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子どもの遊びの援助

有明児童センター 児童厚生員 田中 純一

   始めに

 私は養護学校や小学校の教員を3年ほど経験した後、子どもの遊び場である児童センターに勤務して27年になります。この間子どもたちとの遊びを通して、学ぶことがたくさんありました。また、最近の時代を私は少子時代であると思います。少子化時代との違いは、少子時代は親世代が少子であり、結果としておじさんやおばさんが少なく、親族が集まってもいとこがいない時代だという点にあります。そのため、一人の子どもに多数の大人がいるという時代になりました。自己中心でわがままな子どもが増え、すぐに切れる子どもなどが増加しているように思います。いじめ等の原因の一つに年中児位から小学3年生くらいまでに仲間と楽しく遊ぶ経験が少なくなっていることもあると私は感じています。こうした子どもたちが楽しく遊べるようになるためのいくつかの遊び援助の手法を遊びの現場から学んだこととして提案したいと思います。具体的には 「子どもの目線の下からのundestand」・「体性感覚の活用とスモールステップの手法」・「気分一効果について」・「遊びはルールあるケンカ」・「男の子と女の子の扱い方」・「子ども発する言葉と子どもの本音」・「ロールプレーを取り入れよう」・「身近な自然とのふれあい」などの手法の提案です。

子どもから目線の下からのunderstand

 子どもの遊びの援助とは簡単そうで難しい課題です。というのは子どもの遊びの援助はどうあるべきかと考える主体である者がすでに子どもではないからです。子どもではないものが、子どもとは何か?遊びとは何か?援助とは何か?を考えることは難しいと思います。それに子どもはそんなことは考えないものです。子どもの遊びの援助を考える時に子どもを理解することが必要となります。そのための手法として子どもの目線まで下がって見ることが大切といわれています。私はなんとなく嘘っぽいような感じを抱いていました。というのは子どもの目線まで下がるというけれど、その人はすぐに上に戻ってしまうからです。そんな時に仲間のカメラマンが私の職場で子どもの遊んでいる写真を撮影してくれる機会がありました。彼は子どもの目線のさらに下になって写真を撮っていました。不思議に思って聴いてみました。『子どもの生き生きした表情を撮るには子どもの目線の下からであることが大切。』との話でした。目が覚める思いがしました。そこで子どもの目線の下からの大発見をしようとホームページで提案しました。すると、友達から『大賛成です。考えてみると理解するは英語でunderstand=下側に立つですね』とのメールを頂きました。それ以来、子どもを理解するためには文字通り膝を折って、子どもの目線の下側に立ってunderstandし、子どもから学ぼうと提案しています。

乳幼児サークルドラエもんからunderstandしたことがあります。

「子どもをunderstandすると分かってきます」とドラエもんのお母さんに語りかけていたら、もう一人のお母さんが話しかけてきました。
「うちの子どもは女の子どもで最近キーキーとうるさくて困るのですが,見てくれますか?」聞いてきました。体育遊戯室に見に行きました。2歳くらいの女の子は
「ママ・ママ」と声をかけてきました。お母さんは
「はい・はい」と言いますが、子どもは
「ママ・ママ」を繰り返します。お母さんは
「はい・はい」と言うばかり。子どもは
「ママ・ママ」を繰り返す。そのうちに二人でイライラし始めてきました。私は女の子の側に行き、膝を折って、女の子どもより小さくなって
「なあに?」と聞きました。女の子は遊戯室の端にあるマットのほうに連れて行って欲しいという動作をしました。おもちゃの自動車を押して連れて行ってやると喜んでいました。
 この子がキーキーと騒ぐ理由が分かりました。1歳ちょっとまでは抱っこかおんぶでお母さんはいつも側にいたのです。ところが重くなってきて抱っこやおんぶの機会が少なくなってきました。お母さんを『ママ・ママ』と呼んだとき、子どもはお母さんに自分の顔の近くにきて欲しかったのです。でもお母さんはこのことを分からないで、立ったまま子どもに返事をしていたのです。子どもはママがまだ自分のところに来てくれないと思って呼び、お母さんは返事をしているのに、なんでまだ呼ぶのかとイライラし始めていたのです。ですから、お母さんが小さくなって子どもの顔を近くへ行って『なあに?』と言えば解決ができたのです。
 抱っことおんぶが出来なくなったころに、子どもはお母さんが自分から離れていったように感じるようです。そして暴力をふるって母親の関心をひきつけようとしたり、キーキーと喚いたりすることがあるようです。抱っこをやおんぶが出来なくても、逆にお母さんが子どもよりも低くなって子どもの話を聞いてあげれば子どもは満足するようです。これは乳幼児に限らず、小学生でも同じです。子どもの話を聴くときは子どもの目線のさらに下に下がって膝立ちとなり話を聴いてあげることも大切と思います。
話をした後に子どもが
「ママ・ママ」と呼んだので、側に行って子どもよりも小さくなって
「なあに?」と聴く練習をしてもらいました。子どものキーキーは少なくなりました。
 体性感覚の活用とスモールステップの手法

私はいつも疑問に感じていたことがあります。はたして五感という考えが正しいのかということです。五感というのは視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚のことです。遊びの現場にいて、同じように子どもに見せ、聞かせ、臭いをかがせ、舐めさえ、触らせても結果は違うものになります。人間には五感とは別に第六感があるといわれています。スポーツを教えるときも一緒で第六感が働くことも多くあるように思います。また、五感というと、指導者の指導力の欠如を子どもが聞いていなかった、見ていなかったのが悪いことに転化する言い訳になっていることが多くあります。いわゆる『ほおら あなたはいつもしっかり聞いていないでしょ.見ていないでしょ。だからダメなのです。』という声が聞こえてくるようです。こんな思いをしているとき中村雄二郎著『臨床の知とは何か』【岩波新書】に出会いました。

『すなわち、現代生理学の分類では、人間のすべての感覚は@特殊感覚(視覚・聴覚・臭覚・味覚・平衡感覚)A体性感覚(触覚・圧覚・冷覚・痛覚・運動感覚)B内臓感覚(臓器感覚・内臓痛覚)という三つに分けられている。そしてこの分類は@脳神経連絡の諸感覚A脊髄連絡の諸感覚B内臓連絡の諸感覚という基準によっている。この知見から言えることは、昔からただ<触覚>といわれてきたものは、単に皮膚の接触感覚にとどまらない<体性感覚>に属するものであり、それは同じく体性感覚に属する筋肉感覚や運動感覚と密接に結びついて働く、ということである。

 いいかえれば狭義の触覚も体性感覚のひとつとしてその基礎の上に、筋肉感覚や運動感覚と結びついてはじめて具体的な触覚として働くのである。そして昔から共通感覚とは別に、触覚が五感を統合するといわれてきたが、それは狭い意味での触覚のことではなく、触覚に代表される体性感覚のことだったのである。さらに諸感覚が共通感覚によって統合される時、実は体性感覚が統合のベースになっていたのである。』

 この本に出会い、五感という狭い特殊細胞の持つ特殊感覚のみに依拠した古い指導法を変更するべきではないかと感じました。子どもがダメだからではなく、自分の指導法が間違いでないかと考え直すことが必要と思ったのです。見ていない・聞いていない子どもが悪いのではなく、見てもらえない・聞いてもらえない状況をいかに反省するかです。
 体性感覚の概念はとてもその点ですばらしい概念です。よく『やって見せ、やらせてみせる』ことが大事と体育関係の指導ではいわれていますが、それは筋肉感覚・運動感覚・圧覚・冷覚・熱覚・痛覚・触覚つまり体性感覚の総動員をかけることにより、子どもにやり方を感じさせることだということになるのではないかと思います。体育の実技にとどまらないで,ダンスの練習・詩の朗読や算数の計算、外国語の勉強,理科の実験・折紙遊びなどなど体性感覚はなんにでも使えます。五感という狭い枠を越えて、大きくはばたくのではないかと思います。
 私の最初の勤務校は肢体不自由児の障害児学校でした。そこにはよく見えない子ども・よく聞こえない子ども・よくしゃべれない子ども・よく運動できないこどもがいました。その子ども達に私は多くのことを学びました。大学の教育学部で学んだことの多くは役に立ちませんでした。五感への疑問はその当時より思っていたことですが、体性感覚の概念に出会い、それを普及することにより、障害児学校で出会った子ども達に恩返しをしたいと考えています。

 体性感覚を使って折紙遊びをしてみる場合で考えてみます。

まずみんなで折紙を表面が出るように縦に半分に折ります。折る前に頭の中にある折紙で折るイメージトレーニングをみます。次に縦に折ってみます。折り終わったら、縦に折った折り紙を床に立てて、「キャー」などの掛け声の振動で倒してみます。一回開いて表面が出るように横に折り、十字になるようにします。頭の上に載せて部屋を十周します。また全部開いて裏面が出るように斜めに折ります。床に置いて、斜めに折紙を置き、その上を三十回飛び越えます。また開いて同じく裏面が出るように斜めにしっかりと折り、×に折れ線が成るようにします。表面が出るようにして畳み込んで折り鶴の基本折りにしてみます。鶴の基本折りが出来たら、それを右手から左手に三十回すばやくチェンジをします。続いて、四角になって鶴の基本折りの切れているほうを斜めに折ります。折り終えたら、それを足の間を三十回通してみます。この後も同様にスモールステップで鶴へと折っていきます。このように折り鶴を折る時に折りながら運動遊びを入れていけば、速く折れる子どもには次のステップへの時間調整になり、折るのが遅い子どもにはゆっくりと折り方を教えることができます。異年齢・異世代を同時に一緒に遊ばせるときは、体性感覚を使ってイメージトレーニングをしたり、実際に身体を動かすことで時間調整をしたりすることが有効です。ADHD傾向の多動な児童にはスモールステップの手法が大切といわれています。体性感覚とスモールステップの手法を使えば折り鶴を折るプロセスを細かくすることによって、集中が持続しない子どもでも楽しく折紙を折ることが可能となります。

  気分一効果について

今年の夏に職場で夏祭りがありました。小学校一年生〜六年生の子どもたちが八十人ほどでジンギスカンを踊るのですが、練習の時にきちんと声が出ていても、本番になると緊張でなかなか声がでないものです。そこで気分一効果という考えを利用してみました。気分一効果というのは『悲しい』と『嬉しい』という気持ちは同居できないというものです。廊下で泣いている一年生の女の子がいました。訳を聴いてみると

「友達にお昼を一緒に食べてくれない」と言われたというのです。私は

Yちゃん。じゃあ私と一緒に食べて。」と断りたくなる雰囲気で言いました。Yちゃんは

「いやだ」と言いました。私はかなり本気っぽく泣きまねをしました。Yちゃんも上級生もそれも見ておかしくなって笑い始めました。それでエンドとなりました。『悲しい』と『おかしい』は同居できないようなのです。夏祭りの時にもジンギスカンのダンスがうまく踊れるように気分一効果の手法を使ってみました。本番直前の練習時に

「ステージに立ってジンギスカンを踊る時にとにかく大きな声だけ出しましょう。それができたらアイスがでる」と言いました、低学年の男の子は大きな声をはりあげて頑張りました。高学年の子どもも低学年の子どもに引きずられて踊りました。アイスを食べたい気持ちが恥ずかしい気持ちを乗り越えさせたのです。
 気分一効果という考えはけっこう有効的に使うことができます。乳幼児が泣いている時に

「あれ。外にウルトラマンが。すごい。すごい。」などと窓を見ながら叫ぶと泣いていることを忘れることも多いものです。また中高校生の進路の悩みなどを聞いていて『実は私も』などとおかしさを感じるくらい大人が深刻っぽく話をしたりすると、相手が元気になったりするものです。保育園の年中から小学校の三年生くらいまでの子どもの時間は大人の三倍以上中身が濃いように思います。ですから、子どもが泣いたり喚いたりした時にくどくどと話を聴いてやるよりは別の話題にうまく振ってやったほうが良いことが多いと思うのです。この時に気分一効果のことを考えて悲しいこと苦しいことを嬉しいこと楽しいことおかしいことにうまく持っていくのが良いのではと私は思います。

  遊びはルールあるケンカでは

子どもを理解するために文字通りunderstandしていたら発見ができたことがあります。その発見とは子どもにとって遊びとはケンカであるということです。群れ遊びを好む保育園の年中児童から小学校三年生くらいまでの子どもはくっついてはケンカをし、また離れてはまたくっつきケンカをします。このケンカの過程の中で互いの人間関係を学んでいくようです。(この人間関係を学ぶ機会が少なかった子どもが小学校高学年から中高校生期にいじめ等の問題を起こしていると私は現場から感じています。)つまり遊びとはルールのあるケンカということができるのではないかとの発見です。

 考えてみれば相撲は転ばしあいだし、野球は棒でボールを殴るようなものです。ドッジボールはボールのぶつけ合い、だるまさんが転んだはあらさがし、水鉄砲遊びは水のかけ合い、じゃんけん遊びはやつけあいということもできます。手つなぎオニはオニ増やし、陣取りゲームは陣地とり合戦、将棋は駒の取り合いと王様殺し、七並べは意地悪しあいともいえます。

折り紙や絵を描く、歌を歌うような表現遊びはケンカではないのではとの意見もあるでしょう。でも考えてみると折り紙で自分の思い通りに折れなくてイライラして紙をめちゃくちゃにすることがあります。表現遊びなどはまさに自己との格闘であるといえるからまさに自己とのケンカではないでしょうか。つまり遊びとはルールのあるケンカではないかと私は思います。

 子どもたちがケンカをしたら、『ケンカをしないで仲良く遊びなさい』と大人はよく言います。遊びをルールのあるケンカと考えるとケンカをしないことには遊びはできないことになります。現場にいる職員なら『ケンカをしないで』ということが実は意味のないことであることを実感している人も多いと思います。そこでは初めから遊びをルールあるケンカであることを前提に子どもたちと接する方法を考える必要があると私は思います。

 子どもの遊びはルールあるケンカととらえると、生命を傷つけない・後遺症を残さない・人格を傷つけない限り子ども同士のケンカを我慢してみることが必要となります。手を出さない目を離さないことが子どもの遊びの援助において大切であるといわれています。最近の少子時代では、両親や祖父母が手の出しすぎているように思います。せっかくの子ども同士の切磋琢磨の機会を奪い取るほど大人の口や手が出ていることが多いように思います。またその反対に子どもの自主性を尊重するととか言って、自分の子どもから目を離し、子ども自身が危険になったり、他人を傷つけようとしていても平気な親がいます。『手を出さない・目を離さない』という考えを広め、小さい乳幼児の時期からの仲間作りをすることが大切ではないかと思います。

 子どもが危険な行為をした場合、一生懸命『石を投げたら危ないでしょ』などと言い聞かせている親が多くいます。子どもとくに男の子どもは本能的に石があれば投げ、棒があれば振り回し、穴を掘り、平らなところは走り、じゅうたんはむしるように遺伝子ができているように私は子どもをunderstandしていると感じています。親が怒っても効き目がありません。言って聞かせても分からないから叩こうとする。すると親が近づいてきただけで反射的に逃げだします。この悪循環は断つ必要があるように思います。子どもが明らかに危険な行為をしたら、これはチャンスと思ってにこやかに近づき、子どもの目線の下まで下がって『この石を投げた手、悪い手。』といって痛いほどに握り締めてあげましょう。そのあと『でもあなたは良い子よ』とやってあげれば子どもは次第に危険な行為をしなくなるものです。手を出さないで目を離さないでおいて、これをきちんとやるのはただ言葉で説得するよりは効果があると思います。もちろん子どもの中には話せば分かる子どももいますが、それは他の子どもが叱られるのをしっかり見て学習しているからです。悪いことをやっても叱られないことを学習すると粗暴な行為がどこかで爆発することがあるものです。

 また石を投げる行為をボールのキャッチボールへ、棒を振り回すのはバッテングに、穴を掘るのは砂遊びへとルールあるケンカ=遊びに発展させることが必要であろうと私は思います。

 遊びとはルールあるケンカですから、やはり適度の身体を動かし、暴力的な衝動をうまく発散させる意義も子どもの遊びにはあるのです。こうした適度な発散をさせるためには既存の遊びをそのままやるのではなく、場面に応じた遊び方の開発をしていくことが必要と思います。たとえば相撲で一年生は五人組・二年生は三人組・三年生は二人組・四年以上は一人でやる。勝ち抜き戦で強い人が負けるまで次々とかかっていくようにする。相撲の弱い子どもでもみんなと一緒にやれば勝てて楽しい。強い子どもは次々と戦うからまた楽しいし、発散もできることになります。

   男の子と女のこの扱い方(保育園の年中から小学校の3年生くらいまでの)

最近はなんでも男女同権・男も女もさん付けで呼び、男女混合名簿など同じ扱いをするのが世の風潮であるようです。けれど遊びの現場で保育園の年中児から小学校の三年生の実際の子どもをunderstandしていると男の子と女の子はずいぶん違うことに気づきます。その違いを無視すると子どもをうまく援助できないことが多いものです。男の子と女の子の違いを明らかにし、援助方法を考えてみたいと思います。 

男の子は一般的に個人的に怒ってもあまり問題はありません。というのは小学校三年生くらいまでの男の子の多くはあまり他人のことを考えていないことが多いからです。『ともやん。ボールを強く蹴らないでちょうだい。』と叱ってもあまり問題はありません。でも女の子に同じことをやったら、『なんで私ばかり叱られるの。チョーむかつく。』と頬を膨らませてうらみに思われることが多くあります。ほめるときも一緒です。男の子に『ともやん。よくゴミを拾ってくれたね。ありがとう』と言っても他の男の子はひがみません。男の子はそんなことは聞こえていないことのほうが多いからです。けれど女の子は幅広くアンテナを伸ばしていますから、『ともこちゃん。よくゴミを拾ってくれたね。ありがとう』といったら、『なんでともこばかりほめられるの。みんなでともこをシカトしよう。』ということになります。叱り方・ほめ方を男の子と女の子とでは変える必要があると私は思います。
 男の子のおやつの時間は三分・女の子は三十分というように、おやつの食べる時間も違います。男の子はおやつを早く食べ終わり、外で遊びたいから、口の中におやつを詰め込んでもぐもぐ言いながらごちそうさまをします。女の子はおやつを食べることが遊びの一つですから、おやつを食べながら三十分以上しゃべりまくります。
 折紙で飛行機を作る時も同様です。男の子はいくつも作ったり、作った飛行機を外に飛ばしに行ったりと忙しいものです。女の子は作った飛行機の色塗りに専念し、うまく色が塗れるともったいなくて飛行機を飛ばさないで飾っておきます。男の子はダンスの練習を好きでないことが多く、十五分位が限度です。でも女の子は三時間でも踊りつづけいます。男の子は一番が好きです。学校から戻ってきてカウンターでサインをするときに一番だと大喜びします。一番になりたくて、子犬のように駆けてセンターに戻ってきます。女の子はサインが一番などということで喜びません。下手に喜ぶと仲間にいじめられることもあります。男の子は靴や服やランドセルをよく間違えて他人のものを持っていきます。女の子のランドセルにはいくつかお人形などがついているから、間違えることは少ないものです。男の子と女の子はこんな風にとても違うと私は感じています。違う以上は援助の方法も変えるべきだと私は考えています。

私はドッジボールやゲームや活動をするとき、男女一緒のチームを作らないようにしています。小学生時代は保育園時代とは違い、男女が離れたがる時期です。無理に一緒に遊ばせようとするとケンカを始まります。離れたいときは離しておけば良いと思います。男女混合の班を無理して作る必要はないと私は思います。チームは別だがゲームは一緒の方が良いと考えています。男女対抗のドッジボールやフットベースをやったり、工作をやるけれど一緒の場所で同時並行にやるのが良いとの考えです。するとお互いに男の子はどんなものが好きで、女の子はどんなものが好きかを理解しあうことが多いものです。みんなで昼食作りをしたときのことです。女の子八人一組で三グループ、男の子七人一組で三グループを作りました。一人二百円で1グループ千四百円から千六百円持たせ、買い物をして作ることになりました。女の子のグループはジュース・ケーキ・サンドイッチ・果物の組み合わせでしたが、男の子の一グループは焼きそば・一グループはカップラーメン・一グループは炊き込みごはんでした。そして、男の子のグループと女の子のグループが交換して喜んで食べていました。
 こんな風に小学生を男女別々に行動させておくと、たまにてつなぎ鬼などで男女交互に捕まえることとか、フォークダンスで男女交互に手をつながせたりすると、嫌そうなポーズをしますが内心とても喜んでいます。小学生時代の男の子と女の子は無理に一緒のグループにしないで別のグループにするけれど一緒の活動をするというのが、子ども同士の相互理解につながっていくように私は思います。

  子どもの発する言葉と子どもの本音

最近、子どもの話を真剣に聴こうとか子ども理解をしようとか主張され始めています。そして子どもの発する言葉にこだわってしまっていることが多いように私は思います。
 典型的なパターンで紹介してみましょう。積木で愛ちゃんが遊んでいるのをみて、悠ちゃんが訴えてきました。
「私も積木で遊びたいので、『入れて』と愛ちゃんに頼んだら、入れてくれない」そこで職員・実習生・親が出ていって
「愛ちゃん。悠ちゃんも仲間に入れてあげて」
「だって一人で遊びたいんだもん。」
「入れてあげてもいいじゃん。仲良く遊んだら」
「積木少ししかないし、悠ちゃんは自分中心でいやだもん。」
「意地悪もいうものではありません。」
 というようなパターンになって愛ちゃんと悠ちゃんの仲は逆に悪いものになってしまうことはよくあるものです。この場合にトラブルメーカーは私から考えてみると職員・実習生・親ということになるのです。子どもの言葉に耳を傾けようなどとの表層的なとらえ方がそうしたことに悪影響を与えています。昔なら子どもが多かったから『自分達で解決しなさい。お母さんは忙しいの。』くらいだったから、調和がとれていたのです。
 それでは少子の時代にはどうしたら良いかを考えてみましょう。気分一効果などの考えから『私も積木で遊びたいので、〔入れて〕と愛ちゃんに頼んだら、入れてくれない』との悠ちゃんの本当の気持ちを考えてみましょう。実は悠ちゃんは積木に固執しているわけではないのです。愛ちゃんが楽しく遊んでいるので、私も楽しく遊びたいと主張しているのです。だから

「悠ちゃん。一緒にドミノ遊びをしようか。ドミノはものすごく面白い。私一人ではできないから悠ちゃん手伝って。お願い。」とやれば良いのです。(ドミノでも外遊びでも掃除でもおやつでも何でも良いのですが)すると悠ちゃんは実習生(親でも職員でも良い。仮に実習生とします。)と遊び始めます。本来の目的である楽しく遊びたいとの欲求が満足するので積木遊びへの固執がなくなります。保育園の年中児童から小学校の低学年の児童は他の人の行動が気になるものです。隣で積木をしていた愛ちゃんも仲間になりたそうな雰囲気がわかってきます。
「愛ちゃん。一緒にドミノを手伝ってくれない。」と声をかけます。ドミノ遊びは実習生と悠ちゃんの遊びから子ども二人の遊びに発展し、周りの子どももやりだすと五人〜十人への集団遊びへと発展します。子どもは基本的には子ども同士の切磋琢磨で成長するものです。子ども同士の関係性をどのように作るかを実習生(職員・親も)は意識的に取り組まなくてはいけないことだと私は思います。子どもの話してくる話の言葉の内容と本来の思っていることとでは若干のズレがあります。そのズレを意識的に汲み取り、ちょっとこちらもずらしてあげて答えると本来の目的をうまく達成できることが多いものです。悠ちゃんが
「愛ちゃんが私のことを馬鹿と言った」と訴えてきた時に
「悠ちゃん。今日はとても可愛いね。誰がその素敵なスカートを買ってくれたの?」尋ねてやると
「ありがとう」と悠ちゃんが答えてうまく解決できることが多いものです。『愛ちゃんが私のことを馬鹿と言った』との訴えは『あなたは私のことをちゃんと見てくれていますか。私はここにいるのですよ。』とのメッセージであることが多いのです。『悠ちゃん。今日はとても可愛いね。誰がその素敵なスカートを買ってくれたの』との答えは『私は悠ちゃんのことをちゃんと見ていますよ。私は悠ちゃんが好きですよ』とのメッセージです。これを受けて悠ちゃんは安定をして愛ちゃんと遊び始めることも多いのです。
 子どもの心を表層的にとらえないでもっとしっかりとunderstand(下側に立つ=理解する)することが必要であると思います。私が子どものことを感じることができるようになったのは子どもの話しかけに対して膝立ちになり、子どもの目線の下側に立って話を聴くようにしたことが大きいと感じています。膝立ちで子どもからunderstandして子どもの本音の声を聴いてみませんか。

   ロールプレーを取り入れよう

 少子時代の特徴は人間関係の体験が少ないことにあると思います。子どもが三人から四人の時代であれば、家族だけではなくて近所にもたくさんの子どもたちがいて、子どもも我慢をする経験をしなければなりませんでした。少子時代となり、物が豊かになったことによって、欲しいものはいつでも手に入れることができるような錯覚があります。また、大人がいつもゲームなどでは負けてくれているので、勝たないと気がすまない子どもやテレビゲーム等の普及で負けてきたらスイッチを切ってお終いにする子どもも増えています。それでは生身の人間と遊ぼうとしても遊びが持続しません。我慢を覚えるにはやはりロールプレー等のごっこ遊びをやることが良いと私は感じています。

 参りましたジャンケン遊びはジャンケン遊びと謝ることのロールプレーをミックスした遊びです。最初に二人組を作ります。ジャンケンをして負けたほうが膝立ちとなります。またジャンケンをしてまた負けたら正座になります。またジャンケンをしてまた負けたら負けた相手に『○○様参りました』と土下座をして頭を下げます。もちろん相手が途中で負けて正座同士のジャンケンで決着がつくこともあります。すぐに切れる子どもやADHD傾向の子どもはこうしたジャンケン遊びでも悔しくてなかなか『参りました』ということが出来ないことが多いものです。そこで参りましたジャンケン遊びのやり方を説明する時に私は、切れやすい子どもを相手に指名してロールプレー風にやっています。私がチョキを出し、相手がグーを出すことにしておいて、私が深々と『○○様参りました』と見本を見せてあげるようにすると子どもは大喜びします。大人に頭を下げさせるというのは子どもにとって気持ちの良いものです。ですからジャンケン遊びに飛びついてきます。でもジャンケン遊びですからいつも勝てるとはかぎりません。負ければ相手に深々と頭を下げることが必要となります。また、子どもにとって一人で負けるのはなかなか耐えることができないことがあります。そこで参りましたジャンケン遊びを一対一ではなくて二対二で行うようにすることも有意義です。私は二人組のことをツーパワー・三人組をスリーパワーと言っています。これは実際にやってみるとよくわかるのですが、一対一ではなくて、二対二・三対三で戦えば悲しみが二分の一・三分の一となり、喜びは二倍・三倍となります。こうしたジャンケン遊びなどのロールプレーを繰り返していると体験が深まり、我慢をすることが楽しいことにつながることを子どもたちは学んでいくように思います。

  終わりに・・身近な自然とのふれあい・・

 人間は自然の一部であることは間違いないでしょう。子どもたちを自然の中で遊ばせると障害児も健常児もみんなとても元気になってきます。野外キャンプや登山・ハイキング・川遊びなどはとても子どもたちに良い影響を与えることは間違いありません。しかし豊かな自然を求めて、山や川に行くことは費用もかかるし、計画から実施までずいぶんと大変なことです。私はもっと身近な自然に親しむことを大切にしたらと考えています。

 除草剤を撒かないで子どもたちと一緒に草取りをし、木の剪定をし、ゴミを拾い、落ち葉を拾ったり、石を拾ったりすれば身近な自然も楽しい遊び相手になります。

 春にはモチグサ(=ヨモギ)やユキノシタのテンプラを楽しむことができます。ハコベを水で洗い、さっとゆでます。それを細かく切って暖かいご飯に混ぜれば緑鮮やかな菜飯を楽しむことができます。初夏にはグミの実を食べたり、秋にはマテバシイ(=どんぐりの仲間)を炒ってペンチで割り、中身を取り出します。栗ご飯同様にご飯と炊き込めばドングリご飯も美味しく食べることができます。冬の雪の下には美味しいフキノトウが隠れています。土がない都会でもプランタで栽培すればいろいろなことを楽しむこともできます。

 もっと身近な自然に親しむことができれば子どもたちはとても元気になってくると思います。そのために大人は身近な地域の環境作りを大切にしていくことが私はとても大切と思います。

 

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