走り、高台
へと続く階段に到着する。そしてそれを一気に駆け登ると、そこに二人はいた。
 高台そのものはここでイベントを行う場合もあるので、広く造ってある。場合に
よってはここで一戦交えることもできるだろう。高度が高いので、地上に較べて風
が強い。冷たいくらいの風が頬を撫で、髪をかきあげ、服をはためかせる。舞台の
方でワーウルフと大神官たちが戦っている様子がよく見えた。派手な音がここまで
響いてくる。しかしそれほど気にはならなかった。
 ファトラとリースはルルシャとニーナが来たことを確認すると、彼女らに向かっ
て向き直る。彼女らとは15メートルほど距離が離れている。ルルシャが近づいて
こようとするのを、ファトラはリースの首筋に半月刀を近づけてみせることで制し
た。ルルシャは眉間にしわを寄せて、歯噛みする。
 ルルシャを腕で後ろへ押しやり、ニーナが一歩進みでた。
「ファトラ王女。これは一体どういうまねですか?」
 小脇にシャークガンと半月刀を抱え込みながら、ニーナが言う。
「リース、説明してやれ」
「はい…」
 ファトラはリースを離しながら言った。半月刀を鞘にしまい込むと、そのへんに
捨てる。
 リースは一歩進みでた。
「母様…その…私…全部知ってるんです。その…ファトラ王女から全部聞いたんで
す。私のためにこんなことするのやめて下さい…」
 リースは手を胸の所で組み合わせ、目に涙を浮かべながら告白する。
「ぜ、全部聞いたって、何のこと?」
 表情をわななかせながらルルシャが問う。
「その…私を王位につけるためにいろいろ仕組んだことです…」
 その瞬間、ルルシャの表情が凍りついた。惚けたように口許を振るわせ、目がた
だ一点だけを凝視する。それは次第に肩のわななきへと変化していった。足の力が
抜け、倒れそうになるが、すんでの所でニーナがこれを支えた。
 ルルシャはしばらく首を振ったりしていたが、やがてファトラの方を睨んだ。か
っと目を見開き、それこそ殺しかねないような勢いである。
「ファトラ王女…。裏切ったね…」
 低く、暗く、強い口調で言う。リースの方がひいと縮み上がってしまった。
「いや、必ずしもそういう訳ではない。リースはある程度初めから分かっておった
のじゃ。それにわらわが勝手に喋ったという訳でもない。そなたたち、昨日の夜、
わらわに薬か何かを飲ませただろう。それでそなたたちが部屋からいなくなった時
に、リースが部屋に入ってきたんじゃ。わらわは正常な思考ができなくなっておっ
たから、リースに聞かれるままに計画のことを喋ってしまったのじゃ」
 ファトラはたんたんと、それをすることが義務であるかのように言う。
 ルルシャの眉が引きつった。ニーナも同じような顔をしている。
「そうですか…。そういうことなら仕方ありませんね…」
 ニーナが半ば諦めたような口調で言う。今度はルルシャはニーナの方を見た。
「し、仕方ないって、仕方ない訳ないじゃない!」
「でも…。薬を飲ませたのはあなたじゃない…」
 ニーナは困ったような顔をして言う。
「そ、そりゃそうだけど…。でも…!」
「母様、いいんです。そんなことはいいんです。私は母様がいけないことをするの
が嫌なんです…」
 リースの言葉に、ルルシャは眉間に皺を寄せた。目を細くして、腕組みをしてい
る我が子を見る。今まで必死に育ててきた娘。自分が受けたような不幸をこの子に
だけは受けさせまいと、幸福になってくれることを一心に願ってきた娘。
「リ、リースちゃん…。わ、私はね…。あなたのためを思ってやったの。別にやま
しい気持ちがあった訳じゃないんだよ…」
 言っていて、自分でも白々しく聞こえる。しかしこういうふうに言うしかない。
この言葉以外に、自分の気持ちを伝えられる言葉というものを彼女は見つけられな
かった。何はともあれ、全てはリースのためなのだ。そして自分を不幸にした連中
に復讐したいという気持ちがこれに付随する。ひょっとしたら、復讐したいという
気持ちを付随させたのがいけなかったのかもしれない。しかしそんなことも、今と
なっては後の祭りだった。
 リースは悲しそうに首を左右に振った。
「私はこんなことしてもらっても嬉しくないんです…」
「そ、そんなことはないってば! 今はそう感じるかもしれないけど、きっとよか
ったって思えるようになるよ!」
 ルルシャは必死の形相で弁解する。二人の間にある距離が非常にもどかしく感じ
られた。
「ルルシャ王妃、そんなことでは人は幸せにはなれん。確かに力は必要なのかもし
れん。しかし権力には義務が生じるものなのじゃ。リースに強権を与えた所で、巨
大な義務に押し潰されるだけじゃ。幸せになどなれん」
 ファトラはルルシャとリースの間を取り持つように言う。これにはファトラの経
験も含まれていた。権力があっても、それ以上に義務があるのだ。楽しいことなど
何もない。少なくとも、人はそんなことでは幸せにはなれない。
 不意に、ルルシャがファトラを睨んだ。憎悪を含んだ目で。
「この子に余計なことを教えないで!」
 ルルシャはニーナからシャークガンをひったくると、ファトラに向けて狙う。
「やめて!」
 反射的に身構えるファトラだが、リースがファトラの前に来て彼女を守る。リー
スの行動にルルシャはかなり戸惑った。
 リースがファトラの前にいる以上、ルルシャは撃てないだろうと思い、ニーナは
何もしない。ただ、黙って事の成り行きを見守る。
「リ、リースちゃん、あなたは騙されてるんだってば! 私の言うことを信じて!」
 動揺を押えつつ、ルルシャは宥めるように言う。
「騙されてなんかいませんし、母様の言うことも信じてます。ただ、母様の言う方
法では、私は幸せにはなれないんです」
「そ、そんな…」
 ルルシャはシャークガンを落とし、再び呆然とした。自分のやっていたことが間
違っていた!? そんな思いが胸中をよぎる。確かにやっていること自体は社会的
には犯罪行為だ。しかし自分はそれ以上のことをされている。
 ----自分を不幸にした連中。
 あいつらは少なくとも自分よりはまともな境遇を得ていた。ならばそれに近づき
たい。近づいて、追い越したい。それが彼らに対する報復であるとも思っていた。
 そしてリースがいる。娘には自分のような境遇を歩んで欲しくない。それならば
彼らの上をゆく存在にしてやりたい。そういう思いからやったことなのに。それな
のに、当のリースがこれを拒むことになろうとは…。
 いや、彼女に自分やニーナが受けてきた境遇のことを話せば分かってもらえるか
もしれない。しかしそんなことは自分にはできなかった。言ってしまうと、リース
が自分たちのような色に染ってしまうような気がする。彼女を汚したくはない。言
ってしまえば、彼女までもが復讐心にかられるようなことになってしまうかもしれ
ないのだ。
「その…訳は…訳は言えないんだよ。ただ、私がやろうとしたことにはちゃんと理
由があるんだよ。言うことはできないんだけど、信じて」
「訳って、どんな訳ですか?」
 リースは多少救われたような顔になって聞き返してきた。おそらくは、理由によ
っては納得できるかもしれないということだろう。しかしたとえ納得できるかもし
れないような理由があるにせよ、言うことはできない。
「だからそれは言えないんだってば」
 ルルシャの言葉を聞いて、リースは再び暗い顔になった。
「……どんな訳かは知りませんけど、私はこの状態を望みません…」
「うっ…」
 何か痛恨の一撃をくらったような気がして、ルルシャは押し黙った。
 純粋だ。彼女はとても純粋でいる。それはまさに自分が望んだ通りのものだ。そ
して----その純粋さをもってすれば不正を犯して王位を取るなどということはどう
考えても否定されるべきことだろう。そうだ。それが正しいのだ。もしリースが王
位をかすめとることを否定しなかったら、彼女は自分の望む通りの存在ではなくな
ってしまうのだ。だからこそ、彼女には不正のことを知られたくなかったのに。
「う、ううん…。ニーナ、私たちの不正の件は立件される可能性はある?」
「ファトラ王女とリース様の意思次第かと思われますが…」
 ルルシャが公式用の口調で聞くので、ニーナも事務的な口調で答える。
 彼女はルルシャがなぜこんなことを聞くのかいぶかしんだ。
「そ、そう…」
 ルルシャはファトラの方へ視線をやる。ファトラはその意味を察した。
「わらわは別にこのことについて騒ぎ立てるつもりはないぞ。そなたたちの言うこ
とも分からんでもない。不問にふそう」
「私は…その…」
 リースは顔をふせる。どうすればよいのか分からないのだろう。平たく言えば、
自分から何かするようなことはないだろうということだ。さすがにそこまでするこ
とはできないのだ。
 一方、ファトラの方はというと、複雑な気持ちだった。もしこの件について、暴
露した所で、何かが変わるとも思えない。所詮、賄賂や不正がまかり通るだけだ。
それにひょっとしたら、またルルシャやニーナのような不幸な人間を作り出すこと
になるかもしれない。それなら、そういったことを身をもって体験しているルルシ
ャやニーナたちが後ろだてしているリースが王位をついだ方がいいのかもしれない。
そうすれば、少なくともルルシャやニーナのような人間が作られるようなことは避
けられるだろう。
 だいいち、リースだってもとから王位継承権を持っているし、それ以上にルルシ
ャやニーナに対する同情の念があった。感情で政治を動かしてはいけないことは百
も承知だが、ルルシャのあの虚無的状態を見た後では、はたして自分が口出しでき
るようなことなのかという疑問も生まれていた。
 正直言って、ルルシャとまともに向い合っているだけでも、精神的疲労がかなり
きた。気持ち悪くて仕方ないのだ。彼女に自分の虚無や退廃を悟られるのが一番怖
い。そうなれば----もし彼女がそこを攻撃してくれば----自分はリースを守りきれ
ないかもしれない。リースには自分やルルシャが歩んだ道を歩んで欲しくはなかっ
た。----なぜか----必要のないことだからだ。
 自分やルルシャは心の内に虚無を持っている。それは退廃を呼び、人間的幸せを
遠ざけるものとなっている。せいぜい、刹那的な幸せを得るくらいのことしかでき
なくなるのだ。ファトラはそれがいかに空しいことか知っている。そしてそれから
脱することができないということも。
 心が凍りついてしまうのだ。そうすればもう、人間ですらありえなくなる。命が
尽きるその時まで、堕落と共に生きるしかなくなる。自分の感性がそこまで擦り切
れているとは思わないが、ルルシャはそれくらいまで擦り切れている。リースには
そうなって欲しくなかった。彼女はまだ助かるのだ。
「どうすれば…分かってもらえるかな…?」
 しばらくの間を置いた後、ルルシャがおもむろに聞く。それはリースに向けられ
てのものらしい。
「分かってるつもりです。母様は私に幸せになって欲しくてやったんでしょ? だ
けど、私はそんな方法では幸せにはなれません」
 それを聞いて、ルルシャはわずかに微笑んだ。
「じゃあ、私の気持ちは分かってくれるんだ…?」
「気持ち…分かります。その気持ちは嬉しいです…」
 リースは神妙な面持ちで言う。
「私の気持ち…届いた?」
 ルルシャは母親の顔で優しく微笑んでいる。
「届きました…。でも母様のやっていることは私は望みません…」
 ルルシャが優しい顔で言ってくるので、リースも多少リラックスして答えた。ル
ルシャの気持ちはリースには間違いなく届いていた。
 たとえそれが自分にとって望む形ではなかったにせよ、犯罪行為を犯してまで自
分によくしてやろうとしたルルシャの愛情はリースには分かっているつもりだった。
愛があったからこそ成せたことなのだとリースは思っていた。別に自分を苦しめよ
うとしてやっている訳ではない。
 リースがもっとも苦しんでいるのはその点なのだ。これが単に自分を苦しめよう
として行われていることなのであれば、話はまだ単純だ。しかし実際には幸せにな
って欲しくて行われたことが、結果として不幸を導いている。当事者である所のル
ルシャを説得するにも、彼女がよかれと思ってやったことを否定するというのは心
が痛んだ。
「んん…いいんだよ…。いいんだよ…それで…いいんだよ…。それさえ伝わってく
れれば…」
 ルルシャは満面の笑みを浮かべている。はっきりいって、今、この状態には似つ
かわしくないような笑みだ。
「私は…あなたに幸せになって欲しかった。私があなたに残せるものといったらこ
れくらいしかなかった。…そう…薄汚れた王位くらいしかね…。何もせずにほうっ
ておけば、せいぜい政略結婚に使われる程度のはずだからね。そうすればどうしよ
うもないような生活が待っているだけ。きっと今の私の生活より酷いでしょうよ。
私はあなたにそんなふうになって欲しくはなかった。できれば平民として普通の生
活を送って欲しかった。でもいくらなんでもそれは無理でしょ。なにせ王女だもん
ね。そんな簡単には王族から出ることはできないからね。それで私はせめて力をあ
げたいと思った訳。王位があり、それをさらに私たちでサポートすれば、少なくと
も振り回されることはないでしょうからね。私はあなたが幸せになるにはそれしか
ないと思っていた。でも、あなたはそれを望まない訳ね?」
 ルルシャは自嘲しながら言う。
「私は…母様やねえやと一緒に暮していたいの。本当なら王族であることも嫌。父
様も生きていて欲しかった。普通に生きることもできないなんて…そんなこと…」
 ルルシャはリースの父親である所のゼメキスのことを話すことを極端に嫌った。
だから普段、リースは絶対にゼメキスのことを話さない。しかし今は違った。リー
スの望みはみんなと一緒に幸せに暮すことだ。それすらも叶わない王族という身分
に、リースは内心嫌気がさしていた。
「そう…確かにできることなら私もそれを望んだけどね…」
 ルルシャだって、本来ならば平民だったのだ。本来ならばリースも平民として産
まれ、今リースが言った所の普通の生活を送れたのだろう。しかし現実は違う。ル
ルシャには分かっていた。
 所詮リースの言っていることは理想論にすぎない。現実論ではないのだ。父親が
ゼメキスではなく、これもやはり普通の平民で、平民の生活を送れれば一番幸せだ
ったのだろう。しかし違うのだ。ルルシャは王族だし、リースも王族だ。もう元に
返ることはできないのだ。
 そういった点ではルルシャの言っていることの方がずっと現実的だ。しかしリー
スはそれを受け入れてはくれない。そういうふうに育てたのだ。もしこれを受け入
れてしまったら、リースはルルシャにとって理想の存在でなくなる。汚れてしまう
のだ。そうすれば自分の二の舞を踏むことになる。
 ではどうするか…。嫌がるリースを無理矢理王位につけることは、彼女の幸せを
願っている自分にとっては、やはり理想に反する。ではどうすればいいのか…。こ
こまできた以上、後には引けない。しかし唯一…、唯一もう一つの方法があった。
 ルルシャはリースの方に向かって歩き出した。ファトラとリースはそれを見守っ
ている。ニーナもさっきから沈黙を守り、事の成り行きを見守っている。
「平民になりたい?」
 手を延ばせばリースに触れられるくらいの所まで近寄ってきて、ルルシャは聞い
た。リースは小首をかしげる。
「どういうことですか?」
「だから、王族をやめて平民になりたいかって聞いてるの…」
 ルルシャは夢遊病者のような目つきで聞く。
「ほ、本当なら…。そうすれば…何にも振り回されなくて済むもの…」
 リースは消え入りそうな声で答える。
「そう…」
 ルルシャは優しげな目をする。
「ルルシャ王妃…何を考えてるのかは知らんが、変なまねにでるのではないぞ。わ
らわは別にこの件についてはどうもするつもりはないからな」
 心配しながらファトラは言う。ファトラはこの件についてはリースとルルシャの
話し合いで解決すればいいと思っており、別に立ち入るつもりはない。
 リースとルルシャの話を聞いていて、ファトラは心が痛んだ。自分だって王族を
やめたいと思ったことは一度や二度ではない。だからリースの心情は心が痛いほど
よく分かる。しかし同時にルルシャの言い分も心が痛いほど分かるのだ。どちらの
味方をすることもできない。強いて言うなら、心はリースの味方で、理性はルルシ
ャの味方だった。リースの言っていることが理想にすぎないことは確かだろうし、
ルルシャの理論が正論であり、もっとも合理的であろうことも理解できる。
 ルルシャやニーナの境遇をリースに話してみてはとも思ったが、果たして話した
所でどうなるのかという疑問もあった。せいぜいリースを苦しめるのが関の山だ。
だったら話さない方がいいのかもしれない。しかし話さなければ何も進展しないと
いうことも確かだ。
 いわばリースはルルシャやニーナの願いだ。ルルシャはリースが幸せになること
を願っている。ニーナや自分だって同じようなことを考えている。問題はその幸せ
になるための方法がないということなのだ。
 ルルシャはリースの頬に手をやった。優しげな表情で。
「私はあなたのためと思って今までいろいろしてきた。あらゆることに耐えてきた。
それはこれからも同じ。これからも私はあなたの幸せを願う。私にとってあなたと
は唯一無二の存在。あなたのためなら私は刃になるし、身を粉にする。分かる?
私はあなたのために生きてるの。もしあなたがいなかったら、私はとうの昔に自ら
命をたっていた。本当はそうしたかった。でもその前にあなたがいた。私は死ねな
かった。そう。あなたに幸せになって欲しかったから。私のようになって欲しくな
かったから…」
「…嬉しいです…」
 詳しい事情を知らないリースには意味の分からない部分が多い。それでもルルシ
ャの気持ちをくみ取ることはできる。愛されているのだ。
 ルルシャは微笑むと、ニーナの方に振り返った。
「この件は全て私がやったということにしておいて。そうすれば、リースちゃんは
王位継承権を破棄できるでしょうから。そうしたら王籍を出て、二人でどこかで暮
らしてね」
「はっ?」
 ニーナには意味がよく分からず、聞き返した。しかしルルシャは答えない。ルル
シャはリースの頬をいとおしげに撫でた後、代わりに歩き出した。
 踵を返して、高台の脇の方へ歩いて行く。イベントホールの外側になっているそ
の向こうは断崖絶壁だ。
 ルルシャは振り返った。ファトラたちはぐっと息を飲む。
「あなたの幸せを見届けることができないのは辛いけど、あなたが不幸なのを見る
のはもっと辛いから…。あなたのための私の命だもの。あなたのためなら惜しくな
い。一緒にいてあげられなくて、ごめんね。私がいるとあなたは私のことを気にし
て幸せになれないだろうから。どうか幸せになってね。ごめんね…。…さようなら
…。どうか幸せになってね…。ごめんね…」
 風に銀髪が舞い、ルルシャの顔ははればれとしている。彼女はさらに一歩踏み出
した。その向こうにはもう後がない。ファトラたちはルルシャが何をしようとして
いるのか悟った。
「ルルシャ王妃!」
「ルルシャ!」
「母様!」
 悲鳴じみた三人の声が重なる。
 三人はほとんど同時に駆け出した。が、彼女たちの手がルルシャを捉らえるより
も早く、ルルシャはもう一歩を踏み出す。手は空しく虚空を掴んだ。
 瞬間、ファトラたちの視界からルルシャの姿が消える。落ちたのだ。最後に少し
だけ、彼女の銀髪が見えた。
 三人が床のふちで立ち止まり、下を見降ろすのと、地上から鈍い音が聞こえてく
るのとはほぼ同時だった。
 どさっという鈍い音と共に、ルルシャの体が地上に叩きつけられる。ここは高台
で、地上は石畳だ。えらく複雑な格好で横たわるルルシャの周囲の石畳がみるみる
内に赤く染ってゆく。
「か、母様ーーっ!!」
 リースがそれに向かって大声を出す。しかしルルシャは反応しない。
「リ、リース! 早く来い!」
 ファトラとニーナはいち早く、階段を降り始めていた。涙を拭きながらそれにリ
ースが続く。
(まさかこんな結果になろうとはな…)
 ファトラは心の中で舌打ちした。本当ならもっと素直にルルシャが折れてくれる
つもりだったのだ。ルルシャは折れはしたが、折れすぎた。中間点がみつからなか
ったのだ。

 三人はルルシャが倒れている所にまですぐに着いた。あたりには怒声や罵声や悲
鳴が響き渡っており、その誰もが自分のことに精一杯という様子で、彼女たちに気
づく様子はない。元より、ここは人目につきにくい場所なのだ。ルルシャの周りは
すでに血の海になっていた。
 彼女たちはルルシャを普通の状態に寝かせてやると、取り囲むようにしてしゃが
み込んだ。それだけでも、手や服が血に濡れてしまう。
 リースがルルシャの手を取る。ルルシャの手は血に濡れていた。
「母様! 母様っ!!」
 リースがルルシャを呼ぶ。しかしルルシャは反応しない。その代わり…、少しだ
け…ただの錯覚かもしれないが…、少しだけ彼女の顔が微笑んだように見えた。
 彼女の血が…彼女の涙のようにあたりを濡らす。そしてその上にリースの涙が降
る。
 リースは反狂乱でルルシャの名を呼び続けている。ファトラとニーナはルルシャ
の容体を確認する作業に入った。脈や呼吸を確認する。
 そしてほどなくして、ニーナは立ち上がった。ファトラもそれに続く。二人は頭
をたれ、うなだれるようにしている。リースが二人を見比べるように見た。
「ねっ、ねえっ! はっ、早くなんとかして! ねえ! 医者を呼んで!」
「…………」
「…………」
 二人は答えない。重苦しいほどの沈黙があたりを包む。
「はは…。まさかこんなことになろうとはな…」
 不意に、ファトラが自嘲気味に言う。ニーナはそれを見た。
「ファトラ王女。あなたは関係ありません。事後処理は私がやりますので、ここか
ら逃げて下さい。この状態なら逃げきれるでしょう」
 恐ろしく冷静な口調でニーナが言う。たった今、ルルシャが死んだというのにだ。
 ファトラはニーナを鋭い目で見た。
「逃げる!? この状態で? リースはどうなる!? なぜルルシャが死ななけれ
ばならなかった!? そんな必要なかったのに!」
 ファトラは激昂した様子でまくしたてる。それは無視し、ニーナはリースの方に
向き直った。
「リースちゃんはどうする? ルルシャが言った通り、平民になる?」
 思ってもみなかったことを聞かれたという様子で、リースはどきっとする。
「そ、そんなことより、母様を…」
 嗚咽を抑えながら、聞き取りにくい声でリースが言う。ニーナは首を横に振った。
「もう助からない。これはもう死んでる。分かるでしょ?」
 ニーナはえらくたんたんと言う。リースの表情が絶望に歪んだ。彼女はルルシャ
の手をぎゅっと掴む。ルルシャの手は冷たくなり始めていた。
 ファトラがニーナの腕を取った。怒りを伴った鋭い目できっと彼女を睨む。
「なぜそんなことを言う!? リースは何も分かってはおらんだろうが!」
 ニーナは肩をすくめてみせた。
「では、あなたは何を分かっているというんですか?」
「うっ…」
 ファトラは口ごもる。ふらふらとニーナから離れた。不意に、笑い出す。
「…は、はは…。そうさ…。そうさとも…。何も分かっちゃいない。しかしな! 
ルルシャの気持ちは誰にもくみ取れん。それはそなたもリースもみんな同じじゃと
も! 誰も何も分かっちゃいない! ルルシャが死んだ! しかしルルシャの死な
ど誰も望んではおらん。何でルルシャが死ななければならなかった!?」
「誰も望んでなんかいない。でもルルシャが生きることだって、誰も望んでなんか
いない。ルルシャはリースちゃんのために生きていた。そしてリースちゃんのため
に死んだ。だったらそれでいいじゃないですか?」
 ニーナは冷静に答える。それが余計ファトラをあおった。
「だから…! ルルシャの死などリースのためにはならなかった! そうさとも!
 王位奪取はまだ取り返しがついた。うまくやればリースとルルシャは平民になれ
ただろう。しかしな、死んでしまってはもう取り返しがつかない。…もう…もう終
わりじゃ!」
「それはそうかもしれませんが、別に誰かのせいという訳でもないでしょう?」
 ニーナはたんたんと無表情に言う。ファトラは歯がみした。
「誰のせいかか…。誰のせいでもないな…。せいぜい、悲劇が起きるように作られ
たこの世界のせいとでもいうべきじゃろうな…。…はは…そうさとも…。こんな世
界にどれほどの価値があるというのじゃ? こんな結末しか引き出せないような世
界なら、いっそのこと滅んでしまえばいい! みんなルルシャのように死んでしま
えばいいんじゃ!」
 ファトラが空を見上げると、偶然、神の目が見えた。天空にたたずむ神の目。昔、
先エルハザード文明を滅ぼしたといわれる神の目。それが遥か彼方に小さく見える。
 ファトラは緩慢な動作で、神の目の前に向き直った。そしてにいと微笑む。狂気
の笑みだ。
「神の目か…。世界を滅ぼすという神の目…。先エルハザード文明の人間はこんな
くだらない世界に嫌気がさして世界を滅ぼしたのかもな。こんなことしか起こらな
いような世界なら、必要ないものな……ひひひ…」
 昔にもこんなことを考えたことがある。あれは母が死んだ時だ。全てが憎くなっ
た。この世のもの全てが。あの時も、世界を滅ぼしたくなった。
 ----一体誰のせいで母が死んだのか。そんなことを考えている内に、世界が憎く
なった。この世界が母を殺したのだと。この世界が悲劇を作り出しているのだと。
 そう思うと、もう憎くて憎くて仕方なくなった。しかし、憎むことしかできない
自分には失望した。どんなに憎くても、自分にはどうすることもできないのだ。
 それからというもの、自分は悲惨しかもたらさないこの世界に対し、退廃という
手段で抵抗するようになった。原因があるから結果があるのだ。それならば、原因
を作らなければ、結果は生まれない。悲惨な結果などいらない。
 かくして、ファトラは悲惨を克服する手段をみつけた。原因がなければ、結果は
生まれないのだ。
 ファトラの生活は退廃を極めるものとなった。いっときの快楽を得るために恥態
に耽けり、痛みを和らげるために酒を飲んだ。そのかわり、悲惨はなくなった。た
だ、怠惰と堕落がえんえんと続くだけだ。悲惨はない。しかし、幸せでもない。
 が、悲惨しかもたらさないこの世界に住んでいながら、自分が悲惨を受けていな
いということは、この世界に対する唯一の報復であるとも思えた。自分が悲惨を感
じていない限り、自分の勝ちなのだ。自分は自分の退廃に対し、誇りを持った。だ
から自殺したりはしない。試合放棄は自分の誇りにかけてしないのだ。
 そういったことをありありと思い浮かべながら、ファトラは神の目に向かって腕
を突き出した。まるで、神の目を掴み取ろうとするかのように。
 そして失敗し、絶望する。掴み取れる訳ないのだが、絶望した。
 また負けてしまった。悲惨を感じとってしまった。実際、退廃に身を委ねていて
も、悲惨を感じることはあるのだ。そして今、また悲惨を感じとってしまった。自
分がもうちょっとしっかりしていれば、ルルシャを止められたかもしれない。そん
な思いが胸中をよぎる。
 しかし、根本的にはこの世界が悪いのだと思った。エントロピーの増大は全ての
ものを破壊し、焼きつくしてしまうのだ。やはり自分は退廃に生きるべきなのだと
思った。行為を行えば、悲惨が発生する。悲惨は嫌いだ。
 不意に、ニーナがファトラに声をかけた。
「ファトラ王女。所詮、ルルシャはリースちゃんのためになることなんか、根本的
にしていなかったのですよ」
「何?」
 神の目から視線を離し、ファトラはニーナを見る。
 ニーナはルルシャの亡きがらにしがみついているリースを見ながら、続けた。
「あなたが知っているかどうかは知りませんが、ルルシャや私が育った環境という
のは酷いものだった。ルルシャは事故からリースちゃんを産んだ。ちょうどルルシ
ャが絶望して、自殺願望を持ち始めていた頃に、彼女が妊娠していることが分かり
ました。私は止めましたよ。この状態で産んでも、生まれてきた子供は幸せにはな
れないって。でもルルシャは産んだんです。本当は自分は死にたいが、この子には
幸せになって欲しいってね。それで産んだんです。それで産んだ後、自分は自殺す
るのかと思えば、この子を残してはおけないとか言って、結局自殺しなかった」
 そこまで話して、ニーナは自嘲気味に肩をすくめた。そしてさらに続ける。
「けどね、もしこの子の幸せを本当に考えてるのなら、産むべきじゃなかったんで
すよ。堕胎すればよかった。そうすれば、この子は一生の内、一回も悲惨を感じる
ことなくこの世界を去ることができた。この世界がくだらないということについて
は、私も賛成です。だから産まれてこなければよかった。みすみす不幸な人間を増
やすことはないものね。現に今、こうしてこの子は不幸になってるものね。やっぱ
りルルシャの言うことは正しくなかった。産まれてくれば悲惨になる。ルルシャは
それに挑戦しようとしたんですよ。そして負けた…」
 リースはニーナの話を聞いて、怖じけずいたようだった。無理もない。自分の目
の前で、自分が産まれなければよかったと話されているのだから。
 リースはルルシャの亡きがらに隠れるようにしながら、ニーナの方をじっと見て、
目に涙を溜めている。
 ファトラは顔に手を当てながら哄笑を洩らした。ニーナは無表情にそれを見る。
「はっ、ははははっ!! 産まれてこなければか…! そうかもな…。そうすれば
悲しみも何もなくなるものな…! 確かにそれが一番幸せなのかもしれない。はっ、
ははははははっっ!!」
 何がおかしいのか、ファトラは腹に手を当てて笑いころげ始める。そしてひとし
きり笑った所で、今度は泣き出してしまった。熱い涙が頬を濡らし、激しい嗚咽が
洩れる。
 ファトラはリースに自分の姿を重ねていた。リースは自分が幼かった頃とよく似
ているような気がする。リースとルルシャの仲を取り持とうとしたのも、リースに
自分の姿を重ねていたからなのだ。そして結局、リースも母親を失ってしまった。
リースもこれから先、自分のようになるのだろうか…。そんな思いが胸中をよぎる。
そしてそれを阻止できなかった自分が情けなかった。
 ニーナの言った通り、人は産まれてこないのが一番幸せなのかもしれない。だっ
たら自分も産まれてきたくはなかった。しかし自分にはそんなことを受け入れられ
るだけの精神も度胸もなかった。悲惨は嫌だが、自分が自分でなくなってしまうの
はそれ以上に恐怖だった。自分というものが存在しなければ、感じるものがないの
だから、悲惨は感じない。しかし逆に言えば、悲惨を感じているということは、自
分というものが確かにいるという証拠でもある。
 この巨大な矛盾に、ファトラは解答を出すことができなかった。ただ、泣きじゃ
くり、子供のようにだだをこねるしかできなかった。そしてそんな自分にも嫌気が
さした。そしてその嫌気を拒絶しようとして、さらに泣いてしまう。
 ニーナは再びリースを見、彼女に向かって手を差し出した。
「リースちゃん、来なさい。とりあえずは事態を収拾しましょう」
 リースはニーナを凝視し、凍りついたように動かない。
「い、嫌…。ねえ…。もうどうにもならないの…?」
「別に今すぐ状態を受け入れろとは言わない。それにいつか私やルルシャのことも
話してあげる。とにかく今はルルシャの言った通りにしよう。ね?」
「…………」
「ルルシャの言った通りにしたくなければ、それでもいいんだよ。王位をついで、
女王になればいい。それはあなたの自由。とりあえず、今は私の言う通りにして」
 ニーナはリースの方に歩いていき、彼女の手を取ろうとする。しかしリースはニ
ーナの手をはねのけた。そしてルルシャをかばうようにしながら、ニーナの顔をじ
っと見つめている。
 ニーナは嘆息した。
「…ああ…えと…。あなたが産まれてこなければいいって言ったけど、別にあなた
が死ねばいいっていう意味じゃないの。ルルシャはあなたに幸せになって欲しくて
死んだの。それなのに、あなたが幸せにならなくてどうするの?」
 ニーナがとりつくろうように言う。しかしリースは答えない。仕方ないので、と
りあえず自分だけで事後処理をしようと、ニーナは振り返った。と、そこにはファ
トラが立っている。頬には涙の跡が残っていた。というより、まだ泣いている。
 ファトラは聞き取りにくい声で喋った。薄く笑いながら。
「ルルシャは…。ルルシャはリースのために死んだのだろうな。リースのために…」
「ルルシャは言ってたじゃないですか。自分がいると、リースちゃんが自分のこと
を心配してしまうからって。だから自殺したんですよ」
「はは…。そうじゃろうな…。しかしわらわはそんなことは許さない。ルルシャが
生きていようと、死んでいようと、リースは不幸になってしまう。母親をなくして
しまったのだからな。それはそなただって分かっておるのではないか?」
「……まあ、そうは思ってはおりますが…」
 ニーナの答えに、ファトラは満足気な顔をした。もう、泣きやんでいる。
「しかし、ルルシャが今、口をきけたらきっとこういうじゃろう。『これで私がリ
ースちゃんを拘束することはなくなった。どうか幸せになってね』と。しかしわら
わはそんなことは許さない。ルルシャはリースの心の中で生きている。それは今ま
で以上に、リースにとって重荷になる。違うか?」
「そうかもしれませんが、ではどうしろと言うのですか?」
「結局、悲惨な状態ができあがっただけじゃ。ルルシャの死は彼女の自己満足にす
ぎない。しかしわらわはそんなことは許せない。リースを不幸にはさせない」
 ファトラの言葉には意思がこもっている。ニーナは嘆息し、肩をすくめた。
「では、一体どうしようと…」
 ニーナが喋っている最中、ファトラは突然駆け出した。
「あっ、どこへ?」
 ニーナが止める間もなく、ファトラはどこかへ行ってしまった。後には、ニーナ
とリースとルルシャの亡きがらだけが残る。
 仕方なく、ニーナはリースの方に向き直った。
「一応、医者を呼ぼう…」

 ファトラはエランディア王宮へと向かって走っていた。
(産まれてこなければよかったか…。確かにそうかもしれない。しかしわらわには
そんなことを受け入れられるだけの心はない。せいぜい、だだをこねて、あらがう
だけじゃ。しかしそれでいい。それだけが、わらわにできる唯一のことじゃ…。そ
して今も、あらがっている。たとえこの身が滅びることになろうとも、わらわは最
後まで許さない…)
 ファトラは走り続けた。唯一の望みへ向かって。たとえ失敗することになろうと
も、そうせずにはいられなかった。
 街の様子はというと、大騒ぎになっていた。騒ぎが騒ぎに拍車をかけ、手がつけ
られない状態になっている。右往左往している民衆などをかきわけ、ファトラは王
宮入口にまで来た。
 王宮入口には当然警備の兵がいるはずなのだが、どうやらクロノドールの起こし
た騒ぎのせいで、出払ってしまっているらしい。
 ファトラは入口と前庭を突っ切って、王宮本館へと飛び込んだ。目標までの道筋
はだいたい見当がつく。時折何者かに声をかけられたり、行く手を阻まれたりした
が、強行突破した。そして目的の部屋までたどり着くと、その中へ入る。クロノド
ールの部屋だ。その隣はファトラと誠が入れられていた部屋である。
 ファトラは置いてある物を片っ端からひっくり返し、目的のものを探す。実の所、
それがどういう形をしているのかも知らないし、ましてやそれがここにあるのかも
分からないが、探した。
 たんすのようなものを上から順に開いていくと、一番下の段に何やら頑丈そうな
小箱があった。ファトラはそれを取り出した。何やら大切そうな箱だ。
「これか…!?」
 ファトラはそれを開けようとしてみるが、開かない。どうやら鍵がかかっている
らしい。ファトラは髪からヘアピンを一本外すと、それを引き伸ばして、鍵穴につ
っこんだ。適当に中をこねくりまわしてから、いったん抜き、ヘアピンを手で数回
折り曲げると、もう一度鍵穴に突っ込む。
 かちゃりと軽い金属音がすると、蓋が開いた。中には円筒形の物が数本入ってい
る。そのどれもに先エルハザード文明のものであることを示す目玉の紋様が刻み込
まれていた。
「よしっ」
 おそらくこれに間違いないだろうと思い、ファトラは蓋を閉じると、箱を小脇に
かかえて走り出した。おそらくは、これがクロノドールが銃で撃たれても死ななか
った秘密だろう。
 さっきとは逆の道筋を走っていく。行く手を邪魔する人間がさっきよりも増えて
いるが、全て強行突破した。罵声をあげる兵たちを後に、王宮を出ると、イベント
ホールへと向けて走っていく。

 イベントホールではまだ戦いが行われているようだ。おそらく、あれからまたワ
ーウルフの数が増えたのだろう。所々にワーウルフが攻撃したとおぼしき破壊の跡
がある。
 ファトラはルルシャやニーナがさっきいた場所に着いた。そこには医者らしき人
間がおり、ルルシャを運んでいこうとしている最中だ。
「どけえっ!」
「うわあっ!」
 ファトラはルルシャを担架に載せている男を突き飛ばすと、ルルシャを地面の上
に置いた。
「何をするつもりですか?」
 ニーナがファトラに近寄ってきて、耳元で言う。本来ならば、ファトラがここに
いてはいけないのだ。それに、場合によっては捕まえられかねない。
 ニーナの質問には答えず、ファトラはルルシャのそばにしゃがんだ。そして自分
が持ってきた箱を開くと、中の円筒形の物を一本取り出す。使い方がよく分からな
いが、見た目がシンプルだし、何とかなるだろう。
 ニーナは医者や男たちを手で制すと、リースと一緒にファトラの様子をじっと見
る。ファトラはルルシャの片腕を掴むと、円筒形の物の端を彼女の腕に突き立てた。
円筒形の物についているレバーのようなものを操作すると、しゅっと軽い音がする。
「…………」
 ファトラは無言で立ち上がる。やれるだけのことはした。もしこの円筒形の物が
ファトラの思った通りの物なら、ルルシャは蘇生するかもしれない。そうすれば、
悲惨を一つくい止められる。ファトラの勝ちだ。
「ルルシャとこれを頼む」
 ファトラは箱をニーナに渡すと、そこから去って行った。彼女を追おうとする者
はニーナが止めた。
 後には地面に寝転がっているルルシャとニーナとリースと、医者と男たちだけが
残った。

 大神官たちの様子を見に行こうと、ファトラはイベントホールの中に入っていこ
うとしていた。何だかやけに疲れた気がして、早く休みたい。ファトラはややおぼ
つかない足取りで、力なく歩いていた。
 するとちょうど大神官たちがこちらに向かってきていた。みんな、返り血を浴び
て血まみれになっている。その中には自分の血であるものも含まれているようだ。
「おう、あの化け物どもはどうなった?」
 ファトラは明るい表情を無理に作って言う。
「それより、あんさん、何してたんどす?」
 アフラが凄い剣幕で聞いてきた。その後ろにはミーズやシェーラたちも控えてい
る。誠や菜々美やアレーレの姿もあった。
「い、いやな。話せば長くなるんじゃが、いろいろとあってな…。それよりそなた
たちはどうじゃった?」
 実際、話せばとてつもなく長くなる。それに自分はこのことを他人に話すつもり
はない。ファトラは気圧されながら言った。
「化け物はみんな倒しました。死傷者が多少出ておりはりますが、致し方ありまへ
ん。それよりあんさん、何でリース王女と高台にいたんどすか?」
 そこまで言って、アフラは何か気づいたようだ。じっとファトラの顔を見つめる。
アフラは怪訝な顔をして言った。
「あんさん、泣いてはったんどすか?」
 ファトラははっとして、顔を隠した。涙のせいで化粧が汚れているらしい。
「話せば長くなる。片付いたのなら、引き上げよう」
「ああ、ファトラ様ぁ!」
 ファトラは踵を返すと、できるだけ無関心を装って、イベントホールから出てい
った。後ろでアフラたちが抗議の声をあげるが、それも無視する。アレーレはファ
トラと一緒についてきたかったようだが、ファトラの様子を察して、ついてはこな
かった。
 ファトラはしばらく独りになりたかった。後ろで罵声をあげるシェーラや、それ
をなだめる誠の声を聞きながら、彼女はそう思った。

 大神官や誠や挙闘士たちによって、ワーウルフは全て倒された。その中にはもと
はクロノドールであったものも含まれているから、クロノドールは死んだことにな
る。クロノドールの件についてはこれで終わりだ。
 結局、騒ぎはようやく収り、ルーンや誠やシェーラたちも別館に引き上げた。後、
問題なのは事後処理だけだ。ファトラも誠も戻ってこれたし、これについては問題
ない。ファトラがルルシャやニーナとした約束も、もういいだろうと彼女は思った。
 何だかいろいろなことがあったわりには何も解決していないような気がする。も
っとも、そもそも解決するような問題があったのかも分からないし、解決する方法
があったのかも謎だった。ただ言えることは、これでリースを自分に重ねることは
しなくてよくなったのではないかということだけだった。

 夕方すぎ。昼間の騒ぎについては、エランディア側の話しではまだ調査中という
ことで、公式には何も発表されていない。おそらくは適当に取り繕った見解が発表
されるのだろう。リースと一緒にいたファトラについては、牢を脱走した偽物で、
逃げられてしまったということになっていた。ファトラやルーンたちの国賓につい
ては幸いけが人などは出ず、それぞれにあてがわれた別館に入っている。
 ファトラはあれからルーンやシェーラたちに質問ぜめにあったが、のらりくらり
と全てかわしてしまった。当然のごとくみんな怒ったが、それでも言う気にはなれ
なかった。結局最後、ルーンにだけ少しだけ事情説明をしただけだった。
「結局、あなたは何でリース女王と一緒にいたのですか?」
 ルーンとファトラしかいない部屋で、ルーンが興味深げに聞く。
「…それについては言いたくありません。やましいことでなかったことだけは保証
します」
 何度も繰り返してきた言葉をファトラはまた繰り返した。自分の姿をリースに重
ねていたなんて、言える訳がない。
「では、あれからどうなったのですか?」
「…それがいろいろありまして…。まだわらわにも全部のことが整理しきれません
ので、整理できたらお話しします」
「そうですか…」
 ルーンはそれ以上、何も言わなかった。ファトラがこういった言い方をする時は、
彼女に何かあった時だとルーンは知っていた。

             ◇  ◆  ◇  ◆  ◇

「いよっ、誠! よく戻ってきたな!」
「はあ、すみません」
 ファトラの尋問が済んだ後、シェーラたちは誠の帰りを祝っていた。シェーラは
上機嫌で酒を飲み、誠も半ば無理矢理飲まされている。ミーズやアフラたちも酒を
飲んでいた。ルーンとファトラはまだ話があるとかで、ここにはいない。
 誠は女装を解いて普段の格好に戻っているし、シェーラたちも返り血を洗い流し
ていた。
「ま、今までのことは忘れて、ぱーっといこうや。な!」
「はあ…」
 シェーラが誠の首に腕をかける。誠は仕方なくこれに従う。
「ちょっと、シェーラ。誠ちゃん、嫌がってるじゃない!」
「おう、菜々美。おめえも飲めよ!」
 菜々美がシェーラにつっかかてくるがシェーラはそんなこと気にする様子もなく、
菜々美に杯を勧める。菜々美は頬を膨らませた。
「まあまあ、おめでたいんだから、みんな仲良くしましょ。さ、藤沢様も」
 ミーズは微苦笑しながら、二人をさとす。
「そうどす。暴れんといておくれやす」
「何だよ、シケてんなあ…」
 シェーラはそういいながら、杯をからにする。
 菜々美とシェーラは言いあいをし、ミーズの攻めに藤沢はたじたじになり、アフ
ラとアレーレは静かに酒を飲んでいる。
 騒々しい騒ぎの中、誠は安心感を感じていた。やっぱり、こういうのが一番いい。
エランディアに来てから、いろいろなことがあったけど、こういう状態が一番安心
できる。
 心配なのは、席に加わっていないファトラとルーンのことだ。ルーンはまあいい
として、ファトラのことは少し気にかかる。自分なりに考えるに、ファトラと一緒
に捕らえられていた後、ファトラだけ連れていかれた時に、何かあったのではない
だろうか。どんなことがあったのかは分からないが、自分が知った所でどうにもな
らないような気がするし、あまり追及する気にもなれない。彼女には彼女なりの事
情があるのだろう。
 とりあえず、誠は目先の状態を楽しむことにした。
 アレーレは浮かない顔をしていた。不意に、アフラが声をかける。
「どうしたんどす? ファトラはんも、誠はんも、戻ってきてよかったじゃありま
へんか」
「それが何だかファトラ様、様子が変で…。何だか近寄りがたい雰囲気なんですよ
ね…」
 それを聞いて、アフラは表情を固いものにした。
「…よくは分かりまへんけど、どうやらかなり大変なことがあったようどすな。何
があったか話してくれへんのもそのせいでっしゃろう。そういう時は独りにしてお
いてやるのがええでっしゃろ。明日になれば、きっといつものようになっておます
って。心配しなはるな」
「そうでしょうか…」
「大丈夫どす。心の痛みいうもんはその人にしか分からんものどすからな」
「はあ…」
 アフラはあの時のファトラの顔を思い出しながら、言った。おそらく泣いていた
のだろう。目が赤く充血していたし、頬には涙の跡があった。あの王女が泣くよう
なことなんて、よっぽどのことだったのだろうと思った。そしてそれは他人には理
解できないものであろうとも。

             ◇  ◆  ◇  ◆  ◇

 夜。シェーラや誠たちはまだ酒を飲んでいるらしい。
 ファトラは夜風に当たろうと、外に出た。独りでいたい気分だが、部屋の中で独
りでじっとしているのも性に合わない。
 別館を出ると、そこには人影があった。ファトラはそれに向かって声をかける。
「誰じゃ?」
 人影はすぐに答えてきた。
「ニーナです」
 それを聞くと、ファトラは人影の方へ歩いていく。そこにいたのはニーナだった。
「どうじゃった?」
 無関心を装って、ファトラは聞く。ニーナも無表情に答えた。
「ルルシャは生き返りました」
「そうか…」
 ニーナの言葉を聞いて、ファトラは微笑んだ。悲惨を一つ食い止めた。万感の思
いが胸中をよぎる。自分の力が少しでも悲惨に対抗できたことがファトラは嬉しか
った。
「一応お礼にと思って、来たんです」
 ニーナの声はどこか浮ついている。一見無感情を装っているが、ファトラには分
かった。ファトラはうながすように言葉を発する。
「それだけで来たのではないじゃろう?」
 ニーナはその言葉を待っていたかのように、態度を変えた。
「……どうしてあのようなことをしたのですか?」
 その声には感情がこもっていた。ごく自然な感じの感情。おそらく、これがニー
ナの本当の声なのだろう。
 ファトラは少し考えてから答えた。
「さあな。わらわにも分からん。ただ許せなかっただけじゃ。それ以外には言いよ
うがない」
「何が許せなかったのですか?」
「それはな…この世界に起こる悲惨がじゃ。よかれと思ってしたことが悲劇となる
ことはよくある。わらわはそういったことが嫌いなんじゃ。正確に言えば、悲惨そ
のものがな。だからルルシャのしたことは許せなかった。ルルシャ自身が許せない
のではなく、ルルシャのしたことがな。だからそれに対抗したまでじゃ」
「そうですか…」
 ニーナはファトラの言いたいことは理解した。心を伝えたくても、行為という形
でしか伝えられないこと。その行為から他人が感じるものと、自分の心が一致しな
いジレンマ。そういったことが嫌いなのだと。
「リースちゃんは平民にはならずに、このまま女王になるつもりです。あなたはど
うしますか?」
「別に…何も…。それならそれでいいじゃろう。リースの勝手じゃ」
 ファトラの答えを聞き、ニーナはしばらく考えてから、また聞いた。
「…リースちゃんは幸せになったと思いますか? ルルシャは生き返らなかった方
がよかったのではないですか?」
「どちらにせよ、リースは今のままでは幸せにはなれんじゃろう。リースが自分の
力で何とかするまではな。もしあの時ルルシャが死んでいれば、リースは一生その
ことで心を拘束されるじゃろう。最低でもリースが自分の力で道を切り開けるよう
になるまでは、ルルシャやそなたは生きておらねばならん」
「ずいぶんと他人のことを気にかけるんですね」
 ファトラは一瞬どきりとした。自分の心の内を見透かされたくはない。
「ま、いろいろあってな。それに、そなたたちのこともわらわは知っている」
 それを聞いて、ニーナは驚いた。
「し、知っているって、どういうことですか?」
「そなたたちの昔の境遇をここのエリシア王妃から聞いたんじゃ。随分と苦労して
おるな」
 ファトラの答えに、ニーナは気を取り直した。
「…そうですか。知っていたんですか…。知っていて、それでも助けたんですか?」
「ああ」
 ファトラは静かに答えた。ニーナは困惑の表情をしている。
「…よく分かりません。知っていて、何で助けるんです?」
「それはさっきにも答えたじゃろう。許せなかったのだと。正確に言えば、助けた
のではなく、わらわのエゴで勝手に生き返らせたという方が正しいじゃろう。わら
わは勝手に他人の人生を変えてしまったのじゃ。憎まれても仕方がない。しかしそ
れでもわらわはやる。憎まれようが、そしられようが、それがわらわのやり方じゃ。
ま、誰もそれを分かってはくれんがな。たいていは善人か偽善者呼ばわりされる。
しかしわらわは善人でも偽善者でもない。エゴイストじゃ。他人に褒めてもらおう
などとは毛頭思っておらん」
 ニーナはファトラの答えをしばらく頭の中で反芻(ハンスウ)させていたが、やがてに
っこりと微笑んだ。
「…では、私もあなたを褒めないことにしましょう」
「ああ。それで結構じゃ。そうしてくれ」
 ファトラもにやりと微笑み返した。
「では、私はこれで失礼します。機会があったらまた会いましょう」
「ああ。機会があったらな」
「では」
 ニーナは踵を返すと、帰っていった。後にはファトラだけが残る。
 ファトラは久しぶりに、はればれとした気持ちになっていた。普段は心の奥底に
封印してある感情が表に出てきている。
 傷つきやすく、壊れやすいもの。それが彼女の本当の自分だった。自らを生み、
自らを育むことがどんなに辛いことか。普段はエゴで覆い隠してあるものが表に出
てきている。自分を支えるものは自分しかない。本当の自分を表に出すことなど、
めったにすることではない。しかし、今はそれをしていた。
 ファトラは今、喜びを感じていた。本当に喜びを感じられる時にしか、本当の自
分は表に出さない。喜びが自分を満たす時、彼女は至福を感じた。

 次の日の朝。戴冠式も波瀾に満ちてはいたが、一応終わり、今日はロシュタリア
に帰る日だ。
 シェーラたちは昨日、一晩中飲みあかしたらしい。しかしそれでもなんとか立ち
直り、今は飛行艇の準備をしている。
「誠、名残惜しいけど、もうさようならだな」
 シェーラは本当に名残惜しそうにしている。
「え、ええ。でもまたすぐ会えますよ」
 誠はというと、二日酔いで、藤沢に体を支えてもらっていた。もとは菜々美に支
えてもらっていたのだが、シェーラとの兼ねあいで、今は藤沢がやっているのだ。
誠は無理に笑顔を作ってはいるが、顔は少し青い。
「しかし誠はんも、こんなになるまで飲まんでもよかったのに。シェーラ、あんた
のせいどすで」
「何言ってんだよ、アフラ。おめえだって、酒飲んでぶっ倒れたじゃねえか!」
「そ、それは関係ありまへん」
 アフラは目をそらしながら言った。彼女は昨日、酒の強いやつを誤って飲んでし
まい、飲んだ途端にぶっ倒れてしまったのだ。
「藤沢様、会えなくなるなんて、ミーズは悲しいですわ」
 ミーズが藤沢にしなだれかかってくる。藤沢は誠とミーズと、二人を支えなけれ
ばならなくなったが、酒が抜けているので、どうということはない。
「は、はあ。でもまたすぐ会えますよ」
 藤沢は誠がしたのと同じ返答をする。しかしその程度でミーズが退かないことは
明白だった。
「でもぉ、私は藤沢様とずっと一緒にいたいのです」
「は、はあ…」
 ミーズはいやいやをしてみせる。藤沢はたじろいでしまった。
「ミーズの姉貴、そういうことしてももう似あう年じゃないぜ」
「そうどす。気持ち悪いだけどすよ」
「な、なあんですってえっ!」
 ミーズがえらい剣幕で声をはりあげる。
 かくして、泥沼の言いあいが始まった。

             ◇  ◆  ◇  ◆  ◇

 ルーンたちも帰る準備をしていた。飛行艇の離着陸場では飛行艇の最終点検が行
われている。ルーンとファトラはすでに飛行艇に乗り込んでおり、アレーレはファ
トラの後ろについていた。ファトラとアレーレが行きに乗ってきた飛行艇は従者の
一人に任せておいてある。
 ファトラは最後、リースに会えなかったことだけが気掛りだった。最後にリース
とだけは話をしておきたかった。
「どうしたのですか、ファトラ? あまりおちついていませんよ」
 不意に、ルーンが声をかける。ファトラは少し動揺した。
「い、いえ。別に。どうもありません」
 ファトラは努めて冷静を装って答える。
「そうですか。それならいいのですが…」
 ルーンは仕方なく、それ以上は問い詰めないことにした。ファトラは明らかに何
か気にかけている。しかしそれが何かルーンには分からなかった。リースと一緒に
高台にいたことといい、ルーンには分からないことが多い。
 ファトラはあたりをきょろきょろと見回した。すると、見慣れた人影が一つ目に
入った。リースだ。彼女は離着陸場の端にある物陰からこちらを見ている。それを
見ると、ファトラは居ても立ってもいられなくなった。
「あ、姉上。わらわはちょっと用事を思い出しましたので、行って参ります」
「あ、ちょっと、ファトラ!」
「ファトラ様あ!」
「アレーレ、そなたはついてくるな」
 ルーンとアレーレの声は無視して、ファトラは飛行艇からすばやく降り、リース
のいる方へと走って行く。
「ファトラったら…」
「ああん、もう。ファトラ様ったら…」
 ルーンとアレーレは仕方なく、ファトラが戻ってくるのを待つことにした。

 ファトラはリースの所に来た。リースはファトラが来ると、彼女を先導して人気
のない所へ行く。
 二人はしばらく無言であったが、やがてリースが話し出した。
「そ…その…母様を助けてくれて、ありがとうございます」
 リースはやけにかしこまりながら、言う。
「礼にはおよばん。わらわは別に礼をされるようなことはしておらんからな」
「い、いえ。とても感謝しています」
「…まあ、そなたがそう思っているならそれでも別にいいがな…」
 実際、このことをリースに理解させるには、かなり長々とした説明を行う必要が
ある。それに果たしてそれをリースが理解できるかも分からなかった。
 ファトラはニーナに聞いてから、考えていた疑問をリースに聞いてみた。
「リース、そなたは女王になるのか?」
「…はい。なります」
 リースはファトラの顔を見ずに、急に弱々しくなった声音で答える。
「本当にそれでいいのか?」
 ファトラはやや強い口調で聞いた。
「…はい。母様は昔のように優しくなりましたし、隠し事がなくなった分、すごし
やすくなりました。だから私、やってみようと思うんです」
 リースは弱い口調で答えた。が、最後の方はやや語気が強い。
「そうか…」
 ファトラは優しい目をしてリースを見る。とても優しい目だ。
 リースは明らかに無理をしている。それはファトラにも分かっている。しかしど
うしようもない。それに、平民になるとかどうとか言っていたが、今の状態である
ならばなってもならなくても、それほど変わらないだろう。何はともあれ、リース
とルルシャの間にできていた溝を多少なりとも払拭できたことはよかった。
「その…これからもたまに会えますか?」
「ん?」
 ファトラは聞き返す。リースは決心したように、こちらを向いた。
「その…ですから、友達になってもらえますか?」
 リースの勢いに、ファトラは押されてしまった。少しひるみつつも、気を取り直
す。そして明るい表情でリースを見た。まるでこの言葉を待っていたかのように。
「ああ。友達じゃ」
 ファトラはリースの頭を優しく撫でてやる。
「じゃあ、たまに会えますか?」
「ああ。時々は会おう。一段落ついたら、ロシュタリアにお忍びで来るがよい。そ
の時は存分に遊ぼう」
 それを聞いて、リースは歓喜の表情をした。
「あ、ありがとうございます…」
「友達じゃろう。だったら礼を言う必要などない」
「は…はい」
 リースは目に涙など浮かべている。ファトラはそれを見て、微笑すると、踵を返
した。
「では、わらわはもう帰るからな。さらばじゃ。また会おう」
「は、はい! また会いましょう!」
 ファトラはそれから振り向くこともせず、戻っていった。リースはファトラの姿
が見えなくなるまで彼女を見送った。

 ファトラは結局、走って飛行艇に乗り込んだ。ファトラが飛行艇に乗り込んだ時、
もうすでに他の人間は全員乗り込んだ後だったのだ。
 大神官たちの飛行艇はすでに出発してしまっている。
「いやあ、遅れてすまん」
「何やってんのよ、ファトラ姫! 早くしないと置いてくわよ!」
 菜々美がファトラをまくしたてる。行きは菜々美は別の飛行艇に乗っていたが、
帰りはそれほど仰々しくもないので、ルーンたちと同じ船に乗っているのだ。飛行
艇には誠や藤沢も乗っていた。
「では、出発しますよ」
「はい」
 ルーンの合図によって、飛行艇はゆっくりと浮き上がっていった。そしてロシュ
タリアへと向けて舵を取る。こうしてファトラたちはエランディアを発ったのだっ
た。

 ルルシャとニーナはファトラたちが帰っていくのをある部屋のバルコニーから見
ていた。
「行っちゃたね…」
「別にいいじゃない」
 そっけないルルシャの返事に、ニーナは彼女の方に振り向いた。
「そりゃそうだけど、なんだかね…」
「私が生き返ったこと?」
 ルルシャはゆったりとした椅子に座ってくつろぎながら、手の中で小型のナイフ
をもてあそんでいる。
「ファトラ王女はあなたにリースちゃんを見守ってあげていて欲しいんだって。だ
から生き返らせたの。きっとあの子も同じような境遇か何かに遭ってるんじゃない
?」
「そうかもね。私があの子に薬を飲ませて、あの子の母親になってあげた時も、あ
の子嬉しそうだったものね」
 ルルシャはそこまで言って、椅子に深く座り直した。そして今度は独りごちるよ
うに言う。
「…母親か…。私の母親は優しい人だった。母親としては私の理想…。私は…私は
子供がいたから母親になった。私のようになって欲しくはなかったからね。私にと
って価値あるものは私が創り出したものだけ。私にとってはリースちゃんだけ。だ
からリースちゃんは私の夢。リースちゃんには私が本来送っていたような人生を送
って欲しかった。だから私は戦うために刃となったし、守るために盾となったし、
私が邪魔なことが分かれば自らを破棄した。それは間違っていたというわけ…?」
「間違っているというわけじゃないけど、もっとよく考えてからやった方がいいん
じゃないの?」
「そうね…。そうかもね…」
 ルルシャはナイフの刃を自分の左手の人差し指の腹に押しつけた。ナイフを離し
た途端に指の腹に血玉ができる。彼女はそれを舌で舐めた。すると、指の腹にはも
う傷跡すら残っていない。ルルシャはそれをまじまじと見てから言った。
「便利なものね。これならいくら怪我しようが死にそうにないね」
「あまり無茶しない方がいいと思うよ」
「そうね。そうしとく」
 ルルシャはナイフを鞘に入れると、テーブルの上にほうった。
「今度ファトラ王女に会うことがあったら、一度話し合ってみたいな。何で私を生
き返らせたのか」
「それでどうするの?」
「あの子は私と同じ感じがする。よかったら、痛みを和らげあえるかもよ」
 ルルシャは悪戯っぽく答える。ニーナは少しあきれたような顔をし、ルルシャの
向かいの椅子に座りながら、言った。
「痛みを和らげるねえ…。ところで、リースちゃんには私たちのこと話すの?」
「まだ当分は話さない。でも、いつか話そうと思ってる。話してもあの子が耐えら
れるようになったらね」
「そう…。それがいいだろうね」
「私はあの子をずっと見守っていく。少なくとも幸せになるのを見届けるまではね。
私にできることといったら、もうそれくらいしかないから」
「今のあなたなら、あの子が死ぬまで見守っていられるんじゃない?」
「まあね。でもそれがあの子を拘束することになったらやだな…」
「ま、あの子が自立できるようになれば、なんとかなるんじゃない?」
「そうなるのが一番いいだろうね。でも私は心のどこかでそうなることを恐れてる。
心のどこかではいつまでもあの子に子供のままでいて欲しいと思ってる」
 ルルシャは自嘲気味に言う。ニーナは彼女の手を握った。
「大丈夫よ。私も見てる。いつか、私たちはあの子の前から去らなければならなく
なる。そうなったら、二人で暮らしましょ」
「それしかないだろうね。あなたも、私にとっては大切な人よ」
「私もね。唯一の幼なじみで、友達。あの子にもファトラ王女ができたし、それで
いいんじゃない?」
「まあ一応、丸く収まったし、それでいいでしょう」
 ニーナはルルシャの頬を軽く撫でてやった。

             ◇  ◆  ◇  ◆  ◇

 ファトラたちの飛行艇は空を駆けてゆく。しばらくすると、もうエランディアの
王宮は見えなくなっていた。
「なあ、誠」
 不意に、ファトラが誠に声をかける。誠は虚を突かれたような顔をした。
「な、何ですか?」
「この世界のこと…どう思う…?」
 いつになく神妙な面持ちでファトラが言う。しかし誠はファトラの質問の意味を
正しくは理解しなかった。
 誠は不思議そうな顔をしながら言う。
「この世界ですか…とてもいい世界だと思いますよ。地球じゃ絶対に体験できない
ようなことがたくさん体験できましたし、エランディアの時も、はらはらしました
けど、みんながいるから切り抜けられたんじゃないですか」
「そうか…。では喜ぶことができるというのだな?」
「はい。僕はエルハザードに来たことを喜べます。だって、だからこそ、今ここに
僕がいるんですもんね」
 誠ははにかみながら言う。
「そうか…」
 ファトラは誠の方を向くのはやめて、景色の方を向いた。色とりどりの景色が流
れるように後方へと遠ざかっていく。
(この世界に悲惨などなく、ただ喜びだけがあったとしたら…、もしそうだとした
ら、祈らずにはいられない。この刻が永遠に続けと…。もしそうだとしたら…だが
な…)
 ファトラははればれとした心のなかで、そう独りごちた。
 飛行艇は一路ロシュタリアへと向かっていく。そしてファトラはエランディアで
あったことを一つづつ思い出しては、心の中で整理していくのだった。


   終わり


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