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 いろいろ思うことを書き込んだ行きたいと思っています。
 ぶれないこと

 鳩山総理大臣がリーダーとしてぶれることが問題とされ始めている。一国の総理大臣だけではなくて、児童館の職員から小さな工場の現場監督まで、少なくとも責任者は自分の責任の範囲においてぶれることは上手くいかないことを意味すると私は思っている。

 ぶれることはなぜいけないのであろうかを分析してみたい。責任者とは自分の責任の範囲において決断して、その責任を取るというものだ。私ならば、有明児童センターの責任者であるから、有明児童センターの運営と10万円以下の物品の購入について、責任を持っている。10万円以下の物品の購入について、予算範囲内であれば、自分の責任で購入できる。例えば、インフルエンザが増加しそうとの予想の中で、安いうちにマスクを大量購入した。購入と決定して、マスクが来て、お金を払えば、くどくど後悔したり、判断が間違っていなかったかなどと考えるのは無益なことである。その後、もっと安いマスクがあったことがわかっても、買ってしまったのは買ってしまったことなので仕方がないと思えばよいのである。それをぶれてしまうと、次のこのような購入の時に、さんざん迷ってしまい、その時を失うことがある。

 最悪なのは、部下がマスクの購入を提案した場合だ。仮にマスクの購入がそれほどの利益にならず、むしろ損失になったときに、責任者がその責任を部下のせいにするならば、責任者である所以がなくなるであろう。そして部下は働くなるであろう。責任者は判断をして、その責任を取らなくてはいけない。だからぶれてはいけないのである。

 不登校の子どもをどのような時期に登校させるかを考える等の場合も一緒である。子どもの表面的な意思などを尊重していたら、学校に行けるのも行けなくなってしまう。心の成長の中でもうそろそろプッシュしてやってもいいなあと思う「星の時間」みたいな時がある。この時だと思ったときに、思い切って、表面的な子どもの意思とは別に、本来的な子どもの意思を見極めて、プッシュすることが必要である。ところが親や指導員や先生の中で、プッシュと判断して、その後にまたぶれる人がいる。プッシュした人がぶれるから、子どもはなお、ぶれてしまう。プッシュと判断したら、プッシュした人も周りも絶対にぶれないことである。「受容共感派」は子どもに「大丈夫。やれますか。無理をしなくても良い」みたいなことを言います。これはとても無益なことです。ぶれを助長しているのです。それは実は子どものためではなくて、無意識の自己養護なのです。プッシュしたのなら、プッシュの責任を取ることが必要です。責任を取るということは、「星の時間」を見極められなかった自分の能力を向上させるために、さらに勉学に励み、「星の時間」を見極める能力をつけることなのです。子どもや親に「無理にプッシュをして悪かった」などと謝ることではないのです。ぶれて、謝ってしまえば、自己養護は出来ても、子どもも親もプッシュ自体が間違いと思ってしまいます。実はプッシュ自体は間違いではなくて、微妙なタイミングがちょっとずれただけなのです。プッシュできる体制が子どもの中にあったのは間違いないのです。微妙なタイミングをこんどは逃さなければ良いのです。プッシュ自体にぶれてしまうと、子どもの成長を否定することになるのです。ぶれはきわめて子どもの成長を阻害します。


 もちろん親も子どもも指導員も心の中は揺れ動いています。それはそうです。でもぶれない姿勢をとることです。それは責任者の孤独な使命です。

 日和見であってはいけない。天気の様子を見てから有利なように決定することを日和見と言います。責任者とは先見の明で、事に当たらなければならないものです。日和見では上手くいかないのです。日和見ばかりでやっているとぶれることが多いのです。こう言えばああ言い、ああ言えばこう言うような態度でぶれていると、大切な時期を失ったり、やるべきことをしなかったりとのことになります。そして結果責任をとらないことになります。責任を取らない責任者は不用です。

 私の職場の方針は「子どもの遊び場環境作り・安全管理・子ども同士の関係性をよくする」です。このために「不当な暴力を許さない・犯罪や不法行為をさせないために死角をなくす・乳幼児が安心してあそべるきれいな環境を作る・インチキを許さない」などです。とくに遊び場環境作りは職員・ボランティア・子ども・地域住民が一緒にやることだと思っています。遊び場環境作りとは、ゴミ拾い・落ち葉拾い・木の剪定・芝植え・遊具の保守管理・建物の保守管理・日々の清掃・トイレの清掃・花植え・ペンキ塗り・クローバーを増やすなどなど誰にでもできる日常的な活動です。私はこの点に関しては絶対にぶれないようにしています。

 多くの児童館職員等が、「児童館職員の使命は、子どもの心に寄り添って、子どもとの遊びを通して、子どもの健全育成を図ること」だとか「子育てに悩める親子のサポート」だとか「すべての子どもの生活の保全と情緒の安定を図って、一人ひとりの個性と発達段階に応じて、全人格的に健やかに育てる」だとか「身体の健康増進をはかる」とか「心の健康増進をはかる」とか「知的な適応能力をはかる」とか「情操を豊かにする 」とかいろいろなことを総論的に情緒的に主張します。それらの主張はとても情緒的なのでどうしてもそちらにぶれることが多いように思います。しかしながら、現在の日本の現状の問題点は安心して子ども達と親と地域の人たちが遊べる物理的心理的(ハード的ソフト的)環境がないことなのです。これは私が多くの子ども達や親達から教えてもらった先見的な考え方だと思っています。

 子どもは安心して遊べる物理的心理的遊び場をきちんと作ってやれば、子ども同士の関係性の中で、必ず成長します。それは人間の生命としての本質だからです。これからもこの点については絶対にぶれないで活動していきたいと思います。そうすれば日本はとても良い国になると私は思うのです。



 多重知能理論

  @    早期英才教育 

A    個性化教育 

B    補償教育

C    全人教育  

児童センター運営をバドミントン的な運営からバレーボール的運営に

(2009年9月16日)

児童健全育成指導士 田中 純一

 児童センターのこれからの方針を考えるとバドミントン的な考えかたからバレーボール的な考え方に展開する必要があると考えることができるのではないかと思っている。

 今まではバトミントン的な手法でよかった

 バドミントンのダブルスで考えてみるとバドミントンは一人うまい人がいればもう一人が足を引っ張らなければ勝つことができる。極端な話で言えばルール上はできないけれどダブルスを相手にシングルスでやった方が良いこともある。

 有明児童センターの学童クラブジュニアクラブの運営においては仲の良い仲間がいれば他の職員に助けてもらわない方が楽であった。学童クラブとジュニアクラブ主体の活動は概ね50人程度の時が多かった。だからローラースケートもサッカーも折り紙もゲーム遊びもダンスの練習も海水浴も水道公園への散歩もやろうと思えば私ともう一人仲間がいれば十分にできる。バドミントンのダブルスと同じである。私は午前中に親子で遊びましょうをやり、午後の学童とジュニアクラブをみていた。午前中は有明児童センター開設当初であれば五十嵐さん・中間では森田さんなどの仲間で運営していた。学童クラブはパートでお手伝い頂いた仲間でやっていたし、その後は有明台ひまわりからお手伝いいただいた小川先生とやっていた。私にとっては当時の有明児童センターの運営は親子で遊びましょうと学童&ジュニアが主体であったから、自分のダブルスのパートナーがいればそれで上手くやれていた。むしろ他人に邪魔をされたくなかった。それはちょうどバドミントンのダブルスのようなものだ。

 私は・初代鶴巻(1年)・2代0・3代(4年)斉藤・4代(5年)松田・5代(2年)鈴木・6代(4年)大屋・7代(5年)宮川・8代(2年)栗原・9代(3年)富岡センター長と仕えてきて自分で10代目となる。基本的には自分の元青山小学校当時の若林校長先生や自分の大学時代の恩師鳥谷部先生中間では飯沼校長先生などの指導を受けていた。また表現遊びでは玉川大学の岡田陽先生に教えてもらった。児童館運営については自分の高校時代と浜浦小学校時代のクラス運営等の経験が役立っていた。こうした手法で自分なりの運営をやってきたが、自分がセンター長になってからは過渡期であった。

 バトミントン的な運営での限界

 自分と仲間でバドミントン的な運営で良かったものがそうではなくなってきた。つまりそれまでは午前中の乳幼児の集いが15組位で午後に学童が40人くらい帰ってきて、遅くにはジュニアが40人くらい帰ってきた。グループワークにおける総人数を私は概ね40人程度と考えている。40人を〜8人の小グループを5〜8グループ編成すれば1人〜2人の職員で見ることが出きるからである。つまりバドミントン的なチームティーチングでやれる人数の範囲となる。

 私がセンター長になってからは子どもクラブが作られ、また学童クラブもすでに児童クラブとなり、1年生〜3年生まででクラブ員が100名を突破していた。結果的に低学年が帰ってくると80名以上の子どもがいることとなった。つまりグループワークの中で一集団として扱う人数をオーバーしてきたのである。

 バトミントン的な運営からバレーボール的な運営へ

 このような状況においては職員がバドミントン的な指導からバレーボール的な指導へと指導手法を変える必要があると私は考えている。私の考えるバレーボール的手法とは以下のようなものであるバレーボールは2人ではなくて6人もしくは9人である。そして相手のアタックに対してレシーブとトスとアタックが基本的に別の人となる。同様に子どもの指導においても子ども自身が図書室などの静的遊び・体育館でのボール遊び・外での遊び・ローラースケート遊びなどに分散することになる。したがって職員間に同様な子どもに対する接し方がなされないと上手くいかなくなる。バドミントンのようにとにかく相手コートに一発で打ち返す訳にはいかないからである。子どもたちは外で遊び、集会室で喧嘩をして児童クラブ室でもめているのであるから前後関係を抜きにしての声かけは難しくなるのである。これがクラブ員が40人程度であれば一人の職員に後の職員がサポートすれば良いとのパターン(=バドミントン的手法)運営できるが、80人程度になると共通認識を持つ職員が複数で違った場所で対応するパターン(バレーボール的手法)が必要となる。

 バレーボール的な運営への変換のための手法

 それではバドミントン的な手法からバレーボール的手法への転換の為に必要なことはなんであろうか。

 エポケーとアブダクションの手法

 第1に物事に対する共通理解であろう。しかしながら人間は様々な考えの人がいる。議論しあっても解決できるものではない。そこで私はエポケーとアブダクションの手法を提案している。エポケーとはとりあえず考えないで他人のやっていることを真似てやってみることである。アブダクションとは仮説証明法で仮説を立ててその仮説が3回位正しかったらそれを正しいとしてやってみることだ。なぜエポケーとアブダクションが必要とされるかというと多数の人が多くの主張をする場合にどれが正しいか間違っているかと延々と論議していると論犠だけで時間が費やされて肝心の実践ができないからである。子どもの現場では常に流動的で一回性であることが多い。また子どもの成長や変容は激しく急変するから固定的な方針ではやれないことが多いからである。とりあえず効果のありそうな手法を実践して効果があったらその手法をさらに進化させていくのがベターであると考えられるからである。例えば子ども集団やクラブやグループが粗暴で暴力的な子どもがグループの実権等を握っていたとする。こうした集団やグループが存在するとするならば不当な暴力や不当な言動がなされないように出きるだけオープンスペースにして全体が見渡せるようにする。木々を剪定して死角をなくす。ゴミを拾い環境整備をすることは効果がある。粗暴な原因を探ったり親子関係の分析なども不必要と思わないがこれらのことをやっている間に子ども関係がより悪質なものとなっていればまたその原因と探ることが必要となる。ちょうど発熱した子どもの発熱原因がお腹を出して寝たことだと原因がわかったときには肺炎になっていて肺炎とわかったときはもっと悪化しているようなものである。とりあえず発熱を押さえて水分補給をしておくことも必要なのである。原因を探ることが必要ないというのではなくて、とりあえずの臨床的な手法をこうじることが必要な場合が現場には多いのである。その点でアブダクションの手法ととりあえず効果のありそうなことをやってみることも大切だと私は思うのである。

 エポケーとはとりあえず思考停止をして評論家的な態度をやめてそこの風習に合わせてやってみるとの意味である。私もいろいろな児童館や児童クラブを訪問することがあるけれどそこのクラブや児童館のやり方をとりあえずそのままに真似をしてみると逆に見えてくるものがあるものである。

 ポリバレントになること

 第2にポリバレントの能力をみんなが持つことである。一人の職員が複数の仕事をこなせるようになることだ。おやつの準備ができ、ローラースケート指導ができ、卓球やバスケができ、ダンスを教えることもできる。同時に草刈り機が操作できて、芝刈り機や自家発電機も動かすことができる。トイレ清掃も木の剪定もできるといったようなポリバレントな存在となることが必要である。このためには職員やボランティア地域住民との連携が必要となる。また講師を招いての研修会の実施なども必要となる。日々の日常活動と研修活動を通じて職員のレベルアップを図ることが必要となる。そしてその研修とは観念的な子ども理解ではなくて実践的な環境整備の手法や子どもとの関わり方の手法などを具体的に自らの能力として取り入れることであると私は思う。

 職員がポリバレントな存在であることはいろいろなパターンでの職員のチームティーチングができることになる。またいつも同じ職員が子どもの前に立つのではなくてかわりばんこに指導の中心になるようにすることも必要となる。その意味でバレーボール的な関係性になるように私は思う。

 最近接領域の情報の共有化

 第3に情報の共有をはかることが必要である。小学校が学級王国的に孤立化したことにより教員一人一人が孤立してしまったことが今の小学校教育の一つの問題であると私は感じている。自分のクラスの子どもとかよそのクラスの子どもといった考えをやめて地域の子どもとして見ることが必要である。このように考えてみると基本的な子どもの様子の変容等については共有することが必要である。子どもの変容は急激であるから過去のことよりも現在の子どもの状況の変容を主体に子ども理解を深めることが大切である。一般的な指導要録や連絡帳的なものよりもより現実的で現在的なことについての情報交換が必要である。この意味で言えば子どもの発達の一番最近接領域に関わることの情報を共有することが必要である。最近接領域とはロシアの教育心理学者であるヴィゴツキーの提案する子どもの現在的な発達のもう一歩上の領域のことである。こうした情報は上から目線のものではなくて子どもの目線の下から見つけたものが重要である。例えばじゃんけん遊びの中でずるをして勝つことが多いとか都合が悪くなると泣いてごまかすとか要領が悪くて下手だけれどいつも一生懸命だとか粗暴なようだけれど小さい子どもには優しいとか子どもの活動の中で子どもからunderstandできることはたくさんあるであろう。こうしたことを共通理解していくことが大切であると私は思う。

 人材の多様化

 第4に多様な人的な資源の確保が必要だ。バレーボールではレシーブの上手い人・トスの上手い人・スパイクの上手い人・サーブの上手い人などがいる。いろいろな人がいることで上手く機能する。ところが児童館や児童クラブの現場では保育士・教員などの職種もしくはそれに類似した職種の人たちがほとんどである。バレーボール同様に野菜を育てるのが上手い人・機械を動かすのが上手い人・料理の上手い人・コンビニ勤務をした人・看護士経験のある人・楽器演奏の上手い人・大型自動やクレーン車などを運転できる人など多様な職種の人たちが上手く配置されていくことが必要であると思う。このことで職員がポリバレントな存在へと能力を付けることができるであろう。つまり教職や保育職に職員を限定しない方が良い。そして社会の基本的な常識を職員が身につけることが大切である。

 一例としてあげるならば今の日本の社会の中では万引きは確率論的に確実に存在している。また子どもたちも「とる」という本能が満足されていない環境の中で「盗る」に走る可能性は男の子の場合で40パーセント以上はあるように思う。こうした現状を把握しないで万引きをしたからといって家庭環境や親の愛情不足などをあげる等では問題は解決しない。もちろん万引きは犯罪である。許されないことではあるが、そうした行為も発達過程には存在することもまた事実である。そこら辺を理解できない「教育者」が多い現状では教職・保育職関係者のみで運営されるよりは別職種の人がいた方が子どものためにはベターであろう。


考えないで本を買うこと(2006年9月)

私はときたま考えもなしに本屋で本を買うのが好きである。見た目だけで内容をみないで買うのである。自分の発想以外のことから学ぶためである。半分くらいは当たらない。でも半分くらいは思いもしなかったことを学ぶことができて、うれしいことがある。
「齋藤孝のアイデア革命」(ダイヤモンド社・定価1280円)もその一冊である。紹介ということで無断引用を許してもらうことにしよう。
 齋藤孝さんはその著書の中で「『空欄を埋めよ』型の問題提起がアイディアを生む」と書かれておられる。○○ボックスの○○を埋めるというものである。私も早速昨日の専門学校の授業で学生さん達49名に「児童館実習をして○○したこと」という題でレポートを書かせたら、いつもの「実習をして感じたことを書きなさい」というよりはスムーズであった。また齋藤さんは「ずらす・つなげる」などの作業でY=fx)のfを考えることの重要性を提案している。
 私も日ごろアイディアを引っ張り出す方法として大きくしてみる・小さくしてみる・作る素材を変えてみる・リズムを変える・音程を変える・対象を換えるなどでゲーム遊びや工作や音楽遊びを開発しているのでとてもよくわかった。
 齋藤さんの著者は読みやすくとても面白いのでぜひ読まれることをオススメする。その中でとくに私の感じていることを明文化してもらったような気がした部分を下記に紹介したい。以下は引用である。
 「対話の中からアイディアが生まれる
 大学で講義をしていると、アイデアを出す能力のある学生とない能力の学生の見分けは即座につく。何か課題を与えたとき、次々と斬新な意見を述べる者がいる一方で、頭を抱えてしまったり、ありきたりの発言しかできなかったりする者がいるのである。この差は残酷なまでに歴然としている。
 なぜこのような分化が起きるのか。少なくともそれは天賦の才などというものではない。IQや偏差値の差でもない。一言で言うなら、「身体経験の蓄積」の差だ。そしてその経験を自分で認識できるか否かの差だ。
 前にも述べたとおり、アイデアは自分の経験に基づいて出される。それ以上のものは出し得ないし、もし出したとしてもそれは思いつきでしかない。何らかの課題を与えられたとき、豊富な経験の蓄積があれば、そこから答えを導き出すことができる。「合わせ箱」の一辺を25センチにするというアイデアが生まれたのは、長く一般家庭を見てきたという経験があったからだ。ホームベーカリーを完成に導いたのは、プロのパン職人のもとで修行した経験だった。つまり経験の「暗黙知」を「形式知」化させたわけである。
 ただし、自分の身体経験は貧弱だからアイデアも出ない、と思う人もいるかもしれないが、それは違う。人は誰でも少なからず経験を積んでいる。日常生活の中で、さまざまな人やモノに接し、刺激を受け、感慨を持っているはずである。だが、それが「暗黙知」として意識下にとどまり、「形式知」として認識できていないだけなのだ。
 ではこのプロセスを効率的に行う方法は何かといえば、ひとえにコミュニケーションである。人は頭を抱えて考えてみても、暗黙知の認識には限界がある。人と人とが対話することのよって、互いの暗黙知を刺激し合い、言語として認識できるようになるのである。
 例えば親しい間柄で話をしていると、相手の話からインスピレーションを受けて、自分の過去の経験をふと思い出したりすることはよくあるだろう。あるいは、自分では思ってもみなかったような意見や見解が自然と口をついて出てきたりすることもある。それは相手に伝え聞かせようと努力することで、その経験は自動的に言語化される。これを繰り返すことで、相手をより深く理解することができるとともに、自分を知ることになるわけである。
 言い方を換えるなら、対話とは自分と相手の暗黙知とつき合うということなのだ。イメージとしては、互いの脳ミソを混ぜ合わせるという感覚である。こうして共有・蓄積された暗黙知を素地とすれば、そこから生まれるアイデアは間違いなくクオリティーの高いものとなる。それを引き出すことができなければ、その対話は空虚なものにしかならない。
 同様なことが放送大学の発達心理学でも記述されていた。放送大学大学院臨床心理学の中の発達心理学10学校文化のディスコース  −書くこと・考えることー 内田伸子 より以下は引用です。
 ・思想と表現の関係
 以上から、作文を書く過程では、表現したいこと(思想)に合わせてぴったりした表現を選び当てはめていくわけではないことがわかった。ヴィゴツキー(1932/1967)が指摘しているように、作文における意図と表現の関係は「デパートで自分の身体のサイズに合わせて既製服を選ぶのではなく、初めは身体の輪郭もあまりはっきりせず、表現という布を切り取ったり、縫い合わせたりして形を作り出す過程」で、あっ、そうか””アハーと納得する主観的体験を経て初めて身体の実態、つまり、表現したかった意図や思想が明確になるような関係なのである。認識の側には表現の方向を規定するが,その方向に沿った表現を探し当てることにより認識が形作られる場合がむしろ多い。認識とことばとは、作り作られる双方向的な、ダイナミックな活動なのである。表象をことば転化することにより、思想ははっきりしてくるだけでなく,書く以前には考えてもみなかった表象が新たに沸いてくる。例えば,日記は,知識を単に記憶を想起して陳述する活動のように思われるかもしれないが,実際に整合的な文脈を造る過程で,新しいものが付け加わり,知識そのものが変容したり変革させられたりする可能性があるのである。
 以上のように対話や日記等の文章化することの中で、暗黙知を形式知にすることや新しい発想を作り上げていくことを意図的に取り組むことが大切と私は考えている。齋藤孝さん・内田伸子さんから学んだことである。

実習生へのコメント例

有明児童センター 田中 純一 

職員のコメントにおける基本
・コメントは20字程度で短くする
・実習生の日誌の内容より実際の児童センターの活動の目標を明確化する
・3分程度で記入し、実習生の対応の為に子どもの安全管理等に支障をきたさない・活動の記録は読む必要がない
・コメントで全てを解決しようとは思わない
・実習生は実習の中で子ども達から学ぶものである
・学ぶとは必ずしも遊びの中に参加するものではない
・子ども達から少し距離を置くように指導する
・保育園児(保護育成)と小学生(健全育成)は違った手法が必要であることを教える
・実習生の集団指導はお昼休みに20分程度行う
・集団指導の資料は公開されている資料を使うがそれ以外のものは共通理解の為に職員配布する
・実習生自体が子どものことを理解していないことを前提に対応する
・8時間の内3時間作業・1時間レポート・1時間準備・2時間観察・1時間遊ぶ程度にする
・子どもと遊ぶのではなくて職員の作業から学ぶようにさせる
・わからないことはすぐに職員に質問するようにさせる

20分講義の内容
・有明児童センターの運営について(有明児童センターの案内より)
・子育て支援センター事業について(親子で遊びましょうより)
・子育て支援センター事業について(ぴよぴよ広場の活動について)
・放課後児童健全育成事業について(保護者会へのたよりより)
・児童クラブの実際の運営について(クラブの毎月のたよりより)

・児童センターのクラブ活動について(クラブの募集案内より)
・有明あすなろクラブすこやかクラブについて(あすなろすこやかクラブ案内より)
・有明児童センターの行事活動について(児童センターたよりより)
・障害児に対する対応について(個別援助活動と集団援助活動の併用についてより)
・地域との連携について(隣保相愛相互扶助地域と共にの基本方針について)
・花と緑の環境作りについて(職員研修用資料より)
・土曜日及びやんちゃクラや宙高校生クラブの活動について

有明児童センターの基本方針
・有明児童センターは隣保相愛相互扶助地域と共にの基本方針で運営されています
・環境整備安全管理が基本と考えています・遊びの中でルールを守ることを躾けていくことが大切と考えています
・クラブ登録児童や一般来館児童等が上手く仲間作りが出来るように働きかけています・子どもたちも保護者もみんなできれいな環境を作っていくのが児童センターの方針です・子どもの遊び相手をするよりも子どもの遊び場環境つくりをすることが大切です・障害児童の個別援助ではなくて集団援助活動の中で見るようにしています

安全管理
子どもの安全管理が一番大切です
怪我等の場合は速やかに職員に連絡をしてください
怪我や事故はダブルチェックトリプルチェックすることが大切です
怪我の原因を調べて小さな事故が大きな事故につながらないようにすることが大切です
・遊具や建物の瑕疵がある場合は職員に連絡してください
・子どもの危険な行為はきちんと見守りましょう
・怪我や事故がないように全体を注意して見渡しましょう
・異年齢が一緒に遊んでいるときはとくに要注意です
・子どもの遊び相手をしていて全体が見渡せないことは危険です
環境整備をきちんとしておくことが安全管理の基本です

環境整備
花と緑の環境を作ることが大切です
・ゴミがあったら拾いましょう
・子ども達と一緒に作業をしましょう
・芝や花への水やりも大切です
草丈が高くなると犬の糞などが放置されます
草の背丈が高くなる前に草取りをすることが大切です
・木の剪定は大切です
・木の剪定をして不審者等が隠れる場所をなくすようにしています
・子ども達と一緒に清掃をすることは大切です
・靴やスリッパを気づいたら元に戻しましょう
・松の葉はいつも落ちてくるので落ち葉拾いは大切です
・児童センターでは除草剤等を使わないようにしています
きれいな環境を作ると子ども達の情緒も安定してきます
・トイレが汚いようでは健全育成とはなりません
・汚い・きつい仕事をがんばってやりましょう
環境整備をすれば心もきれいになっていきます
・四季を楽しむためにはきれいな環境が必要です
図書室の本は整理整頓しましょう
・かばん等の整理を声かけしましょう

小学生への対応
・手を出さない目を離さないことが基本です
小学生は子ども同士の関係性で成長します
・子ども同士の切磋琢磨を大切にしましょ
・小学生の遊び相手になるのではなくて小学生の遊びをサポートしましょう
障がい児童等は職員に指示に従って相手をしてください
・子どもを興奮させないようにしてください
・子ども同士の関係性が伸びるように仲間つくりを声かけてください
・子どもの愚痴は聴いてあげるだけが良い
・一対一の遊びから集団遊びへと発展するように仲間つくりをすることが大切です
女の子と男の子では対応が違うときがあります
・臨機応変の対応が必要です
・「今は他の仕事があるからダメです」としっかりと断ることも大切です
・「○○ちゃんが叩いた」等の訴えに複数の答えを用意しましょう
小学生からunderstandしましょう
・実習生が来ると実習生と遊ぼうとしますが子ども同士の遊びを妨げないようにしてください
・静かにじっくり遊ぶ遊びを提供することも大切です

障害児との対応
・ある意味ではみんな障害者である
・ある意味ではみんなADHDである
・障害児加算とは障害児への加算ではない障害児を抱えるクラブクラスへの加算である
・障害児も含めて子どもは子ども同士の関係で成長する
・少子時代の問題は子どもの数の問題ではなく相対的に大人の数が多すぎることにあるのではないか
・バリアフリーよりもユニバーサルデザインの考えを使うことが良いと思います
・児童センターにおいて集団の中にいること事態に意味があります
・児童センターでは障害児に対して個別援助ではなくて集団援助活動の中で指導しています
・障害児から学ぶこともたくさんあります
・ローラースケートは障害児にも有用です
・みんなの活動を見て学ぶことも大切です
・社会的参照の能力を高めることが必要です
・障害児への個別援助は本当は難しいものです
・まず障害児からしっかり学びましょう
・程良い距離をおいて見ることも大切です
・障害児といってもその内容はいろいろですから決め付けることはできません
・職員の指示に従って対応をしてください

放課後児童健全育成事業
小学生は保護育成ではなくて健全育成です
・学童保育との考えはしていません
・子ども同士の切磋琢磨を通して成長するように働きかけるのが健全育成です
・児童センターでは全てのクラブを一体として指導しています
・小学生とあかちゃんのふれあいは有意義です
・保護者が休みの日でも遊びに来たいと思わせるのが健全育成と思います
保育ではなく健全育成なので土曜日もぜひ登館するようにと考えています
・子どもクラブジュニアクラブ中高校生クラブ一般来館児童と一体となった指導をしています
子ども達は自分は何クラブなどとは感じていません
・保育ではなくて健全育成ですから自己責任の原則で遊ぶことが基本です
・連絡帳ではなくてメール・たより・電話などで連絡体制をとっています
クラブには登録台帳があり連絡体制がとれるようにしてあります
大人が安心して働けるためのクラブではなくて子どもが健全に過ごすクラブと考えています
・子どもが健全に過ごす結果として保護者が安心して働けるのは良いことです
おやつは全ての子ども達が食べることが出来るようにと考えています
・事理弁識能力や責任弁識能力を高めることが大切です
基本的な学習習慣を身につけさせることは大切です
・遊びや清掃等の作業を通して基本的な躾が身に付けられるようにと考えています

保護者との関わり
・保護者のボランティア活動も大切です
・有明あすなろクラブ・有明すこやかクラブの会員となり事故に対処しています
・行事等での保護者等のボランティア活動は大切な要素です
・保護者が児童センター内に入ることで自分の子ども以外の子どもを見てもらっています
・保護者の話等は必ず職員に連絡をしてください
地域との連携も大切です

児童センターの活動
・ローラースケートは巧緻性を高めるために効果があります
サッカー等では異年齢が一緒に遊べるように工夫しています
自由遊びでは子ども同士の遊びを大切にして仲間つくりをしています
・排他的なグループを作らないようにす
・マンガやDSなども利用して児童センターに来館して遊ぶように働きかけています
・家で閉じこもるよりはセンターで遊んだいるほうが良いと考えています
・折り紙は日本の文化です
動く簡単面白い遊びが大切です
・児童センターでしか遊べない遊びも大切です
・児童センターでの遊びが家庭での遊びになるようにすることも必要です
・児童センターでの遊びが学校等での集団遊びにつながるようにと考えています
・柔らかいボールを使って小さな子どもでも安全に遊べるようにしています
・異年齢・異世代が一緒に遊べるように働きかけています
・上級生には思いやりを持てるようにすることが大切です

子育て支援活動
・あかちゃんから学びましょう
・お母さんも含めて仲良しになってみましょう
・手遊び等を知っていることは大切です
・見ていることも遊んでいることと一緒ですから無理をさせないようにしましょう
・お母さんの許可を得て乳幼児と触れ合ってみましょう
・乳幼児の遊びに一緒に参加をしましょう
・職員と同じように歌ったり踊ったりしましょう
乳幼児と手をつないでみましょう
股関節亜脱臼や手が抜けないかなどの注意をしましょう
・危険のないように遊びましょう
・実習生は大きな存在ですから膝を折って子どもの目線以下になってみましょう
・乳幼児の行動パターンを感じましょう
・ノンバーバルコミュニケーションの手法を身につけましょう

自然
・クローバーにはアカツメクサとシロツメクサがあります
・シバとイネとムギ以外のイネ科の植物が雑草としてはびこります
・クローバーは空中の窒素を地中に取り込みます

・クローバーと人間は深いつきあいです

・クローバーは冬でも緑です
・花と緑の環境にクローバーは適切な植物です
・緑色は人間に安らぎを与えます
・自然との共生が大切です
・光と風をうまく植物に与えることが必要です
・汗をかかなければ物事は上手くいきません
・植物にも人間と同様の意志があります
・自然の声に耳を傾けましょう
・夜と朝の境目はフクロウが泣きやみカラスが鳴き出すときのようです
・人間もそれほど偉くはないのです
・遺伝子的に考えてみればそんなに人間も偉ぶる必要もないのかもしれせん
・風が渡る環境がたいせつです
・自然がないという人もいますがプランタに花を植えるだけで環境は変化します
・花の水やりをしていれば地域の仲間が増えます
・花の手入れや草刈りをしていると犯罪抑止効果があります
・防犯のためには鍵よりもプランタの花が効果があることもあります
・屋上緑化等も取り組みたい課題です
・緑が多くなると冷暖房を使う必要がないことも多くなります
・花の種や苗や球根をやったりもらったりすることは地域作りにもつながります

発想の転換
・自分に今までの経験が正しいとは限らない
・現実は素直に見てみましょう
・手法は一つとは限らない 手を変え品を変えて
・子ども達に多様な経験を
・実体験に勝るものはない
・評論的に物事を見るのはやめましょう
・科学的真理(客観性・論理性・普遍性)のみではない
・時に一回性(普遍性ではない)ことも多いものです
・自然の変容はドラマチックである
・空気・水を含めて流通をすることが必要である
・水は一ヶ所にとどまると腐敗する
・エポケーしてとりあえず参加してみることも必要である
・小さな小部屋から見るのではなくて一回自分の小部屋から出て考えてみよう

手法
・権力は腐敗する暴力は麻痺する
・日本人は一番が子どもの文化である
・自分の手法が正しいとは限らない
・仮説を立ててやってみることが大切である
・失敗を恐れないでやってみよう
・百聞は一見にしかずであるから偏見をやめて見てみよう
・子どもから教えてもらうことで子どもも成長する
・答えないでよいから子どもの訴えを聞いてやることも大切です
・エポケーしてとにかくやってみることも必要である
・役に立ちそうなことはとにかくやってみてみることも必要です

行事等
・行事で大切なのは準備です
・準備で6割当日2割後片づけ2割かな
・司会など前に立つ人より黒子になることが大切です
・保育園と違い職員が前でやる必要はありません・子ども同士で学び合いをすることも
必要です

・行事の準備で子どもにも参加させ、同時に子どもの管理をします
・行事等できちんと管理をすることも大切です
・自由とは統制がきちんとされていないとありえません

ケースワークとグループワーク
・基本的に個別援助活動は集団援助活動の中で実施しています
・集団援助活動の基本は遊び集団をどのような集団として形成するかにあります
・遊び集団が排他的にならないように働きかけることが必要です
・言葉での注意よりも視線等の非言語的な指摘や注意が効果があります
・集団援助活動は小グループを作りますが小グループ同士の関係性も大切です
・支援案での活動は集団援助活動の一つの事例であると思います
・支援案の考えのように上手くいかないことの方が多いものです
・失敗しなければ学ぶことはありませんが失敗をくり返さない工夫が大切です
・集団援助活動も個別援助活動も時間的な制限の中でやりましょう
・一般的に小学生の我慢できる時間は小一時間です
・小一時間の中でも身体を動かしたりして変化を付けることが必要です
・女の子には全習法男の子には分習法を使うと上手くいくことが多いものです
・女の人は社会的参照能力に優れています
・男の人は社会的参照能力よりも新奇なものをやりたがります
・男と女の特性を上手く活用して集団援助活動を行うことも一つの手法です


・だめなものはだめとだけ伝えましょう
・出きることから基本的な躾をすることが大切です
・1はワンでモノで単体2はツィンで二つ3はスリーでたくさんの意味です
・三つ以上の指導は忘れられますので二つまでにしましょう
・まず生命に関わることそして人格に関わることそして生活を豊かにすることへと躾を考えましょう
・挨拶をしないから死ぬというわけではありません
・集団で人間は生きている存在です
・仲間がいないと生きていけないのも本当です
・仲間の存在が必要であるならば仲間の中での躾は大切です
・人間は社会的な動物です
・遊びにはルールがあります
・基本的な躾は何かを考えておくことが大切です
・他の人をけがをさせておいて自分には権利を主張するような考えは間違っていると思います
・集団で行動している場合には連帯責任が生じます
・集団で行動では「自分はしていない」等の主張は通じないこともあると教えることも必要です

・職員や実習生も集団として見られますから「私ではない」的な発言は間違いでしょう

・いじめという法的な罪はありません
・傷害罪暴行罪器物破損罪暴行罪殺人罪侮辱罪などの違法行為を許してはいけません
・違法行為をさせないために保護する子女の正当防衛権を代理的に行使する義務があります
・体罰という法的な罪はありません
・小学生期の子ども達は子ども同士の関係性で成長します
・いじめいじめばかり考えていると何もできないこともあります
・子ども達はケンカをして成長していきますから危険でない範囲での見守りも大切です
・子どもには予測できないこともありますので怪我に至る一歩手前での注意が必要です
・怪我をさせてしまった場合には職員には道義的法的責任が生じます
・事理弁識能力のある小学生以上の場合は全てが職員の責任となるわけではありません
・小学生に「自分の生命は自分で守る」ことを教えておくことは大切です
・小学生高学年からは責任弁識能力が生じます
・躾の中で事理弁識能力責任弁識能力を高めていくことが大切です
・基本的な躾が出来ていない子どもの場合にその責任は保護者にあることを知らせることも必要です
・法的に保護育成の対象と健全育成の対象では責任の範囲が違います
・躾を抜きにして健全育成をすることはできないでしょう

実習生への感謝のコメント
・きれいな環境となり子どもたちも元気に遊ぶことができます
・靴やスリッパの整理が出来て子どももだんだんとマナーを守るようになりました
・ローラースケート場がきれいになり安全に遊ぶことができます
・木が剪定されてきれいな風が渡るようになりました
・クローバー公園で元気に子どもが遊べるようになって嬉しく思います
・トイレがきれいになると気持ちがよくなりますね
・おやつの準備や後片付けは一番大切な仕事の一つです
・職員や実習生など大人が一生懸命働いている姿を子どもに見せることが大切です
・遊具や建物の保守管理の仕事も職員としての大切な仕事です
・毎日の清掃の積み重ねが環境整備ですから頑張りましょう
・元気な子どもに負けないエネルギーで頑張ることも大切です

社会福祉援助と児童館活動
・児童館の運営は地域の社会福祉の向上に寄与することも目的の一つである
・児童館運営をどのようにするかではなくてどのような社会を目指すかを考えることも必要である
・隣保相愛相互扶助地域と共には有明児童センターの基本方針である
・子どもの健全育成はたんにその子どものメリットになることではなくて社会的なメリットとなるように働きかけることが必要である
・地域社会の中での基本的なニーズやこれからの方向性を考えることも必要である
・子どもの笑顔と笑い声のあふれる地域は地域のお年寄りにも活力を与える
・花と緑の環境を作ることが地域作りにつながる
・花と緑の環境は安全な地域社会を作ることにもなる
・割れ窓理論によれば汚い環境が犯罪をよぶ
・閉鎖された環境から開かれた環境を作ることが地域社会の活性化を生む
・子どもは地域のすじかいの役目にもなる・他人の子どもへも目配りのできる地域社会を目指すことが必要である
・カオス理論によれば小さな一歩の積み重ねが大きな変容へとつながる
・健全育成防犯対策防災対策は有機的に結びつけることが大切である
・地域の社会的資源を有効に活用することが大切である
・児童館も社会的資源の一つである
・社会的資源とは地域のすべての資源である・社会的資源には人的資源と物的資源がある
・人的資源では新しい資源を見つけることが大切である
・物的資源では思わない資源が埋もれていることがあることを考えることが大切である
・物や人が一ヶ所に集まればそれ自体が資源である
・マイナス要因をプラスにすれば倍以上の効果がある
・子どもの声がうるさいという人を子どもの遊び相手に引き込むことが倍効果の意味である
・クレームをいう人はありがたい存在である
・受容共感だけでは物事は解決しない
・本来の受容共感とは自分の生命をかけるようなものだから安易に言うことはできない
・江戸時代の寺子屋から学ぶことがたくさんある
・日本は格差社会ではないからやるべきことをきちんとできる子どもを育てよう
家で閉じこもるよりはセンターで遊んだいるほうが良いと考えています
折り紙は日本の文化です
動く簡単面白い遊びが大切です
・児童センターでしか遊べない遊びも大切です
児童センターでの遊びが家庭での遊びになるようにすることも必要です
・児童センターでの遊びが学校等での集団遊びにつながるようにと考えています
・柔らかいボールを使って小さな子どもでも安全に遊べるようにしています
・異年齢・異世代が一緒に遊べるように働きかけています
・上級生には思いやりを持てるようにすることが大切です

何度も繰り返さなくてならないこと・すぐに覚えること

 行動療法や認知学習の考えから言えば、繰り返し、繰り返し練習をすることによって、習得できることが大切と指摘されることが多いだろう。子どもたちに教えるときにたしかに繰り返しは大切である。
 同時に子どもはある時いともたやすく物事を身に付けることがある。このことはどういうことなのかを私は感じていた。
 具体的にいうなら、詩の朗読で「ののはな はなのの ののはな はなのな なあに なずな なのはな なもないのばな」は比較的簡単に覚えてくれる。しかしながら「かっぱ かっぱかっぱらった かっぱらっぱかっぱらった とてちてた かっぱなっぱかった かっぱなっぱいっぱかった かってきってくった」という詩は子どもたちが覚えるのは難しい。そこでかっぱの詩の練習はののはなの10倍はかかる。ラ行やパ行は舌の動かし方が難しいからであろう。
 
 つまり遺伝子的に簡単に習得できるものとそうでないものがありそうだと私は思うのである。本能的・遺伝子的に簡単なものをその時期がきたら、環境を整えてやればよい。子どもは広場と芝生があれば走り回り、ボールがあれば蹴るだろう。これは子どもの本能・遺伝子的なものである。でも狭い遊戯室の中で多くの子どもが思い切ってボールを蹴るのは危険である。だからリフテング程度にコントロールすることは必要である。これは本能に反してのコントロールだから繰り返し・繰り返し訓練することが必要である。子どもの廊下を走るなと指導することも一緒で、子どもは本能的に走っているのだから、走り回るこどもを悪い子どもと思わないで、しかしきちんと躾けることが必要である。
 躾けの類の多くは繰り返しが必要。必要と思ったら焦らないで、繰り返し、繰り返しが必要である。またそれとは別に環境を整えてやればよいこともあるということだ。
自分で自分に書いてみる。
 そもそも文章を書くというのは人に知らせたいためと思いがちだが、ほとんどが自分の心の中や考え方をまとめるためにあると私は思っている。

 今回の訓練をしないとだめなことと環境さえ整えればよいこととの考えもその一つである。
 この考えを思いついたのはある団体の1年間の記録集の中に「3歳までの子どもの記憶力は曖昧だから、憶えていないからといってイライラしてはいけない。繰り返しが大切ということを学んだ」との一文にふれたことによる。私自身の経験から3歳までの子どもの記憶力はすごいものである。ただ乳幼児は言語化できないのでそのことを大人が理解できていないだけである。しかも最近のコンピューターやビデオ等の発達・脳の観察ができるようになったことにより、3歳までの子どもの記憶力の素晴らしさは証明され始めている。

 現場の経験からいうと繰り返し訓練の必要なこともある。例えば「廊下を走らない」などの躾けは繰り返し繰り返しがとくに必要なことである。逆に野原を元気よく走るなどということは環境さえ用意すればほとんどの子どもは実行する。
 ということは生命発達の中で本能的にインプットされていることはそれほど訓練が必要なくても人間はやり始めるものだということだ。逆に生命発達的には=本能的にはインプットされていないが、文化的しつけ等で必要なことは繰り返しが必要ということになる。

私は今パソコンで文章を打っている。これは本能的なことではない。しかしながら繰り返すことによって両手ですばやく文章を打つことが可能になった。これは繰り返し繰り返しの訓練によるものである。でも目の前にボールが飛んでくれば本能的に払おうとするであろう。これは訓練による学習の結果ではないのである。

 私たちが何かを学習しようと思うときに訓練が必要なことなのが必要でないことなのかを考えてみるととてもやりやすいとの私の仮説である。日本人が英語を学習するには訓練が必要である。とくにRの巻き舌は難しい。でも日本語を学習することはそれほど難しいことではない。日本人には日本語のリズムがインプットされているからである。

 本能的に学習できるのは脳の力であろう。脳損傷があれば、それだけ訓練が必要ということになる。障害ということもそういうことではなかろうかと思う。障害がある場合にその障害によって例えば歩くことができないならば車椅子が必要である。しかし訓練をすれば歩けるようになるものならば厳しい訓練が必要となる。苦しい訓練をするということは教えるほうも大変である。その大変さに向き合うことも大変である。
 障害に対して「かわいそう」「助けてあげよう」などの安易な考えが多すぎるようにも思う。

 子どもあれこれ   (2010年1月4日)
           有明児童センター 田中 純一
 始めに
 2009年を終えるにあたって自分の子どもの遊びの手法を明らかにしておきたいと思う。一般的に論を展開するということは自分の論が正しいことを他の理論と比較検証して述べる必要性のあることは解っている。しかしながらあえて今回はたんに子どもから学んだことを整理して提案することのみとする。というのは一つの仮説を書いているのであり、その仮説が正しいか間違っているかは実践結果によるもので、論の展開とはまた別ではないかと思うからである。以下の仮説をやってみて効果があればやればやったら良いし、なければしなければ良いと思うのである。


 小学校低学年の子ども(とくに男の子)
 小学生1年〜3・4年生時代はとりあえず悪いことから学んで成長していく時期であるように思う。行動もアグレッジブになり、言葉使いは悪くなり、嘘を平気につくようになる。ですから連絡帳などで親との連携をはかることはなかなか難しい。良いことなどはあまりしないし、悪いことなどはなかなか書けないものです。だから口頭で「最近だんだんワルになってきて成長しています」てな話になってしまうものです。良いことをさせるよりも極端に悪くならないように働きかけていくことの方が必要であるように思います。その結果ある時ちょうどさなぎが蝶になるように変身していきます。それは指導者の指導によるものではなくてその子どもの持っている内面から出てくるものです。ですから教育の英語の語源はEducation(=抽出する)であるのです。

 ダメなものはダメ
 子どもの施設において最近出来るだけ「ダメ」を言わない等の提案がなされている。私は間違いであると思う。人間は時間的空間的時代的な制限の中で生きている。したがって出来ることと出来ないことがある。夢のようなことばかり言っていても世の中で生きていくことはできない。夢を持ち続けることと夢と現実が違うことを認識することは別だからだ。ですから子ども達に「ダメなものはダメ」ときちんと伝えることはとても大切なことである。子どもはダメと言われたら別のものを探し出す天才である。なぜダメかをくどくど説明している間に子どもの興味はもう別のところに行っていることがよくあるものである。
 昔はよく停電があった。停電になると一晩中電気が点かないことがよくあったものだ。いくら怒鳴ろうが喚こうが点かないものは点かないのである。この中で子ども達は我慢と諦めを覚え、自分なりの工夫をして生きてきた。だから素晴らしい創造力も芽生えたのではないだろうか。
 人類の歴史の中でいつも電気で明るい夜をおくれるようになったのはほんのわずかな時代である。それ以上に電気の点かない時代を何百万年も過ごしてきたのである。
 ダメなものはダメなのである。

 創造性の原点は我慢と諦め
 創造性とか自主性とかを尊重することが大切、考える力を培うとか言われているが、現場から見ていると反対ではないかと思うのである。そもそも創造性・自主性・考える力などを他人が培ってやることが出来るのであろうか。創造性・自主性・考える力はその人本人のものである。だから他人がそれを培うことはできない。つまり子どもの創造性・自主性・考える力を指導者が与えることはできないのである。
 と考えるならば大人や指導者が子どもにしてあげることが出来るのは基本的な学習(読み書き算盤)や基礎学力を培うことである。また基本的な生活習慣の躾をしてあげることである。また基本的な人間関係の結び方を教えることである。こうしたことを教えたり、学んだりするためには我慢と諦めの精神を持つことが必要である。我慢や諦めのできない人間は新しい物を生むことが出来ないであろう。人生には我慢と諦めが必要で空間的時間的時代的社会的な制約の中で生きていることを自覚してその中でいかに生きるかを見つけることが創造性や自主性や考える力を培うことの意味ではないかと思う。
 子どもよりも先に生まれてきた存在として明らかに我慢をしたり諦めたりすることが必要な場面があるとすればそれを「ダメなものはダメ」と伝えることこそが必要である。
 私もよく崖の上から羽ばたいて空を飛ぶ夢をみる。しかしながらそれは夢の世界であり、現実世界では崖から飛び降りればたいていは死ぬから崖から飛び降りるのは「ダメ」である。

 受容と共感は安易にしてはいけない
 受容することと共感することがカウンセリングの原点であると言われ、それを強く主張する人たちがいる。受容や共感はカウンセリングの手法の一つであり、専門的な知識を習得した人が実施するべきであり、安易な受容や共感は危険である。というのはカウンセリングの手法である受容や共感を安易に使うと人間の中にある魑魅魍魎や悪魔性が出てくるのである。こうした魑魅魍魎や人間の悪魔性を受け止める力のない人が下手に受容や共感をすると大変なことになることが多いのだ。
 だとするならば相手の話をきちんと聞いてやることや相手の立場に立って考えてみることは必要であるが、そうしてみても相手の言うことが納得できないならば、「あなたの気持ちや行動は私には理解できない。そしてやはりダメなものはダメ」と伝えることが必要であろう。


 痛い目にあうことも必要
 体罰の禁止と言っていれば「進歩的」な人と思われるためか、体罰の禁止の主張が横行している。現実主義者の私としては他人に怪我を負わせたり、危険な行為を繰り返す場合は痛みを持って理解してもらうことも時に必要であると考えている。(自分自身のことを考えてみても痛い目にあって多くのことを学習してきた。痛い目にあうことから逃げては何も出てこないのかもしれない)
 小学生期の男の子どもはアグレッシブである。本能的に棒を振り回し、石を投げ、平らな広いところは走り回り、カーテンにすがり、高いところにはのぼるものである。これらのことをほぼ無意識でやっている。だから行動療法的に不必要なアグレッシブ的行動を制御することが必要である。それを制御する手法として訓練・言葉による制止・理解を深めるための学習があるだろうが、時と場合によっては多少の痛い目にあうことも必要である。そうでないと不必要なアグレッシブ的行動により被害を受けた子どもの救済をどうするのかの問題が起きてくる。
 最近の子どもと親は自分の子どもが被害を受ければヒステリックになるが、自分の子どもの加害行為には許容的である。こうした時代背景の中で加害行為にどのように対処するかを考える必要性がある。
 大人が叩くから子どもも真似をして叩く。大人の体罰を禁止すれば子どもも危険な行為をしないなどの空論は意味がない。むしろ危険な行為をしたらにこやかに近づいていって、子どもの前に子どもより低くなって危険な行為をした手や足をピチンとやり「この手は悪い手。あなたは良い子」とやれば効果的なのである。

 国際化時代には
 国際化時代とのことで小学校でも英語教育をとの主張がなされ始めている。私は反対ですね。それよりもきちんとした日本語をしっかりと教えるべきです。「うざい」だの「ださい」などと話している人がどれだけ英語を学ぶことができるのでしょうか。ロシアの教育学者ヴィゴツキーはきちんとした母国語を話せることが外国語の学習の基礎であると言っています。まずきちんとした読み書きの教育が必要でしょう。
 日本の文化や歴史を知らないで外国のことを理解することは難しいでしょう。ですから折り紙を子どもに私は教えるのが良いと考えています。鶴も折れないのでは国際時代に対応できません。 

 感情的に叱ろう
 叱る時は感情的になってはいけない。なぜ悪いことなのかを冷静に説明しようなどとの空論も蔓延っている。そもそもなぜ叱るのであろうか。間違いのないのはその子の関係者であるから叱るのである。その子の関係者である以上はその子どもとの感情的な関係性があるのである。感情的な関係性がある以上は感情的に叱ることが必要である。自分の子どもや教え子に感情を交えないで交流できるわけがない。だから感情的に叱ってはいけないなどというのは間違いである。
 感情的に叱らなければならない。問題は感情に流されすぎないことである。感情を上手くコントロールして叱ることが必要である。子どもが危険な行為をしたら感情をコントロールしてにこやかに近づいて「この手ダメ」と感情を込めて叱ってやろう。そして感情をコントロールして「でも手は悪いけれどあなたは良い子」とやることが必要である。

 五感ではなくて体性感覚を磨く
 五感を磨くことが大切と言われすぎているように思います。五感とは視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚ということですが、子ども達が学習が出来ない所以として「良く見ていない・良く聞いていないから理解が出来ない」との指導者の声が聞えてくるからです。もし五感が一番大切ならばヘレンケラーは学習することが出来なかったでしょう。
 現代生理学の分類では人間の感覚は@特殊感覚(視覚・聴覚・臭覚・味覚・平衡感覚)A体性感覚(触覚・圧覚・冷覚・痛覚・運動感覚)B内臓感覚(臓器感覚・内臓痛覚)に分けられているという。そして体性感覚が全ての感覚を統御しているというのである。したがって触覚・圧覚・冷覚・痛覚・運動感覚を磨くことがが大切であると私は考えている。
 障害児の教育でけではなくて、本当の指導力のある人たちは視覚・聴覚よりも体性感覚をうまく使っていることが多いのです。

 脳はできるだけ使わない
 人間の脳は一つのことに集中することが必要であるという。ですから学習とはある意味では何千回〜何万回か繰り返して行うことで、実は脳を使わなくてもオートマチックに仕事ができるようになることであるともいえるであろう。つまり九九を覚えるのは一々考えなくても7×8が56となるように脳が考えないでもオートマチックに活動することであるともいえる。オートマチックに出来るようになるには体性感覚を動員して身体で覚えさせることである。また繰り返し繰り返しをしなければ定着をすることがない。同じことを何千回も繰り返すことは飽きてしまう。飽きないで、騙しだまし脳を活動させて(百回ごとにやり方を変える・リズムを変える・手法を変えるなどなど)その内に脳を使わなくてもオートマチックに出来るようにすることが必要である。子どもに物を教えると言うことはある意味ではうまく子どもをたらかす(=騙す)技術を持つことであるとも言える。真実と言う劇薬はあまり使ってはいけない。嘘と言う常備薬はいずれ効かなくなる。嘘でも真でもないことをうまく使うことも必要である。いわゆる方便が大切である。

 悪い人が悪いことをするのではなくて悪い環境が問題
 危険なことや悪いことをやると「何でそんな悪いことをするか」と説諭する人が多い。たしかに良い人は悪い環境にあっても悪いことをしない確率が高いであろう。反対に悪い人は悪いことをする確率が高くなるであろう。こうなると子どもの実質陶冶が必要となるとの議論になるであろう。しかしながら俗人である私には実質陶冶は難しい。またマザーテレサのような人を除けば環境に人間は大きな影響を受けてているように思う。
 多くの人たちは俗人であるとの仮説を前提にして、やはり基本的には悪いことができる環境を無くする事が必要であろう。悪いことができる環境とは不法な暴力が存在する・盗むことができるような死角がたくさんある・詐欺ができる環境にあるなどがあげられる。したがって不法な暴力を許さない・死角をなくす・正しい知識を伝えることが必要となる。

 個人主義の限界
 個々人が自立することは大切である。しかしながら人間が一人では生きていけないことも事実である。人間は一人で生きていけないのだから人間と人間の関係性がどのようにあるべきかを常に考える必要性があるであろう。ガードナーの多重知能理論によれば人間の知能は一つではなくて概ね7つのモジュールになっているという。論理ー数学的知能・言語的知能・身体ー運動的知能・音楽的知能・空間的知能・個人内的知能・対人的知能である。これらの知能は関連性を持ちながら相互の独立したモジュールであるという。個人主義は個人内的知能を高めることを主としていると考えられるが、対人的知能を考慮に入れなければ生きてはいけない。仲間を作れることはとても大切なことである。対人的知能を高めることを大切にすることが必要である。

 基本的な躾の必要性
 河合隼雄先生が学校カウンセリングを始めるにあたって躾の必要性を主張されていた。日本人は母性原理ですから子どもを甘やかしがちです。やはりどこかできちんとした躾をすることが必要です。誰が躾をすべきかではなくて今の現状の中でできるところから躾を始める必要があるのです。躾の内容としていくつかのことがあるでしょうが会津の什の掟などは参照する価値があると思います。
 一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
 二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
 三、虚言をいふ事はなりませぬ
 四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
 五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
 六、戸外で物を食べてはなりませぬ
 七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
 ならぬことはならぬものです
 「年長者の言うことに背いてはなりませぬ」などとの考えは封建的と思える人も多いかもしれません。しかしながら、とりあえず年上の人の考えを黙って受け入れることも仕事の中では必要です。それが出来ない人は職場でも困った存在となることが多いものです。

 男女7歳にして席を同じうせず
 男女共学こそが正しいと固く信じる人がいます。どこかの女子大学に勤務しながら、男女混合名簿こそが男女共同参画社会に必要と力説する方もいまして、そうであるならば急いで女子大学を辞めるべきでしょうといいたいところです。
 最近の研究によると食べ物の獲得において人間だけがメスとオスで収穫物を違ったものにしたとのことだそうです。(http://www.nhk.or.jp/special/onair/090112.html)つまり人間の女は採取に走り、男は捕獲に走ったようです。この結果人間の脳にも大きな変化が出たとのことです。結果的に同じIQを持つ男女でも実際に使っている脳は違うところだというのです。だとするならば当然学習方法においても違ったものとなるでしょう。男女7歳にして席を同じうせずとの考えはこのことを日本人が知っていたからでしょう。席を同じくしないだけであって一緒にいることが悪いわけではありません。つまり女と男の学校を別にせよとのことではなくて同じ学校であるけれどクラスを別にすればよいと思うのです。私はこの手法で学習面において効果をあげています。女と男を一緒にすると騒ぐけれど別の部屋で学習すれば騒ぐことが少なくなって学習効率があがります。遊ぶ時は男女一緒でも良いのです。ただしおやつを食べるのは別々です。男の子のおやつはたんなる栄養補給で女の子のおやつはおしゃべりを通じての遊びの一種です。

 隣の庭をきれいにすること
 一般的に自分の家の庭をきれいにする人はいますが、他人の庭まできれいにする人はいないものです。私は変人の一種らしいので自分の職場の子どもが遊ぶ場所は自分の土地と拡大解釈して草取りをしています。この中で解ったことは隣の庭をきれいにすることこそが自分の家の健康を守ることにつながるとのことでした。つまり空気と水と血液は滞ることによって腐敗します。そこで空気が流れることが必要となります。しかしながらウサギの小屋状態の日本の住宅事情は自分の家の庭をきれいにしてもそのきれいな空気は隣の家に行くのです。ゴミ屋敷の悪臭はゴミ屋敷の持ち主にではなくて他人の土地に流れることになるのです。
 職場の隣の保育園のグランドの草取りをしていたら強風が吹いた時に職場に今までは砂が飛んで来ていたのが飛んでこなくなって,代わりにマイナスイオンいっぱいのきれいなそよ風が吹くようになりました。
 学校のグランドも構造的に強風が吹いても学校に飛び砂が入らないような構造にしてあります。その分飛び砂は近隣の住宅へと飛び込むのです。
 逆転の発想で学校のグランドの芝生化を地域住民がボランティアで実施すればよいのです。そうすれば緑のそよ風が吹いて来るのです。土地の資産価値も上がるのです。

 デフレ時代に
 デフレ時代は若い人たちには大変な時代です。というのは賃金が上がらないからです。そして年金生活者には一時的に有利ですが、長期的に見るとそうとも言えません。いづれ年金カットが待っているでしょう。私はデフレ時代には社会的な需要を創出することが必要と思います。例えば防衛費をいっぱいにすることです。しかしその防衛費とは防衛のためのものですから、核シェルターを作って地域住民を他国からの侵略から守ることです。大きな公園の地下に核シェルターを作り、そこを地域の集会場として使うというものです。もちろん管理は地域住民に任せます。逆転の発想でフリーターや派遣切りで生活できない人が生活することもあるでしょう。でもこうしたインフラ整備が進めば仕事が多くなってきて、若い人の就業の機会も多くなるでしょう。
 もう一点は森林や山の保護及び活用を図ることでしょう。そのためには汚い・きつい・勤務時間が長いことを厭わない勤労精神のある日本人がたくさんになることです。

 日本人の良さ
 日本人の良さは誰でもが草取りやゴミ拾い・トイレ清掃などができることにあると私は考えています。「身分」の高い人でもこれらの活動をしても身分が低いと言われることはありません。お茶だしや料理もそうです。誰でもがやれるのです。こうした日本文化の良さを取り戻すべきであろうと思います。お茶だしや環境整備もきちんとできないで立派なことを言うなかれと私は思います。
 デフレ時代にはみんなで助け合ってより良い地域作りをすることに価値が出てくるように思います。というのはどこかの国のように石油がたくさん産出されたり、金鉱脈が発見されたりなどなどのことで急に経済が発展することはないでしょう。今までどおり人的資源の優秀さこそが日本の宝ではないでしょうか。人的資源の優秀さとはどんなことでもこなしていくことができる人間が居ることだと思います。そんな日本人が増えるように2010年を頑張りたいと思います。

 終わりに
 固定的な概念に囚われないで今、子ども達のために何が必要か。今、自分達の地域のために何が必要かを仮説を立てて実践して上手くいったら普及して、間違ったら修正していくことが必要な時代であると私は思います。

子どもの扱い方について(2006年9月)
有明児童センター児童育成係長

    児童健全育成指導士 田中純一

 最近の子どもの変容はたんに子どもの変容だけによるものでなくて、その親の変容にも関係しているように私は感じています。今の日本の子育ての状況を少子化第2期と私は考えています。一人っ子・二人っ子の子どもが親となった時代です。両親が少子化時代の子どもたちですから、おじさん・おばさんがいなくて、いとこがいない子どもたちが増加しています。こうした状況下でわがまま・自己中心の子どもが増えています。子どもが多くの大人に甘やかされて王子様・王女様のようにされていることが多くあります。王子様・王女様が一緒になっても自己中心のために楽しく遊ぶことができないで、傷つけやすく傷つけられやすい子どもと親が増加しているように思います。こうした状況下で子どもの取り扱い方について、いくつかの提案をしてきました。

第1提案 名前のいらない遊びを増やそう  仲良くなるこつは名前をお互いに呼び合うことから始めるのが良いとの錯覚がある。「今度転校してきたともやんです。前の小学校では不登校になってので、心機一転するために転校してきました。よろしくお願いします。」などと自己紹介をする子どもなどはいない。またあかちゃんは自分の名前を知らなかったり、しゃべれなかったりするけれど、他の子どもが楽しく遊んでいると必ずよってくる。このことから遊びには名前が必要のないことが分かる。名前をいらない遊びを増やすことにより、異年齢・異世代が一緒に遊ぶことが可能となる。
 ダルマさんが転んだをやるときでも、「赤い服の子ども」とか「ともやんの隣の女の子」といった言い方で良いことにすればいいのである。私の職場では新しい子どもが児童クラブに入会しても歓迎会をしないし、自己紹介や紹介もしない。子どもは遊びの中で仲良しになり、必要に応じて名前を覚えるものである。名前のいらない遊びを増やすことで仲間作りが容易になる。

第2提案 ツーパワー・スリーパワーで   最近の子どもは負けることが嫌いである。負けると我慢が出来なくて遊びを継続することができない。そこでツーパワー・スリーパワーで遊ぶことを行っている。トランプで七並べをするときに8人の子どもがいたら、1組のトランプだけを用いて、ツーパワー(二人組)4グループで七並べをするのである。ツーパワーになった二人は協力してカードを持つ係・出す係などになる。途中でもう一人入ったらツーパワーをスリーパワーにすればよい。負けの悔しさはツーパワーになることにより半減し、かつ喜びは倍になる。
 ツーパワー・スリーパワーの手法を野球やキックベース・ドッジボール・陣取りなどにも活用するとルールの分からない子どもも仲間に入れることが出来る。小さい子どもを仲間に入れても不利にならない。バックギャモンなどの通常二人でやるゲームもサイコロを振る係・動かす係・良い目が出るように祈る係の3人組対3人組6人で遊ぶことが出来るようになる。 

第3提案 ワン・ツー・スリーの原則  
 子どもの遊びのルールを教えるときに二つまでにするという原則である。ワンは一つ・ツーはツインの二つだが、スリーはスライスが語源でたくさんとの意味だそうだ。引っ張り出し鬼をするのに、「丸の中に入ること」「オニは外から引っ張りだすこと」の二つのルールを最初は教えるだけのほうが良い。「立ってはいけない」「キックはダメ」「片足をオニは入れてよい」「足首と手首だけをひく」などのルールを縷々と説明しても誰も聞いていない。スリーはたくさん過ぎてダメなのである。
 二つのルールを教えてともかく始める。途中で危険な行為があったり、ルール確認の必要性があったときにゲームをちょっとストップし、きちんとアドバイスをし、さっと再開することが必要である。これを頭をとってちょきんさの原則と私は言っている。ワン・ツー・スリーの原則とちょきんさの原則をうまく使うと遊びながら遊びのルールを徐々に教えることが出来るようになる。

第4提案 ロールプレーを取り入れよう   最近の子どもは極端に負けを嫌い、我慢ができない子どもが多い。そこでジャンケン遊びなどで負けを我慢するロールプレーの遊びが必要である。
 参りましたジャンケン遊びは二人でジャンケンをし、負けたら膝立ち、また負けたら正座・正座で負けたら相手に「参りました」と深々と頭を下げるというものである。大人が子どもの負けると子どもは大喜びである。でも子どもが負けたときは子どもが深々と「参りました」という。こんなロールプレーをすると楽しく我慢ができるようになる。先生ごっこなどのごっこ遊びの役割はジャンケン等で決めて誰もがいろいろな役割をできるようにすることが大切である。そうでないと、いつも先生役の子どもが威張ってばかりいることになる。大人も同じで子どもに威張ってばかりいないでたまに子どもの役になってみるのも良い。

第5提案 体性感覚を使った遊びを増やす    五感の考えから脱却し、体性感覚を取り入れた遊びを増やすことが大切である。五感とは視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚である。五感が大切ということで、実はうまくいかなかった時に「いつもあなたはちゃんと聞いていないから・見ていないから」と指導者の言い訳に五感が使われることが多いのである。私たちが理解するということは本当は身体で理解することが大事である。体性感覚とは触覚・痛覚・冷覚・熱覚・運動感覚・筋肉感覚などのことで、特殊感覚(視覚・聴覚・味覚・臭覚・平衡感覚)などを統御する働きを持っているのである。
 子どもに遊びを伝えるときに言葉だけでなく、全身を使って教えることが必要との考えである。詩の朗読でも心を動かし、手と足を動かし、伝えようとすれば子どもに伝わるものである。
 折り紙の折り方を教えるときでも「まず半分に折って、しっかりしっかり強くアイロンをかける」「つぎにその紙を開いて気合いで『キャー』といって倒す。」「また紙を開いて半分にしっかりしっかりしっかり折り、その紙を開いて頭に載せて体育遊戯室を一周する」といったやり方をすれば、異年齢異世代を一緒に紙飛行機作りをすることができる。同時に折紙遊びは体育遊び・表現遊びにもなるのである。

第6提案 しっかりと叱る 自己責任の原則で遊ぶ    
 子どもはある程度仲良くなってくると大ふざけをするものである。また小学生低学年時代の子どもは「棒があったら振り回し、石があったら投げ、カーテンにすがり、穴があったら掘る」という本能を発揮する時期である。遊びの中で危険な行為があったらきちんと叱ることが必要である。ただし本能でやっているので考えてやっているわけではない。「何で石などをなげるの。危ないでしょ。やっていいことか悪いことか考えてみなさい」などという注意は意味があまりない。なぜならば考えて行動しているわけではないからである。危険な行為した手や足を強く握り締めたりして叱り『でもあなたは良い子』といってやると子どもは次第にやって悪いことを理解してくる。なお女の子どもは悪いことをして叱られる男の子どもを見て学習するから男の子をきちんと叱っておけば女の子はそんなに叱る必要性は少なくなる。
 小学生は事理弁識能力があり、自分の生命は自分で守ることが基本とされている。遊びの中で自己責任の原則をしっかり守って遊ばせることが必要である。(乳幼児は保護者の管理責任である)とはいっても子どものことである。その意味で自己責任の原則で遊ぶことと子どもをしっかり叱ることはリンクされる必要があると私は考えている。

第7提案  understandしよう  
 理解するは英語でunderstandである。文字通り下側に立つである。子どもは存在自体がunderstandだから子どもの目線のさらにその下側に立つことに子どもの理解を深めることが必要である。また子どもに見透かされることがなくなる。

第8提案 ケースワークはグループワークで  
 ケースワークの必要な子どもを大人がついてやろうとすることが多いが、基本は子どもは子ども同士の切磋琢磨で成長するものである。ケースワークの必要な子どもも遊びの仲間に入れることの出来る排他的でない遊び集団を作ることが必要である。また子どもをunderstandするということは遊び集団の中で子どもがどのような存在であるかを見ることでもあるので、ワーカーは個々の子どもの遊び相手をするのではなくて、5人〜10人くらいの遊び集団が5グループから10グループうまく遊んでいるかをサポートすることが必要である。こうすれば少ない職員で多数の子どもたちの切磋琢磨を見ることも出来る。


9提案 自然との遊びを増やそう  人間は自然の一部である。アグレッシブな子ども・自閉症の子ども・仲良く遊べない子どもも自分の採ってきたモチグサのテンプラを食べたり、自分の採ってきたハコベの菜めしを食べたりすると元気が出てくる。海に行ってザブーン・ザブーンの波につかっていると落ち着きが出てくる。秋に拾ってきたドングリのコマを作ればベーブレードよりも面白い。センターで泊ろうでの松林への肝試しは何があるわけではないが人気が一番である。
 身近な自然とのふれあいをまず大人が心がけることである。その意味からも子どもの遊び場環境作り(草取り・木の剪定・ごみ拾い・遊具や建物修繕・きれいな環境作り)こそが児童厚生員の一番の仕事だと私は考えている。子どもの遊び場環境作りは同時にユニバーサルデザイン
の考えで実施することが必要である。


教育の世界における言霊について

有明児童センター田中純一

 井沢元彦さんの逆説の日本史は私の好きな本の一つです。また日本人が言霊に非常に左右されていることにも同感です。

 私は1951年に新潟県柏崎市で生まれました。その後父が教員の関係で新潟県南蒲原郡下田村という山奥で3歳から15歳までを過しました。その後父が55歳で教員を定年となり、新潟市に転居しました。私は下田村から出て三条市の三条高校に下宿していましたが、そのまま下宿をし、三条高校を卒業しました。高校生時代はベトナム戦争が激しい時代で、正義感が強かった私はデモなどをやっていました。

 1970年の70年安保の頃は新潟大学教育学部で学生運動をやっていました。その後,学生運動にも疑問を感じたので、働き始め、朝鮮料理屋のボーイや中国物産屋の経営・トラックの運転手などをやり、22歳でまた大学に戻り、26歳で1987年に大学を卒業しました。

 1980年4月に民間の有明児童センターが建設され、そこの児童センターの児童厚生員として採用されました。その後主任となり、現在児童育成係長をしています。

 考え方は簡単に言うと自分の見たもの感じたものを素直に考えるほうです。ベトナム反戦運動もベトナムでの虐殺はおかしいとの考えからです。その後学生運動の中で、やはり言葉の上滑りに疑問を感じ、働きはじめました。けれど労働者だからすばらしいというわけでもなく、多くの疑問を感じました。勉強しなおそうと22歳で大学に戻り、4年間大学生活をやり、多くのことを学んだように思います。その後教員の講師生活を養護学校や小学校講師をやりました。感じたことは私には組合運動をやっている人より、校長さんの方が子どものためや日本のことを考えているということです。

 その後ベトナム戦争のことや北朝鮮のこと中国共産党のことなどを違った角度からみてみることができました。

 長い前置きになってしまいました。こんな人生を送っているので、ある時は過激派と呼ばれ、日本共産党の人にはトロツキストなどといわれ、軍事のことも考えねばなどと思っていると、石原慎太郎さんと一緒の右翼保守反動と言われ、暴力をふるう子どもをきちんと叱らねばというと、暴力教師といわれてきたように思います。

 幸いくじけずに縁の下から活動してきて、児童センターや児童遊園の活動でそれなりに評価も受け、なんとか子どもと共に歩もうと考えているこのごろです。

 本題になりますが、教育や児童健全育成の世界も大いに悪い言霊に支配されているように思います。私の感じていることをお伝えし、またよい意味での言霊を普及させていきたいと思い、少し書かせていただきます。

 子どものための学校五日制という言葉のウソ

 みんな気づいていることは2002年から始まったのは学校教職員の週休二日制である。その意図するところは私の感じからいうと日本人の勤労意欲を落とし、学力の低下を図り、国際競争力を落とすためのではないかと思っています。欧米のようにキリスト教の場合は土曜日に遊び、日曜日に教会で懺悔し、月曜から心新しくして働く地域と日本は違います。週休二日制よりも土曜日が半ドンで仲間作りをして子ども同士の交流ができるようになったほうがよいと子どもも言っています。半歩譲っても、四週六休で充分でした。それを何が何でも週休二日制にしようとしたことに組合と文部科学省の間違いがあります。

 そして最大の失敗は学校教職員の週休二日制の実現を子どものゆとりを取り戻すための『子どものための学校五日制』と言い換えたことです。教職員のための週休二日制が「子どものための学校五日制」ということで、それに反対するものは保守反動・過激派みたいなことになってしまうのです。なにせ『こどものため』にすることに反対するからです。

 マスコミの馬鹿さ加減にもアンビリバブルです。私の職場は有明児童センターという子どもの遊び場です。月曜から土曜日まで週6日放課後児童クラブや乳幼児・保護者等で1220人年間6万人の利用でにぎわっています。広さは663平方メートルですから、人口密度が高く、職員の週休二日制を実施しているので、実質4.5人の職員でがんばっています。

そこで朝日新聞等が『学校五日制が始まって3ヶ月』等の特集を組んで取材に来ます。私は「学校五日制ではない。学校週休二日制である。このため子どもは困っている。月曜から金曜までの授業時間が長くなり、基礎学力が落ちている。児童館でも土曜日には学習タイムを設けたり、平日の閉館時間を5時半から6時半にして児童が遊べるようにしているが、子どもは疲れてきている。土曜日も利用じたいは四週六休のときより減っている。」と話をしても、記事にされてしますと正反対に近いことになって「学校五日制で有明児童センターで遊ぶ子ども達」なんて感じの写真が掲載され、内容は違う人の話が載るのである。なんで学校五日制ではない週休二日制であるといっている人の主張を載せられないのだろうか。学校週休二日制の取材はこのほかにもテレビ局・地元新聞社といくつかあったのですが、記事にならないか趣旨とは違うことを書かれてしまいました。最近では一人主張するしかないと思っています。幸い新潟県・新潟市の児童館・児童クラブの職員の研修会で講師をしているので、そこで口頭で話し、自分のホームページで仲間を増やしていこうと考え、がんばっています。

  
体罰の禁止というタブー

  体罰の禁止というのは何か日本国憲法か教育基本法にでも書いてある教育の基本とでも思っている人たちがいます。児童が他人に対し危険な行使をしてもそれを取り締まることができません。暴力を学校内において放置している現状は「体罰の禁止」のタブーに犯されていることにあります。

 知人の子どもが高校1年生のときのことです。校庭で牛乳とパンの昼食をとっていたら、突然ある高校生が蹴りを入れてきたのだそうです。そこで小競り合いになりました。高校の教員が飛んできて「暴力はやめなさい」と入ってきたそうです。蹴りを入れてきた子どもは「うるさいなあ先こう」と教員に向かっていきました。教員は怖くなって逃げていきました。知人の子どもは逃げていく教員にそれ以上関わらないように蹴りを入れた子どもに注意しもめたのですが、まあ終わりになったとのコトでした。その後学校から処分が出ました。蹴りを入れた子どもは退学処分。知人の子どもは無期停学でした。なんで無期停学なのかと私と中学校の教員である知人が高校の担任の先生に二人で聞きました。・・私が知人の家でその話を聞いていたときに担任が無期停学を言いにきて私もそこにいたので・・

「西川竹園高校は一切の暴力を許さない高校です」と答えるのです。「けれどじっさいに暴力を振るう子どもに対してはどうするのですか。先生も逃げていったじゃないですか。黙って殴られるか逃げるかするのがよいのですか。」と聞くととにかく「西川竹園高校は暴力を許さない」の一点張りで話にならないのです。憲法九条論争と一緒です。

 私は児童館・児童クラブにおける児童の安全管理を主に研究課題にしています。体罰の禁止というのは

 学校教育法

第十一条  校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。

 学校教育法の教育以上必要と認めるときに学生・生徒・児童に対する懲戒を加えることができることを書いてあるだけです。教育上の必要として体罰ができないだけです。一方日本国憲法では

 

 日本国憲法

第十一条  国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

第十二条  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 とあり、日本国民の基本的人権はい国民の不断の努力によって、これを保持しなければならないのだから、公立教職員である西川竹園高校の職員は何もしていない子どもに対して蹴りをいれるような高校生を放置しておくことのほうが問題なのです。教育上必要なこととして体罰ではなく、不当な暴力を阻止するための実力行使をどうするかの問題なのです。私は職場で不当な暴力は許さないように時には実力行使もします。殴る子どもの人権を主張し、殴られる子どもの人権を奪うような「体罰の禁止」などはないほうがよいのです。

 しかしこの問題もまたもやマスコミによって叩かれています。ちょっと粗暴傾向の子どもを叱ったり、手を叩いたりすると「暴力教師」のレッテルを貼ります。私はいつも貼られています。でも負けないでがんばっています。私の場合は常に公開している強さと悪いことや暴力は手や足がやるから子どもの目線まで下がって悪いことをした手や足を強くたたいたりするようにしています。

    レッテル貼りをする相談機関

 教育相談機関は子どものためにあるということになっていますが、実際は能力のない教員やかなりおかしい教員を守るためにあるように思います。それは教職員の現場だけではなく、児童館・児童クラブ・保育園・幼稚園等先生といわれる職業の中に蔓延しています。ちょっとうまく指導できない子どもがいると「あの子どもは多動である」「粗暴傾向がある」「自閉症である」「ADHDだ」「内気である」「元気がない」「親に問題がある」「LDだ」などということが、すぐに職員室等で話されます。私は「あなたの指導方法があまりに下手なのでは」「あなたが陰険だからでしょ」といいたくなることがあります。たしかに病気の子どももいます。親が脳性まひや自閉症・ADHD等であることを認めたくなくて無理に普通学級に通学させようと無理をしていることもあります。でも多くの相談機関は教員に問題がある場合でも子どもにレッテル貼りをし、子どものせいにすることも多々あります。私自身の経験からいうと相談に来る子どもの3分の2くらいは「みんなと仲良く楽しく遊ぶ」経験で薬等を服用したり、障害児学校に行かなくても大丈夫な子どもがいるように感じます。

 レッテル貼りを恐れることで、障害がある子どもを無理に普通学校に通わせようとするのも問題です。そもそも普通学校・特殊学校などという文部科学省の分け方に問題があります。言霊に支配されている日本人にはもっときちんと障害をもっているものはとくに教育を厚く受ける権利があることを明記することが大切と思います。そしてインテグレーションは障害児学校に障害のない児童もたくさん入れて交流を図ることが大事と私は考えています。

 

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