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522日(金) 如水伍訓

如水五訓

  • 自ら活動し他を動かしむるは水なり
  • 常に己の進路を求めて止まらざるは水なり
  • 障害に逢ひて激しく其勢を百倍し得るは水なり
  • 自ら潔らかにして他の汚を洗ひ清濁併せ容るるの量あるは水なり
  • 洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり雪と変し霰(あられ)となり凝ては玲瓏(れいろう)たる鏡となり其性を失はざるは水なり

黒田如水
~秀吉の知恵袋~

 羽柴秀吉の両翼軍師の一翼、黒田官兵衛。もう一翼の竹中半兵衛とはちがい、野心多き人物として描かれることが多い。天下を望んだのは確かであろう。関ヶ原合戦で東軍と西軍で日本が真っ二つに割れる中、一人九州で決起し、第三勢力として天下に覇を唱えようとした。だが関ヶ原で、わずか1日で東軍は大勝する。官兵衛は事がおわったことを知ると、うそのようなあきらめのよさで、再び隠居の身に戻った。この見事なまでの引き際の良さはどこから来るのだろうか?

 如水五訓は水の本質を言い当てながら同時に人間の活動の基本を言っている。つまり同じ場所に留まらないで常に動くことが必要だ。また活路は自分の中にあるとか障害にあっても挫けないでやるとか水としての本質は維持しているが同時にいかようにも変化できることは大切である。

 児童健全育成の仕事は観念論的なものではなくて、本質的なことを軸としながらも手法は次々と変化させていくことが寛容である。また子どもは大人以上に変化のスピードが速い。小学生の場合に大人の3倍以上のスピードで動いている。だから「ダメなものはダメ」の本質は「今は何があってもダメ」との意味でもある。なぜダメかをくどくど説明している間に状況が変化すればダメなことがよいことになり、よいことがダメになることも多いのである。例えば風船を膨らますのに今まではできるだけ自分で膨らませるようにしていた。「先生膨らまして」と言われて「ダメ。自分で頑張るかお友達に膨らましてもらいなさい」と言っていた。ところが新型インフルエンザ発生の状況で野球場のジェット風船が禁止された。こうなると子ども達が「自分で膨らましたい」とのことが「ダメ」になる。風船を膨らます器具で膨らましてやることがよいことになる。このように状況は常に変化する。だから子どもになぜダメかをいちいち説明してあげることが大切だなどということは常に正しいとは限らない。時には「ダメなのはダメ」で通すことが必要となるのである。

 もう一点考えなければならないことは水は一ヶ所に留まると腐ることである。そして病原菌が蔓延する。水は常に動かすことが必要である。工作室の手洗い場の水をふいておいたり、湯沸かし室の食器乾燥機の水をきれいにしたり、下水のゴミをとって水がきれいに流れるようにしておくことは衛星管理上もとても必要なことである。また男子トイレの小便器を毎日洗う必要性もここにある。

 うがいについても動いている水は危険がないから、うがいをする途中は水洗いで大丈夫であろう。しかしながら最後に洗う時はきちんと洗って乾燥機で乾燥して水分がなくなるようにすることは大切なことである。

 水の性質上一ヶ所にとどめることは危険である。同様に人間も常に変化する存在であるから、その変化を前提に物事を行うことが必要だ。オーケストラの集いはたしかに素晴らしい行事であるが、状況が変化すれば中止することも必要である。

5月29日(金)クローバー公園・・カオス理論・・花緑理論

 

 一面に砂利で敷かれていた1000坪の敷地にクローバーの種を撒き続けて、またイネ科の雑草をとり続けて4年目になりました。クローバーはツメクサと言います。昔,陶器を運ぶときに割れないようにクローバーの葉を乾燥させて詰めたことから詰め草となづけられたそうです。

 ツメクサには白いものと赤いものがあります。白いものがみんながよく言う四葉があるクローバーでシロツメクサです。写真の白い花のところがシロツメクサです。赤い花はアカツメクサでシロツメクサよりも大きくなります。50cmくらいになることもあります。アカツメクサはとても蜜が甘いのが特徴です。1年生の男の子に

「美人のお母さんにアカツメクサのブーケをプレゼントしてあげてよ」と言って渡したのに

「お母さん。昨日、プレゼントもらったでしょう」と私が聞いたら

「もらってません」お父さんが子どもと昨日一緒だったので

「お父さん。昨日のブーケはどうなりました?」

「子どもが車の中で食べてしまって、お母さんには届かなかった」とのことでした。

 除草剤を撒かないで育てているから食べることも出来ます。またクローバーの冠を作ったり、一輪挿しに使ったりとみんなで遊んでいます。

 カオス理論とはある時決定的な変化が起きる場合があるのですが、その変化は小さな状況の変化が積み重なり、他の状況もいろいろ組み合わさって時にカオス状態になり、あるちょっとした刺激で決定的に変わるというものです。気象の変化や台風の発生などもカオス理論で理解できます。またディアフタートモローのように地球温暖化で南極の氷が大量に海に流れ込み、海流の温度の変化が一気に地球を氷河期にするなどということも科学的な根拠のあることのようです。

 クローバー公園とカオス理論がどのように関係するかというと上の写真を見ると分かると思います。上の写真は昨年の9月の状況です。日本福祉医療専門学校の学生さん達の授業で環境整備こそが健全育成の道であるとの実践として草取りをしたものです。まだアカツメクサの背丈も低く、シロツメクサはまだまだ小さく、イネ科の雑草がたくさんありました。この雑草を学生さんたちと一緒にとったのです。この時に誰も半年後にアカツメクサとシロツメクサでいっぱいの公園になるとは思っていなかったのです。またこのことに取り組んだ3年前には砂利だらけのところにクローバーでいっぱいになるとは誰も思うことはなかったでしょう。

 イネ科の雑草をとり続ける。クローバーの種を撒くという地道な繰り返しの中で次第にクローバーが砂利の中に根を張り、土地の保水力が高まりました。そしてクローバーは空気中の窒素を取り込みができます。中国からの黄砂なども栄養の元として残ったでしょうし、夏の暑さで枯れたしまったクローバーも栄養となったでしょう。こうした小さなことの積み重ねがある時に頂点に達して全体が花と緑でいっぱいになったのです。これはカオス理論の応用と私は考えています。

 私は同じことを自宅前の平島公園でやっています。写真は日曜日にたくさんの子ども達が公園で遊んでいる様子です。70人ほどの親子で賑わっていました。10年前までは汚い・臭い公園で有名でしたが、10年後には花いっぱい・きれい・遊具がたくさんある公園で有名になっています。ここまで来るために自治会。ボランティア・地域の仲間の地道な活動(月に最低2回の草取り・毎日のゴミ拾い・水やりなどなど)といろいろな問題解決のための苦労がありました。でも2年ほど前よりもカオス理論的には根本的な変化(背の高くなる草がほぼなくなり代わりに背の低い草が中心となったとか、住民が公園活動に共感を覚えるようになったとか、公園の端っこの方に草を植えてくれる人が増えたとか、犬の糞をそのままにする人が減ってきたとか、新潟市がポイ捨て禁止条例を作ったとか)が生じたのです。カオス理論から言うと物事の変化とは一つのことで起きるのではなくて多くの要因があり、その多くの要因を少しずつ地道に取り組むことが大切なのです。


 

 花緑理論へと

 昨日、午前中が休みだったので三条市(旧下田村)森町の高城のヒメサユリを見てきました。5年ほどの間にヒメサユリはたくさんに増えていました。山城跡まで50分ほど歩く山道の脇をヒメサユリがたくさん咲いていました。ここでも頑張っているなあと思いました。

 子ども達の健全育成は花と緑の環境を作ってあげることが一番であると私は考えています。雑草を地道にとり、きれいな花を植え、犬の糞やゴミが落ちていないような環境を作ります。子ども達が裸足で走り回ることができる環境を作ります。すると親子連れや小学生・中学生がたくさん集まってきます。今の子ども達は自己中心的な子どもが多いので当然トラブルが発生します。そのトラブルをしっかりと叱ることによって仲間つくりをしていきます。もちろん子どもや保護者にも花緑環境つくりの手伝いをしてもらいます。すると仲間作りが出来てきます。良い仲間ができると犯罪的行為が減少します。花緑の環境つくりの中で子ども達の健全育成ができるというものです。これを私は花緑理論と名づけています。この反対が割れ窓理論です。花緑理論はとても地道な活動の積み重ねが必要です。安易は道ではないけれど確実な道であると私は思っています。

 カオス理論によれば一定の地道な活動の繰り返しがある時に決定的に爆発的に開花するものだということです。今、クローバー公園・平島公園。有明保育園グランドが決定的な変化をしているのです。

 

5月13日(水) 子どもの発する言葉と本音

 臨床心理学者の河合隼雄の先生の言葉である。

 「真実という劇薬はめったに使うことは出来ない。嘘という常備薬は使いすぎると効かなくなる。普通はまことしやかなことを話すのが良い」との趣旨を話されている。

 子ども達の発する言葉は必ずしも子どもの本音を現しているものではないことが多い。例えば「○○先生なんか大嫌い。ブス・デブ」などと男の子が言うのはその先生に自分を注目して欲しいとのことである。男でも女でもできたら相手にしたくない人間はシカトするものだ。

シカトの語源は10月の花札の鹿が花と反対方向を向いていることから「鹿の十」から無視することをシカトするとなり、それが仲間から完全に排斥する隠語になったという。

 人間が一番辛いのはシカトされることである。昔の村八分と一緒である。村八分でも葬祭火事等の2分は互いに助け合ったのにね。

 ということでシカトでないから悪口などは好き表現そのものと私は思います。このくらいに子どもの発する言葉と本音は違います。工作や行事などをする時に「ねえ。折り紙しようよ」」との声かけに「しないよ」と答えるときはたいていは「やりたいけれど上手くできないので参加したくない」との意味があることが多いものです。ですから「しないよ」といった子どもの物を別に作ってあげて、一緒に飛行機飛ばしなどをすればしないはずの子どもが一番遊びに熱中することが多いものです。

 大人の人も日本人はかっけうシャイな人が多いので本音ではなくて別の言い方をすることが多いものです。子どもが児童クラブやジュニアクラブを欠席し続けているときに「なかなかセンターに行かなくてすみません。ご迷惑をかけているようなので退会したいと思います」との話は「もう少し、自分の子どもに声かけをしていただきたいと思います」との真の思いがあることが多々あります。「退会のことはわかりましたが、こちらでも5月いっぱいは声かけをしたいと思います。○○ちゃんがいないと私は寂しいから」と答えて、職員みんなでサポートすれば元気に遊びに来るようになることも多いのです。またお母さん・お父さんも子どもの言葉をそのまま受け入れる傾向があります。「センターをやめたい」などとの表現は「お母さんこっちをもっと見てよ」と言っていることもあるからです。そこら辺の子どもと大人の発する言葉と本音を聞き分ける能力を私達は身につけることが必要です。そのためには日々の声かけが大切になると共に、長期に休んでいる子どもの言葉にならないメッセージを感じ取り、「6月にセンターに泊まろうがあるから、ぜひ来てね」等の電話を入れることが必要です。そのためにセンターの電話はあるとも言えるのです。

 逆に督促等の電話を入れるときも別の用をきちんと用意しておくことが必要です。「66日にオーケストラの集いがあります。○○ちゃんは楽器が好きみたいだから、土曜日にぜひおいでください。それから5月分のクラブ費がまだみたいなのでよろしくお願いします。」と言った言い方が大切と思います。日々の声かけとunderstandがされていれば子どもの話題があるはずです。


6月8日 事務の論理・事業の論理

 一つの事象は一つの方向からしか見れないことが多い。例えば私達は地球上にいるのだから、ガガーリンのように一般的には「青い地球」を見ることができない。地球上から天空をみるのと天空から地球を見るのでは大きな違いとなる。

 児童館・児童センターの活動も一緒である。例えば写真に撮って児童館の活動を紹介したとしてもほんの一部であってほとんどのことは分からないともいえるであろう。児童館の・児童クラブ・児童センターの活動を考える時に事務的側面と事業的側面があり、その面から考えてみることも必要となろう。

 

 一つのことをやる時に事務の論理から考えると申請書・計画書・決算書・報告書などは少しも狂いがないように作成することが必要となる。とくに会計書類においては一銭の狂いが無いことが必要である。これは事務的な論理でとても大切なことです。会計処理においては1円の間違いはとても困ることです。

 事業の論理から考えてみると、当日の人数・天気・予定外のことなどが発生するわけですから、予定通り・計画通りに物事がいくとは限りません。ですから運営はどうしてもアバウトになります。アバウトにならなければ大きな事業などは実施できるわけがありません。

 事業の論理はアバウトで事務の論理は緻密で間違いのないことが要求されます。この矛盾をどのようにしたら良いかを考えることが必要です。

 

 第1に必要とされることが今要求されていることが「事務的な論理」によるものか「事業的な論理」によるものかを把握しておくことです。会計処理においては「事務的な論理」が要求されているのですから、一銭の間違いもないようにすることが大切です。小口処理は速やかに間違いのないようにしなければなりません。また金券(タクシー券・切手等)も似たところがあると思います。文書収発・事業報告等は事務的な論理となります。これに対してローラースケートをするとか、クローバー公園で遊ぶとか餅つき会などは事業の論理で動いている面があります。多少の間違いがあっても(exも餅つき会の食べはじめの時間が12時の予定が12時15分になったり、11時45分になったりすること。モチが余ったりすることなど)それほど気にすることはないでしょう。だいたいトン汁ならば大鍋2つくらいまでは残ることがあると考えておくことが必要です。もちろんちょうどなくなってもかまわないのですが。

 シャボン玉をネットで買う時に消費税・輸送料・代引き手数料・商品の値段の総合計が間違っては困りますが、手に入れたシャボン玉をこぼしてしまって弁償を迫る必要はないということです。

 

 第2に必要とされることは事務論理と事業論理の上手い具合のすり合わせが必要だということです。一つの現象を事務的な見るか事業的に見るかの違いですから、無関係ではないということです。一体でもあることを自覚する必要があるのです。画用紙の購入において170枚必要なので25円の画用紙を170枚買って、4250円払うか、100枚一〆2000円を2〆買って4000円払うのが子ども達にとって良いかを考えることが必要です。事務論理的にはきちんと領収書がそろっていれば良いのです。だから2〆買うのがベターなのですが、事務論理を事業論理に持ち込んで170枚4250円払うのが正義と考えるのでは運営が上手くいかなくなるのです。反対に事業論理を事務的扱いをすべきところに出してきて250円を着服したり、30枚を私的に流用することは間違いです。

 

 このように考えてみると公的な仕事においては一人で判断をしないでダブル・トリプルで確認をすることが必要となります。100枚2〆買って、4000円を払い、30枚の画用紙を他の用途にも使うとのやり方が必要となるように思います。

 

 仕事をする時に事業論理か事務論理かを考えて行動するとずいぶんと見えてくることがたくさんあると思います。

6月9日 多重知能理論

 以下は放送大学院発達心理学特論シラバスからのコピーである。

人の能力は、相対的に独立したいくつかの機能単位(モジュール)から成り立っているという考え方が、この20年ほどの間に有力視されるようになってきた。多重知能理論では、人間の能力を学校知能、社会的知能、芸術的知能に大別する。心にモジュール性があるということは、それぞれの知能が相互に独立して発達するということである。特定の才能を発達早期から鍛える英才教育と、さまざまなモジュールを広く満遍なく育てる全人教育は、一見すると正反対の目標に立っているようだが、いずれも知能のモジュール説からみれば妥当な考え方である。すなわち、知能のモジュール説を学ぶことは、教育のあり方を考える上で大きな示唆を与えてくれるものである。

知能は知能指数が高いといった風に言われたり、あの人は頭が良いといった感じで一つのものと一般的には考えられている。しかし一つのものと考えてしまうことが正しいとは限らない。ある一面から見た時に正しいことであっても違って面からも考えて見ることも必要であろう。事務の論理と事業の論理と同じようにダブルで考えてみることも必要であろう。

以下は発達心理学からの私の抜粋である。

ガードナーの多重知能理論

ガードナーは心のモジュール性を主張した。具体的な知能モジュールとして①言語的知能②論理―数学的知能③空間的知能④音楽的知能⑤身体―運動的知能⑥個人内知能⑦対人的知能をあげた。これらの知能はそれぞれある程度独立して存在しているというものである。②の論理的―数学的知能が劣っていても⑤の身体―運動的知能が優れている人もいるであろう。また論理的―数学的知能に優れていても対人的知能が劣る人もいる。こうして知能がそれぞれ独立したものと考えると歌を歌いながら作業をするとか、運転をしながら会話をするとかいうことができる根拠ともなる。逆に同じモジュールの中では例えば割り算をしながら、人はいかに生きるべきかを考えるなどということは無理ということになる。同様に歌を歌いながら他の曲を聴いて楽譜に記入することは無理となるであろう。

このように知能を多重知能理論的に考えると教育においてどのように子どもを育てるかとの考えが出てくる。一つは一つの分野をとくに伸ばす早期英才教育のやり方となる。しかしながら、早期英才教育にみんなが適しているとは考えられ場合も多数あるように私は思う。次に個性化教育でその子どもの個性を尊重して得意とする分野を伸ばしてあげるものだ。しかしながらやりたくないとすぐに逃げたり逃避する子どもを安易に認める結果となることもある。補償教育はとくに遅れている部分を伸ばすための教育となるが、現在の特別支援学級の教育のようにたんにあるモジュールを低い段階に落として繰り返すばかりで子どもの劣等感を助長してしまうことになる場合もある。全人教育はすべてのモジュールを経験させて全面的な発達を促そうというものであるが、教える側にそれだけのものがあるとは限らないので難しい。

マイナス面ばかり挙げたがもちろんそれぞれのプラス面もある。このような状況を考えながら、児童館・児童センター・児童クラブにおいて何ができるかを考えることが必要であろうと思う。特別に指導方法に長けていないならば、自分の特技を活かしながら、出来ないことがたくさんあるねと子ども達と一緒に積み上げていくことが私は大切ではないかと思っている。

6月10日 自立と自律

 自分のことが自分で出来て、自分の地盤で立っていくことはつまり自立することはとても大切であろう。ただ自立するということは同時に自分自身の行動を律することができる自律性が要求されるであろう。

 古来、日本社会は子どもを大切にする社会であった。

山上憶良

 新世代をとりまく最近の大人たちは、環境も空恐しい思いがします。パチンコに夢中になった母親が、車に幼児を置きっ放しにして死に至らしめたというニュース。パチンコ代に事欠いて売春をする母親などなど。
 万葉集の山上憶良の次のような歌をそういう親たちにつきつけてやりたいです。

 穴餐めば 子ども思ほゆ 栗食めば
     まして偲はゆ 何処より 来たりしものそ
        眼交ひに もとな懸りて 安眠しなさぬ

(うりはめば こどもおもほゆ くりくめば ましておもはゆ いづくより きたりしものそ まなかまじわひに もとなかかりて やすいしなさぬ)

反歌  銀も金も玉も何せむに
     勝れる宝子に及かめやも

(しろかねもくがねもたまもなにもせむに まされるほうしにしかめやも)

 「瓜を食べると子どものことが思われる、栗を食べると一層偲ばれてくる、子どもというものは一体どこから来たのか。子ども面影が眼前にむやみにちらついて安眠もさせないことですよ」という意昧。瓜一個が三文、栗は最高のおやつで四合が約八文、子どもの面影か目に浮かんできて安眠でき一一一教師でないも自分の受持に問題の子がいたら、その子の姿が浮かんでくること。これをメジテーションといって、カウンセリングの大事な方法になっているのです。
 「銀も金も宝玉も子どもという宝に及ぶものがありましょうか」当時、金銀宝石といったら異常な魅力を持っていました。それよりも、瓜や栗を食べている子どもの方がはるかに宝だというのです。パチンコに夢中になって子を忘れるなど、もってのほかです。まさに銀も金もパチンコ玉もなにせむにです。ジアイ会長のいう、未来を築く子どもこそまさになににも代えがたい地球の宝ではないでしょうか。憶良は百済(韓国)からの帰化人でありました。万葉集には八十首載っています。

 これに対して西欧文明は大人中心の社会である。生命を守る順番が日本は一に子ども・2にお母さん・3にお父さんであるのに対し、西欧文明では1に自分・2に連れ合い・3に子どもとなっているケースが多い。こうした大人中心文明が子どもの権利を主張してその主張を丸呑みして日本においてこれ以上に子どもの権利を主張すると子どもの成長が損なわれ、子どもの自律が出来なくなるのではないかと私は思う。

 

 自律性は行動を自己制御している状態であるという。外的刺激や内的衝動に対して単に反応するだけではなくて、個人の内的プロセスに応じて、反応を維持したり、抑制したり、変容させたりして行動を自己制御させることが自律性であるという。

 行動の自己制御には、情動の制御・他者からの従順さ(従順性・満足の遅延・誘惑に対する抵抗など)自分自身の意思や標準にもとづく自己決定や自己主張などが含まれる。

 自律的な子どもは、社会的に有能な自己価値観を持ち、さまざまな問題行動を起こしにくい。自己制御の発達、社会的な発達やパーソナリティ発達の重要な核を構成すると考えられる。

 

     自律性と依存

自律することと他者や環境に依存することとは矛盾しない。基本的な安全基地があることが自律するためには必要である。たしかなアタッチメントの対象を持っていることは大切なことである。Ex自律させるために小さいときから個室に寝せることた自律を促すことにはなるとは限らない。

 

自己制御の発達

乳幼児期において泣いたからといってすぐに授乳するよりは、授乳の準備をする間待たせることは、子ども自身のネガティブな情動に対処するための練習の機会として必要である。

就学前期において注意そらし方略などを使ったりして徐々に言語的自己教示で誘惑を我慢できる能力を培っていくことも必要である。

学童期においては子どもはさまざまな問題で自己決定が出来るようになってくるが、あまりに早期に子どもの自己決定を大きく認めることは後の心理的適応によくない影響を与える可能性があるという。

 

自立性の発達を生み出し、促進する要因

ビィゴツキーが提唱した発達の最近接領域の概念が有効である。子どもは自分自身の情動や行動を充分に制御できない。子どもにできることは子どもにさせながら、必要に応じてさまざまな援助を行い、子どもの情動や行動を外から制御することも必要である。子どもの問題解決や情動制御において、子どもが処理できるレベルまで情動を抑えて行動の手順を単純化したりすることが必要となる。課題が複雑で難しい場合には子どもの適応的な行動システムは機能していないから課題や情動を自分でうまく処理するための練習にならない。

 

権威ある親行動(バウムリンドより)

自信があり、自己制御的で探索的な子ども→→統制的で要求的であると共に温かく、説明的受容的な親

ふさぎがちで引っ込み思案で情動的に流されやすい子ども→→子どもと距離をとり統制的で温かさに欠ける親

自信がなく自己統制や探索が出来ない子ども→→統制や要求をすることが少なく、相対的に温かい親

 

アタッチメントと自己統御の発達

 乳児期においてアタッチメントを発達させて子どもは、ヨチヨチ歩きにおいて母親により従順であり、自己統御の兆しを多く示す。幼児期において、社会的に有能であり、大人に対する依存性が低い。学童期においても、社会的に有能で、友達と協力してする活動に積極的に参加することが多いという。

6月12日 自律すること2

 情動性と気質の効果

 活動性の高さやネガティブな情動性は、子どもの自己抑制の働きの弱さ(状況に十分に反省することなしに反応し、後のことを考えない傾向で、衝動的で気が散りやすく、忍耐がなくい、怒りやすい特徴を持つ)予測する。このような子ども達は、強い刺激を求める傾向を持つことが多い。自己制御の働きの弱さと強い刺激を求める傾向の子ども達は、ストレスを感じるとそれをすぐに解消しようと感じやすいという。

 活動性が高くネガティブな情動性が高い子どもを自律的で自分をうまくコントロールさせるために児童館・児童クラブではどのような手法を用いることができるであろうか。

 一つは目そらし方略であろう。ちょとしたことですぐに馬鹿と言われてすぐに切れてしまう子どもに対して、すぐに暴力を振るわないでまず先生に言いつけに来てと助言することが必要であろう。「誰々が馬鹿といった」と言ってきたら「それくらいのことで怒るんじゃない」などというよりは「○○を後で叱っておくからね。ところで今日のおやつはあなたの好きなお好み焼きだよ」とか「今日のラストタイムプレーは何やりたい」「飛行機お作ってあげようか」「ボール投げしない」などと別の方向に話題を変えることはとても有効的な手法である。

 とりあえす言いつけに来た子どもの言い分だけを十分に聞いてあげることも良い手法である。言いつけること自体が一つの愚痴であるから愚痴には評論をしないでただ聴いてあげることが有効である。なぜならば愚痴は愚かで病がついた知識なので発散することで愚かと病が消えていくことが多いのである。愚痴に評論したり、裁判官のように判決を下す必要はない。

 ロールプレーの手法を用いたごっこ遊びも大切な手法である。お母さんごっこ・先生ごっこなどでお母さんの気持ちになったり、先生の気持ちになったりすることができる。あかちゃんごっこではあかちゃんの気持ちになれるであろう。活動性が高く、ネガティブな情動性をもつ子どもは他人の気持ちになることができない。また、ジャンケン遊びなどでも負けることを極端に嫌う。けれどもジャンケン遊びで勝つことが楽しいのは負ける人が居てくれることであることに間違いはないであろう。勝ち負けのある遊びの中で負けを経験することは大切な我慢の経験でもある。

 最近の子どもが我慢できなくなってきたことは世の中が豊かになったことの悪影響もあると私は思う。腹がすけばすぐに冷蔵庫の中にはアイスからジュース・果物がある。夜も電気をつければいつでも明るい。昔は時々停電があった。停電となると1時間・2時間と電気のつかないことがあった。だから家族や仲間は暗い中で助け合うのに必要なとても有意義な存在であった。新潟大停電の時に白熱灯の下でみんながちょっと心が一緒になった気がしたのも停電の効果であるだろう。残念ながら夜になる前に復旧したが。

 我慢とか諦めは大切なことで我慢と諦めのないところに創造性とか自主性とかは発達しないように私は思う。我慢したり諦めたりする体験を今後どのように作っていくかは重要な課題であろうと思う。泣いても喚いてもどうしょうもないことが世の中にはたくさんある。そのことを親や大人は子どもにきちんと教えていく必要がある。

 ネガティブな情動性は劣等感の裏返しであるともいえる。自信があり自尊心があればポジティブな考え方になる。多重知能理論はその意味で有用な理論であると思う。人間をIQで分けてしまうと序列のみが出来てしまう。でも多重知能理論的にさまざまな知能があり十人十色であると分かれば劣等感から逃れることができる。(優越感は実は劣等感の裏返しであると私は思っている。優越感を追い求めている子どもはまたどこかで挫折する)運動も言葉も数学もダメだけれど絵を描かせたらすごいとか絶対音感があるとかとても笑顔が可愛いとか、人の嫌がる掃除を一生懸命やるとか、虫のことなら何でも知っているとか、それぞれの子どもの持つ特技や良さを見つけて評価して伸ばす方向を探すことが大人や親の仕事であると言えるであろう。

 ネガティブな情動性をもつ子どもが多いことは逆に裏返しの優越感を持って他人を馬鹿にする子どもが多いことも示している。何よりも大人や親が劣等感の裏返しである優越感を持っていないかをよく検証することも大切であろうと私は思う。自律性と依存は矛盾しない。実は人間は全く他人に依存しないで生きていくことは出来ない存在である。自分自身が環境や仲間に依存していることを認めることができれば「優越感」は払拭できるであろう。「優越感」を助長して競争させ、学力や体力の向上を図ることは間違いであろう。ネガティブな情動性をもつ子どもが多いことは裏返しの優越感を持っている親や職員が示しているとも考えられるであろう。(しかしながら同時に競争そのものが間違いというわけではない。競争は手段であり、目的ではないことをどこかで自覚することが必要なのである。マラソン大会で1位になるために頑張ることは大切だ。しかし、遅い人を馬鹿にして優越感に浸るのは間違いだ。算数の計算ドリルをいかに早くおわすかを競争させることはあるだろう。でも一番遅い人を馬鹿にする態度は間違いだ。算数ドリルやマラソンは苦手でも違った場面でその子の特性があることを見つけることが必要であろう。)

10歳の壁を乗り越えろ
~考える力をどう育てるか~

「学力低下」問題をうけて去年、学習指導要領が改訂。算数・理科は前倒しで今年から新しいカリキュラムへの移行が始まった。授業時間も増えたが、それ以上に学習内容が全体に増加、前倒しされる。そうした中、教育現場で注目されているのが「小4の壁」という現象だ。この20年間、授業時間が削減され、学習内容も易しくなっているにも関わらず、勉強についていけなくなる児童が、9歳から10歳、つまり小学4年前後に急激に増えているのだ。原因の一つと考えられるのが「考える力」の低下。算数の場合、計算は得意でも、文章題になるとできないケースが目立つ。背景として、ドリルに依存した学習スタイルや、家庭での会話の減少によるコミュニケーション能力の遅れなどが指摘されている。各地で模索されている対策も紹介しつつ、「考える力」をどう育てればいいのかを考える。

 

 上記がNHKのクローズアップ現代の昨日の放送である。この中で佐藤学東大教授が百マス計算や単純繰り返しを批判して、「考える授業」の提案をしている。私はこれは「ゆとりの授業」「考える授業」の失敗を反省しないで同じことの焼き直しをした居直りでないかと考えている。昔から「読み・書き・算盤」といって日本人は基礎学力を大切にしてきた。これを否定して「考える力」などと流れてことが間違いであろうと思う。私も体育の時間に「どうしたらうまく逆上がりでできるようになるかを話し合おう」などという授業に出くわしたことがある。多重知能理論からいえば身体運動知能は論理数学的知能からは相対的に独立しているから、論理的知能を使っても上手くいくわけではない。逆上がりで言えば、上手く逆上がりのできる人のやり方をたくさん見て、数をたくさんこなして、ちょっと補助を入れてあげていくことが大切である。見て、やらせて獲得していくものである。

 さらに佐藤学氏がおかしいのは蔭山さんの百マス計算を取り上げ、単純計算は意味がないかのようにいうことである。その批判の内容は

 

 

 上記の百マス計算で横軸の1から計算をさせて、上の数字に単純に1を足す。次に横軸2、3にそれぞれ1にもう1を足して書けば考えなくても速く計算ができるから、間違いとの主張をした。百マス計算は左上から計算をしなければならないし、それを監督するのが指導者の仕事である。漢字書き取りで100文字書くのに一を百書いて棒を百書いて、また一を百書いて武士の士の練習をしているのを放置していることを見て、単純な書き取り練習は意味がないと主張していることと同じである。

 

 10歳の壁との言葉は小学校1年~3年までに授業について行けなかった子どもが5パーセントくらいだとすると4年の終わり頃から倍の10パーセントくらいになることを意味しており、とくに算数の億とか兆の概念や分数・小数の概念及び文章問題を解く能力が欠けてくることだと言う。

 この原因として私は一つに男子が女性性的な教えられ方でまず落ちこぼれ、続いて高学年となり女子が男性性的な教え方で落ちこぼれることに原因があると考えている。第一に高学年女子に女性性的な手法で論理数学知能を把握させる手法を開発することが必要であろう。また低学年男子においては百マス計算等の手法で計算と漢字の習得を熟知させることが必要である。計算と漢字の基礎学力があれば、論理数学的知能は男子はすっきりと理解できるものである。

 

 今回のクローズアップ現代での佐藤学氏の主張の間違いは従来の「考える学習」に固執し、基礎学力の充実を主張する人たちを単純に批判したことにあると私は思う。「考える能力」が大切との演繹的主張・考える能力が落ちるから「考えさせる」との単純な思考パターンは困ったものだ。自主性とか創造性の原点とは我慢と諦めとそして基礎的な繰り返しであると私は思っている。基礎を上手く厭きさせないでやらせる手法を開発するのが私達の仕事である。考える力はその中で子ども達自らが発揮するものである。他人が他人の考える力を培うことなどおこがましい。

6月22日 論理と矛盾

  一つの命題があり、その命題を正しいとして結論を導こうとするとその命題自体が正しいとの仮定に立っていることが前提である。ところがその命題自体が正しいかどうかを検討しないで情緒的観念的に『正しい』としてしまうと後で矛盾の状態に陥ることが多々あるものである。とくに最近のマスコミは一方的に一つの命題を情緒的絶対的なものとして取り上げ、それ以外のことを一方的に批判する傾向が強いことに私は強い疑念を感じている。

 たとえば学校における体罰の問題がそうである。体罰は禁止との命題を絶対的なものと捉えている。そして多くの人たちが「体罰の禁止」が日本国憲法に書かれていて、刑法上の犯罪かのように誤解している。この間違った誤解を命題にした論理は矛盾をきたすことは見えている。つまり「体罰の禁止」は教職員や児童館職員の『正当防衛権の代理行使義務』を結果的に禁止し、暴力を振るう子どもを自由にさせてしまっている。

体罰の禁止は学校教育法第11条に定められている。
 第11条 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。

 つまり教育をするための手段として体罰はダメといっているのである。宿題を忘れてきたから叩くとか音読ができないから脅すとかいったことはいけませんといっているのである。

体罰の問題と正当防衛権
 正当防衛権は刑法の規定である。
(正当行為)
35条 法令又は正当な業務による行為は、罰しない。
(正当防衛)
36条 急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。
2
 防衛の程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。
(緊急避難)
37条 自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。
 しかも正当防衛権は日本国憲法に基本的人権を守るための主要な考え方の一つであり、教育基本法の下位カテゴリーである学校教育法第11条が規定する教職員の懲戒権とは別なものと考える必要がある。
 私たちは現場で仕事をしている。観念の世界で論議をしているのではない。現場の事実上の問題で不当な暴力行為を受けていたり、授業妨害をされたり、けがをさせられたりしている子どもの存在がある。被害を受けている子どもたちをどのようにして守るかを考える必要性がある。「体罰の禁止」なる言葉は不当な暴力を振るう子どもの隠れみのになっていることも事実である。教員や大人が「叩いてはいけない」との主張があることを逆手にとって「怖いものなし」の不当な暴力を振るう子どもに対してどのように対処するかが問題であると私は思うのである。
 「不当な暴力は許されない。不当な暴力を振るう権利はない。不当な暴力を振るえば公権力もしくは正当防衛権が行使され、実力行使がなされる」ということを教育上も衆知されることが必要であると私は考える。
 また子どもたちは他人にけがをさせても「わざとではない」と主張することがあるが、故意であろうが故意でなかろうが、他人を傷つけるような行為をしてはいけないことは刑法209条に過失傷害があることからも明らかである。故意か未必の故意か過失かによって、被害者の肉体的被害が軽減されるわけではないのである。

 『体罰の禁止』は学校教育法という日本国憲法や刑法よりも下位の法律を持出してそれを基本的な命題としてしまっているところに論理的な矛盾がある。そして教職員や児童館職員が正当防衛権の代理行使をすることに対して「体罰があるから暴力的な行為がでる」と主張し始める。これは警察がいるから犯罪があり、自衛隊があるから他国が侵略してくるといっているようなもので明らかなる論理的な矛盾である。

 

 ジェンダーフリーを主張する人たちも同様の論理的な矛盾に陥っている。社会的習慣的差別や教育が男女別にすることが男性性的性と女性性的性を作っていると主張するが、多くの場合に女と男において差異があるからそれに応じた教育や習慣等があることのほうが多い。その教育や習慣を男女差別と批判することは命題が正しいと言い切れていないので論理的に矛盾していることになるであろう。確かに男女において差別は存在している。しかしながらそれが差別なのか区別なのかをきちんと論じないで一方的に批判することは間違いであると私は思う。たとえば男女のトイレを別にすることは区別であって差別ではない。

女がスカートを履いて男がスカートを履かないのは日本の文化の一つであるから差別ではない。これに対して同一程度の労働をしているのに男女において不当に賃金が違えばそれは差別である。しかしながら、労働の質と内容が違うのであれば区別であって差別ではない。本音から言えば役所でたいした仕事もしていないのに同一賃金はおかしいなあと思うこともある。

 日本の子ども達の学力が急速に落ちてきている一つの要因に極端な男女共学こそが正しいとの流れを作ってこともあると私は感じている。男性性的な教え方と女性性的な教え方の手法を開発することが大切であろう。

 いじめの問題も一緒である。そもそもいじめなどという法的概念は存在しない。恐喝・殺人・傷害・暴行・名誉毀損などの刑法上の概念で裁かれることがあっても「いじめ罪」などは存在しない。抽象的な「いじめ」を命題にすると大変なことになる。つまり、世の中には基本的にはいじめは存在している。それは人間の性(さが)であるから仕方の無いことである。

 しかしながら、「いじめ」という言い方が実は「いじめ問題」を深刻化させているという点で子どもの現状への眼力が足りないと思う。現在の子ども達の中で起きている「いじめ問題」はもはや「いじめ」といった問題ではない。きちんとした暴行・恐喝・詐欺・侮辱・名誉毀損・傷害・窃盗・器物破損といった集団的犯罪的行為である。(集団でないときもあるが、集団であることが多い)特定の子どもをみんなで無視をし、「汚い・臭い・菌」などといって行為は侮辱罪であろう。弱い子どもの物を隠したりす壊したりすれば窃盗・器物破損罪である。金銭を持って来いと脅したり、持ってこないといっては暴力を振るえば恐喝罪・暴行罪である。
 人間関係である以上多少のじゃれあい・いざこざ・いじめは存在する。存在しないわけがない。仏陀も教えの中で四苦八苦(生・老・病・死の四つの苦と愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦)と嫌なやつと一緒に会わなければならない苦しみがあると言っている。だからいじめがなくなることはないだろう。昔もありこれからもなくならないだろう。しかしながらいじめをエスカレートさせて犯罪行為及び犯罪的行為にならないようにしっかりと見抜く眼力が必要であると私は感じる。あえて言うならば現在の「いじめ問題」は犯罪まではいかないが犯罪的行為と考えることはできるであろう。だとするならばいじめは犯罪であるとか(いじめと言う犯罪はない)いじめ0とかあいまいな言い方をすることが逆に問題となると私は思うのである。
 これ以上やったらその行為は「いじめなどと言ったものではなくてちゃんとした暴行・傷害・恐喝・侮辱罪になるのだ。やめなさい」としっかりと教える必要があると思うのだ。
 現実問題として怨憎会苦と言って嫌なやつと暮らさなければならない苦しみがある。できるだけそれなりに付き合うことも大切と接し方を教えることも必要だと思う。「嫌いだったら、嫌いと言わないでそれなりに相手をすることも大切。好きなら意地悪を言っても仲間だから許される。嫌いな人に嫌い嫌いという必要はない。」くらいに伝えることも必要だと思う。それでもなお集団を組んで特定の子どもをシカトするようなことが見えないところで続けばそれを見抜いて侮辱罪と言う罪もあると教えることも必要であろう。

 また小学生時代というのは比較的に情緒が安定して人間関係が難しくない時代である。他人のことも自分のこともそんなに気にならない時代である。だからこの時期にたくさん子ども達同士のトムとジェリーのように仲良くケンカをする経験をつむことが大切である。この経験をつまないと思春期を乗り越えるのが難しくなる。 

 いじめをめぐる報道や社会の動きの中で「いじめ根絶」などと大騒ぎをすることも論理的な矛盾ではないかと私は思う。

 

 事故への対応

 児童館の職員には、事故への事前注意義務と指導中の注意義務と事後の処置義務の3っつの義務と責任がある。そこで事故が起きないように事前に環境を整備し、危険の可能性を指摘することが必要である。同時に転倒事故等において男の子の多くは「自分はこんな風に痛い目にあっている。誰か褒めて

」と認めてもらいたい本能がある。ですから、転倒する前の危険の呼びかけも大切であるが、転倒した後にすぐに場所を動かすなり、他の子どもが転倒した子どもにぶつからないように処置すると共に「大丈夫か。えらかったね。」などの声かけが必要である。誰も声をかけてくれないといつまでもそこで寝ていて他の人とぶつかることもある。また、「痛いのに助けてくれない」との無意識の思いから自家中毒症状へと発展することもある。こうして自家中毒と打撲が重なると骨折による青白い顔になることと間違われることもあり、対応が難しくなる。

 事後処理義務としては病院に行った後の経過等を必ず親に連絡をしてもらうと共に、後日また電話を入れることが必要である。

 
 6月23日 論理と矛盾2

 そもそも矛盾とは下記の故事に所以している。

楚人に盾と矛とを鬻ぐ者有り。之を誉めて曰く、「吾が盾の堅きこと、能く陥すもの莫きなり」と。又其の矛を誉めて曰く、「吾が矛の利なること、物に於て陥さざる無きなり」と。或る人曰く、「子の矛を以て、子の盾を陥さば如何」と。其の人応うること能わざりき。

一つの論が矛盾状態に陥ることがよくあるものだ。児童館・児童センターの仕事において子どもの健全育成のために何をするかとのことに対して、「遊びは自主的なものだから、子ども達の自由に任せるのが良い」との論と「今の子どもは遊べないから遊びを教えることが必要である」との論がある。

「遊びは自主的なものだから子ども達の自由に任せる」との論の場合に結果的に子どもが遊べない状態が続くから健全育成は実現できないことになる。反対に「遊びを指導しよう」とすると指導された遊びは子ども達の自主的なものでないから本来の遊びではなくなる。どちらにしても右にも左にもいけないことになってしまう。

(同じように学保協のように生活を指導すると言ってみても、その生活は子ども自身の生活なのかその職員の考える生活なのかでずいぶんと違ってものとなる。おやつは正座をして静かに食べるとの考えの人はその考えを生活として指導するし、おやつを栄養補給と考えてさっさと食べさせるのが生活と考える人はそれを生活と主張する。また、手つくりおやつこそが生活と思う人もいるし、手つくりはいけないと考える人もいる。だから生活を指導すると決めてしまうとずいぶんと厄介なことになってしまう。本当はその場所その地域その子どもにおいてやり方はいろいろであるだろう。またいろいろなおやつの食べ方をしてみるのも良いだろう。職員の仕事を「生活指導」と決めてしまうとその「生活」の考え方で違うものになることが問題となる。もちろん「生活」を「遊び」としてみても同様な論理矛盾に陥ることになる)

 

そもそも児童厚生員を「遊びを指導するもの」と決めた厚生労働省の方針が間違っていると考えるのが一番正しいのである。

児童の遊び
を指導する
者(児童厚
生員)

児童館・児童センター等の
児童厚生施設において、
児童の遊びを指導する。

児童の遊びを指導する者は、次の各号の1
に該当する者でなければならない。

1 母子指導員の資格を有する者

2 小学校(中・高)教諭あるいは幼稚園教諭免許状を
有する者で、児童厚生施設の設置者(都道府県知事、
指定都市にあつては市長)が適当と認めたもの。

3 心理学、教育学等を専修する学科を修めて卒業し
た者で、児童厚生施設の設置者が適当と認めた者。  

児童厚生員は本来子どもの遊び場の環境つくりと安全管理につとめ子ども達が安全で安心して遊べる状況を作ることを目指すべきであると私は考えている。遊びを指導する者とあるので遊びに固執する職員が出てくる。反対に学保協のように児童館は遊び、学童保育は生活との論を展開する根拠にもなってしまている。児童館・児童クラブ職員共に遊びや生活を指導する者ではなくて、遊び場環境つくり、安全管理をして花と緑の環境を作る者とすべきであると私は思う。そのようになれば当然子ども達はたくさんやってきて、遊びはじめる。このときにその遊びは必ずしも子ども達自身の本来的なニーズに一致するものとは限らない。先に生まれてきた者として「もう少しこうやると面白くなるよ」との提案をしたり、子どもの遊びからさらにそれを発展させることが出来るようになる。

展開がそのようにされてくると結果的に「遊びを指導する者」(児童厚生員)・「生活を指導する者」(児童クラブ職員)との展開をしている職員よりも遊び場環境つくりをしている職員の方が子どもを相手にする技術も遊びの手法も質も高いものを獲得できることになる。それが有明児童センターの目指す道であると私は思っている。

6月24日 論理と現実

 研修会等に出かけて、子ども達の扱い方などを学ぶとその気になって明日からはやさしく声かけをしようかなどと思ったりする。ところがいざ現実にやってみるとムスッとされたりして、それで終わりになることがよくあるものだ。

 児童健全育成にもいろいろな論理があるようなのだが、我々は現実を生きているので観念的な論理では解決できないことが多いのである。ですから理想とか論理とかを頭でこねくり回すだけではなくて現実的な手法を提案することが必要なのである。

 例えば私は花緑理論を展開している。花と緑のいっぱいの環境を作れば、マイナスイオンも出て、犯罪が減少し、子ども達が集まってきて健やかに成長するという考えである。これを現実に立ち返ってみると、きれいにしてもきれいにしてもゴミを捨てる人、タバコを捨てる人・せっかく植えた花を盗む人・花を折ってしまう子どもなど現実は大変なのである。花緑理論の展開は草取り・ゴミ拾い・ルールを守らない人への注意などが必要となる。またボランティアの確保やボランティアのお茶の用意・子どもへのアイスなどの提供とそのための予算確保・補助金申請事務仕事などがある。つまり花緑理論の展開は地道な作業の繰り返しなのである。現実のそうした仕事を抜きにした理論は実は理論でもなんでもなくて観念論で夢物語でしかないのである。

 マスコミでの「評論家」の話は一見正しそうに見えるが益にならないことが多いのはこの点にあるように思う。ちょうどネズミ達がネコが来たら分かるようにネコに鈴をつけたらどうかと話をしているようなものだ。

 

 一つの理論を展開するためにはそのプロセスにおいて一見矛盾したような手法を用いることが必要となる。例えば子ども達が元気に自主的に遊ぶことが子どもの健全育成になるとの理論があるとする。この場合に初期の段階において子ども達の自主性とやらを抑えなくてはならないことがある。つまり現実に存在する自然発生的子ども集団は排他的・利己的・自己中心的で特定の子どもがその集団を支配していることが多々あるものである。この場合にこうした自然発生的な自主的集団は一回解体するなり、別の方向性に導く必要があることがある。この場合にあるがままの子どもの自主性は制限されることになる。つまり健全育成の方向で子どもの自主性を育てるためには今のままの自主性を制限することが必要となるとの矛盾した状態に陥る。しかしながら過渡期的にはこうした手法が必要となる。

 集団としての子どもではなくて一人ひとりの子どもの場合も同様である。あるがままの子どもに「自主的に遊ぶ」と言ったら、寝転がってマンガを読む。アニメのテレビを見る。DSをやるなどの状況になるであろう。そこで「今日は全員ローラースケートをやる」といった一見、職員の一方的な押し付けとなる指導が必要となる。これは自主性と矛盾するようであるが、本来の子どもの持っている自主性と創造力を高めるためには過渡的に必要なこととなる。つまり我慢と諦めをさせることが自主性と創造性を培う手法となることもあると考えなくてはいけない。一般的にグループワークとかケースワークといった手法や論理の展開においてこうしたマイナス的要因も含めての提案がなされないために論理と現実が食い違うことが多いのではないかと私は思う。

 

 時間的な流れで考えてみると健全育成との一つの流れはまず割れ窓理論的な展開があり、続いて花緑理論的な展開があり、そして健全育成的な展開があると考えることもできるであろう。汚い・臭い・犯罪が溢れる状況を突破するためにはきれいごとの健全育成などは言わないでまず環境を最低限整えることが必要である。(汚い環境でも子ども達は遊びをするが子どもはそんなものととらえてしまうのは間違いであろう)続いて割れ窓がなくなってきてかつあげや暴行などがない状況になったら花緑理論的により生活をしやすい環境つくりに努める。すると子どもがたくさん集まってくるから過渡的にしっかりと叱ることが必要となる。環境整備がされ、花緑となり、マイナスイオンが増えてきたら、子ども達が自主的に遊ぶためのいくつかの手法を提案することが必要となる。

 割れ窓・花緑・健全育成はもちろん同時並行的に実施されるのであるが、今の段階がどのような段階であるかを認識しておくことも大切である。私の考えから言えば有明児童センターは割れ窓状態を抜けて花緑理論へと移行しつつあり、その移行期間はあと1年であると思っている。割れ窓をなくし、花緑にすることを定着させながら、子ども達の持つ能力をもっと自由に発揮させるようにする段階へと移行していくことも必要である。しかしながら、子どもの「自主性・創造性」とか言って環境整備を怠ればすぐに「汚い臭い」環境へと逆戻りすることは本当に簡単なことである。このことを銘記しておくことが必要であろうと私は思う。

障害児との対応

職場では危険なことをしたり、やっていけないことをすると職員がみんなでしっかりと叱るようにしている。ところが最近、目に付くのが叱ることができない親達が増加していることである。
 自治会長と一緒に平島公園の花植えをしていたときのことである。幼児が水を出して遊んでいた。その水で公園の土に穴が開いて汚くなり始めた。「君達。水遊びで水を無駄にしたらダメだ」と言ったら、お母さんがやってきて「やめなさい。服が汚れるでしょう」と言うのである。
 服は汚れてはいない。幼児本人も困っていない。困るのは公園と公園を利用する人たちなのである。他人に迷惑をかけてはいけないことをしっかりと教えることのできない親達が増えている。自分と自分の子どもの権利との関わりの中でしか損得を考えることができないのである。
 この状況は今の親達じたいが少子時代の中で叱られないで育ってきたことによるものと私は感じている。少子時代の中で子どもの権利ばかりが主張された結果ではなかろうか。 
 権利を英訳してみるとRightとなる。つまり本来的に正しいことのような意味なのである。権利はみんなで守ることによって維持できるのである。公園の水を身勝手に使うのはRightではなくてBadな行為であると思うのである。だからしっかりと叱ることが必要なのだ。 
 同様なことがもう一つあった。小学生が保育園のグランドに穴を掘っていた。私が叱るとそれを見ていた幼児の親が「実は自分の子どもが掘っていたのを小学生がお手伝いしてくれた」とのことであった。やはりRightでないことが見逃されているのではなかろうか。
 連休に行楽地に出かけてもお風呂の中で走り回る子ども・大声で母親を怒鳴る子ども・泣きじゃくって自分の意を通そうとする子どもなど自己中心な子どもとそれを許す親が多いことを感じた。
 しっかりと叱ることの大切さを子どもの本当の権利(=Right)を守るためにも主張する必要があると思う。子どもにおもねる時代ではないのではないか。
 Right (事実・道理・基準・原理に照らして)正しい, 正当な;〈判断・意見・行動などが〉正しい, 正確な, 当を得た;〈人が〉(するのが)当然の((in doing, to do))((itを主語にして))は)当然である。

 

障害があるからその障害に応じて対応をせよとの考えから障害のある子どもに「ダメ」とは言っていけないとの考え方がある。障害があるからといって見逃せばいつまでもその子どもは問題行動を修正することができない。その障害に応じて「目そらし方略」「タイムアウト」など非言語的な手法をこうじてとりあえず有害行動をとる刺激から分離することも必要である。言語的な説諭はほとんど役に立たないことがある。秋田市の児童厚生員の研修会で「ダウン症の子どもが若い女の先生のお尻に触るのですがどうしたらよいか」との質問があった。その児童センターにお邪魔していたら、やってきて早速触り始めた。私が「ダメだよ」とにらみ、そこに一緒にいた指導員がみんなでにらんだ。彼は「もうしません」と言った。いつもは注意をしても逃げ回ったり、もっと調子にのって触りまわったりするという。みんなでにらむことは大きな効果がある。

男の子の行動と思考は分離している。男の子が若い女の先生のお尻に触りたいのは手がなせることでもあるだろう。だからにらんでも叱っても良いけれど悪い子どもとは思わないことが必要である。石を投げたり、棒を振り回したりする手や蹴る足と思考はほぼ分離していて無意識でやることが多い。だから「お尻を触った手と棒を振り回した手とキックをした足は悪いけれどあなたは良い子」と対応してあげることが必要であろう。

 

障害にもいろいろあるのでその障害に応じた対応をなすことが必要となる。基本的なことを知っておくことが必要である。例えばダウン症の子どもは学力は落ちるけれど素直で優しい子どもが多い。

独立行政法人国立特別支援教育総合研究所の分類によれば以下のようになる。

<軽度発達障害>

学力面(聞く、話す、読む、書く、算数/数学の本人の中での得意・不得意とクラスの中での相対的位置)

  • 行動面(注意集中、友達や先生との関係等)
  • 認知面(心理アセスメントの結果:テスト名、時期、場所)
  • 興味・関心

<言葉の発達の遅れ>

·  知的障害・難聴・自閉症等を伴っているかどうか

·  発語があれば、語彙数や文章になっているか等の言葉の発達の程度を知るための 内容

·  言葉の増え方と特異な使い方(障害や子どもの状態によって)

·  話し方のリズム

<視覚障害>

·  視覚に関する医療的診断を受けているかどうか

·  本やテレビを見る時の距離

·  屋外に出た時にどの程度まぶしさを感じるか

·  段差に気付かなかったり、つまづいたりしないか

<聴覚障害>

·  日常生活における音や話しかけに対する反応の様子

·  補聴器の有無、聾学校とのかかわり等

<肢体不自由>

·  日常生活で使っている機器。例えば、移動手段(車いすやバギー等)

·  上下肢の動き

<重複障害>

·  医療的ケアの有無

·  日常生活で使っている機器、施設・設備面で必要な配慮等の情報

·  発作の状況、感染症の有無、上下肢の動き

·  機能評価を受けていれば、その結果と評価を受けた機関、時期

 

 上記のような発達障害の場合、その発達に応じた遊びを児童館や児童クラブでは提供すれば良いのだから人間関係が阻害されていない場合と補助要員が必要でない状況であるならばそんなに問題がないように思う。もちろん障害に伴い仲間集団で馬鹿にされたり孤立したりしているために粗暴になったり、あるいは閉じこもってしまっている等障害に伴う2次的な障害が発生していることもある。児童館等の活動においては年齢制限を設けないで小さい子どもから大きい子どもまでが一緒に遊べてそれでいて楽しい遊びを提供することが大切である。例えば「風船で遊ぼう」「カプラ」「ドミノ」「ユニット折り紙」「ジャンボ風呂敷遊び」「ボールプール」「風船プール」などなど異年齢がそれぞれ遊べる(幼児から大人までが楽しめる)遊びを使うことが必要である。同時にそうした遊びを開発していくことが大切であろう。

 

 最近、とくに問題行動として出てくるのがADHD等自閉症などの障害である。

 普通の子どももいろいろであるように当然のこととして自閉症の子どももいろいろである。重症なものから軽度のものがあり、一概に対応をこうすべきと決めることはできない。また児童館等においてはその子どもの障害の程度をきちんと把握することは個人情報法などの関係で難しい問題となる。まず見極めなければならないことはその障害の程度が事理弁識能力に達しているかということであろう。つまり小学生期の子どもは自分の生命を自分で守る能力があるとされている。そこで保護育成ではなくて健全育成となる。自閉症であろうが、他の障害であろうが自分の生命を自分で守るとの事理弁識能力があれば子どもだけで受け入れが可能となる。逆に事理弁識能力がなく、保育の段階であれば子どもだけでの受け入れは不可能となる。または補助員の配当が必要となる。

 次に考えなければならないことは責任弁識能力があるかないかである。他人を傷つけるほどの体力がありあまる状況にあるにも関わらず、他人を傷つけてはいけないとのことを弁識することができなければ児童館での受け入れは不可能となる。小学生期までの体力と中学生期の体力は全く違うものとなる。中学生位の体力を持ちながら自分の体力をコントロールできないで他人を傷つける恐れがあるとすれば受け入れは不可となる。

 具体的には重度の自閉症の児童の場合、小学校6年まではなんとか受け入れるとしても中学生になったら受け入れないことがある。

 

      

  

 アスペルガー症候群やADHD・自閉症児等の児童を見ているとIQだけでの判断だけではなくて、多重知能理論が適応されるように思う。多重知能理論によれば人間の知能は上記のように概ね7つのモジュールになっており、それぞれが関連性を持ちながら独立して発達するという。

 漢字や文字は全く頭に入らないが言葉からなら何でも吸収できる子どもも居る。自分がどこにいるかを把握できない子どももいる。数字やカレンダーは何でも知っているが音楽は極端に苦手。絶対音感があるが言語や論理はダメ。すべての点において学力は優れるが対人関係をうまくできることが出来ない等の子どももいる。すべての学力が落ちるけれど対人関係は良好で人との付き合い方が上手く、作業もしっかりやる子どももいる。

 児童館においてはその劣る面を伸ばすよりは得意分野を伸ばすことによってその子どものアイデンティティを確立するようにサポートすることが必要であろう。(言語的知能が劣る子どもに言語的知能を伸ばす訓練をすることは特別支援学校等で実施するのが良いように思う。児童館において無理に補償的教育をやるのは充分なる検討が必要であると思う。)ただし対人的知能においては人間関係を主体とする児童館活動においては劣ったままにすることはできない。得意分野を伸ばすことから自信を持たせ、対人的知能を高めていくことは児童館活動の使命であるのかもしれない。

 

 その子どもがどのような状況下にあるかを専門機関ではチェックするわけだが、児童館においてそのアセスメントを行ったり、アセスメントの結果を教えてもらうことは難しい。ですから診断を基に対処することは難しいことになる。児童館においてはあるがままの子どもを子どもの目線のさらにその下から行動観察をして、その子どもの対人的知能にどこに問題があるかを探ることが必要ではないかと思う。つまり理解するはunderstandであるから文字通り下側に立ってみることが必要である。同時にいろいろ視点を変えて観察することが必要である。横から見る・上から見る・遠くから見る・一人だけの時を見る・多人数の中で見るなどである。また一定の働きかけをしてその働きに対してどのように反応するかを見ることも必要である。「○○ちゃんは可愛いね。私の子どもにしたい。どう来ない。」などとのジョークにどのように答えるか。大きな声に対してどのように反応するか。小さな声での読み聞かせなどの時にどのようにしているか。サイレンなどが鳴ったときの反応はどうか。おやつをあげたらどのようにするか。映画など暗いところで我慢ができるか。鬼ごっこなどでルールを理解できるか。絵を描くときにどのような絵を描くか。色使いはどのようであるか。ボールを投げたらそのボールを捕るか跳ね除けるか。高い所から飛び降りることができるか。プールで泳ぐことができるか。ボールプールの中に入ることができるか。手つなぎオニなどのルールが理解できるか。などなど様々な働きかけにどのように反応するかを調べておくことは子ども理解のために必要なことであろう。もちろんそうした様子をビデオ等で撮影しておくこともある。

 

 障害児に対する対応は一般的にケースワーク的な対応が考えられるが、児童館においては対人的知能を高めることを考えるとケースワークとグループワークを併用して、グループワークの中で障害を抱える子どものケースワークを図るようにすることが大切である。仮に障害児加算で職員が配当されたとするならば、障害児のために加配されたのではなくて、障害児を抱える児童館・児童クラブのために加配されたと考えるべきであろう。そしてケースワークを必要とする子どもをグループワークの中で職員もグループワーク的に動いて全体を見ることが必要となるであろう。障害児にぴったりついてサポートすることは本来のサポートにならないで逆に悪影響を与えることも多いものだ。

 

 

 児童館における遊びの展開

 児童館における遊びやグループワークの展開において一つの遊びを一つの目的だけでやるとその知能面で発達の遅れている子どもの劣等感を招き、また逆に上手い子どもが下手な子どもを馬鹿にするという優越感(裏返しの劣等感)をあおることになることもある。そこで児童館におけるグループワークや遊びは複数の目的性を持った遊びにすることが必要となる。

 例えば詩の朗読をするとするならば、言語的知能が遅れている子どもは何もできないで楽しく遊ぶことができない。詩の朗読を言語的遊びであると共に身体運動的遊び・音楽的遊びも同時に行うことが必要である。

ののはな         (野の花)

はなののののはな   (花の野々の花)

はなのななあに     (花の名なあに)

なずななのはな     (なずな菜の花)

なもないのばな     (名もない野花)

 の詩の朗読を行う時にリズムをつけ、身体表現を入れれば言葉遊びであると共に身体運動遊びであり音楽的遊びで同時に自己表現遊びとなり、またグループで工夫して新しい振りとリズムをつければ対人関係をよりよりものとすることになる。

 カルタ・折り紙・ダンス・ドッジボール・サッカー・ローラースケートなどなどどのような種目であっても工夫次第では目的性をたくさん持たせることは可能であるし、その工夫こそが児童館職員の生きがいではないかと思う。例えばローラースケートをする時にローラースケートをできない子どもにも「かかととかかとをがっちゃんこ」などの声を出すように働きかけることができるし、「○○ちゃん頑張れ」などの応援をすることもできるであろう。ローラースケートがたんに滑れるようにさせるだけではなくて、上級生は下級生の靴を履かせてあげたり、教えたあげたりするように働きかければそこにコミュニケーションが生じる。また、1分間連続滑りなどをやって一分間がどのような時間の長さであるかを把握させることもできるであろう。

 

 偶然的要因を取り入れることによって必ずしも全般的に能力の高い子どもが勝つわけではない遊びを取り入れることも大切である。ジャンボカルタ会において45枚のすべてのジャンボカルタを15メートルくらい先に伏せておいて走っていってそのジャンボカルタをめくり、外れたらまた裏返しにする。こうして誰が目当てのカルタを引き当てるかというやり方にすれば、能力が全般的に低い子どもでも勝てる要因となる。またじゃんけん遊びやくじ遊びなども偶然性の要因があるので適切な遊びであろう。とくに全般的に能力の高い子どもでいつも優越感(裏返しの劣等感)浸っていたい子どもがじゃんけん遊び等で負ける経験はとても有意義である。また勝ち負けにこだわってケンカをさせないためには1人ではなくて3~5人の複数チームにしておくことも大切である。

 

 勝負がある遊びにおける終わり方

 とはいってみても、偶然的要因を取り入れたとしても全般的に能力の高い子どもが勝つ確率は高くなるものである。ここで考えなくてはいけないことは勝つことの喜びはどのようにして存在しているかである。簡単な話で負ける人がいるから勝つ喜びが生じるのである。右手と左手で一人でじゃんけんしても楽しくはない。そこで人間は対人関係で楽しんでいることを理解することが大切である。そのためにはじゃんけん遊び等においてゲームが終わった後に勝利者インタビュー等を行って勝因を聞いた後に「でも最大の勝因は負けてくれた人がいたことですね」と話をして勝利チームに対して「皆様のお陰で楽しく優勝することができました」等ときちんと頭を下げさせることも一つの手法である。

 

 児童館児童センターはいろいろな手法を使って障害児も含めてよりよい対人的知能を高めるようにすることが必要ではないかと有明児童センターでは考えている。

 

次にどのように児童の受け入れが可能であるか。基本的に法的に事理弁識能力がある子どもであれば療育手帳等を持っていたり、特別支援学級や学校に通っていても児童だけでの受け入れは基本的に可能であろう。また小学校4年生以上になって責任弁識能力がなければ受け入れることは出来なくなるであろう。

 

 障害児を抱えるクラスやクラブに加配職員が配当される場合がある。ところがこの加配を勘違いしている職員や親や子どもが多い。結果として障害児童の二次障害を生んでいる。

 障害児加配とは本来的に学習障害・ADHD・多動・療育手帳や障害手帳を持っている児童を受け入れているクラスやクラブの運営をスムーズにやるための加配である。ですから障害児童を直接指導したり、手を出したりするための加配職員と考えるべきではない。ところがあたかも直接障害を抱える子どもへ手を出すことが加配職員の仕事を考えている保護者・職員・子どもがいるために、現実はマンツーマンで障害児童へ手を出すことになってしまっている。

 児童クラブや児童センターを考えてみると、子ども達の健全育成のためには人間関係をどのようにしていったら良いかという対人的知能を高めることを核として身体運動的知能・音楽的知能・言語的知能を高めることが一番必要である。障害児を抱えるクラブで例えば折り紙を作って飛行機遊びをするとするならば、上級生の折り紙が上手い子どもに障害児童へのサポートをさせるように働きかけるのが本来的な障害児加配の意味である。ところが障害児加配職員が障害児童の飛行機作りを直接に手伝ってしまうために、障害児童は他の子どもとの関係性を切られることによって対人的知能を伸ばすことができない。同時に自ら頑張って作ろうとする姿勢がなくなり、安易に大人に頼ろうとする二次的障害をおってしまうのである。学校で障害児加配職員がついている障害児童が折り紙などを児童センターでさせていると何もしないで大人の前に紙を突き出して「作れ。」と命令的態度に出ることは多い。このような状況を生む障害児加配職員は有害であって子どものためにはいないほうが良いくらいである。

 本質的に大人が子どものために手伝ってやることと子どもが子どもに手伝ってやることは異質である。大人と子どもの関係においてはたんなる依存である。子ども同士の場合は対人的知能を高めて教える子どもも教えられる子どもも相互に向上するのである。親世代と子どもの関係と子ども世代同士の関係は別であることを私は現場で痛感している。

 「子どものケンカに親は口をだすな」と言われているように基本的に子どもは子ども同士の関係性の中で成長しているのである。私達の小学生時代・中学生時代・高校生時代を考えてみても立派な先生の存在で私達は成長したのではない。やはり仲間の中で成長したのである。そして良い教師や指導者や親や大人はより良い子ども同士の関係性を作ることをやってくれたのである。子ども同士の関係性がエスカレートしたときに「弱いものいじめはやってはいけません」「多数で一人を攻撃するのは卑怯です」「身体のことで他人をからかってはいけません」などとしっかりと叱ってくれたものです。それは子ども同士の関係性をうまく作るための助言でした。

 障害児加配の現状は子どものケンカに親が乗り出してくる現状と一緒で一つの異常なことではないかと私は感じている。子どものケンカに乗り出してくる親のほとんどが「じぶんちのともちゃんは良い子でお宅の馬鹿が悪い」と自分の子どもにちゃんつけで他人の子どもは呼び捨てるものだ。障害児加配も一緒で子どもの成長をあたかも大人が直接指導できるかのような思い上がりが根底にあるように思う。
 
 日本のどこかが少し狂って来ている。と私は感じている。そしてそうではない方向へ軌道修正すべきと思う。それは子ども同士の切磋琢磨を保障するための緑豊かな日本の国作りではなかろうか。


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