異星言語科学研究所 (8〜9)

十. 昼食会

 多くの小中学校の夏休みに終わりが近づくその日は、一段と暑い日だった。時刻はちょうど十一時。蝉の声だけが鳴り響く閑静な住宅街を、森川ユズキが汗を滲ませながら歩いていくと、その店はあった。
 古ぼけた板に《食亭タルティーニ》と彫りこまれただけの小さな看板、それが目立たないところに掛かっていた。欧風装飾をあしらった古い扉の前には、毛筆で書かれた《本日貸切》の木札が掛かっている。異様に力強い文字だなとユズキは感じた。
 煉瓦造りのいかにも古そうな建物は、商売をしているという自己主張をすることもなく、小綺麗な家が並ぶ街並みの中にひっそり佇んでいる。
 ユズキは看板と札を数回見た後、視線を手元の携帯に移し、その店であることを確認してから、重い扉を押し開けた。軽やかな鐘の音が鳴り、涼しい空気が店内から漏れてきた。
 少し暗い店内には、静かな音楽が流れていた。全く聴いたことのない古い音楽だった。柔らかい優しいヴァイオリンの音色。装飾音が目立つが心が落ち着く曲だった。まさかその曲に『悪魔のトリル』などという物騒な名前が付いていることなど、ユズキは知る由もなかった。
 店内を見渡すと、中央に木目のはっきりした大きい長テーブルがあり、その周りだけに人が座っている。奥の右にはユズキとほぼ同年代であろう男の子、左には女の子、この子はどう見ても小学生にしか見えない。隣の老人はその保護者だろうか。それと、こちら側の席には顔は見えないが二十代ぐらいの男女が三人。この人達が研究所の人だろうか……。
 ユズキがそんなことを考えながら、しばらく突っ立っていると、手前の真ん中の席の女性が振り向き、立ち上がって大きく手を振った。
 長い髪がなびいた。綺麗な人だ。薄暗い店内がその部分だけ華やいで見える。ユズキは自分の姉も結構美人だと思っているが、この人には太刀打ちできないなと感じた。大きく見開かれた琥珀色の瞳。試験のことを訊きに来たはずなのに、ユズキはすっかり心を奪われていた。
「何ぼんやりしてるの? こっち、こっちー!」
 彼女は満面の笑顔で子供っぽく叫んだ。
 その言葉にユズキははっとした。あわててテーブルの方に歩みよった。
「君の席はそこね」
 彼女が指差した空いている椅子にユズキはそそくさと座った。視界に三人の大人の姿が入った。右隣に女の子がちょこんと座っている。
 ――やはり小学生だろうか。口をヘの字にし、きつい目をして僕を睨んでる。気むずかしい子なのかもしれない。あ、そうだ、謝らないと……。
「お、遅れてすみません。ちょっと迷っちゃって……」
 ひょろながで、色白で、猫背がちの少年は、再び立ち上がって二度頭をさげた。
「そんなぁ。約束の時間から、まだ……えっと」
 女は、手に持った装置を見た。普通の携帯と違う形をしているし、少し大きめだ。
「なによ、たった二分しか過ぎてないじゃないの。それより、こんな遠いところまでわざわざごめんなさいね」
「いえ、研究所より、ここの方がずっと近いですし……」
 猫背がちのユズキが言葉を返した。女は、二人だけが立ったままで話をしていることに気づき、ニコリと笑った。
「さぁ、座って座って」と女はユズキを手で促した。
「えっと、君は……森川……ユズキ君だったわね」
 琥珀色の瞳を一瞬天井に仰がせて、女は言った。その瞳が再びこちらを向いた時、まず始めに自己紹介をしようと決めていたことを、ユズキはようやく思い出した。
「は、はじめまして! 森川ゆみちの弟のユズキと言います。ぼ、僕の名称なんて覚えてもらってて恐縮です」
 それを見ていた隣の少年は、変な自己紹介をする子だなと思った。
「私は、横浜沙耶葉。沙耶葉って呼んでね。そういえば、キミは横浜に住んでいるんだったわね。いえね。私は名字は横浜だけど、出身は全然違って四国州の徳島なの。それも田舎暮らし。見ての通りの色黒だし……。だから、横浜さんって呼ばれるのは、どうもなんか変な気持ちでねー。大都会横浜って雰囲気じゃないでしょ、私って?」
 今、自分を凝視しているこの女性は、日本が誇る大都市横浜に負けない美しさだとユズキは思った。本人は色黒と謙遜するが、健康的に日焼けしたキメの細かい美しい肌だ。服のセンスもいい。シックなむら染めのタンクトップに、七分丈のホワイトデニムのパンツ。活動的なところを強調しながらも、大人の雰囲気が漂う彼女にぴったりだ。いや、でも、せっかくの長い髪は何かアレンジした方がいいかも……。ユズキはそんなことを次々と頭に思い浮かべた。
 しかし実際は、沙耶葉の矢継ぎ早の言葉に、ただ「はー」と相槌を打つことしかユズキにはできなかった。
 このままだと、この女性はどうでもいいことを次々話しかねないが、そこに元気な男性の声が割って入った。短く髪を刈った熱血教師風。身長は沙耶葉よりもずっと低い。爽やかな笑顔で……というか、なんだかちょっと浮いた感じかな――とユズキは思った。
「こいつは、話し出すと止まらないからなぁ。私の名称は早川隆之。よろしく!」
 語尾に力がこもっていた。やっぱり変な爽やかさだとユズキは感じた。
「彼女も私も、異星言語科学研究所の教員です。で、こちらの人が……」
「大野木です。宜しく」
 黒のスーツ姿にボブカットの女性は、笑みを浮かべることもなく、やや低い声で静かに答えた。そう言った後、うつむいて、黙ってしまったので、沙耶葉が再び話し始めた。
「えっと、大野木さんはね。研究所のね……」沙耶葉は斜め上に目を泳がせ少し考えた後、「何なのかなー、この人って、ははは」とお茶目に笑った。
「さて、ユズキ君も来たし、残るは一人だけね。大野木さん、そちらの方は大丈夫?」
「全て準備は整っています。何も問題なしです。そろそろ着く頃でしょう」
 大野木は、下を向いたまま答えた。
 その時、再び店内にカラカラという音が響いた。沙耶葉は再び入口の方に振り向いた。
「遅れてすみません!」
 そこには、光を背にして清楚な少女が立っていた。小白川綾子だった。
「どんぴしゃね。さすがは大野木さん」沙耶葉は感心しながら言った。

「なんだい。そんなこと、俺は聞いてなかったぞ!」
 野獣の雄叫びが、研究所の殺風景な会議室に響いた。
「受験志願者達を集めて楽しく昼食会だとぉ! 俺に内緒でずるいぞ!」
 テーブルの中央には、向日葵や百合などをあしらった明るい色合いのアレンジメントが置いてある。一昨日、沙耶葉が持ってきたものだ。しかし、晩夏の暑さに萎れかけていた。
「そんなことをミノさんに言う必要などないだろ。それに昼食会とは言っても受験に関する相談会だ。これは大切な業務だ」
 寒河江は涼しい顔で答えた。実際、室内は程良く冷房が効いて涼しい。でも、彼がミノさんと呼ぶ畠山実は、今日もTシャツ一枚なのに汗だくだ。
「だから、何で俺をまぜてくれなかったんだよ。この暑い中、俺はサンダースのアホと、政治家、役人、マスコミ、それに、小やかましいばばあとかの対応でずっと大変だったんだぞ」
「いくらなんでも、アホは酷いですよぉ」横の楠木・サンダース・尊氏は弱々しく言った。
「香川のばばあの相手なんて、貴様一人で本当は十分なんだよ!」
 香川とは、研究員募集発表の当日、たすきがけでやってきた市民団体の代表だ。
「で、その香川さんはどうだって?」
「あの女、本当にわからずやだ。何度言っても、全然、納得してくれやしない。今日なんか、まっ黄色のスーツで現れやがって目が痛くなったよ。あの日は東の信者のおかげですっかり大人しくしてたのによお」
「なんだ。ミノさんでも、手に負えないんじゃないか」
「だからー、あんなやつの相手わー、時間の無駄だからー、語尾伸ばしのー、サンダースだけでいいんだよ!」
 野獣の雄叫びに、寒河江は不快な表情一つ浮かべず、相変わらず涼しい顔のままだ。学生時代を含め、研究を共にしてきた彼にとって、こんなことなど慣れっこなのだ。サンダースや、他の所員達は、雄叫びが室内に響くたびに、目を閉じたり、身をすくめたりした。
「ふーん。ま、香川さんは香川さんとして……やっぱり、問題は地元住民ですね。椙山さん、それはどうです?」
 寒河江が、髪が少し後退した神経質そうな男に顔を向けると、彼は着席したまま答えた。
「微妙ですね。代議士の多くは、外国人を含め学生が町に集まると、過疎からなかなか回復できない地元が活気づき、経済的にも潤うという理由で、歓迎している人が大半です。少なくとも与党側は賛成に落ち着きそうです。一方、市民は歓迎と不安が半分ずつと言ったところで、野党議員の反発もまだ強いです。東救光教が詰めかけた影響も大きいようで……」
「与党というと当然あの党も含むんですね」
「あ――はい」
「なるほど、それなら何とかなりそうだが、まだ長引きそうだな。こんなことしている場合ではないのだが……」
 寒河江が顔をしかめた時、ドアが開いた。そこには一人の長身の男が立っていた。
「その問題は解決する」澄んだ声が会議室に響いた。
「繭田さん。帰ってきてたんですか……」
「ああ、たった今、サンタフェから戻ってきたばかりだ」
「で、解決するとは?」
 さっそく、寒河江が聞こうとしたところに野獣が話に割り込んだ。
「ちょっ、ちょっと待ってよ。話を戻そうよ。繭田さん、こいつったら、俺に内緒で、受験志願者の昼食会なんかセッティングしてるんですよ」
 所長の寒河江をこいつ呼ばわりできるのは、畠山だけだ。
「それを指示したのは私だ」
 それを聞いた畠山は再び立ち上がった。椅子が背後に吹っ飛んだ。
「なんですって! どうしてメンバーに俺が含まれてないんですか! 得意分野ですよ」
 繭田機構調整官の前では、一応野獣も言葉遣いを変えるようだ。
「君は危なっかしいので、この任務には向かない。食べるのは君の得意分野だろうけどね」
 畠山は腕を組み、口を真一文字にして拗ねた。横の楠木が転がった椅子を元に戻している間、彼は立ったまま話を続けた。
「だったら、どうしてニンジャなんかが参加してるんですか!」
「忍者? ああ、大野木君のことか。でも、そこは、くのいちと言うべきじゃないのかな」
 彼女は日頃、繭田の秘書のような仕事や、研究所のセキュリティを確認するなどの業務に就いているが、表向きは庶務課所属の一事務員だ。でも、大野木が事務員という職名になっていることなど、多くの所員は知らなかった。
 ――大野木はくのいちなんて可愛いタマじゃないよ、と畠山は言いたいところだったが、繭田の前だったので、その言葉は飲み込んで、楠木が戻した椅子に不機嫌そうに座った。
 そもそも、官吏のくせして、タレントのように、ショルダ(肩)にかかるほど髪を伸ばしたキザな格好をしていることが、畠山はまず気に入らない。さらに、こんな暑い日に、デザインスーツで涼しげにしているのも気に入らない。ネクタイの抽象的な模様も気に入らない。
 もっとも、彼がどんな姿で現れようと、畠山は繭田を気に入ることはないだろう。だからと言って、研究所の全人事権を握っている彼と、下手に諍いを起こすのも嫌だった。彼がいるだけでストレスが溜まる。汗が更に滲み出てくる。
 繭田はキザに歩きながら(と畠山には映った)話し続ける。
「この仕事には、ニンジャとサムライ、それから、少々おっちょこちょいな魔術師が必要なんだ。なにせあの場所は、主争岡。西救光教の総本山だからね」
 そう言って繭田はゆっくりと彼専用の肘付椅子に座り、更に付け加えた。
「残念ながら今回の任務には、野獣は必要ないんだよ」
 貴様だけにはそう呼ばれたくないよ……とばかりに畠山は、腕を組んだまま、椅子をクルッと回転させそっぽを向いた。

「はじめまして。小白川綾子です。こんな私のために色々ご迷惑おかけして済みません」
 少女は深々とお辞儀をした。
「ユズキ君にしても、どうして最近の子供は、こんなに謝ってばかりなのかしらね。そういえば、こないだ渉君も……」
 沙耶葉が呆れながら、少年の方を向いてそう喋りかけた時、無口だった少年が口を開いた。
「綾子さん? もしかして七王トモ君の友達の?」
 その言葉に綾子はびっくりした。「と、トモ君を知ってるの?」
「うん、僕、水無渉って言うんけど、あのニュースの日に、列車の中でトモ君に偶然会って、一緒に研究所に行ったんだ」
「元気なの?」
「え?」
「私、あの日からずっとトモ君に会ってないの。お父さんに言われるままにこの街に来て入信してからは、一切連絡が取れなくて……お父さんは県外に出るのも許してくれないし……」
「にゅうしんって、まさか……」
 渉が驚いて言うと、綾子は小さくうなずいた。
「そうか、それであんなメールを……」
「え、トモ君からのメール?」
「いえ、トモ君からも貰ったけど、そのことじゃなくて……」
「話しているところ悪いが……」早川が話を止めた。話をしていた二人はあわてて謝った。
「そんなわけで、綾子さんはここから出られない。だから、ここ、主争岡の袋井で昼食会を開くことにしたんだよ。試験について話を聞きたいという人を一緒に集めてね。新潟の水無君を除けば、みんな、研究所よりもここの方が近いことだし、あっちよりもむしろ安全だろう」
 早川が今回の昼食会の主旨を説明した。
「早川先生。あの時は本当にお世話になりました!」綾子は再び深くお辞儀をした。
「いや、私はそう呼ばれるのはまだ早いな。それより早く座りなよ」
 早川に促され、綾子が席に座ると、幼い少女がついに我慢できなくなって立ち上がった。
「またライバル出現なのですね!」甲高い声が響いた。
「すみません。自己紹介します! わたくし、氏名は皐(さわ)雛菊です。まだ十一さいだけど、決して負けません。ライバル同士、試験の時は、みなさん正々堂々戦いましょう!」
「これこれ、ひなぎく……」傍らの老人がたしなめた。
「あれ? 確か、あの後、受験資格が、来年の九十二日(四月一日)現在で中学二年生以上、という条件に変わったという話を……いや、そもそも、元から十二歳以上だったような……」
 渉がそう言うと、待ってましたとばかりにひなぎくは話を続ける。
「そうなんです! わたくしは入学予定日の三日昔(三日前)の八十九日にはちゃんと十二さいになります。だから大丈夫なんです。なのに突然変更になったのです! 忘れもしない、それは二百二十八日のことです!」
 ひなぎくは必死だ。
「東救光教の件もあって、小学生の受験は安全上ちょっと難しい、という話になってね。当初は高校生以上にするという話まで出たんだ。それは阻止できたんだけど……」
 早川が事情を説明した。もし条件が高校生以上になったら、ここに受験資格を持つ子供は一人もいなくなる。
 だが、一人だけ、その条件なら良かったのに――と密かに思う少年がここにいた。中二の森川ユズキである。来年高校三年生になる彼の姉ならその条件でも受験できる。
「どうしてですか? 言葉を覚えるのは早い方がいいはずです。私は英語もできます。ちょっとだけなのは、アイムソーリーです。勇気も持ってます。救光教信者の圧力にも決して負けません! 信者にふみつけられても丈夫な雛菊です!」
 老人がひなぎくに声をかけようか迷っていると、
「あのぉ……」と渉が声を出した。その視線は、西救光教の信者である綾子に向けられていた。複雑な表情の綾子を見て、すべてを理解したひなぎくは大あわてした。
「いえいえいえいえいえ。わたくしったら、わたくしったら、なんておっちょこちょいのちょこさんなのでしょう! どんな相手でも友だちです。信教の自由はじっちゃんの教えです。すなわち、日本国けん法なのです。だから綾子さんとはもう友だちです。でも、友だちは友だち、ライバルはライバルなのです。とんだライバルなのです。ごめんなさい!」
 手を拳にして弁解するひなぎくは、ひたすら必死だ。
「ふふふふふ……」それは最初は小さな笑い声だった。
「ふふ、ははははははははは…………」
 文字通り、お腹を抱えて笑い出したのは沙耶葉だった。
「あーあ。始まっちゃったよ……」早川が頭を掻きながら呆れ顔で言った。
「ふふ、ははははは。ちょっと、ごめ、ごめん、ほんと、ごめん、はははは……」
 その後しばらく、厳密に言えば一分ほど、沙耶葉の笑い声が続いた。
「あの、えっと、えっと、えっと、えっと…………」
 その間、ひなぎくはどうしたらいいのか分からず、立ったまま、「えっと」をこれまた何回も繰り返した。他の少年少女達も、呆然としながら笑い続ける沙耶葉の姿を見ていた。
 ひとしきり笑った後、沙耶葉は大きく息をした。
「はーあ。ごめんね。私笑い出すと止まらないのよ。これじゃあ、私の方が先生失格よねぇ」
「そんなに笑ったら、ひなぎくちゃんに失礼じゃないか。一体、この問題どうするんだよ!」
 早川が声を荒げると、沙耶葉は「は?」と気の抜けた声を出した。
 彼の疑問には大野木が答えた。
「早川さん。実はこの件ですけど、話をしたら、繭田調整官がすぐさまOKを出しまして」
「繭田さんが言えば絶対でしょ。だから問題ないのよ。なんだ、隆之君は知らなかったのね」
「全然、知らなかった……。仕方ないから、ここで三人で頭を下げるのかと思っていた」
「早川さんは例の問題の対応もあって忙しそうでしたので、この件について話す機会を逸しておりました。この件はさして重要な事項でもないので……」
 その時、所員達の会話に少女が割り込んだ。
「重要でないと申されるのですか!」
 突然のその声に大野木はびっくりした。見ると、声の主が肩を振るわせている。
「わたくしには、それは、とっても、とっても、重要な話で、えっ、えっ、えっ……」
 ついには、ひなぎくの目に大粒の涙が……。
「あ、あの……それは、ええと、そうではなくて……」
 何が起きても動じないニンジャ大野木が動揺している。異星人らしい連中が現れた時すら、やっぱり全く動じず的確に対処したあの大野木さんが……。それを思うと沙耶葉はまた……。
「ふ、ふふ、ふふふふ……」
 それを見て、渉が思わず「あ……」と声を出した。
「ご、ひひ、ごめん、はは、おおの、大野木さんの、こ、こんな姿見るの、は、はじめ、はははははは……」
 沙耶葉の笑いが今度も約一分続いた。しばらくしてようやく笑い声が止まり、皆がほっとしたのも束の間、再び笑いが止まらなくなったので、沙耶葉は立ち上がった。
「ははは、ご、ごめん。本当にごめん、ちょ、ちょっと、外出てくる……」
 涙を浮かべたままひなぎくがあっけにとられていると、沙耶葉は外へ駆け出していった。
 軽やかな鐘の音が鳴り、扉が閉まったあと、沙耶葉の大きな笑い声が扉越しに漏れてきた。
「ほんと、困ったやつだよあいつは……」
 早川が再び頭を掻いた時、突然、老人がひなぎくに話し始めた。
「ひなぎく。さっき、汝は『申される』と言ったじゃろ。あれは謙譲語じゃ。大野木さんは無論目上の方じゃ。だからここは尊敬語の『おっしゃる』という言葉を使わなきゃならんぞ」
「は。そうでした、じっちゃん。わたくしとしたことが、大切な日本語でこんな重大なまちがいを……。あの。オーノギ先生!」
 ひなぎくが大野木の前に立っと、「は、はい?」と大野木はぴくりと体を動かした。
「もしかして、このようなことでは試験に落ちてしまうのでしょうか。わたくしは、先程はすっかり動ようしていたので、まちがえてしまったのです。ふだんはこのようなまちがいなど決していたしません。弁解がましく聞こえるかもしれませんが、本当にそうなのです!」
 手をぶるぶる振りながら弁解するひなぎくはやっぱり必死だ。
「ええと、それは、私には……」大野木は返答に困っている。
「ふふふふっ……」
 綾子が静かに笑い始めた。渉もユズキも笑い出した。老人も、終いにはひなぎくさえも笑い始めた。早川も一緒になって笑っていると、またもや意外な光景を見た。
 ――あの大野木が笑っている……。約三年間、同じ職場で働いてきたが、彼女が笑っている姿を見るのはこれが初めてだった。
 ユズキもその笑いの中に参加していたが、しばらく笑っているうちに、こんな場面でさえも、きっとお姉ちゃんなら絶対笑わないだろうな、とふと思った。それを思うと不安になり、彼の笑いはだんだん収まっていった。
 店内の笑いが収まる頃、ふらふらになって沙耶葉が戻ってきた。そして、ひなぎくの前に立って深々と頭と下げた。
「ひなぎくちゃん。ほんとーに、ほんとーに、ごめんなさい。悪気はないの。ほんとよ」
「はい、よくわかりました。さやは先生の弱点が!」
「へ?」
「試験の時には、さやは先生のこの弱点をしっかり狙うことにします」
「か、かんべんしてー」
「冗談です」
 また笑いが起きた。笑いながら、綾子は、トモに初めて会った日のことを思い出した。
 ――あの日もこんな感じで笑ったなぁ……。
 その時、マスターが声をあげた。「さて、そろそろ料理の方、出しましょうか」
「お、お願いしまぁーす」
 笑いすぎてすっかり疲れきった沙耶葉が、声を振り絞って叫んだ。

 会議が終わり、畠山は不機嫌そうに通路を歩いていた。大股で歩くその斜め後を、楠木=サンダースが小走りぎみについて行く。畠山の足取りは重いがどたどたと音がする。床には消音処理がなされているはずなのに。
「よかったじゃないですかぁ。例の拉致未遂事件の影響でぇ、東救光教もぉ、すっかり大人しくぅ、なったわけですしぃ」
 にこにこしながら楠木が言った。
「ちっとも良くねえよ。昨日と今日届いた受験申込メール、サンダースだって知ってるだろ」
「えっと合わせて……約八百人でしたよねぇ。いっぱい届いて嬉しいじゃないですかぁ」
「貴様は阿呆か!」畠山は立ち止まり、楠木を睨みつけた。思わず楠木も足を止めた。
「昨日届いたのは約五五〇人。今日届いたのは約二五〇人。どちらも、数分の間に一気に届いたものだぞ。それがどういう意味か、貴様には分からないのか?」
「えっ? あっ、そうかぁ……あれは救光教のぉ……」
「そうだ。一方が西救光教で、もう一方が東救光教の信者達の受験申込だってことだ!」
 畠山は吐き捨てるように言った。
「どうせ使えない連中ばかりなクセに、全く、無駄な手間ばかりかけさせるんじゃないよ。大量の書類チェックをするのは俺達なんだぞ」
「うひゃひゃひゃぁ!」
 体をくねらせながらの気持ち悪いリアクションを、畠山は気にする様子もなく話を変えた。
「それよりもだ! 昼食会だよ! 昼食会!」
「昼食会?」
「忘れたのか。綾子ちゃんの昼食会だよ! マユの野郎は俺なんか要らないなんて言ったけど、やらなきゃならない大切な役目を俺だって持ってるんだ」
「役目? え、何ですかぁ?」と馬鹿っぽく楠木は訊いた。
「天才少女綾子ちゃんへの特製プレゼントを渡す役目だよ!」
「プレゼント? あ、それって机に置かれてた空色の本ですよねぇ」
 畠山はぎょっとして、楠木の胸ぐらを掴んだ。
「な、なんで貴様……、そんなこと知ってるんだ?」
 そう言って脅すように楠木の体を揺すった。そんなことなど日常茶飯事なので、楠木はいつものように毛深い右腕に体を預けたまま、話を続けた。
「や、ヤハたんから聞いたんですよぉ。その本でしたらぁ、ヤハたんがぁ、持っていきましたしぃ。だから大丈夫ですよぉ」
「ナニィ! せっかく俺が苦労して探してきたのに……」
 楠木を突き離して、畠山はその場にうずくまった。
「そして、俺から美少女綾ちゃんに直接渡すつもりだったのにー!」
 野獣の雄叫びが、通路に響き渡った。

十一. 檻の中の少女

 トモは、事件の翌日から自宅謹慎となった。理由は、無断で学校を欠席し(厳密には早退だが)福島へ行ったため。それに加え、交番で警官に尋問された際、逃亡したためだった。
 謹慎が決定すると、携帯と自宅の個人端末に届くメールはすべて遮断されたので、謹慎二日目までは、何も判らずじまいだった。綾子の拉致未遂事件は近畿州と中部州の地方ニュースでそれぞれ小さく扱われたのみで、それも事件の詳細については一切触れられなかった。
 謹慎期間は二週間。学校もそのまま夏休みに入ったので、トモは新学期まで、詳細をクラスメートに訊く機会すら失われたが、謹慎三日目に、クラスメート五人が、学校に内緒で家を訪ねてくれた。その時の話で、事件の日の状況を大体把握することができた。
 彼らの話から、誘拐未遂事件のきっかけが、確かに自分だったことを確認した。
 あまり親しくもなかったクラスメートの平田翔は、信者に綾子の名を言ったことを繰り返し詫びたが、トモには彼を責めることなどできなかった。
 そして、あの日彼女の父が言った通り、翌日、綾子は、クラスメートへの別れの挨拶もそこそこに、学校を去ってしまったというのだ。
 引っ越し先は主争岡県、そんなに遠くはない。だが、そこは西救光教が実質支配している地域であり、文教特区と呼ばれ、日本国内でも特別な場所だった。
 そこの地域だけには、保護者によって子供の行動が監視できるという人権侵害も甚だしい特別な条例があった。綾子の父はその条例を利用するために主争岡に転居したのだ。子供の居場所は、体内に埋め込まれたチップによって常にモニターされるという。一方のトモも、保護者である彼女の父の許可なしには特区に入れない。入るには県境の検問を通る必要があるのだ。
 したがって、トモは綾子に会うことが全くできなくなってしまった。
 さらに、侵入を手助けしたのが高原先生だと聞き驚いた。トモが尊敬する教師だった。
 謹慎期間中、トモは薄暗い自室で一人、色々なことを調べ、考えた。トモのIDではネットへのアクセスも禁じられていたが、父が自分の端末を貸してくれた。
「納得できるまで調べてみろ」
 父はそれだけ言って自分のパスワードを教えた。
 早速、トモは東救光教と西救光教、今まで関心が薄かったこの二つの教団について調べた。
 信者数などの統計や、代表者や幹部の氏名などは容易に得られた。しかし、教義やその団体に関する記事は表面的なものが多く、教団への批判記事等も断片的なものばかりで、信憑性の低い流言の類も多数含まれていた。何が真実か、トモには全く判別できなかった。
 それでも、東に関しては、『月』の字の排除に対する異常なまでの執着、そして恐らく過激と思われる修行内容、時々信者が起こす事件などについて、一方、西に関しては、政治や経済への強い介入や、完璧なまでの信者管理などを大まかに知ることができた。
 宇宙、周星、そして失われた月に強い関心を持つ自分が、これら二つの教団に今まで全く無関心だったことが、どれほど危険なことだったかを痛感した。
 その間、父は今まで通り、普通にトモに接した。責めることもなく、事件についても、異星言語科学研究所についても、何も語らなかった。今日は雨が降っただの、気温の差が激しかっただの、季節のことや、その日行われたスポーツの結果などを語った。
 謹慎期間最後の夜、端末操作の手を休めていたトモは、ふと、綾子と初めて会った時のことを思い出していた。

 ――あれは小学六年の時、二学節(学期)の初日、担任が連れてきた転校生は、真夏だというのに妙に色白な女の子だった。確か、あの頃は、髪は今よりちょっと短くて、首の真ん中辺りで切り整えていたな……。
 出身地と氏名、そして、趣味は読書――という非常に簡単な自己紹介だけで済ませた綾子に、トモは、休み時間に話し掛けてみることにした。
「小白川さんは、火の国と呼ばれるような暑いところから来たのに、結構色白だよね」
 自席で穏やかに読書をしていた綾子は、急に声を掛けられて少し驚いた様子を見せたが、
「太陽の下に長くいるとすぐ体皮(皮膚)が赤くなるから、いつも日焼け止めを塗っているの」と、あまり子供らしくない淑やかな声で理由を話した。
「それに火後だって、雪くらい降るのよ」
「なるほど」と答えると同時に、トモはその地域に伝わる奇祭のことを思い出した。
「あ、そうだ。火後県には面白い祭が存在したよね。みんなで大笑いする祭。ええと、ウフフヘヘ、いや、ハハヒヒフ……だったかな?」
「ムヒヒハハ――です」
 綾子は小さい声で答えた。今考えてみると、少々恥ずかしそうな様子だったかな――とトモは、その時の綾子の顔つきを思い出していた。
「えっと、ムヒヒハハ……こんな感じ? 違うかな、ムヒーヒハーハ、じゃない? じゃ、ムーヒヒハハー……」
 トモがアクセントを変えながら色々やっているうちに、綾子は「違う、違うわ」と言いながら、小さく笑い出し、その日から二人は友達の関係になった。そんな、会ったばかりですぐに仲良くなるような経験は、その先ずっとなかった。

 時間は、深夜零時を過ぎていた、それまで止められていたメールが続々と携帯に届き始めた。
 一覧を見ると、その中に、綾子のメールと、そして、あの日仲良くなった水無渉のメールが含まれているのに気づいた。『渉』と書くことを、トモはその時初めて知った。
 まず、綾子のメールから読んだ。一通だけのメッセージは非常に短いものだった。
「トモ、とっても心配かけて本当にごめんなさい。私は大丈夫です。体もなんともないし、気持ちももう落ち着いています。今は時間がないので、とり急ぎお知らせまで。綾子」
 それだけだった。読み終えた瞬間、トモは、綾子が自分にとってかけがえのない人であることに初めて気がついた。――しばらくの間、弱々しく泣いた。
 その後、渉から届いた二通のメールを読んだ。一通目は、その日、渉が研究所で見聞きした詳細を書いた長いメールだった。あの日、綾子の件でとんぼ返りだったので、トモは研究所のことを何も知ることができなかった。
 渉はそんなトモのことを思い、宇宙に行けるかの質問さえも色々してくれたのだ。はぐらかされるばかりだったが、あながち無理でもなさそうだと書かれていた。
 それに続く内容は、ヴァーチに関して熱く語ったものだった。結局、詳しい状報は得られなかったようだが、沙耶葉先生とはすっかり仲良くなったようだ。あの眼鏡の仕組みについても、先生に食らいついて色々と訊ねたようだ。
 さらに、面接に一緒に対応してくれた畠山実という面白い先生について、色々と書かれていた。何度も頭を撫でられて、髪の毛がクシャクシャになったと嘆いている。最後に、綾子のことを心配する文章でメールは締めくくられていた。熱い思いが詰まった彼のメールを読んで気持ちが軽くなった。
 続く二通目は奇妙なメールだった。
「トモ君へ。こんにちは、実は僕は釣りが趣味なのです。そこで、浜名湾で一緒に釣りをしましょう。今度は四人一緒で。集合場所は愛知県の新居町駅から……」
 その後に日付と時間、そして詳しい地図が添付されていた。「今切口」と呼ばれる場所。そこで四人で釣り? 三人目というのは沙耶葉先生? もう一人は、誰? 畠山さんだろうか? 新居町といえば、関所が設けられているところだ。その向こうには……まさか……。
 よくは解らないが、トモはそのメールに隠された何かを感じ取り、完全に元気を取り戻した。涙をしっかり拭いてから、父の部屋に行って、戸をノックした。
「トモか……」
 時計は一時を回っていたが、父はまだ起きていた。トモは部屋に入るなりこう言った。
「僕、行きたい所ができたんだ」
「そうか……」和人は短く返事をしたあと、少し間をあけて言った。
「実は俺も、トモを連れて行きたい……いや、連れて行かなければならない場所が存在する」
 それは綾子達の昼食会が行われる五日前のことだった。

 丸い大きなテーブルに、料理の皿が次々運ばれていく。
 まず、ポタージュスープとチーズを散りばめたサラダから始まった。先生と受験生は、口々にその料理の美味さを褒め合いながら、次々に平らげていった。そして、山盛りに盛られたパスタと、それに続いて大きなピザがテーブルに置かれた時、ちょっとした歓声があがった。
 沙耶葉が、そのパスタを手早く取り皿にとり、各自に配り終え、一口味見。
 満足げな声をあげてから話し始めた。
「じゃ、そろそろ、始めましょうか。ひなぎくちゃん、掛け声よろしくね」
 すると、待ってましたとばかりに、少女はすっくと立ち上がった。
「はい。それではまいります。用件そのぉ――いち!」
 もうひなぎくの操縦法を会得した感があった。沙耶葉は、その元気なしぐさを笑顔で見ながら、会を進行していく。
「まずは、ひなぎくちゃんから。要はひなぎくちゃんが受験できるかってことだったわね」
「はい、そうです!」
「さっきも言ったけど、これは問題なし。それから、公平性に配慮して、公表している受験要項の方も元の年齢に戻すことになりました。ただ、当日の受験には保護者の付き添いが必要になるけど、それは大丈夫ですね。皐さん」
 沙耶葉は老人の方を見て言った。
「付き添いは小生でよろしいかな」
「もちろん!」と琥珀色の瞳を輝かせ沙耶葉は答えた。
「正直言うとな、小生は研究所が一体どんな所か不安に思うとったのじゃが、とにかく陽気な貴方がとても気に入った。今は、ぜひ、孫を研究所に預けたいと思うておる。ひなぎくの両親の許可も大丈夫じゃろう」
「やったあ!」
 元気な声が店内に響いた。
「ま、それも、ひなぎくの学力次第じゃがな……」
「じっちゃん、わたくしがんばります。受験勉強のきびしさにも負けない雛菊です!」
 ひなぎくはいつでも必死だ。
「これで一件落着ね……。ところで皐さんは書道を教えているそうですね。実は、外に掛けられていた『本日貸切』の札の文字は、皐さんが書いたものなんです」
 渉とユズキが「へぇー」って声を出した。すると、ひなぎくが自慢げに語り始めた。
「そうなのです。じっちゃんというのは世を忍ぶ仮の姿……。その実体はわたくしの書道のおっしょう様なのです! なにを隠そう、わたしくはかい書(楷書)だけでなく、草書も行書もいける口なのです。自分の名称もこのように――しっかり漢字で書けるのです」
 ひなぎくは、腰に付けていたポシェットから、紙のメモ帳と携帯毛筆を取り出し、自分の名前《皐雛菊》を漢字で書いて見せた。この子はいつもこんなものを持ち歩いている。
 渉とユズキだけでなく、早川や沙耶葉もその様子をもの珍しそうに眺めている。大野木もちらりと目を向けた。興味があるらしい。
 ひなぎくが字を書き終えると老人が補足した。
「小生、特別な書家という訳ではない。愛弟子ひなぎくも、このようにまだまだでして……」
 ひなぎくが少しずっこけた。
「ただ、国の文化を守るのは我々の日本人の使命と思うのじゃ。筆で字を書くこともこれ即ち文化。これらは後世にしっかり残していかねばならないと思うとるのじゃ」
 その老人の話をずっと目を輝かせながら聞いていた少女が声を出した。
「あの……私」
「なんじゃの? ええと、綾子さんじゃったね」
「はい。――実は私、携帯や端末とかでの入力じゃなく、筆で文字を書くのが大好きなんです。だから皐さんの話にとても興味を持ちました。私は正しい書き順を知らない字も多いし……」
「ほお、そうかい、そうかい。それは嬉しいことじゃな。小生は豊橋に住んでおるから、ここ袋井は近い。時々遊びに行って字を教えてやることにしよう」
「そんな、そんな……とんでもない」と少女はあわてながら両手を振った。
「綾子さんはこの文教特区を出ることはできないのじゃろ。小生はここの事もよく知っておるから大丈夫じゃ。むしろ小生こそ、ぜひ教えたいと思うとるのじゃ」
「本当ですか。嬉しいです。何とお礼を言ったらいいのか……」
 残念ながら、この時代の大半の日本人は『有り難う』という言葉を知らない。ずっと笑顔で二人の会話を聞いていた沙耶葉が口を開いた。
「綾子さん、やっぱり、字を書くことも好きなのね。じゃ、いよいよ、今回最大の議題に入るわよ。ひなぎくちゃん、準備はいいかしら?」
 スパゲッティと目下格闘中だったひなぎくがあわてて立ち上がった。
「はっ、ははっ、はい! 用件そのぉ……にっ!」
 そしてその後に、ちょっと油断してました――と小さな声で付け加えた。口元からパスタが一本垂れ下がっていた。
 早川が鞄から一冊のノートを出した。
「綾子ちゃん。これ……」
 綾子は、はっとした。それはあの時早川に託したノートだった。
 沙耶葉は、唇に指を立てながら少し真顔になって言った。
「これからあなた達が聞く話は、実は重大な機密事項なの……。いいこと? この先の話は決して家族にも友達にも口外してはダメよ」
 彼女の透明なルージュが光った。

十二. 魔術師

 会議の後、繭田に呼ばれ、寒河江は、機構調整官専用の応接室で彼を待っていた。
 政治家、実業家、国内外の著名科学者などの来賓向けにあつらえた豪華なソファーに、寒河江は少々居心地悪そうに座っていた。下には緋色の絨毯が敷かれている。
 そこに、二人分のアイスティのグラスを両手に持った機構調整官の繭田が扉を背中で開けながら入ってきた。ここの扉は研究所の中でも珍しく自動ではない。
「ストローは無くて良かったよな」
 それを見て、寒河江はあわてて立ち上がった。
「ま、繭田さん、わざわざそんなことしなくても……」
「いや、これは私が飲みたいのだ。これがないとどうも調子が出ない。自動販売機のはどうもだめだな。一つ一つの茶葉は悪くない。でも、特にアイスは中途半端なブレンドばかり……。一体誰が考えるんだろうね。風味も足りない。自販機のコーヒーはなかなかの出来だが、紅茶は神経が行き届いてないよね。紅茶の自動抽出機が開発されてから、恐らく四百年は経とうというのに、これはツキが存在した昔からのことなのかねえ。ま、クリームダウンを考えずに済むから楽だけどね。あ、砂糖は適当に入れといたからね」
 紅茶に疎いこの研究所の代表者は、ただ「はぁ」と答えるのが精一杯だった。
「今日は大野木君がいないので、私の下手なアイスティで済まないね」
 繭田は全く濁りのない濃い赤に、大きな岩氷が一つずつ浮かぶグラスをテーブルに二つ置いた。寒河江は、ぼーっと立ちつくしている。これだけ透明で濃いアッサムのアイスティを作ることの難しさなど、彼は知らなかった。
「何つっ立ってるんだよ。君が研究所の代表だろ。堂々と座ったままでいればいいんだよ」
 そう言われても、寒河江は、ついこないだまで単なる一人の研究者だった。
 名目上に過ぎない老所長をトップに据えていた国際社会文化研究所の頃は、間違いなく繭田が研究所の実質の代表だった。そして今も、彼の持つ権限は何一つ変わっていないのだ。その繭田に、君が代表だ、などと言われてもどうもしっくりこない。
 繭田がニヤリと笑いながら先に座ると、そそくさと寒河江も座った。グラスに一口つけてから、彼の話は始まった。
「さって。この先、うちは何かとやばい橋ばかり、渡り続けていくつもりなんで、これからは所長の君にもちゃんと相談していかないとね」
「何ですか?」
 寒河江は怪訝な顔をした。
「野獣君もお気に入りなあの娘だけどね。私もここに絶対必要な人材だと思っている」
「小白川綾子のことですか」
「ああ、その娘だ。君もあの紙の手帳を見ただろう。あの娘はあの歳でうちの若手研究者並の研究力を持ってる」
「それはいくらなんでも少々過大評価では……」
 繭田はアイスティをごくりと飲んでから、一気に話し始めた。
「あの娘は、月を含んだ昔の日本の漢字の元のパーツを、二十五種も言い当ててるんだよ。その半分以上が配置まで合っている。そもそも、そのうち二つは、七年昔の佐世保遺跡発掘の時、その存在がようやく確認された文字だ。あれは、一冊の古い放送禁止語辞典だけで解る内容じゃないよ。間違いなくかなり多くの資料を丁寧にあたっているね。彼女は命令されることもなく、すべてそれを自分の意志でしているんだよ。それがどれほど凄いか解るだろ?」
「確かにそれはそうですが……」
「ま、それはいい」
 そう言って繭田は立ち上がった。寒河江に背を向け、電動ブラインドを開け、窓の外の木々を見た。室内に強い日差しが差しこんできた。
「その天才娘が、なんとまあ皮肉なことに、今は教区の檻の中だ。このままじゃ、彼女の才知は全く生かされることもなく、生涯を終えるかもしれない。文教特区などと良く言ったもんだ。実に皮肉な話だ。いや、逆に悪用されるかもしれないな――」
「悪用……ですか」
「だが、幸いなことに、あの子の凄さに、まだ西の轟代表は気づいていない。だから試験日までに、相手に気づかれず、先手を打つという訳だ」
「先手?」
 光を背にした繭田が、寒河江の方に向き直った。
「寒河江君。いや、所長というべきだったね。君は今までに、マジシャンが美女を二つに分離したり、空中浮遊させるようなイリュージョンを観たことはないかな?」
「いきなり何の話ですか? ――えらく古臭いショウの話をしますね、番組映像としてなら観てますけど……」眩しそうにしながら、寒河江は答えた。
「その時、よくマジシャンは、その美女に対してまじないと言うか、術のようなものをかけるよね。――実はね、今回のランチタイムでは、美少女に術をかける手筈になっているのだよ」
「え?」
 その瞬間、突然、大きな氷が音をたてて二つに割れ、赤い液体がグラスから溢れた。
 寒河江はびっくりして思わずグラスに目を向けた。そして驚いた顔を再び繭田に向けると、彼は手を銃の形にしてグラスの岩氷に向けていた。不敵な笑顔を浮かべながら……。
 寒河江も畠山同様、そんな繭田が苦手だった。

 子供達の視線が沙耶葉の整った唇に集まっていた。これから彼女が始める秘密の話を、食事の手を休め、皆、わくわくしながら待っていた。
「綾子ちゃん、この紙の手帳が何だか、みんなに言ってもいいかしら」
「あ、ええ、構いませんが……」
「これはね、綾子ちゃんの研究ノート。それはもうとっても凄い内容なの。どちらかというと私は専門外なんだけど、それでも感動しちゃったわ」
「そんな、大袈裟な……」綾子が恥ずかしそうに言った。
「でも、中身はひ・み・つ!」
「えー、今、綾子さんがいいって言ったのに……」
 意地悪っぽく笑う沙耶葉に、渉はむくれた。彼は、それがヴァーチに関係する研究ノートかもしれないと思っていたのだが、そんな渉に一切構うこともなく、沙耶葉は話を続けた。
「今日はね、これを返そうかと思ってね」
 その言葉に、綾子はむしろ残念そうな顔をした。
「あの……それ、できれば、まだそちらで保管していてくださいませんか。預けた後、手帳の中身は全て覚えてしまっていることに気がついたんです。そもそもここだときっと危ないんで今は要りません。いや、もうずっと、要らないかもしれない……」
「あ、そう。多分そう言うと思ってたわ。実はね、やっぱりこの手帳は、綾子ちゃんが持ってるのはまだ危ないんで、今日は返すつもりはなかったの。丁寧な手書きの文章に、偽装を施すのも何だか悪い気がしたし……」
「偽装?」そう叫んだのはまたもや渉だった。そのキーワードに少年は興味津々だが、沙耶葉はやっぱり無視して話を続ける。
「でも、あの辞典はまだ欲しいでしょ。内容を見る限り、まだ研究は途中だし……」
「ああ、あの本ですか。でも、あれは燃えてしまったから……」
 少年達には二人が何のことを話しているのかさっぱり解らない。
「でね」
 そう言って沙耶葉は、水色の表紙の本をテーブルに置き、その隣に装置を並べた。
「ちょっと今から綾子ちゃんの信号を計らせてもらうわ」
「信号……ですか?」
「この装置のセンサー部分に左小手の真ん中辺りをかざしてみて」
 沙耶葉は、装置を操作した後、センサーの部分を指差した。
「え、はい」綾子がその言葉に素直に従い、左腕の小手の部分を装置にかざすと装置が綺麗な音を奏でた。ハープのような音色だった。
「やっぱりチップの場所はそこか。オッケ。じゃ、今から本に鍵を掛けるわ」
 そう言って、今度は装置を再び操作して本にかざした。再び装置が音を奏でた。
「これで完了」と言って沙耶葉は周りを見回した。
「じゃ、まず……。さっきからずーっと暇そうだったユズキ君。その本、適当に真ん中辺りを読んでみて」
「……あ、はい」とユズキが読もうとする。しかし――
「あれ? これって韓国語の本ですか? ハングル文字ですよね」
 次々にページをめくるが、どこまでもハングルだ。時々挿絵もある。周囲にも中身を見せた。
「そう。これはハングルで書かれた青少年向けの物語なの。綾子ちゃんには、ちょっと、ハングルでも勉強してもらおうかと……」
 その話に綾子が戸惑いを隠せずにいると、突然、ひなぎくが立ち上がって叫んだ。
「なるほど! わたくしたちはハングル語を勉強しなければならないのですね! がんばります。オイキムチのはげしい辛さにも負けない雛菊です!」
「い、いや、そういうわけじゃないんだけど……んっ!」
 沙耶葉は、拳を握りしめ、危ない危ないと思いながら、今にも出そうな笑い声を飲み込んだ。また笑いツボを突かれそうになったのだ。しかもオイキムチかよ――とか思った。
 沙耶葉は少し息を整えてから、再び話を続けた。
「じ……、実はそれは冗談よ。今度は綾子ちゃんがその本を読んでみて」
 綾子はユズキからその本を受け取り、開いて中を見た時、驚きの声をあげた。
「こ、これって……」
「そう、例のアレです。ちょっと放送局は綾子ちゃんが持ってたのとは違うんだけどね」
 それは間違いなくあの辞典だった。

 ましかく《真四角》[E]
 また[A、X]【『又』は問題ないが、枝や体の部位を示す意味で使うのは不可】
 まちあかす《待ちあかす》[X] 待ち過ごす
 まっき[X]最終(的)、終(的)
 まつご[F]一生の終。【末後としてまれに使われるが、推奨されない】
 まっさお《真っ蒼》[F](顔色が)悪くなる。蒼白。真碧(しんへき)。真蒼(しんそう)。

 ――ついつい、目が字を追ってしまう。恐らく、Aは問題なし、Xが絶対禁止で、Fは使う人はいるが、放送では禁止か。Eは好まない人(東救光教信者)がいる言葉……。
 少し読むだけで綾子には判った。

 まっしょう[X]誤記塗り潰し、抹白(まっぱく)/(枝や神経の)末端
 まっぽ[C]警官
 まつやに《松やに》[X] 松油
 まら《魔羅/摩羅》[D] 男性器(元は梵語)

 ――CとDは放送では使わない方がいいものね。でもその差が今ひとつ解らないな……。

 まんき [X](刻限付預金などが)満了すること

 ――そして、あの言葉か……綾子がそう思った時、
「あれっ、この……まん……」
 背後から声がした。あわてて綾子が振り向くと、そこにはひなぎくが立っていた。先程からずっと覗き込んでいたのだ。

 ひなぎくは、学校で先生に質問するかのように次のように訊ねた。
「この『まんげつ』ってところ、その下に何も書いてないけど、どういう意味なんですか?」
「こ、これこれ……」
 無邪気に訊ねるひなぎくを、老人があわててたしなめようとすると、
「私も……判らないの……」
 綾子は悲しげに言った。少女があまりに悲しげだったので、堪らず老人が言った。
「あの……、沙耶葉さん、いいですかな?」
「あ、いいですよ。ここには監視カメラも、盗聴機もないですしね。ね、大野木さん!」
 大野木は「はい」と小さい声で答えた。
「大体、私達はこれらの言葉を避けていてはこの先全く何もできないし……」
 沙耶葉の言葉に安心して、老人は語り始めた。
「これはな。こうして、満ちた月と書くのじゃ」
 老人は、ひなぎくのメモ帳に力強く《満月》と書いた。ユズキが目を剥いて驚いた。これがあのツキか……。一方、渉は少し感心ぎみに驚いている程度だ。
「月が満ちる……それは、どういう意味ですか」
 顔を老人に向け、綾子が訊ねた。
「さあて、どう言ったらよいかな。その昔、地球を回っていた月はな、夜も、太陽からの光の反射で光って見えたそうじゃ」
「やっぱり夜にも月の光が照っていたのですね。昔、トモ君がそんな話をしてくれました」
「そうじゃ。そして、太陽との位置関係によって、月には陰が付くのじゃが、その陰が全く無くなった時、すなわち真円になった時を、満月と呼ぶのじゃよ」
「なるほど、それで満ちると書く訳ですね。何とお礼を言って良いのか……」
 綾子は嬉しそうに言った。
「その光の下で、沙耶葉さんや、大野木――さん、そして、綾子ちゃんの白い表皮が、さぞや綺麗に見えたことじゃろうの。ほっほっほっ」
「じっちゃん。わたくしは……この雛菊はどうなのです!」
「もちろん、それはそれは可愛く見えたじゃろうて」
「そうですか、そうですか」
 夏の強い日差しに健康的に日焼けしたひなぎくは嬉しそうに大きく頷いた。
 その時、「あの……」と我慢しきれず、渉が口を挟んだ。
「この仕掛け、どうなってるんです?」
「ま、これも偽装の一種ね。大した技術じゃないけど。つまりこの本には、元々の文章の上に、薄い液晶箔に印刷された別の文章を更に重ねてるの。それがハングルの文章ね。これが、普段は下の文章を隠している。で、綾子ちゃんが手に本を持つと、その鍵が解けて、下に覆い隠されていた内容が読める仕掛けになっているのよ。――それにこの液晶は視野角がとても狭いんで、横から覗いたくらいじゃ判らない」
「なるほど、なるほど……」渉が目を輝かせながら頷いた。
「本人認識に、綾子さんの左小手に埋め込まれたチップが発する信号を使っているのが皮肉ね。綾子さんを識別するための信号だから、逆にこういう使い方もできるわけ」
「これなら文教特区内でも大丈夫ですね」綾子は本当に嬉しそうに言った。
「でも、真後ろは気をつけてね」
 綾子は、あの日も同級生に真後ろから本を読まれていたことを思い出し、苦笑した。
「今度こそ十分気をつけます。でも、私がハングルの文章を読むためにはどうしたら……」
「それは、単に左手を本から外せばいいけど、手袋をしたり、少し厚手のブックカバーをつけても大丈夫よ。だから、普段はブックカバーでもつけておくといいと思うわ」
「あの、私、何とお礼を言ったら……」
 綾子の言葉を遮ってひなぎくが元気よく言った。
「それはもちろん、カムサハムニダです。実は韓国語にもちょっぴり強い雛菊です」
 店内に笑いが起こった。その時、チャイムのような音が鳴った。沙耶葉の携帯からだった。
「あら、もうこんな時間。私、まだ用事が残ってるから行くね。渉君も行くよね」
 そう言いながら、沙耶葉は立ち上がった。
「はい! 手伝います」と渉が元気よく言った。
「じゃ、後のことはよろしく……」
 沙耶葉がそう言った瞬間、ユズキが叫んだ。
「あの、僕の姉のことは?」
「それは、隆之君に任せるつもりだったけど、私にも聞いて欲しいことなの?」
「あの、えっと……」
 ユズキは早川のことはまだ分からないので、まず、信頼できそうな沙耶葉に話を聞いて欲しかった。それとやっぱり、ユズキは横浜沙耶葉さんともっと話がしたかった。
「――はい……」
「そう? ま、時間は少し残ってるし……。じゃ、手早く参りますか」
 そう言って、再び沙耶葉は座った。
「じゃ、ひなぎくちゃん」
「待ぁーってました!」と素早くひなぎくは立ち上がり、
「いきまーす。用件、そのさん!」とノリノリでポーズを決めた。
「で、ユズキ君の相談はお姉さんのことだったよね」
 沙耶葉が突き放し気味に言うと、ユズキが立ち上がった。
「はい、私の姉、えっと、森川ゆみちっていいまして、研究所を受験したいと考えているようなんですが……私の姉は……」
 子供達の視線がユズキに集まった。
「変なんです!」
 叫ぶユズキの表情は真剣だった。その言葉に少年少女達はお互い顔を見合わせた。
「弟の私が言うのも何なんですが、姉はとっても変人なんです。それで今回はその相談に来たんです。変人用の受験準備とか、性格改善とか、そういうことが必要ではないかと思って」
 変人用の受験準備って一体何だ?
「ちっとも、さっぱり、まったく、なんにもないわね」沙耶葉は呆れるように言った。
「うん、何も問題ないよ」と早川も答えた。大野木にもユズキの視線が向かったが、彼女は無表情のまま顔を逸らした。
「だあーって、研究所の人間は、ほとんどみんなが変人だしー。自分で言うのもアレだけど、見ての通り、私もこんなだしー」
 なんか少々キャラ変わり気味にだるそうに喋る沙耶葉の言葉に、ひなぎくがうんうん頷く。
「ああ、研究所で変人でない人を探すのがむしろ難しい」
 早川も付け足すが、ユズキはまだ納得しない。
「でもでもでも、私の姉は人とのコミュニケーションとか変なんです。実は姉を密かに慕う弟の私が言うのは心苦しいですが、喋り方もおかしいし、多分考え方もおかしい。親しい友達もいないようだし」
「別に日本語が話せない訳じゃないでしょ?」
「はあ、それは問題ないです。そもそも、気持ちを込めればちゃんと話せるようなんです」
 ユズキはあのニュースのあった日、女優のように叫んでいたことを思い出していた。
「じゃ、そのままでいいわよ。そんなに心配だったら、ユズキ君も一緒に試験受けたら?」
「え?」
「それがいいよ」と早川も言う。
「私のような平凡な一般小市民がそんな大それたことを、とんでもない……」
「……君もきっと変ね」
 沙耶葉はあご肘をつき、呆れたように言った。
「そうでしょうか?」
「ああ、変人の才覚を感じるよ」と早川も変なことを言う。
「そうでしょうかぁ?」
 そう言われたユズキは何だか嬉しそうだ。それは何かおかしいぞユズキ!
「じゃ、そういうことで。渉くーん行くわよ」
「はい。それじゃあお邪魔しました。では今後ともよろしくお願いします」
 渉はそう言って、軽くお辞儀をした。
 その時、綾子が立ち上がった。それを見て、負けじとひなぎくも立ち上がった。
「沙耶葉さん、今日は本当にどうお礼を言ったらいいか分かりません。感謝の気持ちでいっぱいです」
「わたくしもいっぱいいっぱいの雛菊です!」
 ひなぎくも叫んだ。まだ十一歳とは言え、いくらなんでもその日本語はどうなんだ?
「その気持ちに応えたいなら、綾子さん。試験は受けなきゃだめよ」
「え?」
「私達が何とかするから、安心して」
「え、はい。あの、それと……」
 綾子にはもう一つ気になることがあった。
「今日、渉君は、何のために……?」
「あ、僕、今日は特に自分のことで用事とかはないんです。今日は沙耶葉さんのお手伝いと、みんなに会いに来ただけですから」
 綾子がびっくりしていると、
「そうやって点数を稼ぐつもりだったのですね!」
 ひなぎくが畳みかけるように言った。老人はもう呆れ顔のまま何も言わない。
「あ、そうかぁ。そういう考えもできるわねぇ。でもね、私はね――その、変なゆみちさんを含めて、この試験に君達が全員合格することなんて、予めの調査で判りきってることだから、そんなことはどうでもいいの」
 その言葉に子供達は驚いた。
「私は素敵な君達に会いたかったの。みんな思った通りのいい子ばかり。大好きよ!」
「沙耶葉!」と早川がたしなめた。
「あ、ユズキ君だけは微妙かもね。いろいろ喋り過ぎちゃったわね。ははは、じゃあね」
 左手を軽く挙げたまま、緑なす黒髪をはためかせて沙耶葉が出ていった。渉も軽くお辞儀をしてその後に続いた。
 カラカラと扉が締まり、綾子とユズキが座っても、ひなぎくだけは涙を溜めたまま、ずっと立ちつくしていた。その様子に堪りかねて早川が声をかけた。
「あの、ひなぎくちゃん」
「は、はい……」という言葉と同時に涙が一筋流れた。
「ほんと、しょうがないやつだよ沙耶葉は……。確かに沙耶葉の言う通りかもしれないけど、だからと言って、試験は頑張らなきゃだめだ。君達が試験を受けること自体が、私達にとって、そして、世界の未来にとって重要なんだ」
 早川の『世界の未来』という予想外の言葉に、綾子とひなぎく、そして、老人も、少なからぬ衝撃を受けていた。
 ただ、森川ユズキだけは、沙耶葉の言った『微妙』とは、素敵かどうかなのか、合格するかどうかなのか、それとも、大好きというのが微妙なのか、どれなのかを考えていた。
 そのユズキに早川が声をかけた。
「ところで、どうして今日はお姉さんは一緒に来なかったんだい?」
「あ、はい。それは、沙耶葉先生には電話で伝えたことなんですが、姉は黙って旅行に出てしまったからです。こんなメールを残して……」
 そう言って、ユズキは自分の携帯の画面を見せた。それを読んで早川は怪訝な顔をした。
「『旅に出ます。探さないでください』って、何? これじゃあ何だか家出みたいな気もするけど……」
「いえ、姉が旅行に行く時はいつもこうなんです。第一、宿泊先も書いてるし……」
 ユズキが画面をスクロールさせた。
「本当だ。ん、長野県上諏訪? 何でこんな所に?」
「さあ、姉のすることは、いつも不可解なことばかりなのでよく解りません。でも、何か理由が存在するんだと思います」
「理由ねえ……」と早川は首を傾げた。


This page copyright (c) 1996-2014 Masatoshi KATO(Shinmeikai)
Last Modified on Saturday, 13-Oct-2007 20:52:06 JST