異星言語科学研究所 (5〜7)

五. 研究所への道

 福島駅のローカル線の発車ホームにトモが駆け込むと、研究所方面へ向かう列車は、アラームを鳴らし、今まさに発車するところだった。トモは、あわてて列車に飛び乗った。列車は三十分に一本。呑気に弁当など選んでいる場合ではなかったと後悔した。
 ここまで辿り着くのは結構大変だった。

 普通、行き先の名称が判れば、後は携帯のツールで検索して、所在地等、すべてが判明するのだが、トモは大きな勘違いをしていた。《異星言語科学研究所》で検索してしまったのだ。
 その機関名はまだ登録されておらず、見つかるはずがなかった。何度検索しても判らないので、とりあえず交番で訊いてみると、そんな所に行ってどうするんだ。学校はどうしたんだ――などと、逆に尋問され、あわてて逃げ出すはめになった。
 とにかく、駅へ向かいながら、道行く人に手当たり次第、訊いてみることにした。しかし、話を聞いてくれる人さえほとんどいなかった。
 それは街の人達が皆不親切だったという訳ではない。そういうコミュニケーションに慣れていないのだ。携帯で調べれば何でも判る時代、街行く人に道を聞く、という習慣自体が一般的でなかった。身近な人とは親しく話せるが、見知らぬ人とはうまく話せない。聞く側のトモにしても、その話し慣れない一人だった。だから、どう話しかけていいのか、さっぱり要領を得ない。言葉はどもるし、敬語の使い方もぎこちなくなってしまう。
 それでもトモはがんばった。不器用ながらも、街行く人に次々声をかけた。
「あの……突然すいません。もしも、ご存じでしたら、異星科学研究所への行き方を……」
 また、逃げられてしまった。
 そんな様子を見ていた七十歳ぐらいの婦人が、優しい笑顔でトモに話しかけてきた。
「そこのお兄ちゃん。その異星のなんとやらって、ニュースでやってたのでしょ。確かその研究所は、元は違う名称だったんじゃない? それで調べたら行き方が判るわよ、きっと」
 そう言われるまで、トモはその研究所に昨日まで使われていた古い名称があることに、全く気づかなかった。再び携帯で今日のニュース記事を検索し、ようやく《国際社会文化研究所》という名称を突き止めた。それで検索すると、場所はすぐに判明した。
 幹線列車で福島駅まで行き、そこからローカル線に乗り換えて 七駅行ったところで、車に乗り換え約十分。トモの住む三重県の四日市から、今から行っても昼過ぎには到着できる場所だった。旅費も小遣いでなんとかなる。トモは研究所に行くことを決意した。
 トモは婦人にお辞儀をしながら「感謝します」と何度もお礼を言った。
 名古屋で超高速の幹線列車に乗り、横浜で再び乗り換え、福島駅に着いた。そこで、今日まだ何も食べてないことに気がついた。
 元々、駅で弁当を買う余裕はあまりなかった。それでも、走れば間に合うだけの時間はあったが、どれも美味しそうだったから、少年はちょっと迷ってしまったのだ。

 結局、二つの弁当を抱え、息を切らし、トモはあわてて列車に飛び乗るはめになった。ドアが閉まると同時に車内アナウンスが流れた。
「四号車の三番扉からお乗りのお客様。駆け込み乗車はおやめください」
 ドア周辺の乗客の視線がトモに集中した。バツが悪そうに後頭部を掻きながら苦笑いをしているうちに、列車は緩やかに発車した。
 車内はさほど混雑していなかった。しかし、四人が座れる対面の席には、どこも最低一人は座っていた。乗客は、主に老人とか、親子とか……。
 その中で、十人ほどの男女の集団が一際目立っていた。救光教の信者だった。
 金のラインが二本入った筒状の白い帽子と、金の装飾を施した白装束を纏い、お互い話すこともなく整然と座っていた。駆け込み乗車を注意されたトモの方も一切見ようとしなかった。
 席を探しているうちに、トモは自分と同じ位の年齢の少年を見つけた。窓際に座るその少年は、車窓の山々や建物などを眺めていた。
 トモも窓の景色を見た。山々には禿げ山が目立つ。自然災害によるものだ。昔に比べれば、ここ五十年くらいは、ずいぶん安定はしているが、それでも毎年のように、各地で自然災害が発生する。だから、日本中の建造物は、激しい風雪や地震に耐えうるような丈夫な構造になっていた。この福島の山々の麓に点々と建つ家々は、トモの住む街に比べ、窓も小さめで、一層堅牢な造りをしていた。
「この辺りも山は傷だらけだね。ここもかなり地震が多いのかな……」
 トモは少年に声をかけた。
 窓際の少年はびっくりしてトモに顔を向けた。少し怯えていた。
「急に声かけてごめん。僕は七王トモっていうんだ。ここの席いいかな?」
「え、あ、どうぞ……」と少年はおどおどした声で答えた。
 トモは向かい側の席に座った。
「ははは、いつもは僕も内気な方なんだけど、今日は思いっきり走ったり、色んな人に声をかけたせいか、なんだかハイになっちゃって。変だよね、全く。ははは……」
 その言葉に、少年は少し安心したようだった。恥ずかしそうに笑みを浮かべた。
「あ、そうだ。さっき、売店で弁当を買ったんだ。鶏釜飯か、チキンかつか、だいぶ迷っちゃって、結局両方買ったんだよ。良かったらどっちか食べる?」
「い、いえ、結構です……」
「あ、やっぱりそうだよね。変なこと言ってごめん。僕、十早から食べてなくて、とっても飢餓(空腹)だから、自分で両方食べることにするよ。いいかな? ここで食べて」
「別にかまわないです……」
「本当は嫌なんじゃない? そうだったら今すぐ席変わるから」
「いえ、そんなことは……」
 この子は嫌と言えない性格なのかなぁとか思いながら、トモは釜飯の紐を解いた。
「あの……」
「え、やっぱまずい? だったら席変わるよ」そう言ってトモは席を立とうとした。
「そうじゃなくて……僕も一緒に食べていいかなあと……」
 少年は鞄から、やや小振りの弁当の包みを出した。実は、この少年も駅弁を買ったものの、一人きりで食べる勇気がなかったのだ。包みを見てトモは顔をほころばせた。
「あ! それも駅の売店で売ってたやつだよね。福島のり弁当!」
「あ、はい、なんか、売店の看板が目に入ったらつい……」
「僕もそうなんだよ。凄く古めかしい文字で書かれていて……それと、あれってなんていうんだっけ。ウキヨエ……だったかな。看板には大昔の列車の絵が……。えっと、シンカンセンヒカリ号だったかな? 先頭が玉子のような丸っぽい形で、色は白くって、窓に緑色の帯がついてたね。で、列車のこっち側に、サムライの二人連れがさ、釜飯の包みを持って走ってるの。あの看板が目に入ったら、なんだか食欲を抑えきれなくなって、そこで、弁当を買っちゃったんだよ。君もそうなの?」
「う、うん、でも、それはヒカリじゃなく……」
 古代の鉄道には詳しい渉は、それはヒカリ号じゃなくて、ヤマビコ号だと言いたかった。でも、そんなこと初対面の子に言っても仕方ないと、言いかけた口をつぐんだ。ちなみに、その二人連れは、侍ではなく町人だったが、そんな区別は、トモにも渉にもできなかった。
「あ、そうだ。氏名を教えてよ。なんて名称?」
「み、水無渉……」
「わたる君か……さっきも言ったけど、僕は七王トモ。よろしく。三重県の四日市から来たんだ。わたる君は、この辺に住んでるの? いや、弁当を買ってるぐらいだから違うよね」
「僕は新潟から……」
「新潟から? 旅行?」
と言った後、トモははっと気づいてさらに問いかけた。
「もしかして、わたる君も異星言語科学研究所?」
 トモの大きな声に、周囲の乗客が二人を見た。そして今度は白い筒帽子の集団も二人に顔を向けた。表情は一切変えず、ただ、黙ってじっと見ている。
 それに気づいた渉は大いに焦って小声で言った。
「こ、声が大きいです。その話は後で……」
「え、あ、なんか困る?」
 渉は、白装束集団に少し目を向けた後、小刻みに首を振りつつ、無言でダメだと訴えた。
「あ……ごめん。じゃ、さっそく弁当を食べようか」
 渉が弁当の蓋を開けると、海苔で象った福島市の市章が現れた。
「わあ、面白いね!」トモが叫んだ。
「フの字が九つと四つのマの字、だから、フ九四マなんですよ」
 渉は名物駅弁にも詳しかった。

 トモが二つ目の弁当をたいらげた頃には目的の駅はすぐだった。渉が、恐る恐る再び白装束の集団の様子を窺うと、彼らは目を閉じたまま、身じろぎもせず座っていた。
 到着の車内放送に、二人は早々とドアに向かった。渉が再び目を向けたその瞬間、白装束団もゆっくりと立ち上がった。渉は思わず後ずさりしたが、彼らは違うドアに向かった。一人一人が長い杖を握っている。その杖の上端の多面体の玉が光った。
 渉は小声でトモに言った。「ドアが開いたら、走りましょう……」
 トモはきょとんとしながら、小さくうなずいた。ドアが開くと同時に二人は走り出した。白装束団は、走り出した二人を気にする様子もなく、整然と列車を降りた。
 二人は振り返ることなく走った。階段を昇り降り、改札を抜けて、駅を出た。
 外には無人のタクシーの車列があった。渉がまずその前に駆け寄った。携帯をかざすと、車両のキャノピー型の窓全体が前方斜め上にゆっくり開いた。
 まず渉が乗り込んだ。
「帰りの運賃は僕が払うよ」と言ってトモも乗り込むと、車内に合成音声が響いた。
「行き先を指示してください」
「異星科……じゃなかった。え、えっと何だっけ」トモは瞳を仰がせた。
「行き先を指示してください」
「国際社会文化研究所までお願いします」
 渉が指示すると、キャノピーがゆっくり閉じ、車は緩やかに走り出した。
「国際社会文化研究所まで自動運転で参ります。所要時間は約十分です」
「わたる君、ほんと助かったよ。タクシーって高くってさ……」トモは明るく笑った。
 渉はまだ背後を気にしていた。タクシー乗り場に白装束団の姿は見えなかった。追っ手がいないことを確認した渉は、ほっと安心して、進行方向に座り直した。タクシーは加速し、あっという間に一二〇キロに達した。車窓の景色が心地よく流れていく。
「――もしかして、渉君はあの白装束の人達と知り合いなの?」
 対面の座席に座っているトモが訊ねると、渉は首を左右に激しく振った。
「と、とんでもない! 全然知らない人です。なんか、研究所の話をしたら、突然こっちを見たし、恐いでしょう。七王さんは恐くないの?」
「え? だって、ああいう人達はよく見かけるよ。別に何かするわけでもないし……」
「よく? 僕はほとんど見かけないですよ」
 それを聞いて、トモはきょとんとした。
「あ、そうなの? もしかしたら、うちの近所には特に多いのかもしれないなあ。教会が近いのかなあ……。ところで、さっきの話の続きだけど、君も、受験志望?」
「うん……でも、異星言語というよりは、僕はヴァーチに興味を持ってるんです」
「ヴァーチ? 立体体感映像の? それって研究所と何か関係するの?」
「入試試験と授業で最新鋭のヴァーチを使うと言ってましたよ。十早のニュース放送、ちゃんと見なかったんですか」
「うん、全然観てない。学校が結構遠いから、家を出るのも早いんだよね。で、教室で友達から初めてその話を聞いたんだよ。それ聞いたら、もういても立ってもいられなくて……」
「ニュースを見てないのにここまで来ちゃったと……」苦笑ぎみにトモの言葉を補完した。
「でも、なんか僕と似てますね。僕も最新鋭のヴァーチを一刻も早く見たくて、ここまで来てしまったんですよ。で、七王さんは、異星言語とか異星人に興味を持ってるんですか?」
「トモでいいよ。――僕はね、異星だけじゃなく、宇宙全体に興味を持ってるんだ。だから、昔っから色々調べてるんだけど、宇宙に関わる研究は、軍事機密がどうとかいって、特定の場所だけで行われていて、日本はその研究に参加できないらしいんだ。宇宙関連の状報(情報)を探っても解らないことだらけ……。問題の異星にしたって、恐らくそれは『周星』のことで、それは、僕の持ってる遠眼鏡どころか、肉眼ですら見える星なのに、詳しいことはどこにも載ってない。ところが、今回の話は、その周星に行ける絶好のチャンスなんだよ」
「えっ、えっ、しゅ、周星に行くの?」
 うわずった渉の声に、トモは「うん!」と元気に返事をした。
「異星人の言葉を学ぶだけで、行くという話はないはずだけど……」
「そんなこと言ったって、言葉を学べば行くことにもなるよ。きっと」
 渉は頭を抱えた。「あああ、そんなこと考えてもいなかった。僕には異星へ行くなんてこと無理だ。試験だけ受けて、ヴァーチだけを体験して、それでやめよう。そうしよう」
 首を左右にぶるぶる振りながら渉が叫んでいると、トモは解せなさそうに顔をしかめた。
「えーっ、ヴァーチのこと聞いただけで、いても立ってもいられなかったぐらいなのに、選抜試験で体験しただけで満足できるの? できる訳ないでしょ?」
「う……」渉の動きが止まった。図星だった。
「噂だけど、ヴァーチは、元々は異星人が開発したものだって聞いたよ。ヴァーチにしても、周星と同じように、分からないことだらけじゃないの?」
 ヴァーチにはあまり興味がないトモだが、異星人には興味がある。
「う……うん。ヴァーチについても、やっぱり軍事機密のためか状報がとても少なくて……それに、異星人達のテクノロジーだという噂は僕も……」
「やっぱり! ヴァーチを知るにも異星の壁が立ちはだかってる。だから、わたる君にもきっとこの道しかないんだ」
「道って、そんな大袈裟な……」
 その時、突然、チャイムが鳴り、車が急に減速して停車した。
「え、どうした?」「何? 事故?」
 トモと渉は、あわてて前方を注視した。それとほぼ同時に車内に音声が流れた。
「進行方向に障害物を発見したので、目的地にはこれ以上進めません。迂回路もございません。申し訳ございませんが、ここで下車するか、引き返してください」
 見ると、何台かの車列の先の右側に、赤い回転灯の光が見えた。警察官らしき人が、ライトスティックを振る姿も見える。案内標識によれば、交差点を右折した先が研究所のようだ。
 上り坂になっているその道の途中には、柵が立てられ、車が入れないようになっている。
 歩道には人の列。白装束姿が目立つ。整然と坂を上っていくのは、すべて白装束だ。トモ達の目に入っただけでも五十人はいる。渉の顔が凍りついた。
「白装束でいっぱいだ……って、待てよ」
 トモが後を振り向いた。渉も恐る恐る後を見る。すると、背後の歩道にも、白装束の集団の列が続いていた。カーブで歩道が見えなくなるところから、白い固まりが点々と続いているのが確認できた。七、八人の固まりで一列に整然と並び、光る杖を持ち、粛々と歩いている。
 渉の凍度はさらに進行した。トモも今度ばかりは驚いた。
「ここで下車しますか。それとも、引き返しますか? 指示がなければ、信号が変わり次第、交差点を左折して、駅方面に引き返します」冷たい案内音声が乗客の指示を待っている。
「トモ君。帰ろうよ」
「ここで下車しますか。引き返しますか?」
 渉にはその音声が一段と大きくなったように聞こえた。
「降ります!」トモの声が車内に響いた。
「トモ君!」今にも泣き出しそうな渉の声も車内に響いた。
 前方の車が走り出すと、トモ達の車は再発進後、すぐさま左ウインカーを発光し、四つの車輪の向きを変え、路肩に寄って停止した。キャノピーがゆっくりと上方に開いた。
 トモは歩道へ降り、渉の顔を見た。
「さあ、わたる君、行こうよ!」そう言ってトモは車内に手を差し出した。
「わたる君、この道は今進まなきゃダメな気がするんだ。大丈夫だよ。行こう!」
「う……うん」
 もし一人で向かっていたら、今頃引き返していただろう。でも、今、そばにはトモがいる。迷っていた渉もようやく決意した。トモの手を握り、引っ張り出されるように車外へ出た。
 車から降りた二人は、一緒に上り坂の先を見た。白装束の集団は、車を降りた二人を全く気にすることもなく、続々坂を登っていく。

六. 白装束

 その日、寒河江顕は、早朝から多忙を極めていた。今もディスプレーを見ながら、手には携帯を持ち、話し込んでいる。
「ああ、そこに、白装束の輩が向かうという匿名電話が……うん……東だ。人数は恐らく四、五名程度だということだ。何か起きると大変だから、とにかく急いでくれ」
 寒河江は通話を終えた。
 彼の所属する組織は、つい昨日まで『国際社会文化研究所』という名称だったが、今日から『国際異星言語科学研究所(国際は省略されることが多い)』となった。そもそも、最初からこの研究所は、異星人の言語を研究するため設立された国際機関であった。
 そして、この研究所の中で、単なる熱心な言語学の教授の一人に過ぎなかった寒河江は、今日からは所長という職位を正式に拝命することになった。弱冠四十五歳。その就任早々いきなり彼に与えられたのはトラブル対応である。それも、相手は抗議団体と宗教団体。
 正直言って、寒河江自身、これほどの混乱になるとは思っていなかった。
 通話を終えた後も、休む間もなく、操作パネルを叩いていると、室内にアラームが鳴った。人の接近を示す音だ。続いて暗証コードを叩く電子音がした後、ドアが開き、どたどたと一人の男が部屋に飛び込んできた。ノックなど一切なしだ。
「寒河江、もう駄目だぞ。限界だ! 外は所長を出せとやかましい」
 その野太い声をした男の名は、畠山実。彼も言語学の教授である。汗の滲む安物Tシャツの袖を肩まで捲り上げたその男は、毛深く筋肉質で、少々長めの癖毛の髪、あごには豊かな髭を蓄えている。すっかり日に焼けた皮膚といい、全く教授らしくない。むしろ、帽子を被り、サファリパークでライオンに餌でもやっている方が似合っている。
 整えられた髪、グレーのスーツに、ネクタイをきっちり締めた寒河江とは対照的だ。その寒河江は、目をディスプレーから離さず、作業を続けながら返事をした。
「知ってるよ。もう少ししたら行こうと思っていた」
 畠山は額の汗を手で拭ってまくしたてる。
「寒河江よー、確認するけどさ。今回、俺達は、単に研究生を公募してるだけなんだよな。待ちに待った大切な教え子をよ!」
 この研究所は、今までは新規の学生等を一切募集していなかった。ここの教授達は、人文系の学会には時々参加することはあったものの、とりたてて重要な論文発表をすることもなく、この場所で人知れず、主として異星言語の研究を続けてきたのだ。そんな退屈な日々にうんざりしていた畠山にとって、今回は本当に待ちに待った教え子の募集なのだ。
「なのに、今日詰めかけた奴らの中に、試験内容の問い合わせとかしてきた奴は、まだ一人もいやしない。全くどいつもこいつもピーでピーでピーな連中ばっかりだぜ。何だか違う仕事をしているような気になってくるよ」
 大きい身振りで話す畠山の鼻息は荒い。
「まあ、ミノさん、少し落ち着け。それにしても、臨時の警備員を五十人も集めたけど、全然足りなかったな。ミノさんのような野獣がいて助かった。君一人で警備員二十人分の働きだ」
「俺はまた野獣扱いかよ。まあ、否定はしないが。それより、これだけ混乱してるのに、警察は一体何をしてるんだよ」
「警察も今になってようやく到着したそうだ。まずは麓のゲートの所に四名。それに、あと十分ぐらいで、研究所にも十名程到着するという話だ」
 寒河江はディスプレーの文字を見ながら答えた。
「全く遅すぎるぜ。まあ、警察にとってもハタ迷惑な話だろうがさ……。しかしこんなんで、研究生は集まってくるんだろうかねえ」
「今日の様子はメディアでも報じられるだろうし、正直言って、それ見て受験するのを止める子も多いと思うな。日本では入学選抜試験なんか要らないかもしれんな。ははは」
「そりゃ笑いごとじゃないぞ。モノにならない研究生を入れても意味がないし」
 畠山が苦々しくそう言うと、寒河江は、操作の手を休め、溜息をついた。
「まあ、日本でろくに集まらなくても、海外の方はかなり集まるんじゃないのかな。まだ状況は全く解らないが、少なくとも日本よりはましだろう」
 畠山はあご髭をさすった。
「日本人の研究生が少ない日本主導の国際研究所というのは個人的には悲しいが、仕方ないか。この国はツキの問題が特に顕著だからなぁ」
 その言葉に寒河江は少し表情を険しくした。
「その言葉を使うのは所の中だけにしておけよ。今、外でうっかり喋ったら大騒ぎになる」
「おっと、悪い悪い……」と畠山は口を塞いだ。
「とにかく、一人でも多く優秀な若い研究生を集めたい。せいぜい頑張るとするか」
 寒河江はそう言うと、椅子を回転させ、汗だくの畠山にようやく顔を向けた。
「ミノさん、早速だけど、そのピーとかいう連中の内訳を教えてくれ」
 その言葉に畠山はニヤリと笑った。
「ああ。とりあえず、今確認できてるのは、マスコミ連中と、地元の市民団体、こいつらは質問とかはしつこいけど、そんなに厄介じゃない。大変なのは……」
「白装束か……」
「ああ、救光教の連中だ。ほとんどが東。筒帽子がわんさか来てる。一方の白ベレー帽の西は代表者を含め、五、六名だけだ。こっちはお行儀がよくて助かる。まぁ、本質的には西も恐い連中なんだけどよ。それから、他にも宗教団体を名乗る集団やよくわからん研究会やらがちらほら。こいつらも結構危なげな雰囲気だ。それから野次馬も多いな……」
 それを聞きながら、寒河江は綺麗に剃られたあごを軽くさすった。
「とりあえずは東か……。で、教祖様は来ているのか?」
「ああ。でも東さんでは、教祖様じゃなくて……えっと、なんだっけ……そうだそうだ、『光法導師様』とか呼ぶそうだぞ。西の方は本名で構わないけどな。とにかく、呼び名にくれぐれも気をつけなよ。奴らは概ね大人しいが、一部、かなり危険な雰囲気の奴がいる」
「その光法導師様とやらが来ているなら話は早いな。今の仕事があと少しで片づくから、その後、私も行こう」
「仕事? 何の用事だ?」
「繭田機構調整官への報告だ」
「マユの野郎か。今、奴はまだサンタフェに居るんだったか。そもそも、奴の方が、ここの所長を名乗るべきじゃないのか。研究所の指揮権も、金も、全部、握ってるんだし」
「いや、そうでもないさ。実際、集まってきた連中は、今も所長を呼べと言ってるわけだし、クレーム対応こそが、所長の大切な仕事なのさ」
「がははははははは。なるほど、全くその通りだ」
 野獣は大声で笑った。
「じゃ、俺行くわ。今、対応しているサンダースとサヤハちゃんのことが心配だからな。じゃ、早く頼むぞ」
 そう言って、畠山はどたどたと足音をたてながら部屋を出ていった。床は静音処理されているはずだが、何故か彼が歩くと音がする。
 寒河江は、椅子に深く座り直し、溜息を吐いた後、再びディスプレーに向かった。

 二人の少年は、白装束のゆっくりした流れに乗るように歩いた。渉はトモの後にひっつき、おどおどしながら足を進めた。集団は、次々に柵の横の歩道を通り抜けて坂を上っていく。そして、トモ達も柵の横を通ろうとした時、突然、横から声を掛けられた。
「あぁ、ちょっと! そこの少年たちはちょっと待ちなさい」
 その大きい声に、渉はびっくりして転びそうになった。
「はい?」トモが声の主に顔を向けた。渉も、よろけた体を立て直して男を見た。
 制止したのは、五十代半ばの警官だった。若い警官を三人引き連れていた。
「あぁ、そうそうキミたちだ。この先が何なのか知っているのかね?」
「はい、もちろん。異星言語科学研究所です!」とトモは元気よく答えた。
「それは新しい名称だなや。はぁ、もしかして、キミたちは受験志願者かあ?」
 時々、言葉の訛りが目立つその警官は、帽子の鍔を少し上げながら、少年達に歩みより、二人をしげしげと見つめた。
 生き生きした笑顔の少年と、ちょっと線の細そうな少年が立っている。
「はい、そうです。研究所を見学に来ました!」
「こりゃ驚いた。だがなー、今日はいっぱい人が集まってちょっと危ない状況だから、このまま家さ帰った方がいいよ」
 トモが返事をしようとすると、隣の少年が少し震えた声で叫んだ。
「帰れません!」
 トモはちょっとびっくりした。そして、頼もしい仲間ができたと思った。
「んー、確かに、受験希望者が見学に来ていけないわけではないけんど、だどもなー」
 警官が少々困った表情をしていると、坂の上から大きな声がした。
「そこのあんた! 大切なお客さんを追い返すつもり!」
 坂の上から、女性の大きな声がした。トモ、渉、そして警官達は声の方に顔を向けた。
「もう! ちょっとぉ。あんたたち邪魔よ。退きなさいよ!」
 歩道、そして車道にも溢れている、機械人形のような白装束の波を掻き分けながら、女性は駆け降りてきた。死んだ魚のような眼の海の中に、たった二つだけの輝く琥珀色の瞳と、健康的に日焼けした肌、涼しげな水色のブラウス、そして風にたなびく緑なす黒髪が、トモの場所からもよく見えた。警官や警備員達がその美しい姿にしばらく目を奪われているうちに、女性はトモ達の前に辿り着いた。
「ようこそわが研究所へ! 私は横浜沙耶葉。異星言語科学研究所の所員です」
 息をはずませながら澄んだ瞳の女は言った。渉もその麗しい姿に思わず見とれた。

「とにかく、このような研究所を我々市民は決して認めません。即刻退去してください!」
 研究所の入口の前に人垣ができていた。その中で、一人の中年の婦人が大きな声で怒鳴っていた。周囲には少しずつ、白装束の集団が集まりつつあった。
 婦人は『研究所即刻退去』のたすきを掛け、市民団体の代表を名乗っていた。背後に、同じたすきをかけた八人ほどの男女が取り巻いていた。
 そして、頼りなさそうなブロンド髪の男が、一人、その婦人達の対応に苦慮していた。彼の名は、楠木・サンダース・尊氏。痩せたその姿はいかにも弱々しく、明らかに名前負けしている。彼はこの研究所で、助手という職位を持っている。
「要するにですね。あなた達は私達市民を騙したのですよ」
 甲高い婦人の演説が続く。上下とも鮮やかなオレンジ色のスーツが楠木の青い目に痛い。
「はぁ、別に、騙したというわけじゃないので……」
「騙したんじゃないですかあ!」
 婦人は楠木の言葉を遮り、金切り声をあげた。取り巻きも「そうだ、そうだ」と援護をした。
「ひぇぇ。もうし、申し訳ございません。確かに当研究所が研究内容を偽っていたことは認め、認めますです。はい。でも、でもですよ。異星人との友好を深めるためにどうしても我々の研究が必要なんですよぉ」
「異星人との友好なんてとんでもない! どんな危ない人達か分かったもんじゃないわ」
 婦人が怒り狂う様子を見て、楠木はまずいことを言っちゃったなぁという顔をした。
「ゆ、友好と言ってもですねぇ、別にここに異星人がやってくるわけじゃないんですよぉ。惑星間での無線によるコミュニケーションですよぉ」
 彼の子供っぽい語尾に、婦人はますます眉をひそめた。
「そんな話、誰が信じるものですか! きっと、いずれここに、ダムが決壊するようにダダダと異星人軍団が大挙して押し寄せてくるんです!」
「そんなことは絶対ないですよぉ。ですから、何度も言うように、この件についてはですねぇ。後日、市民さんや代議士さんの皆さんも交えて、公開ヒアリングを行いますから、今日はどうかお引き取りくださいよぉ」
 市民に目的を偽って研究を続けていたこと自体は、研究所に一方的に非がある。どう考えても研究所の方が分が悪かった。それは楠木もよく解っていた。
「あなたのようなペーペーでは話になりません。所長を、所長を早く呼んでください」
 その言葉に少し不満そうな表情を浮かべて楠木は答えた。
「ペーペー……あぁ、はいはい、たしかに、ごもっともです。はい。えっと……所長は……今、畠山さんが呼びに行ってますからぁ、いますこし、もうちょっと、お待ちくださいよぉ……」
「あなた達お役人はいつもそうです。いつもはぐらかそうとする。官僚が市民の方を向かなければ、この国は滅びますよ!」
 所長を呼べと言いながら、このひょろながの青い目の男に対しての演説を婦人はやめない。
「僕達は官僚とか役人という者じゃなくて研究者、要するに学者でして、それに、別にはぐらかそうとしているわけじゃなくてぇ……」
「私達はですね。私達市民は、あなた方のような、冷たいお役人にいつも泣かされてばかりだ。強者を弱者が負かす。そんな論理がいつもまかり通ると思いますか!」
 今の弱者は、むしろサンダースの方だ。
「この緑と平和と笑顔溢れる我が町と、市民の、安全を、安全を考え……かんがえて……」
 突然、婦人の声がたどたどしくなり、やがて熱弁は止んだ。周りを取り囲む白装束集団が、念仏のようなお経を唱え始めていたのだ。
「……あーでるさんとろ、くらすたりー、くーねむ、くらすか――」
 それは最初はどこからともなく小さな声で始まり、だんだん教徒全体に広まり、終いには大合唱になっていった。
 婦人の顔はみるみる青ざめた。今、まさに、白装束集団の合唱が、この一市民の心臓の安全を、脅かそうとしていた。
 楠木=サンダースも人形のように体を硬直させながらも、白装束の集団に言った。
「あの……えっと……ちょっと……そこの白いみなさん達、どうか……ちょっと声を小さくして頂けませんでしょうかねぇ。聞こえてますかぁ? ここのおばさんが震えていますよぉ」
 彼なりに精一杯声を張り上げたのだが、この合唱の中、彼の蚊の鳴くような声はかき消され、念仏は一向に止む様子はない。
「ヤハたんも下に降りてっちゃったし、どうしよう。どうしよう……ヤハたぁ〜ん、ヤハたぁ〜ん戻ってきてくださいよぉ」
 彼がヤハたんと呼ぶ沙耶葉が降りていったのは、何分も前で、とっくに麓の柵の所まで降りてしまっていた。楠木の呼び声など聞こえるはずもなかった。
 その時、研究所の建物の中から、野太い声が響いてきた。
「こら、楠木サンダース! 我らがプリンセス=サヤハちゃんを、ヤハたんなどと呼ぶな!」
 楠木が振り返ると、髭男が建物の中から現れた。
「は、畠山さぁ〜ん」という声はもはや泣き声に近かった。
 畠山は、楠木をこづきながら前に立ち、大きく息を吸った。
「――貴様等、黙れ!」
 けたたましい声が辺りに響き渡り、念仏が止んだ。
「ご婦人方が恐怖におののいているじゃないか。それが宗教者のやることか!」
 そして、満面の髭笑顔で婦人に言った。
「えっと、確か、香川、香川ふみさんでしたね。お待たせしてどうもごめんなさいねぇ。でも、どうやら、今は――」畠山は手を額に持っていき、大袈裟に辺りを見回した。
「この東救光教さんの方を先に対応しないとダメそうですねえ。ま、今日のところは、申し訳ないですが、お引きとり願えませんかねえ。ね、おふみさん」
「えぇ、まぁ、今回は……で、でも、しかし、また……」
 すっかり色を失った婦人は、抗議の言葉を考える余裕もないようだった。
「ええ。ちゃんと話し合いの場を設けますから。名刺も頂いてますし、必ず連絡しますよ。楠木君。ちょっとこの人達を、車の所まで連れて行ってあげて」
「は、はい……」
 研究所は、予め自動運転タクシーを五台ほど用意していた。楠木は、車列を指差した後、たすきがけの集団を、片手を挙げながらバスガイドのように誘導していった。
「さてと……」畠山は再び大きく息を吸い、手を口元にやり大声を出した。
「ほうこうどうし様!」そこで、畠山は気がついた。
「あ、間違えた。すまんすまん……」苦笑いする畠山の後ろに、寒河江所長が姿を現した。
「光法導師様! お話をしましょう」
 寒河江の澄んだ声が響き渡った。
 すると、少し離れたところで、白装束の集団が一斉にしゃがむのが寒河江にも見えた。いや、しゃがんだのではなく、伏せたのだ。すると、人垣に隠れていた一台の白い車椅子が姿を見せた。華美でない程度に金の装飾を施したその椅子に、白髪の老人が座っている。
「良かろう!」
 少し、しわがれてはいるが、よく通る力強い声で、老人は言葉を返した。

七. 東救光教

「見学に来ました。よろしくお願いします!」「よろしくお願いします!」
 元気な二人の声に沙耶葉の顔が緩んだ。待ちに待った受験志願者だった。
「ああーっ、良かった! 様子を見に下に降りてきて本当に良かった。大切な受験生があやうく追い返されてしまうところだったわ」
 沙耶葉は辺りを見回した後、強い眼差しを警官に向けた。
「ここはもう大丈夫ね。ちょっと、そこの困ったお巡りさん!」
 警官達はたじろいだ。美しい長い髪の女性が睨みつけている。
「は、はい。東北州警察の高橋と申します」
 先程、トモ達と話していた警官が答えた。
「あなた方は、警備員さんと一緒に、ここの対応、お願いしますね。もし、また見学志願者が来たら、くれぐれも、さっきみたいに追い返したりしないでください。分かりましたか?」
 相手は親子ほども歳が違う警官だ。一応は丁寧な言葉遣いだが、沙耶葉は、まるで彼らを子供のように扱った。警官は素直に従うしかなかった。
「もう来ない気もするけどね」と言って、沙耶葉は、少年達の方に顔を向けにっこり笑った。
「ふふふ、お待たせしちゃってごめんなさいね。名称は?」
「み、水無渉です!」
 その瞳にすっかり囚われてしまった渉が上ずった声で答えた。
「元気良くてよろしい。名字の横浜じゃなくて、沙耶葉って呼んでね。それから君は?」
 沙耶葉はもう一人の元気な少年に視線を移した。
「七王トモです」
「ななおう? ん?」その名はどこかで聞いたような気がしたが、思い出せなかった。
「どうかしましたか?」
「……あ、うん、なんでもないわ。それじゃさっそく、研究所に行きましょうか」
「ハイ!」声が重なった。
「フフフ……二人は親友かしら?」

「まずはこの白装束の大集団について、ご説願えませんか。一体何のつもりです?」
 寒河江の問いかけに、老人は静かに答えた。
「これは、儂が指示したものじゃない。皆、自主的に集まって来たのだ」
 ――白々しい。畠山は、言葉には出さずとも、そういう気持ちを前面に出す顔をした。
 寒河江の方は、表情一つ変えず、さらに話を続ける。
「いずれにしても、こんなことになったのは、代表者、即ちあなたの管理責任でしょう。即刻立ち去るよう、信者全員に指示してください。話はそれからです」
「確かに少々集まり過ぎたようじゃな。だが、汝らが突然全国放送であんな言葉を使うから、こういうことになるんじゃ。国の言葉を守るのは、儂じゃなく、信者の総意なのじゃ」
 総意? 宗教というものがそんな民主主義的でいいのか? 畠山は老人の言葉に疑問を感じた。寒河江は話を続けた。
「十早のニュースの件ですね。確かに刺激が強かったかもしれません。その件は謝罪します。あのニュースは、全世界での同時発表だったのですが、その際、日本のマスメディアは言葉に対する配慮が足らなかったようです。我々がチェックしている訳ではないので……」
「ふん、確か、国際言語科学研究所とかの本拠地は日本だと聞いたぞ。それなのに、汝らは日本での報道内容をチェックする立場にないと言うのじゃな。さすれば、一体、汝達の研究所はどういう機関の下に属しているのかのう。ピラミッドの上層に国際的な何かが存在するということかの? それは異星人とやらに対抗する軍事的組織かな?」
「それは……今は申し上げることができません」
 寒河江は言葉を濁しながら、実に不誠実な回答だ、さっきの抗議団体が聞いたらどう思うだろうか――などと考えていた。それと共に、この少々過激な白装束集団を束ねる代表者は、単に抗議に来たのではなく、何か我々と取引でもしたい雰囲気だと寒河江は感じていた。
 ――そうなると尚更油断ができない。
「まあ、しかし、我々はそんなことには興味がないんじゃ」
 寒河江はその言葉に少し驚いた。何やらあっけない。
「我々が問題に思うのは、なんにつけても言葉のことじゃ。法務救士!」
 導師が言葉を発すると、側近が小型の立体プロジェクターを起動し、空間に文字を映し出した。それは、研究所への要求事項だった。側近は通る声でまず二つの文を読み上げた。
「――二度とあの言葉を公に発しないこと!」
「――それに関連する言葉についても今後も公に発しないこと!」
 あの言葉とはもちろん『月』のことである。寒河江はそこまでの要求は予想していた。しかし、映し出された三つ目の要求文にぎょっとした。今までのポーカーフェイスがその時初めて崩れた。老人は淡々と話を続ける。
「とにかく、今回の報道をきっかけに、次々と日本の言葉が壊されていくのは、教団としては許せないのじゃ。だから、この先も変えていかないことをここで誓約して欲しい」
「……マ、マスメディアが使う言葉の問題は、基本的には、私達の権限でどうこうなるものではないですが、我々の研究所、或いは、その上層の組織が外部に使う言葉に関しては、配慮しましょう。メディア局各社にも抗議の意志を伝えておきます」
 寒河江は、要求文に気をとられ、言葉を返すのが少し遅れた。
「要するに、言葉は今まで通りってことです」
 畠山が補足した。しかし、その言葉に、信者達が低いうめき声をあげた。実に不快な合唱だった。『通』は、彼らが避けている言葉なのだ。文字の中に月の形がある。
 気がついた畠山が「あっ」と声をあげた。
「いやはや、どうも鈍くってな。勘弁してくれ」
「――わざと言わせたの――かな?」老人は片目を細め渋い声を捻りだした。
「違います。この男は思考回路が野獣なもので、時々発言が迂闊なんです。許してください。しかし、今、畠山が使った言葉についてはどうでしょうか? これらは世の中で広く使われています。そこまで制約を受けるのは少々困るのですが……」
「それは今までのやり方で問題ない。もちろん、そちらにいらっしゃる別教の方々――」
 そこで、老人はある方向をちょっと見た。視線の先には、白いベレー帽を被る西救光教の信者が五人立っていた。彼らは三角形の白い生地を寄せ集めた舞台衣装のような宗教装束を纏っていた。三角形をベースにした緑の文様に加え、黒やグレーの色もあり、白装束というほどでもない。中心には代表の姿もある。宗教法人の代表にしてはまだ五十代と若い。
「おお、代表の轟さんもいらっしゃいますな。あの方々とは違い、我々にとっては、それらも忌まわしい言葉じゃから、できるだけ使って欲しくはないがな」
「できる範囲で気をつけることにしましょう。それより、もう一つの条件なんですが……」
 寒河江は三番目に表示された要求がとにかく気になっていた。
「ああ、うちの信者の受験者からも最低一名は合格者を出せという条件のことかな?」
「はい。しかし、これには問題が……」
「おっと、宗教差別でもしようと言うのかね」
「いえ。選考の際に、信教によって差別する考えは一切ないですが、異星言語を学ぶにあたり、所内では日本語の言葉の制約もしたくはないんです。あれも含めて……」
「ほお。じゃ、あの忌まわしい言葉さえも、授業に必要だと言うのかな」
「はい。ですから、もし信者の方が入られるなら、研究所内では、それらの言葉は聞くどころか、使って貰うことにもなります。それでもよろしいのでしょうか」
 導師はしばらくしてから、「――仕方ないのお。認めよう」と返答した。
 信者達は神妙な顔をしてそのやりとりを見つめている。
「認めるって一体何様だよ!」畠山が小さな声で呟いた。
 寒河江には、導師は、このやりとりを聞かせるために、信者を集めたのではないかと思えてきた。導師の目的は一体何だ?
「それから……」
「なんじゃ、まだ、何か注文がござるかな」
 その言葉には、野獣が返した。「それは俺が言うよ。要するにな、ウチの研究所は優秀な研究生のみを必要としているんだよ。優秀ならむしろ大歓迎だ。何人でも採用しよう」
 そこでまた信者の不快な合唱だ。
「あちゃー。野獣の俺には君達のために言葉を選ぶのは無理だ。今日は我慢しろ。とにかく、俺個人の意見としては、むしろ、救光教の信者が入ってくれれば、うちの研究活動を認めたことがはっきりするし、何かとやりやすい。大歓迎だ。面接の点数は少し甘めにしてやるぞ」
 畠山のその言葉に、寒河江は苦笑いした。
「所長の立場としては、試験を甘くすると言う訳にはいかないが、合格者がゼロにならないよう配慮はしよう」
 今度は畠山が笑った。所長自ら、試験を甘くしようと言ってるようなもんだ。
「とびっきりの優秀な人間に試験を受けさせるから、その心配は不要じゃ」
 そう言って老人も笑った。そして、寒河江は、今度は西の集団の方を向いて叫んだ。
「もちろん、そちらの西救光教の信者の方々についても、同様です!」
「国民の一%ぐらいしかいない東さんと違って、西さんの信者は約十五%。あちらさんは大丈夫なんじゃないのかねー」
 畠山が苦笑いしながらそう言ってる時に、寒河江の携帯が鳴った。ちらり見ると、緊急のサインが出ている。
「緊急なのでちょっと失礼。――状況はどうだ。え、何だと? ああ、ああ――」
 寒河江の表情が険しくなった。そして、顔をあげ、厳しい視線を光法導師に向けた。

 白装束の集団に取り囲まれたまま、三人は坂を上っていく。楽しく会話する雰囲気とはとても言えない状況だったが、沙耶葉はお構いなしに、笑顔で少年達と話を続けた。
「へえ、二人は今日会ったばかりなんだ。何だか、昔からの親友みたいに見えるわよ」
「そうですか。確かに何だか僕も、わたる君とは今日会ったばかりという気がしません」
 トモが答えた。渉はちょっと照れくさそうだ。
「ところで、二人はどうして、異星言語科学研究所を受験する気になったの?」
「それは……」二人の少年の声がまたもや重なったので、沙耶葉は笑った。
「ふふふ、じゃ、まずはワタル君から……」
「はい、沙耶葉先生!」
 その言葉に沙耶葉の表情が変わった。
「せ、先生! ……はぁ、その響きいいわねえ。最高ォ! ねえ、トモ君も呼んで呼んで!」
「はあ、はい。沙耶葉先生……」
「す……すんごく気持ちイイ! この研究所に入って良かったわ。本当に良かった」
 沙耶葉は舞い上がっていたが、トモの呆れぎみの顔が視界に入り、ようやく我に返った。
「あ、あ……ごめんごめん。ワタル君、続けて」
 見かけの印象と違って何だか子供っぽいな――と渉も感じながら、話を続けた。
「はい、実は、僕は異星人とか言語とかにはあまり興味はなくて……」
「そうなの?」少し低くなった沙耶葉の声に、渉はまずいことを言ったと反省した。
「あ、いや、えっと、今言ったことは間違いで、異星人言語に、もちろん興味を持ってます」
 声を上ずらせながら釈明する渉に、沙耶葉は少し厳しい口調で言った。
「私の反応なんかいちいち気にしなくていいの! 正直に自分の気持ちを話しなさい」
 渉は背筋をピンと伸ばした。
「は、はい! 実は、僕は、異星言語よりヴァーチに興味を持ってるんです。この研究所では最新鋭のヴァーチを使うという話をニュースで聞いたので、実物が見たくて来ました」
「君の家はヴァーチを置いてるの?」
「いえ。でも、学校の部活動で時々使っているんです」
「ああそういえば、最近幾つかの学校でそういうの始めたって聞いたなあ。じゃ、トモ君はどう?」
「僕はほとんど使ったことがないです」
「そうよね。最近、世の中に出てきたばっかりだしね。で、わたる君、ヴァーチは面白い?」
「はい。特に、現実を似せてるんだけど、現実ではないところとか……」
「なるほどそういう点も面白いね。でも、一般に出てるのは所詮簡易版なのよね。基本的には、視覚と触覚の疑似体験のみの古臭い技術しか使ってないの。本物はもっと凄いよ」
「ほんとですか? 実は僕はその本物のヴァーチの開発に参加したいんです!」
 渉の目が輝いている。
「ふーん、でも、はっきり言っておくけど、この研究所は言語の研究機関だから、ここではそれは無理だろうね」沙耶葉は何でも率直に言うタイプだ。
「そうですか……」輝いていた瞳にたちまち陰が差した。それは沙耶葉にも伝わった。
「まあ、あんまりしょげないで……。そうだ、いいものを見せてあげるわ」
 沙耶葉は、ショルダーバックから眼鏡のようなものを出した。
「掛けてみて」
 渉とトモに渡されたものは、鼻当てもあるから眼鏡という感じなのだが、レンズはなかった。
「なんですか?」とトモが訊くと、沙耶葉はもう一個同じものを取り出し、フレームを広げ、掛けてみせた。装着すると目の部分にレンズのようなものが現れた。
 早速トモと渉も掛けてみた。同じようにレンズが現れたが、二人とも怪訝な顔で辺りをきょろきょろ見回している。その様子に沙耶葉は笑みを浮かべ、眼鏡の感想を訊ねた。
 渉は戸惑いぎみに「何も変化ないですが」と答えた。
 トモも「うん、僕の方も何も変らないよ」と言った。
「そうよね。じゃ、今から、周りの様子をよーく見ててよ」
 そう言った後、沙耶葉は奇妙な呪文のようなものをささやいた。それには歌のようにはっきりした音階があり、それぞれの語の発声の長さは、一定ではなく複雑だ。しかし、歌のような芸術性は感じない。喩えて言うなら、それは、乱数で自動作曲をするソフトウェアが発生させる音楽性のない音の羅列のようなものだった。
 二人は沙耶葉が発した奇妙な言葉にも驚いたが、周囲ではもっと驚くことが起きていた。
「ああっ!」「うわっ!」
 二人の少年は思わず大きな声をあげ立ちどまった。突然、白装束の集団全員が、持っている杖を上にさし上げたのである。そしてそれを歩いたまま、地面にコツコツと叩きつけた。杖を地面に叩きつける音が周囲に響いた。
 もちろん、彼らのすぐ隣の白装束集団も、杖で地面に叩いている。そして、立ち止まった少年二人を避けながら、顔色一つ変えずに、どんどん坂を登っていく。
 悪戯っ娘のような笑みを浮かべ、沙耶葉もその場に立ち止まった。
 暫くすると、突然、信者全員が杖を投げ捨て、白い地下足袋を歩ませながら、阿波踊りを踊り始めた。どこからともなく笛や太鼓、そして三味線の演奏も聞こえてくる。
「どうなってるんだ?」
 トモは辺りを見回しながらただ驚くばかりだったが、渉の方はそのからくりに気づいた。
「そうか!」
 眼鏡を外すと、渉の耳から音は消え、視界には元通りの静かに歩く白装束集団の姿が戻った。
 それを見たトモも、同じように眼鏡を外すと、彼の視界も元に戻った。再び眼鏡を掛けると、眼鏡の中の白装束集団は踊っている。それは偽の視界だったのだ。
「どう、面白い? ヴァーチの技術を応用した眼鏡なの。ま、所詮うわっつらの技術を使っただけのものだけどね。元の映像から、ちょっと変えるのは、結構簡単なのよ」
 再び眼鏡を掛けた渉は、こんな小さい眼鏡が作り出した疑似映像とはとても思えない視界と音響に驚きながら、沙耶葉に訊ねた。
「こんな凄いもの、一体誰が作ったんですか?」
「誰だと思う? へへーん、実はこのあたしなんでーす!」
 自分を指差し、胸を張る姿はまるで子供のようだ。
「実は私も、学生時代に偶然出会ったヴァーチにハマっちゃってね。ヴァーチの研究とかやれる所を探したんだよねー。でも全然なくて、結局、ここに辿り着いた訳なの。でも、異星言語だって、ちゃんとマスターしてる……」
「し、師匠!」
 沙耶葉の言葉を遮って、渉は声をあげた。体が小刻みに震えている。
「こ、これから、沙耶葉先生のこと、師匠と呼んでいいですか?」その表情は真剣そのものだ。
「師匠……うーん、その呼び方はちょっとイマイチね。やっぱ、沙耶葉先生の方がいいわ。大体、師匠と言われるような人間の深みは、この私にはないし。ごめんなさいね」
 沙耶葉はあっさり答えた。その喋り方は、普段モテまくりの女性が、慣れた様子で、告白相手を笑顔で冷たく振る感じと似ていた。
「す、すみません……」
 謝る渉の表情は悲しげだったが、大丈夫だ。お前は別に振られたわけじゃない。
「あの……」眼鏡で周りを興味深そうに見ていたトモが話に割り込んできた。
「ちょっと気になることが……あそこの人達……なんですけど、ちょっと変なんです」
 トモは、坂道の上のずっと遠くの一点を指差した。
「え? 何?」同じ方を沙耶葉も見た。渉も見た。
 沙耶葉が「あ!」と大きな声をあげた。その周辺も白装束の集団がすっかり埋めつくしていたが、よく見ると、その中の数名は踊っていない。杖を持ち、粛々と歩いている。三人は眼鏡を外してみた。その部分だけは何も変わらない。そこの数名にだけは眼鏡の効果が出ないのだ。
「なんでだろ……あそこの数人は動いてない。変だなぁ、白装束姿の人間はすべて置き換えるようにプログラムしたのになぁ」
 再び眼鏡を掛けながら、訝しげな顔をしている沙耶葉に渉が訊ねた。
「どうしてこういうことが起きるんですか?」
「うーん、そうねぇ。プログラムの不良かもしれないけど……やっぱ、センサーの問題かなぁ。あ、もしかして、偽装かもしれないなー」
「偽装?」
 少年二人の声が重なった。その声を聞いて、沙耶葉は顔色を変えた。
「あ、まずった。今の話はなかったことにして……えっと、この件、連絡しなきゃいけないから、ちょっ、ちょっと待ってね」
 そう言うと沙耶葉は携帯を取り出し、話を始めた。
「あ、大野木さん? 不審者発見しました。うん四名。ヴァーチグラスで変化しないのよ。うんうん、そうだと思う。今、座標送るわね。今、そばにお客さんが居るんで……大丈夫、受験志願者よ。そんなわけで後はよろしくお願いします」
 早々と通話を終えた瞬間、トモが訊いた。
「あのー、あの人達って異星人なんですか」
 沙耶葉の顔が一瞬凍りついた。「……なかなか凄いことを訊くねぇ」
「済みません……」
「えっと、うーん。どうしようかなぁ。そうね、表向きは違うことにしといてね。間違っても、あの人達に話しかけたりしちゃダメ!」
 沙耶葉は、苦笑いしながら答えた。嘘を吐くのは苦手だった。
「ごめんなさい……」トモはこの件は訊いてはいけないことだと察した。
「――様子を見ているだけだと思う。あの人達については、いつか話せる時が必ず来るから」
 沙耶葉はトモに目を合わせずにそう言うと、トモは小さく「はい」と返事をした。
 その時、突然、トモの携帯が鳴った。携帯を取り出し画面を見ると、掛けてきたのはトモのクラスメートだった。
 沙耶葉に断ってから、トモが携帯に出ると、泣き顔の少女が画面に現れた。通常禁止されている教室の中からの通話のようだ。今は授業中のはずだが、何やら騒がしい。
「綾子ちゃんが、綾子ちゃんが、さらわれちゃったよお!」
 悲痛な叫びが受話器から響いた。


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Last Modified on Saturday, 13-Oct-2007 20:52:05 JST