反応閾値の違いと仕事のやり方 始めに(2013年6月30日)ホーム

児童健全育成指導士 田中 純一

岩手・秋田のたびは有意義でした。豆腐をトンカツのようにあげたアグリ丼がとても美味しかった。また、ホテルが禁煙のツインがなかったので、スイートルームを普通のツインの値段で提供してくれた。広さが30坪のところで快適でした。通常1泊10万円でした。

 岩手ではヤマセで気温が低くなっていて、長袖や上着が必要なくらいでした。

 カプラはやっぱりみんなを元気にするなあと感じました。防災と体力増進と健全育成と野外活動を結びつけた拠点つくりの必要性とアイディアが沸きました。

 子どもへの反応が速い人と遅い人がいますが、遅い人への対処の手法を考えようと思うきっかけになりました。子どもの活動に反応閾値(=はんのういきち=どのくらいの刺激で反応しようとするか)の高い人は子どもの活動に反応が鈍いとのことになります。

 こんなことをすこしずつまとめていきます。

 

  反応閾値の違いと仕事のやり方 1

 いつも疑問に思っていることがあった。それは私の仲間はとてもすばやく反応することができる人が多いことだ。しかし、必ずしも報われていなかったり、相方と上手くいかないことが多いことだ。もちろん私も含めてである。秋田・岩手のたびでそんなことをずっと考えていた。

 たとえば、私や私の仲間は児童館等にお客さんが(もちろん子どもであっても)来れば、さっと対応する。でも腰が重いだけでなくて、来客があったことすら感じない人もいる。また、子どもの活動を見守っていて、これ以上やらせると危険だから、注意しなければならないタイミングの感じ方が違う。結果的に大きな事故になってから、子どもに原因を押し付ける職員がいる。館の安全管理や閉館と戸締りなどにも鈍感な職員もいる。私の仲間はそうしたことにとても敏感だ。だからさっと行動する。しかし、相方等にいやみを言われたり、役所等にそんなに神経質にならなくてもなどといわれることも多い。この問題の解決の手法を探らねばとずっと思っていた。

 結論的には反応閾値(はんのういきち)の違いではないかと考えるようになった。子どもの活動に対する反応の反応閾値の違いである。

ある刺激に対して行動を起こすのに必要な刺激量の限界値のこと。例えば、きれい好きな人とそうでない人がいたとしよう。きれい好きな人はほんの少しでもほこりがあると許せないからすぐに掃除を開始する。これは「汚れ」という刺激に対して反応閾値が低いことを意味する。一方、汚くても大丈夫な人は反応閾値が高いため、何もアクションを起こさない。要はフットワークの軽さということ。閾値が低けりゃ多動症、高けりゃ怠け者というとわかりやすいか。

 子どもの活動や安全管理について極端に反応閾値が低い(反応が速すぎ)と何も子どもに活動させることができない。逆に高すぎると子どもが危険なことをしたりしていてもやるべきことをやれないことになる。

 子どもの活動についての反応閾値がどのようであるべきか?反応閾値を適度にするための手法はどうしたらよいかを考えてみたい。

                                                                                                                    

 鈍いアリさんのこと

 ちょっと汚くてもきれいにしないと嫌だという人は、清潔に対する反応閾値が低いとのことになる。ちょっとした汚れも気になるということだ。逆に反応閾値が高い人は、かなり汚れてからでないときれいにしようとは思わないとのことだ。この場合、低い・高いとの表現は良い悪いとの意味はない。

 アリにも反応閾値の違いがあるという。これは父方の遺伝子を受け継いでいるらしい。『餌があったよ』との刺激(フェロモンかな?)に対して、すぐに反応して働きだすアリもいるし、刺激が強くないと働かないアリもいるというのである。この場合の働かないというのは怠けてるとの意味ではなくて、反応閾値が高いから、刺激に対する反応が鈍いとの意味である。お馬鹿なアリさんもいれば、鈍いアリもいるとのことだ。みんなが反応閾値が低いとどうなるかのシュミレーションでは一時的に生産性が上がるが、全体としてみんな疲れてしまうので、種として生き延びる可能性が低くなるというのである。火災報知機であまりにも反応が良すぎるのも善し悪しと一緒である。火災報知機でも煙感知器・熱感知器などいろいろな種類があるように、反応閾値の違いがあったほうが、よりベターとなる。

 子どもの活動への反応閾値が低く(=敏感)ても他の反応閾値については別である。私は他の人よりたぶん子どもの活動への反応閾値は低い。だから、乳幼児でも小学生でも何をしようとしているかを予測が出来る。小学生高学年女子に『何を考えているか当てようか?』などというと『恥ずかしいから止めて』と言われる。たいていは『疲れた』『腹減った』『部活でトラぶっていらつく』などであるが。また、低学年がちょっと高いところに乗って遊ぼうとする瞬間の一歩手前を感じることが出来る。『危ないからそこに乗るのは止めなさい』『わかりました』『良い子だね』との会話になる。他の大人がどうして子どもの行動がわかるか不思議に思う。

 子どもの活動への反応閾値は低いが、自分の部屋の整理整頓の反応閾値は高い。(=自分の部屋は汚い。)書類を見つけるのに四苦八苦している。反応閾値は全て同じわけではない。

 

 

    反応閾値の違いと仕事のやり方 2

 危険箇所のチェックと修繕・そして声かけは、反応閾値が高い人(鈍い人)でも必ずしっかりさせなくてはいけない。これは基本となるのではなかろうか?ある児童クラブでウンチをお漏らししてしまった子どもがいた。反応閾値の高い人はそれに気づきながら何もしなかった。子どもが高いマットから飛び降りて遊んでいた。注意しないままにやらせていたら骨折させてしまった。階段のタイルが壊れて修繕が必要なのにいつまでも放置しておく。

 ハインリッヒの法則というのがある。1つの重大事故の背景には、29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在し、無数の不安定要素があると言うものである。29の軽微な事故の原因をしっかりチェックし、重大事故につながらないようにしなければならない。軽微な事故に反応できない人は子どもの活動に不向きである。また、ヒヤリ体験(300の異常)の原因をチェックして改善策を考えるのが児童厚生員の仕事である。

 児童館児童クラブの職員の待遇はいろいろである。そんなに給与をもらっていないから、適当にとの考えに私は反対である。子どものための仕事は手を抜けるものではない。また子どもがわが子ならどうかと考える必要性がある。同時に働くの語源は人のために動くであるから、給与と働くことは必ずしも一致していない。隣保相愛・相互扶助の気持ちで子どもの健全育成のためにやりたいものである。

 日本人の原点は互いの助け合いである。東北大震災でも略奪も不正な行為も少なかった。自分のためだけではなくて、他人のためにも一生懸命活動した。これが働くの原点でないかと考える。安い給与で労働を搾取されているとか、労働しただけの賃金が支払われるべきとかの欧米的思考とはちょっと違うのではないかと思う。

 私は退職してから、カプラ活動やアクション折り紙、子どもの表現活動、子どもの活動のあり方などの研修会をやっている。講師謝礼は二千円の交通費のみのところもあるし、五千円、一万円、二万円、三万円などといろいろである。でも謝金に対応する研修会をしているわけではない。子どものことを考えて一生懸命活動している指導員のために一生懸命、私も学び、また伝えている。また、平島公園の草刈りや自治会の仕事はボランティアである。平島公園で乗用式芝刈り機に乗って草を刈っていたら、70代の人に呼び止められた。そして『君はそれだけ体が動くのに、なんで働かないのだ』と言われた。地域のためにこれだけ活動しているのに、働かないとは何事かと思った。金になることだけを働くと考えている人こそ悲しい人生を送っているのではないかなあ?

 

反応閾値の違いと仕事のやり方 3

 朝晩の点検のマニュアル化も必要である。朝、職場について夜の間に異常がなかったかの点検と夕方帰る前の清掃・戸締りはマニュアル化をして、きちんとチェックすることが必要である。指差確認して戸締りをチェックしたり、スノコ等の釘が出ていないかと見てみることも必要だ。月に1〜2回は定期点検も必要となる。これは消防法上も規則となっているから行わなければならない。反応閾値の高い人は見逃すことが多い。1人でチェックするよりは複数でのチェックが重要である。

 児童館や児童クラブは地域に密着した施設である。簡単な修繕は職員が行い、ちょっとしたものなら、地域の仲間に頼むことも大切ではなかろうか。

 子どもの活動拠点である施設の草取りや木の剪定・ゴミ拾いも大切である。活動しやすいようにこうした整備をすることは職員の使命だと私は考えている。大きな施設でこれらの仕事を用務員等がやることだとして、職員は事務室に閉じこもっているのは困ったものだ。小さなところでは建物のみに固執して館外は考えない人もいる。

 環境整備の日を設けて職員だけではなくて、子どもも地域のボランティアも一緒になって活動したらどうだろうか。地域とのつながりがいざ地震などのときにも役立つものである。

 子どもたちの遊びの見守りだけをしていればよいと主張する人もいる。子どもへの反応閾値の高い人である。けれどきちんと子どもの見守りをしていれば、子どものニーズが見えたり、聞こえたりしてくるものである。きちんと見守りをしない人、上目線でしか物事を見れない人こそが、見守りだけと主張していると私には感じられる。

斎藤さんからの安全管理の5Sを入れたほうが良いとの提案がありました。その通りと思い、追加します。安全管理の5Sは以下のとおりです。

・整理(せいり、Seiri) いらないものを捨てる.

・整頓(せいとん、Seiton) 決められた物を決められた場所に置き、いつでも取り出せる状態にしておく

・清掃(せいそう、Seisou) 常に掃除をして、職場を清潔に保つ

・清潔(せいけつ、Seiketsu3S(上の整理・整頓・清掃)を維持する

・躾(しつけ、Shitsuke)決められたルール・手順を正しく守る習慣をつける

 たしかに具体的で良い手法と思います。

 

 

 反応閾値の違いと仕事のやり方 4

 眼を離すな手を出すな(口を出すな)も大切であろう。反応閾値が低すぎる人は自分の子どもも含めて過干渉なことが多い。クドクドネチネチやるので子どもにも嫌われる。安全安心な活動場所を確保したら、子ども同士の関係性を深めるように眼を離さないけれど口や手を出さないことが必要である。

 子どもに過剰に手や口を出すのは反応閾値が低すぎる人だけではなく、反応閾値が高すぎる人にも見られることである。障がい傾向のある子どもや特定の子どもの相手をしてばかりいる職員の中には、子どもの活動への反応閾値が高くて、子どもの活動相手が十分にできない人が多い。こうした人は特定の子どもとマンツーマンで相手をすることで、自分はきちんとした仕事をしているとアピールしていることが多い。

 仲間と遊べない子どものケースワークは、ケースワークを通してその子どもがグループワークに参加出来るように働きかけることである。マンツーマンで特定の子どもを囲い込むのは間違いである。ケースワーク・グループワーク・コミュニティワークは一連の活動としてなされなければならない。

 

 

 反応閾値の違いと仕事のやり方 5

 ケースワークをグループワークへ発展させるためにはツーパワー・スリーパワーの手法が有効である。

 トランプをする場合で考えよう。足して10の神経衰弱をする。1と9・2と8・3と7・4と6・5と5で取ることができる。10・JQKは1枚でラッキーで取れる。これがルールである。10人でやる場合に、2人組み2チーム・3人組み2チームでやる。2人組みも3人組みも開けるのは1回である。チームごとに取ったカードを持つ人・どこを開くか教える人・開く人など協力して実施する。職員もどこかの3人組みのチームに入ってやれば、ケースワークをやりながらグループワークもできることになる。

 違う子どもたちがトラブルを起こした場合、トランプから職員が抜けてもトランプ活動は持続しながら、トラブル処理にあたることができる。

 子どもの活動への反応閾値が高い人も活動しながら、子ども理解を深めることができる。子どもの活動への反応閾値が高いとは、子ども理解が不足していることが一つの要因であるからだ。逆に反応閾値の極端に低い人も子どもと一緒のグループの一人だから、子どもの活動への我慢が必要となる。

 ツーパワー・スリーパワー活用をいろいろな場面でやってみよう。

 

 反応閾値の違いと仕事のやり方 6 待てば海路の日和あり

 努力したからといって報われるとは限らない。報われたからといって運が良いだけのこともある。

 反応閾値が低いと敏感に反応して報われることが多いと思われることが多い。しかし報われることもあるし、報われないこともあります。世の中には理不尽なことが多いものです。

 日本の社会は年功序列社会の面もあります。マニュアルから外れないで無難に過ごして管理職になった人もいます。一定のマニュアル化は必要ですが、マニュアルに縛られてしまうことも問題です。トコロテン式に出世をした人はマニュアルと外れることを嫌います。反応閾値が低く敏感に状況に対応する人よりも、現状維持派で反応閾値の高い人が評価されることもあるわけです。どのような人が上司であるかによって(役所の所轄の担当が)同じ人への評価が変わります。

 私自身のことを考えても、努力をして仕事をして、評価されたことと批判されたことの割合は批判されたことの方が多いような気がします。けれど、何のためにするかを考えてみると、報われる(一般的には金銭的地位的に報われる)ためではないでしょうから、やるべきことはやるのがよいかなあと考えます。

 反応閾値の高い上司との摩擦で職場をやめようと思ったり、やめさせられそうになったこともありました。幸い運がよくて守ってくれた人々がいましたので、定年までの31年間勤めることができました。やはり運も必要だと感じています。運が悪くて上司にも担当にもあい方にも恵まれないこともあります。自分がストレスで倒れてしまうこともあります。そんなときはジャンプして職替えもありですね。また、時が来るまで我慢することも必要です。全てをやろうとしないで、環境整備と安全管理をがんばるのが一番です。

 『待てば海路の日和あり』ということもあるようです。木曜日にみんなで草取りと考えていました。火曜日の予報では水曜日の夕方から雨で木曜日は1日豪雨との予想でした。やばい。そうだ水曜日にやってしまおうかとも思いました。でも天気のことはわからない。予想できないと考えていました。水曜日が一日雨でした。今日、木曜日の午前中は予想に反して曇りです。10時から草刈りを乗用式芝刈り機と自走式芝刈り機2台で行いたいと思います。『待てば海路の日和あり』とのこともあるので、運がないときは諦めて待つことも必要ですね。

 

    反応閾値の違いと仕事のやり方 7

 多重知能理論とユニバーサルデザインと仕事と反応閾値を考えてみたいと思います。

 あることに反応閾値が低いということは、それ以外のことには反応が鈍いとのことになります、注意のひらめきといって、人間の脳は多くのことに一緒に対応が出来ないように出来ています。このことは多重知能理論とも関係します。言語的知能・論理数学的知能・身体運動的知能・空間的知能・音楽的知能・博物的知能・対人的知能・個人内知能が人間の知能であるとガードナーは考えました。それぞれの知能が独立して関連しあいながら存在しています。子どもの活動には反応閾値が高く(=鈍感な)ても、違ったところで反応閾値が低い(=敏感な)こともあります。それぞれの得意を活かすようにすることが大切だと思います。そして互いの能力を高めあえるようになればよいのです。でも実際は落としあうことになってしまうことも多くあります。その意味では児童館や児童クラブでの活動はユニバーサルデザイン的であることが必要となります。

 カプラやワミーのように簡単に誰でも出来るけれど中身が深いものがよいと思います。もちろんカプラのように誰にでも受けいれられるようなものでも、上目線でいる人もいますので世の中は難しいですね。

 環境整備・安全管理の徹底を第1義的にやります。次に活動をユニバーサル的なものにします。ユニバーサル的な活動は子どもから大人までやれますので、職員や地域の人も一緒にやれるようになります。いくつかのユニバーサルデザイン的な活動が用意できれば、相方も仲間になる確率が高くなります。

 

 

   反応閾値の違いと仕事のやり方 8

 活動の中には祭りとか行事は職員負担が多くなります。子どもの経験のためには実施したいと思います。でも、負担を考えて二の足を踏むことが多々あります。また、やりたくない職員との兼ね合いも難しいものです。私は若いときに無理矢理自分でやっていました。センターに泊まろう、海水浴、山登り、てんぷら会などです。子どものためにはなったと思いますが、私自身の負担も他の職員の負担も多かったことも事実です。参加者はとても有意義だから続けて欲しいといいます。でも自ら協力してくれる人は少ないものです。

 提案としては異質の業種と組んで一つの祭りをやることではないかと思います。児童館や児童クラブの連絡協議会等で実施するのではないほうが良いと思います。商工会議所・商店街・青年会議所・社会福祉協議会・子ども会・自治会・サークル・将棋連盟・おもちゃ病院・マジッククラブ・いのちの電話・役所・太鼓サークル・大学や高校の同好会などなどいろいろなグループに声かけをして仲間になってもらいます。仲間になりたくないグループは実行委員会等にさんかしません。実行委員会に参加した人はやる気がありますから、運営が自主的、主体的となります。

 子どもの活動に反応閾値の高い職員が異業種で活動している人と触れ合うことで、考え方を変えることもあるものです。私流の考えから言えば子どもへの反応閾値が高く怠け者の児童館や児童クラブ職員は他の業種ではアンビリバブルな存在であることも多々あるように思います。異業種との積極的なふれあいは相互の活性化を図るように思います。

 

   終わりに

 岩手・秋田のたびを通して学ぶことがたくさんありました。子どもの活動に対して反応閾値の低い(=敏感)人と高い人(=鈍感)な人との関係をどのようにしたら良くなるかを考えてみました。考え直してみますと児童館で0歳からの親子で遊びましょうを三十数年前に始めた時は、同僚と上司と他の児童館からも批判されていました。でも、基本的に必要なことは地道にやるしかないように思います。必ずしも恵まれない環境でがんばっている仲間とともに頑張って子どもの活動拠点を増やせるようにと思っています。

 もう一点、子どもの活動への反応閾値が低くて=子どもの活動への反応が敏感で頑張っている仲間に私の経験から上手くやるための提案をしたいと思います。

@    無理だと思ったら撤退する。私は前職場で26年間子どもたちのために海水浴をやってきました。最後の5年間はやりませんでした。それはある保護者が『海水浴はとてもいいことだからやって欲しい。手伝いはしない。怒鳴らないで指導して欲しい』との要求を受けたからです。子どもの生命を守るためにはルール無視には厳しい指導が必要です。厳しい指導をしてはいけないというのなら海水浴は出来ないと止めることにしました。無理だと思ったら撤退しましょう。

A    多数決で負けたらあきらめましょう。平島公園で第1回夏祭りをやるときに自家用車の乗り入れをOKにするかどうかが議論されました。結局、ダメということに多数決でなりました。私はOK派だったのですが、ダメでした。多数決に負けて無理をすると上手くいかないことがあります。逆に多数派になるような根回しが必要だと言うことになります。多数派への根回しは大切です。公園への車の乗り入れはやってみたら必要となり、今では乗り入れてやっています。

B    観念論に負けないようにしよう。観念的に子どもを考えている人は様々な借りてきた理論を振り回します。けれど、まさに事件は現場にあります。現場・現状をきちんとアンダースタンド(=理解して=下側からみて)対処することが必要です。同時に相手がどの観念論に依拠しているかを知っておくことが必要です。子どもを受容し共感することが大切との主張はロジャースの考えです。でも本当のロジャースの考えはもっと深いものです。またそれ以外にも行動療法・音楽療法・運動療法・家族療法などの考えもあるのです。特定の観念論を振り回す人の観念の基盤をしっておくことも必要です。

C    失敗はつきものである。子どもの活動への反応閾値の低い人は私もそうなのですが、新しいことを子どものためにチャレンジしようとする。新しいことをやるには、必ず失敗がついてきます。でも失敗をしないようにチャレンジしないよりは失敗をしてもチャレンジするほうがベターである。野球選手でも3割打てればたいしたものだ。7回の凡打に挫けてはいられない。実は子どもの発達にとって、チャレンジ失敗・チャレンジ失敗の繰り返しがとても大切だという。子どもの活動の仕事をしていて、チャレンジしないほうがおかしい。でも大人の社会ではチャレンジは批判されることが多いことを自覚しておくのが良い。

D    仏陀がいうには生老病死の4つの苦と愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦の4つの苦を足して八つの苦から逃れないというものです。これが四苦八苦です。この中で、怨憎会苦とは嫌なやつと一緒にいなければならない逃れられないとの苦しみです。世の中の基本ともいえると思います。逃れられないと自覚して、ほどよい距離を探すことも大切と思います。

E    愚痴をこぼそう。愚痴というのは愚かで病に満ちた知と書きます。愚痴をこぼすことで愚かと病が減っていくというのが私の考えです。愚痴をこぼせる仲間をたくさん作るのが良いと思います。また同じ業種ではない仲間がいいですね。同じ仲間なら地域が違ってほうが面白い。地域が違うと発想も違ったものになるからです。違った考えをたくさん取り入れたいですね。

 


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