第17回 CGアニメコンテストの外伝ビデオ収録作品の感想です。作者名は敬称略です。
この感想文については作品感想のページについての補足をご覧ください。
私の独断と偏見による評価点を付けたページは 別に用意しました。
基本的にはムチャクチャな話なのに、安定したテンションを保ったまま、 オチまで破綻なく、バランスよく構成した力作。
登場ヒロインははっきり言って、非常識にも限度があるぞ…ってタイプなんだけど、 その非凡なキャラ性を、なかなかうまく物語内で動かしており、 もう少しこの作風を洗練させていけば、不条理系アニメとしてかなりイイ線行きそうな感じ。
ただ、本作で、一番盛り上がってる部分は、校舎の窓からどんどん人が射出されて、 死んでいく(本当に死んでるのか不明だけど)シーンのような気がする。 その後、軍が出てきてみんな倒されるというのは、ある程度想像付く展開だし。
暴力的シーンを全否定するわけではないが、それらに頼らないが不条理な笑い …というのをもう少し模索して欲しかった気もする。
釘バットを作ってるシーンくらいがちょうどいい感じかと。ここが 私には一番ツボにはまる笑いだった。
とにかく爆笑。
なんか普通に一回歩いてみせて、その後、自転車が一瞬の脱輪…から始まり、 点滅するのをなんとしても渡ろうと必死な人、最後、一人残った人が下を見るところ、 一つ一つに全く無駄がない。タイミングも含め、そのセンスの良さにも脱帽。
但し、学校の課題だったという「歩く」という点に着目すれば、 その姿勢とか、足の運びとかがぎこちない。 でも、この作品の場合、そんなことはほとんど作品に影響しないんだよな(笑)。 その中では、一緒に飛ぼうかと顔を向ける子供のしぐさは、なかなかいい感じだった。
Flashでもできただろうと言われたと解説書にあるけど、これ多分、Flashでやったら、 面白さが半減してた気がするよ。 その他、疲れて昼寝して思いついたとか、一人こっそり笑いながら絵コンテを描いたとか、 作品のコメントが微笑ましく、この人には天然の面白さがある予感。
冒頭部分がテンポ良くて、競技の雰囲気とか、一気に頭に入る見事な流れ。 アニメ「遊戯王」(GXも含むかも)の主役声優がちょっと素人っぽい声ということが 関係するのか知らないが(おいおい)、何だかめちゃくちゃすんなり雰囲気に入りこめた。
で、単調にバトルするかと思いきや、スピア・テッポウで 「おや、これって変な作品なのか?」 と期待させ、オクト・ドラゴンでかなりのヒット。 そこにとどめのブラック・オクト!
あのビジュアルでブラック・オクトですぜ、旦那! ぷははははははは! そりゃ、確かに、ブラックだけどさ、ぷははははは。
でもその後は尻すぼみな印象。 二人が理解し合えたというシーンにも、何かインパクトのある絵が欲しかった気が。
この作品の面白さは、対人Zのやることがひたすら地味なことにあるわけで、 それを入選する目的等のために、もっとインパクトがあるものに変更した方が いいと言うのは無意味、無意味なのだ! インパクトがあったら、対人Zの地味さが全く報われないじゃないか。 入選しなかったのは罪じゃない。作品も悪くない。この社会(?)が悪いんだ! そう思わせる作品(そうか?)
それにしても、それを自らの運命と決め込み、どんな障害が立ちはだかろうが、 マンホールに落ちようとするその気持ちに心を地味にうたれた。
但し、最後の色んな対人さんの紹介はないほうがすっきりしてたかもしれない。 でも、作者にとってはその一人一人の地味さが重要なのかも知れない。 こういう地味な作品、好きですなあ。
継続は力ということを感じさせる作品。 よく考えてみると、入選と外伝で、 ロボットがまともに登場する作品はこれだけになってしまった。 どうしたのだ他の人達は! 君たちのロボに対する愛情はその程度なのか!
他人の心配はともかく、今回の作品ではロボットの岩の画像認識映像にこだわりを感じる。 敵側モンスターは、遺伝子操作なのをいいことに、かなり自由奔放に動いてる一方で、 バトラクターの方は、相変わらず、その自重に苦しみながら、重機らしく動き、 戦っている。それがこの作品の味と言えるかもしれない。
今回の作品では、おねいさんの逆ギレっぷりに勢いがあって面白い。 ちょっとオーソドックスすぎるギャグだとは思うけど…。
そういえば、どうやって敵をやっつけたのか、全然わかんないな(笑)。
青空とか、終盤の雪の表現とかが美しく、少女は時に妖艶で可愛く、 お城などの背景作画等も緻密。ノリは軽いけど、かなりの力作。
で、そのお姫様のような少女は、なぜかBL系画像収集が趣味というのも 目新しいし、面白いギャグもちりばめてある(姫のノリツッコミとか)。
でも、恋物語という点では、今ひとつ消化不良な感じなのが何だか惜しい。 もう少し二人の本心について掘り下げる描写があると良かったような…。 恋物語を描くのに十分キュートな作画だけに。
セリカかあ、懐かしい…。今見てもかっこいい。
老人は、表情豊かにモデリングされており、 絵をクルッと回転させた時の動きがコミカルで良かった。
ただ、絵の中のものが動き出して…というのは、 時々見かけるネタなので、やや新鮮味に欠けるし、そのオチも予想の範囲内 という感じだった。 奇抜なオチを何か考えるか、後はカメラワークやカット割りをもっと大胆にするなど、 もっとコミカルさを強調するような演出が欲しかった気がする。
他には、転がしたり、落ちてきたり、車体を歪めて走り出したり、 車の動きが、一つ一つ丁寧に作られていると感じた。
もう11話になってるとは!! こういう作品を見てると、継続は力だなあと思う。
正直、どうコメントしてよいやらとは思うけど、本音を言えば、 こういう不謹慎と言われそうなネタを笑い飛ばすのも、 一つの文化としてもっと許容されるべきだよねとか思う。 頑な人達が、世の中でやっかいな事件を起こしている面も否定できないわけで…。
サンタクロースの起源をネタにした物語作りは、なかなか絶妙な着眼点なのだけど、 このシリーズの芸風のせいもあってか、その辺りは、観る側には見過ごされがちかも。 実はこの作品は、馬鹿作品を装いながら、 かなりメッセージ性の高い作品と言えるかもしれない(断定しないでおこう)。
それにしても、相変わらず、各キャラが良く立ってる。
音楽に良く合わせた気持ちよいアニメーション。 ヒロインキャラの開脚の多い動きが印象的。 キャラクターデザインも個性的で面白い。
構成的に、ちょっとあっさりしすぎている点が少々残念だけど、 気持ちよいスピード感で魅せるという方向性は良く出せていると思う。 特に冒頭の勢いがよい。
すげー力作。まず下書き風の白黒の映像感が、いい雰囲気を作っていると思う。 そして、場面の繋がりやカメラワーク等が十分計算・整理されているためか、 非常に見やすい。モノトーンで鉛筆で影をつけたような作画のスタイルも、 私はとてもいいと感じた。中でも人物や戦艦の作画に立体感があり、動きも生き生きしている。 なんか3Dポリゴンキャラよりも、立体感を感じる。
そして外は常に強い風が吹いているんだけど、その風を、髪のなびきなどで、 作品全体にわたって、全く手を抜かず表現し続ける力業には、舌を巻くばかり。
ただ、とにかく残念なのは、ストーリーが想像の範疇を越えていなかったこと、これに尽きる。 特に、後半は敵にさらわれたお姫様を助ける。その一言で概ね表現できてしまう。 何か一つでも変化球が必要だったのではないか…と思った。 これだけの作画エネルギーを、このようなオーソドックスな物語に費やすのは、 あまりに惜しいと思った。 自主制作系作品には、こういう傾向になってしまうものが、あまりにも多いのだ。
作家が自分のやりたいことのために、多くの時間を費やし、 一つの作品を作り出すチャンスは限られている。そのチャンスを、 オーソドックスなものではなく、何か型破りなものに生かして欲しい。 この作品を観ているとそんなことを思ってしまう。
それと、バトルシーンの演出がよく出来ている一方で、 登場人物のキャラ描写が全体的に地味だったのも少々残念。 場面を引き立てる気の利いたセリフ、 そういったものが欲しかったように感じた。
キャラクターが表情豊かで、動きもコミカルでスムーズ。 キャラクターを一個(?)一個、とても丁寧に動かしていると思う。 全体の映像感もいい感じ。中でも夜の雰囲気がいい。 そして、碁とオセロを絡める発想も非常にユニーク。
しかし、それらのいい材料をどう物語として構成するか、 その点が十分でなかったように感じた。 別に起承転結にこだわることはないけど、 説得力のある話作りが全体的に若干不足ぎみだと感じた。 中でも、碁石として活躍したキャラが、オセロの石として生まれ変わるまでの流れ、 そのあたりがどうも整理不十分と思う。 他の碁石から排除されるシーンも少々唐突に感じる。
気持ちの変化を示すのに、勲章という小道具を使うというアプローチは良かったと思う。 しかし、それだけでは足りない…という印象を抱いた。
それともう一つ、この作品は、物語自体を粛々と描写するのに専念しすぎたのかもしれない。 映像として面白いと感じたり、印象に残るような場面や、 キャラクターの個性が引き立つシーン(キャラクターの性格を説明するのではなくて)、 そういうものをいくつか作ると、作品にもっとメリハリが出たのかもしれない。
人はなぜ踊りに惹かれるのだろうか。 柔らかさ、力強さ。踊る人体の、水、帯、火へのモーフィングしていく美しさ。 緩急ある動き。生き生きとした音楽の流れる中、 丁寧に描かれた人物の踊りの映像に、私はすっかり引き込まれてしまった。 惚れこんでしまったと言ってしまってもいいかもしれない。 踊り子の映像(現実)から始まり、いつしかそれはごく自然な形で幻想へ変化し、 そして、また再び現実へ戻る。この構成も見事としか言いようがない。
この作品を観ながら、こういう映像感は、魔法少女とかの変身シーンにも 応用できるな…とか、その手の作品にすっかり毒されている私は思ったのは内緒である (ここに書いたら内緒になってない)。
3DCGソフトウェアを使いながら、 リミテッドアニメーション風の効果を狙ったという点がユニーク。 激しい動きの時にどうなっているのかコマ送りで見ると、 一つ前のキーフレームの画像を重ね合わせているのがわかる。 3DCGのレンダリングは少ないフレーム数で行い、 後で動画加工ソフトで中間のフレームを作っているのかもしれない (それともLightWaveのモーションブラー機能でもこうなるのかなあ。よくわからない)。
確かに3DCGソフトを使ってキャラクターの動きをつけようとした場合、 その動きにもっさり感が出てしまうことがよくある。 スプラインなどの補間に安易に頼ってしまうとそうなってしまう。
この作品のリミテッド的手法は、驚いた時の人物のぴくりとした 動きなどで効果的に働いていると感じる。
ただ、全般的に地味な動きの続く作品なので、せっかくの手法を十分生かし切って なかったかもしれない。 特に、走る、飛ぶなど、激しい動きの時、一体どうなるか。 通常の作画アニメーションで、リミテッド的な手法を使う場合は、 動く部分に思い切った形状的変形をかけ、フレームの少ないことを補なうなど方法が 取られることがしばしばあり、これが面白い映像感を作りだすのだが、 この手法の場合は、それをどうするか。本作品ではその回答が出ていない気がする。 一つ前のキーフレームの画像を重ね合わせるというブラーでは足りないと思うのだ。
作品内容については、現実なのか、幻なのか、消え去りたいと堂々巡りにはまる 少年の様子がよく描けていたと思う。「うん、うん、こういうのは、 よくあるよある」という共感を抱く。
でも、それを「気は心」というわかったようなわからないようなキーワードで解決するのは如何なものか。 確かにそれも一つの解であり、それを聞いただけで、そこはかとなく 救われた気持ちになるのもわかるが、私はその解にはあまり賛同しない。
乱暴に言うなら、消え去りたいという気持ちを含む、 これら頭の中で起こる堂々巡りは、人間という生き物には非常によく見られる「現象」である。 それは、精神的というより、物理的に近い現象であると割り切ってしまった方が、 問題打開の糸口に近いのではないかと私は思うのだ。
フレーズが頭を離れない非常にたちの悪い作品。もしかして、このまま、 一生、「チャリンコ! ない、チャリンコ!」とかのフレーズが頭にこびりつき、 この先、生活の時々に、頭に思わず浮かんでくることになりそうなのだ。 なんか、それは、負けに等しい。
犬に吠えられながら、電柱からサドルを見る主人公。 こういうシチュエーションが見事。外へ出たら、サドルしかないと立ちつくすだけでは 十分ではないことを、作者は勘で知っている。こいつは油断ならない奴だ。
とにかく、私が「どうして」と思うのは、冷蔵庫に塩鯖がないのに、 夕ご飯を鯖の塩焼きだと決める行為だ。
カレーを作るのに、タマネギや肉がないから、 買いにいこう、ということならわかる。 それがこの作品では、よりによって、鯖の塩焼きである。味噌煮ですらない。 ただ塩焼きすればいいものなのだ。それを食べるために、 わざわざチャリンコで買いに行こうというのである。 普通は、店頭で鯖を見かけたから、今日は鯖の塩焼きにしようとか、 冷蔵庫に鯖があるから塩焼きにしよう、それが自然だ。 そうでなくてはおかしい。
主人公はそんな考えを抱かなければ、サドルだけ残してチャリンコを盗まれるという 不条理な事件に遭遇することもなかったはずなのである。 この作品が持つ本当の「どうして」に気づかなければ、 この作品を本当に理解したことにはならない(←勝手に決めつけるなよ)。
ウサギ、その口と眉のわずかな違いだけで、心の様子がひしひし伝わってくる。 シンプルだけど魅力的なキャラクター。 一方のうちぎは、ツートンカラーが愛らしいし、途中から、耳の部分を さらに別の布で修繕が加えられている点など、芸が細かい。
作品内容は、セリフは字幕、BGMは淡々とした音楽という、 どちらかといえば、受け手にインパクトを与えにくいものなんだけど、 私がこの作品に引き込まれてしまったのは、 やっぱりウサギというキャラクターへの共感の気持ちなんだろうな。
嫌いという気持ちが強まっていくと、いつしか周り全てについて 嫌いという感覚を慢性的に抱いてしまうようになってしまいがちだ。 そんな時、自分をわかってくれるものを生み出したい気持ちがふと沸き起こる。 それが時として、創作という形になる。 しかし、何もかも嫌いと感じる自分は変わらないので、 自らが創作したものにまで、嫌いという気持ちを向けてしまう。 ウサギはそんな自分に気づき、すっかり嫌になってしまった時、 創作した作品が語りかけてきた。それがもしかしたら、うちぎなのかもしれない。
人は社会的には完全にひとりぼっちにはなれない。しかし、 心はいつでもひとりぼっちになれる。その気持ちは、 心の外側にいる人にはわからない。 そして、「誰もわたしをわかってくれない」という気持ちは、誰もが一度は抱くものなのだ。 そういう意味ではみんながひとりぼっち。それでも、ウサギは生きていく。 ひとりぼっちの心で生きていく。これは、そういう作品なんだと私は感じた。
で、技術的に思ったことを一つだけ。うちぎを食卓に載せた母。 このシーンの意味がわかりにくかった。 ウサギを食事に呼び寄せるためにうちぎを食卓に置いたという事だったのかな。
無理解な母の表現、それはこの作品の要となる部分なので、 ウサギがどうして怒ってるのかもっとわかりやすくなるようにするか、 母の行動を、観客がウサギに感情移入できるような、 説得力のある「心ない行為」にした方がよかったかもしれない。
作品を観ただけで、あ、これは「ありさんのおそうれつ」の人だとすぐわかった。 その点だけでも、この人は凄いなあと思う。自分の作風をしっかり持ってる。
ただ、なんだかよくわからないけど得体知れない強いインパクトをもつ 前作の「ありさんのおそうれつ」に比べると、 今回の作品は全般的に少々穏やかな感じで、ちょっと残念。 舞台の裏側から見るという方法は、非常に面白いと感じたが、 演出として十分活きなかったかなと感じた。
なんか、UFOから降りてきた異星人に、知らない間にさらわれ、 頭部はりんごと交換されてしまう。前作と比べると、 わかりやすいとは思ったんだけど、そのわかりやすさは、 さほどメリットとして働いてない気がする。 本人が自覚しない間に…という怖さを、 映像という形でどう表現すれば面白くなるのか。 そのヒントがこの作品には確かにあると思うのだが、未消化という印象が拭えない。
元Amigaユーザーの私は(今も所有するAmiga4000は一応動くけど)、 VistaProはなんとも懐かしいという印象のソフトなのだが、 (そのライバル的製品としてScenery Animatorがあった) そういうソフトをこの人は今、下支えしている一人なんだなと思うと なんだか嬉しくなる。
ただ、今時、この手の惑星解説映像の類だって、 何らかの演出を加えるのが普通なので(美人系タレントを安易に使っての演出等に あざとさを感じることもよくあるが)、延々解説するのではなく、 何かストーリーが必要だったと思う。
もし、テラフォーミングしたらという想定を、 実際のNASAから入手したと思われる地形データと、 VistaProを使って映像化するという試みは、とても面白いが、 テラフォーミングの技術的問題等について、映像を使って踏み込んだ説明が欲しかった。 しかし、こういうことを、個人作家がなし得る時代が来たことには、 ひたすら感動を抱くばかり。
それにしても、NASAって、ほんと色んなデータを大盤振る舞いで公開してるので、 宇宙関連のことが好きな人は公式サイトは必見ですな。
(そういえば、NASAがWebに載せてるデータを、データベースに入力する作業が まだ残ってるのを、これ書いてて思い出しちゃった。あーめんどくさい。 ここを職場関係者が読むことはないと思うから、 ここにちょっとそんなことを書いてみた←おいおい)。
普通に足フェチの人が作ったのかなと思ってたけど、Webを見ると、 そうではなく、どちらかというと、アニメーションを作ることの面白さを感じ、 人にもその面白さを伝えたいという気持ちが強い人である感じ。
そういう人は、実際の動きをよく観察して、 習作めいたものを色々作ることになることが多くなると思うのだけど、 この作品のように「足」というテーマを定め、 音楽にあわせ、いくつもそういうアニメーションを気持ちよくつないで構成すると、 それだけでちょっとした作品になる。 こういう作品は、強いメッセージ性とかはあまり感じないけど、 例えば、自主制作アニメ上映会などで、重厚な作品の間に挟まれて上映されたりすると、 爽快に感じるだろうなと思う。
曲の方も、わかりやすい爽快感のあるいい曲ですなあ。
まあ、かくいう私は、やっぱダメな人間であることを実感するのは、 この映像を見ていても、あんよよりも、あんよとあんよの間がどうしても気にな…以下略。
それはともかく、楽しげに食べちゃってるシーンに笑いました。 「撮りたいくらい」のところはもっとカメコっぽいオタクな人が出てきたら、 笑いがとれたかも。
あんまり関係ないけど、フェチといえば、NHK-BSで放送中の、 アニメ「絶対少年」が何だかやたらいいですよ。
CGという技術が個人に降りてきて、個人が自らの作家性を映像で表現するというハードルが 著しく低くなる。そんな時代が訪れた。
その時、作家には一体何が求められているのだろうか。 それは、既存のプロ集団が作り上げてきたものにも負けない、 商業性の高いもの。それだけでいいのだろうか。
商業性、それも一つの方向性だとは思う。 しかし、私は、本作のような凄いものに出会った時、 個人作家が進むべき道は何か? それを考えてしまうのである。
この作品には、技術的には、全体にチープ感のようなものはある。 しかし、そのどこに問題があるのか。何もない。 声優の熱演と映像とのタイミング、演出、そして、 観客の想像もつかないような映像(受話器からの血とか)、 そして、強すぎるほどのメッセージ性。 この作品は、並大抵のものじゃないと思うのだ。
冊子の本人解説によれば、猫水は、テロなどの世の中の不安というものを表現したとある。 しかし、私がこの作品を観て思った猫水のイメージはちょっと違うものだ。
私の近所には猫が非常に多い。私は猫好きなので、それは正直嬉しい風景である。 しばしば、ゴミ袋が破られたり、糞もされたりするけど、それほど頭にこない。 夜帰宅した時、買い物に出かける時など、黒猫が足下を駆け抜けるのはいつものことだが、 全く恐くも何ともない。
でも恐いものがある。それが猫水である。 猫水は見えないけど存在する。 家の周りを歩いている猫の大半は、経済的理由からか、不妊手術を受けていない。 野良も多いのかもしれない。発情した時の泣き声が日常的に聞こえ、 喧嘩もよく目撃する。
そして、その無計画に飼われている猫が、ある日、大量の子猫を生む。 私はそれを何度も目撃している。しかし、当然、数が合わないのだ。 そして、周囲を歩いている猫は目まぐるしく変わる。わずか2-3年で大半が入れ替わる。
例えば、動物愛護センターという名の施設がある。 そこには、貰い手を待つ猫が集まる。そこで、貰い手が見つからない猫は、 一体どこに行くのか。そんなことに目を向ける人は少ない。 私にとっては、それが「猫水」なのだ。
ただ、それを可愛そう、恐いと思う私の感性が本当に正しいのか、 それには疑念を抱いている。 猫は、その愛らしい容姿と性質から、多くは、愛玩的動物として、 人間と共生しているわけだが、もしかしたら、猫という種は、大量に発生し、 大量に人為的に殺害されていくのを望んでいるのかもしれないとも思うのだ。
だからこそかもしれないが、私は猫水が恐い。本当に恐いのだ。 猫は好きだけど、猫は飼えないだろう。
日は沈み、昼間コンクリの上でくつろいでいた猫が知らぬ間にまた一匹消えていく。
見る前からいろいろ怖いと聞いていたが、 沈む太陽ほどは怖くないと思った。でも、それは私の感想であり、 十分怖い作品だと思う。
母が娘についた嘘、それが、自分が大人になったと知ったことをきっかけに、、 父の行動を生み出してしまう流れ。そして、最後の結末。 この物語は非常によく構成されている。残虐表現に頼っている作品ではない。
その構成の見事さが、逆に、私に怖くないという気持ちを生み出しているのかもしれない。
この作品は昔あったという話として描かれているが、 現代にもこのような子供が生まれることが、まれにあるのが現実である。 例えば、それを作品として扱うとすれば、それにどう踏み込むか、どう作品として表現するか。 それを考える時、難しい、或いは、時としては怖いと思うことがある。