異星言語科学研究所 (15〜18)

十五. 事件

 美貴はゆみちのことが大好きになった。
 用事も済んで、「じゃ私はこれで」と帰ろうとするゆみちに、少女は「行かないでお姉ちゃん!」と泣いて(嘘泣き)すがった。それならと、生駒家でみんな一緒に昼食をとった。しかし、今度は、どうしても一緒に眠ると言って聞かなかった。
 その日、ゆみちは温泉宿に予約を入れていた。
「ちょっとしたことを温泉宿で試してみたかったのですが……」
 そう話したが、その目的はさほど重要でもないとも言い、生駒家に泊まることに特に異存はなかった。さっそくその民宿にキャンセルの連絡を入れた。
 一方、前日から山を歩き、自然の食材をたっぷり準備して、都会からの若い女性客の到着を今か今かと待っていた民宿の若夫婦は、キャンセルの連絡に大層がっかりした。迎えに行くから、せめて当宿自慢の温泉と夕飯だけでも――と懇願してきた。
 それを聞いた篤志は一つの提案をした。
「その民宿にみんなで一緒に泊まってはどうだろう」
 結局、生駒篤志、妻の芳恵、和人、トモ、美貴、そしてゆみちの六人がその民宿に泊まることになった。一番大喜びしたのは美貴であったことは言うまでもない。
 宿へ向かう道には、リニアモーターの埋設どころか、舗装すらなかった。震災や暴風で発生したと思われる倒木や、崩れて露わになった山肌を覆う保護ネットが目立つ中を、生駒レンズ工業の社名の入ったワゴンは、大きく車体を揺らしながら、どんどん登っていった。
 民宿の駐車場にワゴン車が到着すると、笑顔の夫婦が駆け寄ってきた。
 整地されただだっぴろい駐車場の奥に、南に窓を向けた平屋の小さなログハウスがジグザグに六軒並んでいる。一番端には普通の一軒家よりは大きめの三階建のログハウス、そこが管理棟であった。それ以上背の高い建物はなかった。
 建物の大きさに比べ、駐車場が広すぎると感じた和人が訊ねると、三十代ぐらいの宿の主人は、昔、その場所に建っていた大きな老舗旅館のことを和人たちに話してくれた。
 その老舗旅館は五年前の大震災の時に建物が全壊、その後も長い間余震が続いたので、結局、そのまま廃業したという。しかし、一年ほど前に、甲信越州知事から、諏訪安全宣言が出された。上諏訪の町も至るところで復興のための工事が始まり、町の観光産業にもようやく復活の兆しが見えてきたその時に、千葉に住んでいた夫婦が自宅を売却、この土地を手に入れ、小さな民宿を開いたのだ。
 まだ交通の便も悪く、知名度も低く、結果、客も滅多に訪れない小さい民宿に、突然六人もの客。話をする主人は興奮気味だった。
 主人と和人がそんな話をしている間に、美貴はトモとゆみちを連れ、ゲームコーナーと書かれた場所に直行した。そこには、巨大なゲーム装置が一台だけ、無造作に置いてあった。都会のゲームセンターでも見かけたことがないなとトモは思った。他にあるのは、飲食類の自動販売機とネット端末だけだった。
 美貴は、かなり大きなゲーム装置の前でポカンと口を開けたまましばらく立っていたが、みるみる瞳に輝きが満ちていった。宿の夫人がトモ達に話しかけた。
「実は、主人の本職はゲームデザイナーなんですよ。今は仕事はずっと減らしてますけどね。これは開発中の試作機の一台。本当は、宿の売りにしたいところなんだけど、あまりおおっぴらにする訳にもいかなくて、時々宿を訪れる客に、こうしてこっそり遊んでもらうのよ」
 ゲームの定員は二人。プレーヤーは、まず、手、首、腰、そして足首の部分を、ゲル状に近い柔らかい物質で装置に固定する。その物質が体重を支えるのだ。
 ステージはある種のアスレチックサーキットのようなものだ。プレーヤーは全身を使ってゴールを目指す。
 オーソドックスな一本橋渡りや網くぐりなどに加え、あるステージでは体に羽根が生えて、空を飛び、あるステージでは、下半身が尾ひれになり、海を泳ぎ、またあるステージは、無重力の宇宙船の中を手足の噴射ノズルを吹きながら、障害物を避けながら進む。
 美貴はトモと一緒に、夢中で遊んだ。ゲームには、プレーヤーの年齢と性別を配慮してハンデが付けられていた。そのハンデもあってか、日頃、諏訪の自然の野山を駆けまわり体力をつけている美貴の圧勝だった。ハンデなしでも勝てないかもとトモは苦笑した。そして、研究所のヴァーチを使う試験は、もしかしてこんな感じなのかな、とふと思った。
 ――まさかそんなことはないか……。
 ゲームが終わり二人が装置を出ると、そこにゆみちの姿はなかった。宿の夫人に聞くと、一人露天風呂に向かったと言う。その話を聞いて、
「わあ、お姉ちゃんに一番乗り取られたあ!」と美貴が叫んだ。
 トモと美貴がロビーに戻ると、父や生駒夫婦は、まだそこで話をしていた。特に、篤志はレンズの件で主人と熱く語っていた。ゲーム会社に自慢のレンズを売り込む気らしい。その様子を夫人の芳恵は呆れ顔で見ていた。
 美貴が早くゆみち姉ちゃんのいるお風呂に行きたいというので、トモ達は、この宿自慢の露天風呂へ向かうことにした。
「お兄ちゃん、ここって混浴かもよ。ゆみち姉ちゃん、水着の用意してないから、もしかしてお姉ちゃんの裸が見れるかもね……」
 美貴が意地悪っぽい笑みを浮かべながらそう言うと、トモは、混浴だったら後で入るからいいよ――と少々むきになって答えた。しかし、ここの露天風呂は脱衣場も含め男女しっかり別れており、二つの湯は立派な竹の柵と岩で仕切られていた。
「残念でーした」と叫びながら、美貴は女性用の脱衣場に駆けていった。

 和人とトモが、脱衣所を出ると、湯煙の中にどっしり構える岩風呂が現れた。
「自慢の温泉と主人が言うのも頷けるな」
 和人は言った。ざっと三十人は入れる広さがある。老舗旅館の頃のものをそのまま改装したという。トモも今まで見たこともない浴槽の広さに驚いた。
 そして、隠す必要もないのにタオルを前にあてがい、トモが湯に浸かろうとした瞬間、女湯の方から悲鳴が聞こえた。美貴の声だ。あわてて声の方向に叫んだ。
「美貴、どうした!」
「大変! お兄ちゃん早く来て!」
 トモは急いでタオルを腰に巻き、柵に向かった。高い竹の柵を登るのは難しそうだったので、
隣の岩の部分からよじ登り、女湯の方に飛び降りた。そこには湯槽の前で呆然と立ちつくす美貴の姿、さらにその視線の先に湯に浮かぶものがあった。
 全裸の女性だった。――森川さん……なのか? 体は浮かんではいるが、顔は完全に湯の中に浸かったままだ。長い髪が湯の中に広がりゆらめいている。全く動く気配がない。
 大あわてで飛び込み、湯を掻き分けてすすみ、女性を抱き起こし顔を湯槽から出した。
 やっぱりゆみちだった。声をかけても反応がない。目は半開きのままだ。そのまま抱きかかえ、湯漕から出た。
 トモは、ゆみちを寝かせ、呆然と立っていた美貴からタオルを奪い取り、顔を拭いた。見ると首に紐のようなもので絞められた赤いあざがあった。――誰がこんなことを……。
「も、森川さん! 大丈夫ですか。森川さん!」
 呼びかけても、頬を軽く叩いても返事がない。これは人工呼吸しかないのか……。
 学校の防災訓練では模擬人形を使って何度も練習しているが、実際に人間相手にやったことはなかった。無意識にトモの視線はゆみちの整った半開きの唇に向かった。心臓が高鳴った。
 まずはあごを上げて気道を確保して……いや待て、先にやるべきことが……。
「美貴! きゅ、救急車を、救急車を呼んで!」
 トモのその大声に、突然ゆみちの半開きの目が大きく見開いた。
「そ、それはまずい。怒られる……」
 ゆみちは鼻声で言った。トモは、意識が戻ったと喜び、思わず抱きかかえた。
「良かった、良かった」
 涙を流して喜ぶトモに、ゆみちは言った。
「ごめんなさい。ごめんなさい。本当にごめんなさい」
 トモは、全裸で抱き合っていたことに気づいて赤面し、あわててゆみちから離れた。腰に巻かれていたはずのタオルはどこにもなかった。
 遠慮しがちにゆみちの方を再び見ると、彼女は動じることもなく、耳と鼻に付けていた栓を外していた。
「え?」
 それを見たトモはどういうことなのか理解できなかった。

「なんだってえー!」
 ログハウスのロビーに大きな声が響いた。トモがそんな声をあげるのも無理はない。
「星曜サスペンス劇場によく出てくるひなびた露天温泉に浮かぶ美女死体。私はその雰囲気を一度味わってみたかったのです」
 浴衣姿の眼鏡なし眼鏡っ娘は抑揚ない声で説明した。ゆみちが言っていた目的とはこのことだったのだ。彼女はすまなそうに少しうつむいていた。
「じゃ、その首のあざは?」
 ゆみちの首には、紐で絞められたような赤いあざがまだ残っていた。
「これはロープを使い自分でつけました。ちゃんと首を踏ん張って絞めれば、こんなものは簡単につきます。それから、今回のために、何度も息を止める練習をしました。仰向けだと結構難しいですが、俯けなら、今は、五分以上楽に止められるようになりました」
「そんなことのためにわざわざ練習を?」
 やっぱり、トモにはゆみちが理解できなかった。他のみんなも呆れ顔だ。
「本当は美貴ちゃんが発見した時点ですぐ止めるつもりだったんですが、トモ君が来てくれそうだったので、更なるドラマチックな展開が待っていると思い、少し我慢してしまいました。本当にごめんなさい」
「ひどいよお、森川さん!」
「済みません。でも、抱き起こしてもらえた時、本当にヒロインになれた気がして幸せでした。このご恩は一生忘れません。でも、贅沢を言うなら、その後、人工こきゅ……」
 その言葉をトモは大声で遮った。
「わーわーわー、忘れなさい! え、い、え、ん、に、忘れなさい!」
 トモは、顔を真っ赤にして怒る姿に、美貴が口を挟んだ。
「特に綾子ちゃんには絶対内緒よねえ」
「美貴!」という怒号におてんば娘は舌を出した。
「綾子……。ああ、トモ君の彼女ですか。それはそれは」
「ち、違いますう!」
 トモがゆみちと美貴に翻弄される様子に、篤志が笑いながら言った。
「ははは、こんなに慌てたトモを見るのは初めてだよ。ゆみちちゃんは実に面白い娘さんだ」
「はあ、そうですか。理由は解りませんが、クラスでも何故か時々人気者になります。よく仲間外れにもなりますが」
「よく天然とか言うけど、この子の場合、どう呼べばいいのかねえ」
 笑顔の和人もなかなかひどいことを言う。
「天然……確かによく言われます。私も何かそれは違うと思っていますが」
 さらに宿の主人が会話に参加した。「ところで、今までにもこういうチャンスが何度か巡ってきたんじゃないのかな。修学旅行とか、家族旅行とか……」
「はい。実は今まで何度も挑戦したんです。いつも旅行の際には準備を整え、チャンスを窺っていたのですが、今まで湯槽に浮いているところを人に発見されるという状況を一度も作り出すことができなかったのです。そもそも一番乗りが難しい。山形の小さな温泉で一番乗りを果たせたのですが、準備万端で湯に浸かりずっと待っていても、一向に誰も来ない。あまり長く浸かっているとのぼせてしまうので、時々あがってたんですが、雪も降っていたのでとにかく寒かった。結局、二時間待ちましたが誰も来ませんでした。カモシカには遭遇しましたが」
 どっと笑いが起きた。美貴もゆみちの話を楽しそうに聞いている。
「だから、今回こんな素敵な舞台を用意してくださった宿のご主人や、美貴ちゃん、トモ君には、感謝するばかりなのです」
 相変わらず言葉に抑揚はないのだが、どうやらゆみちは嬉しそうだ。
「ははははははは。傑作だ。これって、何かゲームのネタにならないかなあ」
 民宿の主人の言葉に再び笑いの渦が巻き起こった。トモだけは一人ずっと憮然とした顔で、森川ゆみちを理解するのを完全に諦めることを決意していた。

 この事件のせいで、料理の準備が遅れ、もう八時近くになっていた。食堂に案内されて、真っ先に声をあげたのは美貴だった。
「すごーい!」
 その声を聞き、主人が嬉しそうに説明を始めた。
「うちはいつもは旬の山菜を使った料理がメインでして、それももちろん自慢ですが、昨晩は、珍しく野生の猪が手に入りましてね。それで、今日は是非とも来て欲しかったんですよ」
 テーブル一杯に並べられた料理の数々。数々の山菜や茸の料理、鮎の塩焼き、そして、大きな鍋の隣に、色鮮やかな猪の肉。
「雅臣と梨沙さんも来ればよかったのにねえ」と芳恵がいうと、篤志が笑って答えた。
「いやいや、時には夫婦水入らずというのもいいもんだろう」
「そうですね」
 みんなが席につくと、主人が語気を強めた。
「森川さんに頼まれた料理も用意しています。もしよろしければみなさんもご賞味ください」
 その言葉とともに、夫人がゆみちの近くにその料理の皿を置いた。
 何の料理だろうと、トモが覗き込んだ。「うわ。これって……」
 佃煮らしきものが五種類、どうやらどれも虫のようだ。二つが何かはトモにもはっきり解った。蜂だ。それも大きい。もう一つは蝉。トモが顔を上げると主人が言った。
「当宿一番の自慢、五色佃煮です。黒蟻、蚕の蛹と蛾、蝉、それから、すずめ蜂」
 美貴だけはむしろ興味深そうだったが、これにはトモだけでなく、篤志達も顔をしかめた。
「嬉しい。これを楽しみにしていました。ネットで調べた通り、ここはポピュラーな蜂の子ではなく成虫を使ってますね。でも、写真と違って真ん中にさらに大きい蜂が一匹……」
 篤志達は、この宿が、まだ新しいとは言え、あれほど立派な露天風呂を持ちながら人気が今ひとつの理由が少し解った気がした。
「昨日運良く女王蜂を捕まえることができまして、これは半生で仕上げました」
「女王蜂が半生ですと! 何と私は運がいいのでしょう!」
 その喜びようにトモは呆れ果てた。
 ビールとジュースの乾杯で宴が始まった。料理は基本的には素晴らしかった。猪の肉や、川魚、山菜など、トモは食べたこともないものばかりだったが、どれも美味しかった。
 虫の佃煮類は、ゆみちが顔色一つ変えずに食べているのを見て、美貴と篤志も挑戦してみることにした。美貴は、どれも一口ずつ食べた後、「どれも変なあじー」と言ってやめた。挑戦するだけ凄いとトモは思った。
 一方、篤志はずいぶん気に入ったようだった。
「こりゃなかなかいけるぞ。日本酒に合うよ。特にすずめ蜂が美味い。みんな、食べてみないか?」
 篤志がすずめ蜂を挟んだ箸を向けると、トモは激しく首を振った。にやにやしながら、続いて横の妻に目を合わせたが、芳恵も顔を逸らした。
 和人も義父の様子を見て、食べてみることにした。そして、一口食べて表情が変わった。
「これは美味い!」
 どんどん箸が進んだ。蛹が一番だな――という父の言葉に、うげーっとトモは思った。
 ゆみちは、「念願だった伝説のムシクイーンになれました」などと、訳の解らない感想を述べた。
 あんなやつのこと考えちゃだめだ……と心の中で何度も言い聞かせながらも、トモはそんなゆみちが気になって仕方がなかった。

「やだやだあ! お兄ちゃんとお姉ちゃんのまん中でねるう!」
 そんな美貴のわがままは今度ばかりはさすがに通らなかった。結局、二つのロッジに男女別れて眠ることになった。
 部屋に入ると、トモは、和人の前で、篤志にあの長い一日の話をした。
 異星言語科学研究所のこと、救光教信者のこと、綾子のこと、そして、渉からのメールのこと。篤志は、時々相槌を打ちながら、優しい顔でトモの話を聞いた。
「まだ早いと思っていたが、なるほど、確かにあずさのあの論文を見せる日が来たようだな」
 篤志のその言葉に、和人は鞄から一枚のカードを取り出しトモに渡した。
「お母さんの論文だ」
 トモは、きょとんとした顔で、それを受け取った。
 篤志は頷いて「あずさのことはトモに託したよ」と言った。
 二人はそのまま寝床に向かった。
「ちょっと行ってくる」と言い残し、トモはメディアカードと携帯を持って外に出た。
 自販機でホットコーヒーを買い、野外ベンチに座った。
 蛍のゆっくりした点滅に囲まれながら、トモはあずさの論文「日本語の歴史的変遷(『状報』を例に考える)」を二時間ほどかけて読んだ。読み終わる頃には、既に一時を過ぎていた。
 部屋に戻り布団に入っても、しばらくは眠れなかった。
 しかし、頭を過ぎる様々な思いは、いつしか夢に変わっていた。

 お母さん……。綾子……。そして、夢の中の水槽に森川ゆみちの全身が浮かび上がった。
 水面に放射状に広がった長い髪。体を起こした時に浮き出たクラヴィクラ(鎖骨)。浮力と重力によって変幻自在に形を変えた円やかな乳房。曲面を踊り転がっていく丸い水滴。半開きの唇の鋭い輪郭。そして――首の赤いあざ……。
 あの時は、五感をすべて記憶の奥底に封じ込めてしまったけど、彼女は、眩しいほどに魅惑的で、そして……その妖しげな美しさに、僕の心は……鋭くときめいてしまっていたんだ!

「で、いつになったんだ?」
「決行は二二三日、つまり八月十日に決まった。この日はセキュリティーホールが突ける。所詮今回は単なるデモンストレーションだがな。奴らに一泡吹かせてやるさ」
「三日後……いや、日付が変わっているから、明後日か。当日は俺も見に行くよ」
「おいおい、お前は我々の希望の星だ。万一捕まると困る。止めておけ」
「いや、この目で絶対に見る。奴らの築いた城壁が一瞬でも破れる――いや、崩れる瞬間、それを見届けないと、俺は何も始められない」
「困った奴だな。分かった、気をつけろよ。あの地域は、全てが覗かれているのだから……」
「ああ……」
 少年は通信を終え、机の上のホログラム写真の女性を見つめ呟いた。
「八月十日……ここから俺達の戦いが始まる」

十六. 失われた湖

「お兄ちゃん。早く起きてよお。霧ヶ峰、霧ヶ峰よお!」
「え……き、霧がどうしたって? 外に……深い霧でも出てるのか?」
 トモが眠そうに目を開けると、真上に逆向きの美貴の顔があった。
「その霧じゃなくて、霧ヶ峰! 今日はハイキングに行くんだからあ」
 そんな話になったのか。昨晩は何も聞いていなかったが……。約束の日は二日後だ。美貴とも久々に会ったんだし、それもいいだろう。
 目をこすり体を起こすと、美貴の後に立つジーンズにTシャツ姿のゆみちと目が合った。トモは思わず目を逸らしてしまった。
 みんなで一緒に朝食をとりながらも、頭の中は昨夜の夢のことで一杯だった。
 ――とんでもない夢を見てしまった。彼女と目が合わせられない……。
 落ち着きのないトモの様子を見て、篤志は言った。
「トモ。今日は何も考えず、めいっぱい遊びなさい」
 篤志は論文のことで悩んでいると思っていた。トモにもそれが分かった。しかしそうじゃない。また彼女と目が合った。今度は味噌汁をこぼしてしまった。

「燃料電池車ですか。私はこういうのは運転したことがないですけど大丈夫ですかねえ」
 今日の運転を買って出た和人が言った。
「どっちにしたって回転モーター駆動ですから、運転操作も走行感も充電バッテリー車とほぼ同じですよ。アクセルを踏んだ時の加速感がちょっと違う程度ですね」
 篤志の(リニアモーターと回転モーターの)ハイブリットワゴンは、大容量バッテリー搭載車だ。山道を走るにも十分のパワーを持っている。
 しかし、今日向かう先は、全く充電ができない道ばかりが続く。リニアモーターが埋められている所謂《整備された道路》では走行中にも充電が可能だが、この地域にはそのような道路は全くない。まだ復興は始まったばかりなのだ。山への道は舗装すらない。目的地の霧ヶ峰にも充電スタンドはないという。
 そういう事情から、霧ヶ峰までのルートを走るのは少々心配だろうと、宿の主人が、燃料電池車を貸してくれた。これなら霧ヶ峰までの運転も大丈夫だ。
 美貴が「おじさん、運転できるの?」と和人に訊ねた。
「ははは、免許を取った頃はあんまり得意じゃなかったけど、特訓を受けたから大丈夫」
 和人は、これは根本からやり直さなきゃだめね――とあずさに言われたことを思い出した。
「ところで、今日の美貴ちゃんのその三つ編み、とっても可愛いね」
「わーい、おじさんに可愛いって言われちゃった。これ、お姉ちゃんが編んでくれたの。似合ってるでしょ。ねえ、お兄ちゃん!」
 少女はクルクル回りながら言った。編んだ髪が遠心力で持ち上がった。
「あ、ああ……似合ってるよ」
 一方、今日のゆみちは髪をシンプルに後で纏め、ポニーテールにしていた。
 ――昨日の前髪を三つ編みにした姿は、何だかわざとらしい感じがしたが、こういうのはなかなか……いや、僕は一体何を考えて……。
 そんなトモの苦悶は続いたが、その様子を一人優しく見つめる眼差しには気がつかなかった。

 ゴールの車山は、標高が二千メートル近いが、駐車場からは一時間もあれば辿り着ける気楽なコースだ。名物の霧はこの日はなく、快適なハイキング日和だった。
 美貴は、トモやゆみちと三人で手を繋いで登りたいところだが、それができるほどなだらかな道でもなく、結局、先頭を一人美貴が進んだ。とにかくペースが早く、後続が追いつくのを時々待ちながらの山登りになった。さすがは山の子だとすぐ後を追うトモは感心した。
 その後に、芳恵とゆみちと篤志の三人の集団。更に遅れて和人が続いた。一番体力がないのは和人だった。二十分も歩くと間隔はさらに広がった。篤志が後を見ると姿が見えなかった。
「ちょっと和人君にハッパかけてくる!」
 そう言って篤志は、来た道を引き返していった。
 芳恵とゆみちが二人きりになった。その時ゆみちが口を開いた。
「あの……相談がしたいことが……」
「なあに?」芳恵は豊かな笑みをたたえながら答えた。
「トモ君、十早(朝)からずっと、目も合わせてくれません。昨日のことを、まだ怒っているようですけど、私はどうしたらいいのでしょうか……」
 その言葉に、芳恵はにっこり笑った。
「ゆみちさん。あなた、一日でちょっと変わったわね」
 娘は少し驚いた表情を見せた。
「そうでしょうか?」
「何か面持ちが豊かになってるわ。話し方も昨日より少し穏やかな感じがするし……」
「確かに十早から、何だか変な感じなんです……」
「それは美貴やトモに抱きつかれたせいかもね」
「どういうことですか?」
「聞いた話だけど、特に女性の場合は、触れ合った時にその匂いを嗅いで、時にはその人を受け容れようと、ホルモンの分泌が増えるとか体が色々と変化を起こすそうよ。その影響かもしれないわね。美貴に対しては、姉としての気持ちかしら。それから、トモに対しては……」
「愛してしまったということですか?」
 芳恵は、一瞬きょとんとしてから、少し笑った。
「それは違うと私は思いたいわ。まあ、恋とは呼べるかもしれないけど、今、あなたが感じているのは、少し乱暴な言い方になるけど、まだ野性動物としてのメカニズム。人が人を本当に愛するというのはそれとは違う。もっと強い気持ちが必要」
「メカニズム。なるほどそう言われると良く解ります。では、愛するとは相手を理解するということですか? それは私には難しい概念です。私は身近な弟や両親の気持ちすら理解できないのです。みんな私の日々の行動を受け容れてくれてるようですが」
「うーん。でも、例えば、あなたはその弟をどう思ってる?」
「どう……と言われてもうまく形容できません」
「嫌いなの?」
「いえ全然。とても安定した関係です」
「安定した関係? ふふふ、面白い言い方をするのね。で、その気持ちは、例えば単なる知り合いの人とは違う感覚でしょ」
「ええ、はい」
「それがきっとあなたにとっての愛の感覚。つまり姉弟愛ね。そういう関係を培うことが大切。体や気持ちの野生動物的変化に囚われてばかりいてはだめだと私は思うの」
「でも、トモ君は私を嫌っています。既に修復不可な状況です」
「そうかしら? ところでゆみちさんはトモのことをどう思っているの? もちろん嫌いじゃないのでしょ?」
「よく分からず、少し心理学の知識を参考に、客観的に考えてみました。どうも、私は彼と友好的関係を築きたいと強く思っているようです。私は今まで、クラスメートなど、周囲の人達に敬遠される状況に何度か遭遇しましたが、それは諦めることができました。でも、今回はどうしても、トモ君の私への関心が、離れて欲しくないようなのです。しかし、やっぱり私はトモ君のことを理解することはできないのです」
「離れたくないという気持ちだけで十分かもしれないわ。お互いを理解しあうことによって生まれる愛も少なくないとは思うけど、そういう愛ばかりでもない」
 芳恵は足を止め、麓の方に振り返った。遠くに緑の盆地が広がっていた。
「昔、諏訪の名がついた豊かな大沼(湖)がこの眼下に広がっていたのは知ってる?」
「はい。私が小学生の頃、信州で起きた震災の時に無くなったそうですね」
「そう……。実はその諏訪大沼は、篤志さんに初めて出会った思い出の場所なの。正直言うと、私はあの人のことが今でもよく解らない。例えば、どうしてあれほど熱心に研究に没頭するのか理解できないの。まるで子供のようで……。それでも……いや、そんな人だからこそ、私はあの人を愛しているのかも……」
 そう言った後、それは相手がゆみちだったからこそ言えたのだと芳恵は気づいた。ずっと思っていても、恥ずかしくて決して口には出せない言葉だった。ゆみちは、芳恵の言葉をじっくり吸収するように目を閉じた。そして、再びゆっくり目を開けて静かに言った。
「――必ずしも理解する必要はないのですね。感謝します。何かを獲得した気がします」
「ゆみちさんは本当に素直なのね。美貴ちゃんがたちまち好きになったのも分かるわ。でも、トモはね、美貴ちゃんとは違うの」
「どう違うのですか?」
「あの子は本当に真面目な子だけど、だからこそ、素直じゃない面も持ってるのよ」
「何かを隠しているのですか?」
「ふふふ、さあね。行きましょうか」
 芳恵が歩き始めた時、「あ……そうか!」とゆみちが声をあげた。
「どうしたの?」芳恵が再びゆみちに顔を向けた。
「そうです。まずは綾子なんです!」
「え?」
「私、早起きなんで、お二人の話を聞いてしまいました。文教特区にいる綾子のこと」
 何故、綾子ちゃんは呼び捨てなのかしら? 芳恵は少し訝しく思った。
「今、解りました。順番が違うのです。まず、私にとっては、綾子が先なのです。とにかく綾子と会わないと、この先何も進まない……」
 それまで、芳恵はゆみちのことをすっかり理解したつもりになっていた。人の気持ちを受け取ることと、伝えること、それがちょっとだけ苦手な娘として……。
 でも、森川ゆみちはそんなに単純ではなかった。
「そうです。そうだったんです! さあ、行きましょう!」
 ゆみちの強い言葉に促され、少し唖然としていた芳恵も再び登り始めた。しばらくして、ゴールへの中間地点となる小さな山小屋が見えてきた。ベンチにトモと美貴が座っていた。
 美貴はゆみちの姿を見つけると立ち上がり、大きく手を振りながら笑顔で走ってきた。坂道を下るのもお手のものだ。そしてそのままゆみちに飛びついた。
 その勢いに少しよろめきつつも、慣れない手つきで、ゆみちは美貴の両肩をそっと抱いた。
 芳恵はにっこり笑った。――私はあの子のことも分からなくてもいいんだわ……。

「じゃ、今度はお姉ちゃんと山頂まで競争よ!」
「その戦い、姉の役割を演じる私の義務として受けようぞ!」
 二人は山頂を目指し、駆け登っていった。
 トモは父を待つからと言って、芳恵と共にその場にとどまった。二人の姿が見えなくなると、トモが重い口を開いた。「あの……僕……」
 その言葉を遮るように、芳恵は言った。
「綾子ちゃんのことはおじいさんから聞いたわ。でも、それはそれ、これはこれ」
「えっ?」
「トモは一体いつの時代の子供なのかしらね。あのね、男の子ってのはね。あんなことに遭遇したら、ラッキーだと思って、あわよくばと二度目のチャンスを窺うのが普通なの。相手にはそんな気持ち、露も見せずにね。まあ、ばればれのことも多いけど」
 ――おばあちゃんは何もかもお見通しだ。トモは真っ赤になった。
「でも、僕は森川さんと分かりあってるわけでもなく、今の気持ちはやはり性欲でしか……」
 もっとましな言葉はなかったのかと言ってから後悔した。芳恵は少し呆れたような顔をした。
「はあ、本当にトモは真面目なんだから……。和人さんの影響かしらね。でも、一つだけ、約束して欲しいの」
「な、何?」
 トモは、森川さんとは最後の一線を越えてはいけない、と言われるかと思った。
「綾子ちゃんは絶対に取り返して欲しい。トモの大切な友達でしょ。絶対、西救光教になんか渡してはダメ。難しいことだとは私も分かっているけど、あの場所から救いだして! きっとみんなも助けてくれるから」
 祖母の強い気持ちがひしひし伝わってきた。それは、娘あずさを失った親としての想いも含まれているのだろうとトモは思った。
「ゆみちさんも、きっとあなたを助けてくれる……」
 その言葉に驚いた。
 ――森川さんが綾子を? なぜおばあちゃんは、そんなことを思ったのか……。
 ようやく、和人と篤志が山小屋に到着した。
 和人は僅か三十分ぐらいの道のりに、早くも疲れの色を見せていた。帰りの運転は大丈夫なのか、トモはちょっと不安になった。少し、父に休憩時間を与えてから出発した。
 山頂に着くと、待ちかねた表情の美貴と、そして、ゆみちが待っていた。トモは勇気を振り絞り、ゆみちに話しかけた。
「も、森川さん、お疲れ……」
「いえ、私は全く疲れていません。休憩時間が十分取れたので」
 こりゃダメだ……と思った。でも、声をかけられただけでもましかなとトモが思っていると、
「でも、感謝します。意図的に無視されている様子だったから」
とゆみちは言った。何やら他の星の知的生命体とのコンタクトを取っている気すらしてきたが、今の言葉は彼女なりに嬉しさを表現しているのかもしれない。そう思うことにした。
「わーい、二人は、結婚、結婚だあ!」
 いきなり囃したてる美貴だったが、珍しく芳恵がきつい視線を向けたので、ぺろっと舌を出して、それ以上、囃したてるのをやめた。
 ――頂上に立った時のこの爽快感……。昔、こんな体験をしたような……。そうだ。思い出した。ここには、父と母との三人で来たんだった。五歳か六歳の頃だったか……。
 そんなことを思いながら、トモが大きく深呼吸をしている時、ゆみちが言った。
「私の名は森川……」
 突然何を言い出すんだと思いつつも、トモは彼女の話を黙って聞くことにした。
「私は喧騒渦巻く横浜を住処としているけど、祖先は森や川に囲まれた豊かな自然の中にでも住んでいたのかも。遺伝子がこの空間に高い親和性を持っている。そんな感じがする」
「名字が森山だったらもっと親和性が高かったかもね」
「ああ、そうね。確かに森山さんはもっと羨ましい……」
 何とか会話が繋がっているようだった。

 記念写真を撮り、山頂から降りた一行は、山小屋の横の広場にシートを広げ、和気あいあいと昼食を楽しんだ。トモがおにぎりを頬ばろうとした瞬間、
「それはゆみちお姉ちゃんが握ったのよ」と美貴が言った。
「げ! まさかこの中にすずめ蜂でも入ってるんじゃないだろうな!」
というトモのリアクションに皆が笑った。
「皆が食べることを配慮して入れませんでした」と答えたゆみちだけは笑わなかったが、でも、トモには、何となく優しげで穏やかな顔つきに見えた。この子とはこんな感じでいいのかなと思いながら、そのおにぎりを頬ばった。
 楽しい昼食が終わる頃になって篤志が言った。
「急に天候が変わってきたな。早く家に戻った方が良さそうだ」
 美貴は残念がったが、わがままも天候にだけは勝てないことを山育ちの少女は知っていた。
 車を借りた民宿に辿り着き、篤志のワゴンに乗り換えて、走り始めた頃には、雨が激しく降り始めた。幸い運転に支障が出る前に無事帰ることができた。
 日が落ちてから、雨は更に激しさを増した。結局、ゆみちも生駒家に泊まることになった。 その夜、雨は止むことなく降り続いた。

十七. 文教特区

「文教特区ってどんな所なんですか?」
 少年の問いに少女は答えた。
「――私にとっては、それほど悪くはない所です」

 主争岡県袋井市での昼食会は、沙耶葉と渉が去った後も続いていた。しかしそれは、沙耶葉という潤滑油を失い、すっかりぎこちないものに変貌していた。
 ニンジャ大野木は相変わらず何も話さなかったし、場を和ませようと思った早川は、得意な柔道の話題を振ったが、それには誰も興味を示さなかったので、一気に場が白けてしまった。
 そんな時、ユズキはふと文教特区のことを綾子に訊いてみたくなったのだ。
 悪くない所――と言った後、彼女はしばらく黙ってしまったので、まずいことを訊いちゃったかな……とユズキが反省しだした頃に、再び綾子は話し始めた。
「――『状報』という言葉の成り立ちって面白いんですよ。ここに来たお陰で、色々と知ることができました」
「え? 状報? インフォメーションの?」
 きょとんとしているユズキに綾子が微笑を浮かべながら頷いた。
「西救光教は、正式には『文化安寧救光教』と呼びます。父に連れられて行った文化安寧中枢と呼ばれる地帯は、白塗りの木造建築が建ち並ぶとても美しい街です。とにかく白いんです。
 深い空と植物と煉瓦、そして色褪せた深緑の道路以外は、ほとんど白で埋め尽くされた世界。どの家もお洒落な柵で取り囲まれていて、どの建物にも三角形の線を基本とする統一的な緑色の装飾が施されています。玄関や、柵の下には色とりどりのお花がいっぱいで、庭には必ず椅子やテーブルなど何か白いものが置かれていて、まるで、それぞれの家に、可愛いお人形さんでも住んでいるんじゃないか……そう思えてくるような街なんです」
「雛菊! すばり、そこに行ってみたくなりました!」
 それまでつまらなそうにしていたひなぎくが興味を示した。
「その地区の真ん中に建つのが中央文教会で、即ち教団の本部です。全ての道がこの建物に集まっています。そこは、轟師教様をはじめ、先生方のご講話を拝聴する場所です」
「ご講和を拝聴する……」
 ユズキが聞こえないほどの小さな声でささやいた。紛れもなく彼女は信者なのだ。
「その中央文教会をくるりと取り囲むのが、白い大きな図書館です。白い薄い円盤が何層も重なった円筒形の塔が幾つも建っていて、それぞれが飾紐のような緑色の空中通路で結ばれています。真ん中には中央文教会のとんがり帽子が顔を覗かせています。私はその図書館に足繁く通うようになりました」
「としょかん? それってどんなところ? 本屋さんとはちがうの?」とひなぎくが訊ねた。
 早川はとにかく綾子の話の続きが聞きたかった。またとんでもないことを発見している。さっき彼女は確かに『状報』と言ったんだ。
 大野木は依然無表情を保っていたが、その顔にはさっきまではなかった緊張があった。
「本がいっぱい並んでるの。セラシート(シート状のセラミック複合材)やプラスチックや紙でできている本。なんでも、自然災害で失われてしまった昔の本を当時のままの色や大きさに復元し、そこに並べて、みんなが閲覧できるようにしているそうなの」
「データじゃなく、本ですか。本は子供だけのものかと思ってた」
「昔はどんな世代の人も本を読んだそうです」
 その時代の日本人も、子供の頃には絵本等を読む。しかし、携帯等の操作を覚えると、読む文章が徐々にデジタルデータになっていき、中学生ともなると本は卒業するのが通例だった。
「で、どんな本が収められているんですか?」
「どんな……と言われても言い表せないです。それはあまりにも広すぎる所だから、収蔵している本もあまりにも多くて……。私はせいぜいその本の森の中から、自分の見たい本だけを探すことしかできないんです」
「じゃあ、綾子ちゃんはどんな本を読んでいるんですか?」
「とにかく昔昔の本。例えば、同じことを書いた本でも、時代によって使う言葉は変わります。私はその違いが知りたかった。私は元々、小さな手がかりを持っていたのです」
「手がかり?」
 ユズキが訊いたこと……、それは早川こそが訊きたいことだった。握る掌に汗が滲んだ。
「それが『状報』という言葉なんです」
「そこで状報ですか。そういえば、それは東救光教信者が使わない言葉の一つですね。確か彼らは、代わりに『報知』という言葉を使うとか……」
「そうです。詳しいんですね。横浜には東の信者は非常に少ないと聞きますが」
「実は、昔、姉が、『状報』という言葉はおかしいと話していたのでその時知ったんです」
「お姉さんって、えっと、ご芳名は確か……」
「ゆみちです! ゆみち、森川ゆみちを、どうぞ、よろしくお願い致します!」
 ユズキは、選挙カーのウグイス嬢のように、姉の名を宣伝し、深々とお辞儀した。
「いえ、こちらこそ。で、もしかして、お姉さんが不可解に思った理由って、きっと、その『状報』という言葉が昔は使われていなかったから――じゃないですか?」
 それを聞いたユズキがびっくりした。
「ええその通りです! なんでも、曾祖父母の世代の人達は誰もが『状報』の代わりに『報知』を使っていたそうです。それを知って、昔、姉は珍しく驚いてました。絶対に変だと言ってました。変なのは姉の方かなと思ってたんですが……」
「東救光教の方々が使わない言葉には、一定の法則のようなものが存在します。まず、昔使われていた漢字の中に月の部首を含んでいた言葉、そして、『済』『用』『再』『角』のように、月の形が字の中に埋め込まれている言葉です。その見事な規則性には美しささえ感じます」
 その時、大野木が眉間にほんの一瞬だけ皺を寄せた。
「もし『状報』が、比較的最近作られた新しい言葉だとすれば、東救光教の信者がそれを避ける理由はない筈です。だからこの言葉も、実は昔、月を含む漢字で書かれていて、それが一旦棄てられ、後に別の字として復活したと考える方が自然だと私は考えたのです。そこで、私は図書館でさらに昔の本を調べてみました」
「どうだったの?」
「なんと今の『状報』と同じ字がそのまま使われていました。それはどう考えても変です。恐らくこの部分は、後に誰かによって書き換えられたのでしょう。きっと元は違う言葉だったのです。それと、その書き換え作業の『綻』らしきものを私は見つけました」
「ほころび――ですか?」
「じょう報は元々は戦争用語だったようです。敵地側の地形や、敵の兵隊がどんな様子か、それらを示すのに『じょう報』という言葉を使っていたのです。十九世紀の日治(明治)時代、フランスの戦争技術を書いた本の中の"renseignement"という単語を翻訳した時に使われたのがどうやら最初みたいです」
 早川は鳥肌が立つ思いだった。七王先生の論文にさえもそのことは書かれていなかった。
「敵の状況を知らせる――敵状報知、つまりそれを略して『じょう報』です。それが、どういう訳か、昭和の世界大戦で日本が負けた後、当時は電子計算機と呼ばれたコンピューターが登場してから、現在使われている状報と全く同じ意味の言葉として使われるようになったようです。英語の文献の"information"という言葉を翻訳する際に、じょう報という言葉をあてがったという記述を二十世紀末の新聞記事の中に見つけました。二十世紀末から二十一世紀末までに書かれた文献や、デジタルテキストには、今以上にこの言葉が多用されています。
 一方、その当時、『報知』という言葉は、今で言う『状報』の意味としては全く使われていませんでした。その時代にはそれは単に『知らせる』という意味で使われていたようなのです。火災報知器とかと同じ使い方です。それが今から三百年昔、地球が月を失う事件の後、報知という言葉を、当時の日本人は持ちだしてじょう報の代わりに使ったようなのです」
「えっと、こんがらがってきた。最初はええとええと……」
 ユズキが携帯を叩いた。
「状報(日治時代)→ジョウ報(昭和以降)→ツキ喪失→報知→状報(今)」と書いて示した。
 それを見て綾子は「ええ、大体そんな感じです」と同意した。
 しかし、ユズキは首を捻った。
「あれれ、待って……。じゃあ、日治と昭和の間でも言葉に変化が起きたってこと?」
「確かにそれが気になりますよね。実はその件ですが、私は図書館で、一つとんでもない記述を見つけてしまったのです」
 そう言った後、綾子は筆でひなぎくのメモ帳に次のように書いた。
 ――状報、或いは状報といふものは、
「こういう文章を、日治時代の本の中に見つけました。単なる誤文かもしれませんが、日治の頃は月を含む『じょう』と、含まない『状』の二つの『じょう報』が混在したと考えると辻褄が合います。この文章こそ、多分、作業者がうっかり修正に失敗した綻なんです。昭和以降も二つの『じょう報』が併用されていたかもしれませんが、その痕跡は見あたりませんでした」
「なるほど。それにしても、どうして一度無くなった『状報』を復活させたの?」
 ユズキがそう疑問に思うのも当然だ。報知のままでも良かったはずだ。
「これは私が考えた仮説に過ぎませんが、恐らくそれは、今の世代の日本人が、月を含むじょうという字をそろそろ忘れてしまったと、誰かが判断したからではないでしょうか。言葉をできるだけ昔に近い姿に戻したいと考える人達がいて、彼らが読みの同じ言葉、それも日治の時代には使われていた言葉に書き直した――そう考えるのはどうでしょう?」
「――こ、恐くはなかったのか? それに気づいた時に……」
 その早川の言葉に、綾子ははっとした。
「ああ、今そう言われて気づきました。――私って馬鹿ですね。言葉への興味ばかりが先に立ち、そんなことは何も考えていませんでした。つまり、文教特区の文化安寧中枢は、恐らく言葉の歴史を書き換えている場所――ということなんですよね」
 ――あの論文を書いた七王先生も当時同じ心境だったのだろうか……。早川は考えた。
「綾子ちゃん、君は西救光教の信者……なんだよね?」
 ユズキが恐る恐る声をかけた。綾子が依然落ち着き払っていることに驚きを感じていた。ひなぎくは何が何だか解らず、首を動かし、一人一人の顔を覗き込んでいる。
「早川さん、いくら盗聴されていないとはいえ、これ以上、話をさせていいのでしょうか?」
 無表情の大野木が突然口を開いた。
「す、済まない。興味深かったのでつい止めずにいた……。綾子さん、もうこれ以上は……」
「ごめんなさい。私も普段、話す相手が全くいない話なので調子に乗って喋り過ぎました」
 綾子は頭を深く下げた。
「それにあと三分で時間です」
 その大野木の言葉に、早川は自分の携帯を見た。
「そうだった。綾子さん、今から君にちょっと行ってもらいたいところが……」
「えっ? どこですか」
「今切口というところだ。四十分でここに戻ってくる」
「知ってるよ! 遠州なだのすんごい高波が見れるところ! うちからわりと近いの!」
 ひなぎくがそう叫んだ。
 ――高波が見れる場所? どうしてそんな所に私を?

十八. 雨の駅舎

 夜になっても、雨は一層激しく降り続いていた。夏だというのに結構寒かった。
 ――まさか、こんなことになるとは……。彼女は僕に寄り添い、穏やかな寝息をたてている。どうして、こんなに安心しきった顔で眠れるのだろうか。少しは警戒しないのか……。
 駅舎内のベンチで二人毛布にくるまりながら、トモは思った。眠れない……。翌日にはたどり着けるのだろうか。あの場所、今切口へ……。

 その日の朝、トモは篤志に揺り起こされた。目覚めたトモは眠い目をこすりながら、枕元の端末を見た。
「……え、ま……まだ五時半じゃない……」
「この辺りの路線は雨に弱い。これほどの降雨だと列車運行を止めてしまうことはしょっちゅうだ。それに、万一土砂流れ(崩れ)が起きれば、三日ぐらい鉄道は復旧しない。依然雲は厚いままだ。念のために早く塩尻まで出た方がいい。塩尻まで行けばその先には激しい降雨にも十分耐え得る丈夫な線路が通っている」
 既にゆみちと和人は出かける準備を終えていた。食事もとらずに駅に向かった。
 そして、篤志と雅臣に見送られながら、三人は、辰野方面へ向かう一両編成のワンマン列車で、上諏訪駅を後にした。まだ起きていなかった美貴に別れを言えなかったのが可愛そうだったなとトモは思った。
 震災が起きる前には、上諏訪駅の西の岡谷駅を経由し、北西の塩尻駅に直接繋がる塩嶺トンネルを通るルートがあった。しかし、それは震災時に崩壊し、現在も復旧工事中であった。今後の災害に備え、より堅牢なものにするため、工期が大幅に遅れていたのだ。
 したがって、目的地に行くには、まずは南の辰野駅へ行ってから、折り返すように北西の塩尻駅に向かうルートしかなかった。少なくともトモ達にとっては……。
 一方、横浜へ帰るはずのゆみちには、上諏訪からは南東の甲府方面に向かう線路があり、これが最短ルートだ。しかし、塩尻を通り長野駅に向かうルートもそれほど時間に違いはない。そして、どちらの方面に向かう列車も上諏訪駅を発車するのはほぼ同時刻だった。
 ゆみちはトモ達と一緒に行くことを選んだ。豪雨が激しい今は一緒に行った方が不安も少ない、和人とトモはその程度に考えていた。
 列車は、下諏訪、岡谷と、乗降客のない各駅に停車しながら進んだ。しかし、辰野に到着したところで駅に停車したままになった。運転手が携帯で連絡を取った後に言った。
「申し訳ございません。雨の勢いがひどく、この駅でしばらく運行を休止することになりました」
 トモはさっそく周辺の路線情報を携帯で調べた。
 画面には、辰野と北西の塩尻間、辰野とその南の駒ヶ根駅間、更に、辰野から北東の上諏訪を通り富士見駅まで、その全区間の運行休止が案内表示されていた。時間あたりの降雨量が基準値を越えたためだった。三方向の路線が塞がれ、どこにも動けなくなってしまった。
 富士見駅から甲府方面はまだ列車運行が続いていたので、こちらの列車に乗ったのは、ゆみちにとっては不幸だったと二人は思った。申し訳なさそうにトモはゆみちに言った。
「一緒に来ない方がよかったね」
「いえ、最初っからこちらに来るつもりだったから……」とゆみちは答えた。
「甲府方面に抜ければ、簡単に帰れたのに?」
「こっちでいいんです」
 一両編成の車内には、他には、運転手と、年老いた夫婦の乗客がいるのみだった。三人は、梨沙と芳恵が昨夜こしらえたサンドウィッチを頬ばりながら、運行の再開を待った。老夫婦に差し入れるととても喜ばれた。聞くと、雨が強くなり不安なので、塩尻の息子の家に向かうという話だった。
 運行休止は一時間を越えた。八時を回る頃になって、車内に五十代ぐらいの男が息を弾ませながら飛び込んできた。
「はあ、はあ、さ、阪口君! ちょっと助けてくれないか」
「高田さん。何が起きたんですか?」
 飛び込んできた男は、辰野駅の駅長だった。
「辰野―塩尻間で土砂流れが起きて、乗客の何人かが車両と共に土砂に埋まっているそうだ」
「何ですって! 乗客は大丈夫なんですか?」
「怪我人はいるが、幸い死者や行方知れずの人はないそうだ。消防も駆けつけて救出活動をしているのだけど、とにかく人が足らなくて……。なにしろ塩尻側から現地に行けないんだ」
「分かりました。私も行きます」
「あの、そこの方、大変言いにくいのですが、できれば力を貸しては頂けないでしょうか。燃料電池車の運転ができると助かるのですが……救出者の搬送を手伝って欲しいので……」
 高田は、申し訳なさそうに言った。
「はい。大丈夫です。私は山道の運転も慣れてますから、是非お手伝いさせてください」
 和人が立ち上がった。手伝えるのは彼しかいなかった。
「お父さん!」
「ご協力感謝します。正直言ってかなり危険なんですが、宜しいでしょうか」
「構いません。行きましょう。トモは、森川さんとここで待ってなさい」
「雨さえ止めば、南の駒ヶ根方面には行けます。南方面の路線は大変堅牢に造られていますから、大丈夫でしょう」
 運転手の阪口が言った。しかし、トモはどうしても塩尻の方に行きたかった。
「あの、塩尻方面へは……」トモの問いには高田が答えた。
「申し訳ないけど、塩尻方面の復旧の見通しは全く立ってない。上諏訪に戻るのもこの雨だと翌日も難しいと思う。土砂流れの確率はむしろあの辺りの方がずっと高いし……」
 続いて阪口が付け加えた。
「駒ヶ根経由で飯田線を南下すれば、君達の行きたい豊橋にはちゃんと着けるよ」
「いや、それは……」とトモが言葉を濁した。
「トモ! 行けない区間はタクシーを使えばいい。大丈夫!」
「あ……うん分かった、お父さん」
「行けない区間? スタンプラリーか路線完乗か何かですか?」高田が怪訝な顔で訊ねた。
「いや、違います。もっと大切なことです。さあ、早く行きましょう。――――じゃ、トモ、頑張れよ! 森川さん、トモをお願いします」
 ゆみちが「はい」と静かに答えた。
「あのー、それから、残りの皆さんは駅に降りてください」
 運転手が言った。それまでずっと黙っていた年老いた男が口を開いた。
「あの、それなら私達を、車で近くの民家にでも連れて行ってくれませんか。この駅で過ごすのは私達には少々不安で……」
 見ると、老いた妻の方は泣きそうだった。
「……分かりました。一緒に行きましょう」
「君達はどうする?」
「この駅に残ります。翌日までにどうしても豊橋に行かなければならないので」
 ゆみちが言った。トモが言うつもりの言葉だった。
「申し訳ない。実は、今、ここにはせいぜい五人しか乗れない小さい車しかないので助かるよ。今日の運行再開は無理かもしれない。毛布は二枚残すからそれを使って……」
「私達姉弟ですから一枚でいいです。残りは救助作業に使ってください!」
 ゆみちの歯切れの良い返事は、正に頼もしい姉そのものだった。
 しかし、さっき少年の父親が彼女を「森川さん」と呼んだのを高田駅長は覚えていた。この二人は本当は姉弟じゃないのだろう。それなのに……。
「ご協力、本当に感謝します! ここの駅舎は土砂流れを受けない場所に建ってるから大丈夫。停電すると思うから、自動販売機で食料や飲み物を今のうちに買っておくといい。ストーブも使えるようになってる。じゃ、君達も頑張って……。一刻も早い運行再開を願ってるよ」
 高田と阪口は二人に深々と頭を下げた。そして、老夫妻を含む五人は、小さい燃料電池車に乗り込み、駅を後にした。
 駅舎に二人きりになった。まず自販機で食料を買った。とりあえずは冷えても大丈夫なものを中心に買った。午前九時を過ぎてもまだ寒かった。中央に暖房機らしきものがあった。
「これがストーブなの?」
「うん、これは観光用の化石燃料を使った暖房機。でも、こういう非常時にも役立ってる。しかも一酸化炭素発生防止機構付。なかなかよく考えてるね」
 そう言って、ゆみちが操作表示に従って、ストーブを点火すると、中央に炎があがった。
「これはなんとも風流な……」
「あの、ごめん。森川さん。こんなことに巻き込んじゃって」
「それは全く問題ないけど、ただ、時間までに辿り着けるかが心配」
「そういえばさっきも言ってたけど、豊橋で何か約束でも?」
「約束したのは、トモの方でしょ」
「え?」
 ゆみちは端末を叩いた。
「えっと、天竜峡駅周辺は観光地だから自動運転タクシーが十分配備されている。それで三河川合駅辺りに行って再び列車に乗れば大丈夫ね。ルートも決まったし、後は運行再開を待つだけか。ところで何時に行けばいいの?」
「え、な、な、何で何で!」トモは呆気に取られた。
「トモは豊橋に行くつもりでしょ。でも、さっき、塩尻経由じゃないとまずいようなこと言ってた。行けない区間はどうとか言ってたし」
「う、うん……」
「それはつまり主争岡県との県境の問題。県境には文教特区の検問が設けられているから」
「凄いよ。そんなことだけで解っちゃうなんて……」
「文教特区は神奈川県の隣だから良く知ってる。で、豊橋には何時?」
「豊橋は単に宿泊目的で、実は、翌日十五時迄に今切口という所に行かなきゃならないんだ」
「ふーん、十分に時間の余裕を取ってるのね。で、さて、その今切口ってどこかなっと……」
 ゆみちは携帯を軽やかに叩いた。
「ああ、これまた愛知と主争岡の県境か。浜名湾の先っちょね。で、その新居町には関所が設けられている」
 そこは以前、浜名水海と呼ばれる湖だったが、遠州灘へつながる水道が、約五〇年前の震災で広がり、それ以降、浜名湾と呼ばれるようになった。
 ゆみちはしばらく考えていたが、「ははー、なるほど。それは、やっぱり、綾子か……」と納得したように言った。
「森川さんも、やっぱりそう思いますか……って、いや、待て、聞きたいことだらけだけど、まず、何で綾子ちゃんが呼び捨てなの? そういえば、話し方も変わってるし」
「目上の人がいる場はですます調を基本としてる。綾子を呼び捨てなのは宿命だから……」
 ――さだめ? やっぱり、よくわかんないやつだ。
「じゃ、何で綾子ちゃんだと思ったの? 僕だって実際にそうだとは聞いてないし」
「今切口を挟んで会うという計画じゃないかと。ここなら対岸が見えそうな距離だし」
 携帯の地図を眺めながらゆみちは言った。
「そ、そうだよね。それしか考えられないよね」
「うん、実に面白いアイディア。誰? そんなこと考えたの。綾子?」
「多分、研究所の人だと思う。そこの横浜さんなら、そんなことを考えそうかと……」
 沙耶葉先生って呼んでね、って本人は言ってたのだが……。
「それも異星言語科学研究所なのか……やるなあ。そして、横浜先生か……横浜住まいの私とも縁を感じるし、これはますますわくわくしてきた」
「で、おじいちゃんに頼んで、これ貰ってきた」
 トモはリュックから、テレスコープを二本取り出した。
「二本? 一つは私が綾子を見るため用?」
「何でだよ! お父さんが見るためだよ!」
「いや、私、最初っから綾子に会うつもりだったし」
「え?」
「だから言ったの。甲府方面じゃなく、こっちでいいって」
 ――おばあちゃん、森川さんが手伝うつもりなのを最初っから知ってたんだ。
 トモは一瞬そう考えたが、それはなんかおかしい、矛盾だらけだ……。もしかして、こいつって、いろんな断片的な状報を組み合わせて、結論を探すのが、とても上手いのかもしれない。
 トモの脳内では、森川さんは、やつやこいつ呼ばわりに変わっていた。
「そもそも、なんで森川さんは、綾子ちゃんがそこで待ってると考えることができるんだよ。もしかして綾子ちゃんを知ってたの?」
「会ったこともない。一昨日その存在を知ったばかり……」
「それならどうして?」
「――そろそろ、綾子が何故特区なんかに幽閉されたか教えなさい! それと論文も見せて」
「えっえーっ。なんで、綾子のことだけじゃなく、論文のことまで知ってるの?」
「レンズを加工してもらってる時、壁から、あずさの論文をトモに……とか、西救光教……とか、色々声が漏れてたし、昨日は、暁(早朝)にトモのおじいさんが、綾子が教区から出られないって、おばあさんに話しているのをちらりと聞いたし」
 トモは驚きっぱなしだ。
「私、こんなぼーっとした感じだけど、俗に言う地獄耳なの」
 ――こいつ、ぼーっとした感じなのは一応自覚してるのか……。
「結局、どれもこれも、西救光教に繋がっている。ゆみち的には、こうなってくると、全てをはっきりさせたい。だから全部教えなさい」
 こんなやつに綾子のことを教えたり、あんな大切なものを読ませるのはどうだろうかと迷った。でも、天才的な勘を持っているのは間違いない。おばあちゃんの言うように、自分を助けてくれるかもしれない。トモはゆみちの才力に賭けてみることにした。
「じゃあ、まず、綾子ちゃんの件だけど……」
 トモは、東救光教信者が綾子を拉致しようとした事件など、祖父に話したのと同じことを詳しく説明した。その時間はたっぷりあった。話が終わる頃には正午を過ぎていた。
「なるほど。綾子のオヤジが毒をもって毒を制した……ということか」
「それは違う気がする」
「じゃ、次は論文!」
 ヤケ気味にトモがメディアカードを渡すと、ゆみちは自販機に顔を向けた。
「あ、まだ自販機の電源点いてる」
 彼女は信州そば二杯と熱いお茶を買った。そして、そばを食べながら論文を読み始めた。
「この眼鏡って湯気でも全然曇らないね。生駒研究所長は素敵なレンズを作ってくれた。でも喜多方ラーメンを眼鏡を曇らせつつ頂くのも乙だから、結露発生モードも欲しいところね」
 トモも暖かい食事をとることにした。満腹になり少し落ち着いた。ゆみちは一時間ほどで読み終えて、お茶を飲み、ふーっと一息ついた。
「どうだった?」
 トモはゆみちがどう思ったか早く知りたかった。それがたとえ訳が分からない答だったとしても、何かが見えてくるかもしれない……
「待って。ネットワークがまだ生きてるから、今から論文に関連することを携帯で調べる」
 異常な早さで携帯を叩き、調査に約三十分費やした。
 調べ終わったゆみちにトモは再び「どうだった?」と声をかけた。
「思いがけず『状報』の謎が解けた。ゆみち的に大満足。トモにも大感謝」
「で?」
「一つ確認。この論文を書いたトモのママ、七王教授は、これを書いて学会に発表しようとしたが、西救光教に阻止された。そして、その後、佐世保の遺跡発掘隊に同行し遭難――そういうあらまし?」
「そ、そうだよ……」でもお母さんは必ず生きているけど――とトモは心の中で付け加えた。
「ふむ。やっぱり綾子を文教特区から連れ出さなきゃならないことが解った」
「そ、そうだよね、西救光教は怖くて悪い連中だもんね」
 ゆみちは、それを聞いて、彼女にしては珍しく、はっきり怪訝な表情を浮かべた。
「はあ? トモったら何言ってるの?」眼鏡のフレームに手を添えながらゆみちは言った。
「え?」
「今の言葉でトモが何も解ってないことを確信したわ。私は人の気持ちはよく解らないけど、書かれた文章を理解することはできるの」
「言ってることがよく分からないのだけど……」
「これは学問的研究を纏めたもの。丹念な調査や研究の結果、判った事実を書いたに過ぎない。トモは、この論文のことを勘違いをしているわ」
「勘違い?」
「この論文は、特定の宗教団体を糾弾するためのものじゃない。ここに書かれている西救光教の行為は確かに重大な問題を孕んでいるけど、その道義性については全く言及していない」
「それは確かに……。でも、西救光教の行為はどう考えたって悪いことだよ。過去の言葉の歴史をこっそり修正したんだから……。それは糾弾すべきことじゃないの?」
「本当のところ、教授がどう思い、どう考えたのかは解らない。私は、人の気持ちが理解できない人間だし……。ただ、私が同じ立場なら、三つの理由から、この件について、今の西救光教、即ち、宗教法人文化安寧救光教を非難することはしない」
「三つ?」
「まず一つ目の理由。それは、この教団が日本社会の中であまりにも巨大になり過ぎていること。そんな中で、ただ一人、教団の非を叫ぶことは無駄なこと」
「む、無駄ってそんな……」
「叫んだ後、一体どう片づけるの? あんな巨大な組織がどんな行動を起こすか考えてみなさい。それを考えれば『叫んでも無駄』という諦念的結論が導き出される。その点で、純粋に学術目的の発表だったにせよ、七王教授が論文を世に発表しようとした行為は迂闊過ぎた」
「そんなあ……」
「二つ目。少なくともこの論文で言及している西救光教が過去、そして、現在も、水面下で密かに続けている言葉の修正活動は、所詮、人の生き死にが関わるような罪じゃないこと」
「そうと言っても罪は罪じゃ……」
「私達は、世界やこの国の歴史について、知らないことが非常に多いけれど、それでも断片的には知ってる。その途切れ途切れに知っている歴史的事件の中でさえも、敵対する相手の過去の行為を口実に、口火が切られた戦争や紛争があまりにも多すぎる」
「た、確かに多いかもしれない……」そうは思ったが、実はトモは歴史には疎かった。
「ならば歴史を含め真実を知ることが、愚かな人類にとって果たして意義を成すのか。西救光教の所業を暴いたところで、愚民はせいぜい下らない紛争を起こすだけじゃないかしら。それは時として死を伴うかもしれない。社会の悪を糾す者には、それがもたらす結果を考える義務も生じるとゆみちは考える」
 ――言いたいことは理解できるけど、それはあまりにも人間を信じない考えではないのか。トモは二つ目の話にも思い悩んだ。
「そして、最後の一つ。そもそも、失われた語彙を補う行為自体は、今の日本語には必要なことよ。――トモは今自分が使っている日本語に、何か不自由さを感じたことはない?」
 そう言われてトモははっとした。そうだったんだ。言われてみれば思い当たる。きっとお母さんも近いことを考えてたんだ。
 ゆみちの話が、トモにはまるで母の言葉のように聞こえた。
 ――でも、どうしてそこに綾子が出てくるのだ? トモはさらにゆみちに訊ねた。
「三つの理由、すべてに納得してる訳じゃないけど、理解はできたと思う。そこで話を戻すけど、それじゃあどうして綾子を助け出さなきゃならないと思ったの?」
「単純よ。綾子にこの論文を見せるためよ。なんか綾子はあんたのママ同様、失われた言葉についてかなりご執心のようだけど、こんな研究ごときに満足してもらっては困る」
「な、なんで?」トモは『こんな研究ごとき』という言い方にむっとした。
「小白川綾子――即ち、こじゃらこは、私の宿敵だからよ」
「こ、こじゃらこ?」トモは開いた口が塞がらない。
「大体、こんな考古学もどきの研究を、言語学と呼ぶのを私は認めない。それをやつにもはっきり言ってやりたい。もう結論はとっくに出てるのだし――」
 その言葉についにトモが切れた。
「ゆみちはお母さんの研究をバカにするのかよ!」声を荒げ叫んだ。
「――――怒ってるのか?」トモの様子にゆみちはきょとんとした。
「と、当然だろ!」
「当然? 教授はこんな湿気た研究などとっくに卒業して違うことをやってても?」
「えっ?」
「私はこう考える。佐世保の海底で発見されたのは、地球の遺跡なんかじゃなくて実は異星人から届いたメッセージカプセルだった。そこに偶々古代の日本の言葉の状報も含まれてただけ。誰かがそれを餌に七王教授を発掘チームに引き込んだ。そして、佐世保に向かった船は遭難したことにして、一行をどこかに缶詰にし、密かに研究を続けさせた。そしてついに、今回の研究所設立に漕ぎ着けた――そういう流れがゆみち的には最も収まりがいい」
 彼女の結論は、思いがけないものだった。その仮説はまだまだ乱暴だと思ったけれど、それはトモにとって最も望ましいストーリーだったのだ。
 母が生きていることを信じながらも、今まではそれを支える論理的根拠が何もなかった。ところが今ゆみちが提示した仮説は、その欠落を曲がりなりにも埋めることができる……。
「ちょっと強引だけど、僕もそれを信じることにするよ……。論文を見せて本当によかった」
 その言葉に、ゆみちは肩をすくめ、体を震わせた。
「どうしたの?」
「――なんだか不思議な気持ち……。私は今まで自分の考えを述べて、こんなに人に認められたことがなかったので……」
 トモは、彼女の心の中にほんの少し触れることができた気がした。

 日が暮れてネットワークも途絶した。そして、駅長の言った通り、電気の供給も止まった。非常用の最低限の照明が弱々しく点灯した。
「さて、日も落ちた。翌日に備えてしっかり寝ましょう。さあ、こっちに来て。寒いから一緒に寝るの。トモ、その火を飛び越えて来い!」
 眼鏡を外し、ゆみちが手招きした。ここは鳥羽でも伊勢でもなく、信州なのだが……。
「こんなでかい暖房装置の上なんて飛び越えられるかよ! い……いや、そんなことじゃなく、僕は離れて寝るよ……。毛布はゆみちが使っていいから……」
 トモは気づかぬうちに、彼女を『ゆみち』と呼んでいた。
「いけません!」
 ゆみちがその日、最も強い口調で叫んだ。通常は抑揚がない話しぶりなので、時々、こういう話し方をすると、インパクトが大きい。トモは身をすくめた。
「それでは私も含め風邪をひくわ。体調を乱し、翌日のいざという時に対応できなくなっては、ここまで来た意味がない。私には今、トモの体温が必要なの。私のために一緒に寝なさい!」
 ゆみちのためなら仕方がないのか……。トモがそばに横たわると、ゆみちは体を寄せた。
「ほら暖かい……」
「うわっ、そんなにくっつくと……」
「どうかなるのか? 私は別に今晩をいざという時にしても構わないのだけど……」
 トモの顔が真っ赤になった。「じ、じょ、冗談はやめてください!」
 そう声をかけた時には、既にゆみちは瞼を閉じていた。眠っている……ように見える。
 ――こんなんじゃ眠れない、きっと眠れない、絶対眠れない。よりによって最後になんて冗談を言うんだよ……。そもそも、翌日、無事に今切口にたどりつけるのか?
 頭の中でそんな思いが堂々巡りをするうちに三十分が経った。
 しかし、やがてトモは、何故か落ち着いてきた。まるで母か自分にはいない姉に抱かれている気持ちになっていた。彼女の微かな匂い。穏やかな寝息……。
 背を向けていた体が自然と彼女に向いた。寄り添うように、トモも深い眠りについた。

 その日がやってきた。トモが目を覚ました六時には既にゆみちは起きてパンをかじっていた。
「昨夜、暫くの間、時々観察してたけど、結局、何もなかったね」
「当然です!」トモはむきになりながらも、様子を窺っていたことに焦った。
 依然、列車は来なかったが、十時になるとネットワークは回復した。父から、今日もまだ行けそうにないという内容のメールが届いていた。トモは更に携帯を叩いた。
「あの運転手の言った通りだ。十一時には南方面は運転再開するという案内が出ている」
 その情報通り、二人が待つ辰野駅のホームに列車がやってきた。駅に足止めを食らってから約二十八時間が経過していた。
「お父さん、ついに来れなかったか……でも無事で良かった」
 走り出す列車の中でトモはそう呟いた後、ゆみちに向かって言った。
「あの、森川さん、折り入って頼みが……」
「結婚の約束? それはちょっと早い。私にはまだ戦わなければなら……」
「あー、もうツッコミは省略! ゆみちさんは検問通れるんだから、先に今切口に行って欲しいんです。本当は心配だけど、仕方ない。僕がたどり着けなかった時のことを考えて」
「そう? ――解った」
 列車は順調に走った。話の通り、この路線は堅牢だった。大半が高架で造られており、土砂崩れから路線を護る丈夫な塀が設置されていた。程なくして列車は天竜峡駅に到着した。
 ――ちゃんとタクシーが駅のロータリーに一台待機している……。大丈夫だ。あとはとにかく急ぐだけ……。そう呟いて、トモは開いた扉から飛び出すように走り出した。
 そして、左のウイングドアを開け、タクシーに滑り込み、行き先を言った。
「三河川合駅まで、急いでください!」
 すると、予想しなかった返答が合成音声と表示パネルに返ってきた。
「三河川合駅へ行くには、途中、自動運転制御のない非電磁化道路を経由します。したがって、その区間は自動運転では進めません」
 しまった……と思った。音声はさらに続いた。
「但し、この車両は山間地向けハイブリッド仕様車です。搭載電池と回転モーターで非電磁化道路の走行ができます。非電磁化区間はおよそ十九キロです。免許所持者は、その区間を自分で運転できます。照合手続きを開始してください。免許のない方、運転を拒絶される方は、天竜峡駅から列車に乗車し、目的地に向かってください。それでは指示をどうぞ」
 トモは、あわてて携帯でタクシーの管理会社に連絡した。
「え、天竜峡駅に運転手付き一台? ちょっとダメだなあ。昨日の大雨で、今、全然人が足りなくて……。急病とか、緊急のことだったら話は別だけど……」
 トモはがっくり肩を落とした。とりあえず、行けるとこまで行って、走るしかないか。でも、十九キロも残ってる……。しかもその先でタクシーが呼べるかどうかも分からない。とても時間までにたどり着けそうにない。綾子は少しは待つことができるのだろうか。ゆみちはうまいこと対応してくれるのだろうか。綾子を『宿敵』などと言ってたし……。
 考えれば考えるほどトモは不安になった。


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Last Modified on Saturday, 13-Oct-2007 20:52:06 JST