EVANGELION Another World #24A.
第弐拾四話
A part.

「人類補完計画」

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 リツコの研究室には淡い光を放つ常夜灯と、デスクの上を照らすスタンドの明かりが灯っているだけだった。
 デスクの前のマギシステムの端末、その数多くのディスプレイも、正面の一つを除いて消灯していた。
「そう…いなくなったの、あの子が」
 リツコは電話の受話器に向って答えた。
「…ええ、多分ね。猫にだって寿命はあるわよ。もう泣かないでおばあちゃん。仕事に区切りがついたら一度帰るわ。母さんの墓前にももう三年も立ってないし…今度は私から電話するから。…じゃ、切るわよ」
 リツコはそっと受話器を置いた。その受話器の近く、色とりどりの口紅のついた吸い殻でいっぱいの灰皿の横、二体の小さな猫のマスコットが目に入る。先日から倒れたままの黒猫、そしてその横に立つ白猫。リツコは人差し指をのばすと、立っていた白猫のマスコットをかたん、と倒す。
「そう…あの子が死んだの…」
 倒れた二体のマスコットを見ながら、リツコは悲しそうにつぶやいた。

「ミサトさん、本当に行かないんですか?」
 マンションの玄関で外出の支度をしながらミサトに問い掛ける。
「やめとくわ。私が行くと治るものも治んなくなりそうだし。それにこんな顔で会えないわよ」
 ペンペンと一緒に見送りに立つミサト。その額には小さなガーゼが貼られていた。
 先日のカヲルの事件で、錯乱したアスカは鎮静剤を投与された。しかし薬が体質に合わなかったことと、混乱の中で過剰な分量を投与されたことが重なり、軽いフラッシュバックなどの後遺症が見られるため、そのまま入院していた。最初にシンジとミサトが見舞いに行ったとき、アスカはミサトの顔を見るなり怒鳴り散らし、手の届く物を手当たりしだいに投げつけてきた。ミサトの額の怪我は、この時のものである。幸い一週間もすれば傷痕もなくなるような怪我だったが。
「傷、大丈夫ですか?」とシンジ。
「へーきよ。三日もすれば治っちゃうわ。なんか聞かれたら、気にしないように言っておいて。それと、早く治して帰ってきなさいって」
 ミサトは明るく答える。
「わかりました。それじゃ、行ってきます」
 シンジは横に置かれていた荷物を持つとドアを開けた。
「いってらっさい」
 ミサトは陽気に右手をあげて見送った。
 ドアが閉まるとミサトはペンペンを引き連れてキッチンへと向う。冷蔵庫を引き出し、無意識に缶ビールに手を伸ばそうとするが、思い出したように手を止めると、違う段の缶コーヒーを取り出した。
 シンジの前の陽気な様子とは打って変わって物憂げな顔で部屋の隅にある電話を見る。
「鳴らない、電話か…」
 冷蔵庫を閉じ、電話に背を向けるとリビングへと向う。冷蔵庫に期待していたペンペンが不満の声をあげた。
 ミサトは窓辺に座り込み、クッションにもたれかかる。缶コーヒーのリップルを引き、青空を流れる雲ぼーっと眺める。
「…過去に縛られてると、目の前の幸せも逃すわよ。アスカ…解ってるかしら。私みたいには、なってほしくないわね」
 誰に聞かせるでもなくそう呟くと、ミサトは缶に口をつけた。

「ロンギヌスの槍、我らの手では回収は不可能だよ」
「それに加えてターミナルドグマへの使徒の進入、凍結中の初号機の無断使用。碇の解任には十分すぎる理由だな」
 漆黒の闇に包まれ、十二枚の黒石版が浮かぶ部屋に、声だけが響き渡る。
 ネルフの上位機関である人類補完機構、その中央委員会の裏の顔、それがこのゼーレの円卓会議である。
「冬月を無事に返したことの意味のわからぬ男ではあるまい」
「新たな人柱が必要ですな、碇に対する」
「そして次なる駒が必要だ」

「マヤ、手を出して」
 リツコは唐突にマヤに言った。
 マヤはなんのことかわからず、言われたままに手を出す。その手にリツコは一つの鍵を乗せた。
「先輩…これって」
「そう。マギのマスターキーよ」
 マギシステムは通常のコンピュータと同じIDとパスワードの組み合わせによって一般ユーザーのセキュリティシステムを構築していた。しかしその他にシステム管理者は、物理的な鍵によって使用者の認証を行っていた。それらの鍵全てのキーを操作できるマスターキーを持っているのはE計画総責任者であるリツコただ一人だった。
「そんな、私が預かっていいような物じゃ…」
「いいのよ。これから私が不在の時はあなたに預けることにするわ」
「出張ですか、どちらへ?」
 マヤはリツコが出張するという話は聞いていなかった。唐突なリツコの行動に軽い疑問を感じる。
「ちょっとね」
 リツコはマヤの質問をかるく退けるとそこから立ち去った。

「まずいことになったな」
公務室で冬月がゲンドウに向って言った。
「ゼーレがレイを召喚すると言ってきている」
「先の戦闘では初号機は凍結待機、零号機によって使徒を殲滅したと報告してある。誤魔化しきれるとも思わなかったが、まさかそれを逆手にとられるとはな」
 ゲンドウが自嘲するように答える。
「どうするつもりだ。レイを行かせたら最後、二度と戻ってはこないぞ」
「大丈夫だ。ゼーレの老人達には別のものを差し出してある。心配ない」
 心配する冬月に、ゲンドウはそう答えた。

「我々も穏便に事は進めたい。君にこれ以上の陵辱、つらい思いはさせたくないのだ」
 ゼーレの円卓会議。「SEELE 01」と書かれた黒石板からキール議長の声が発せられる。その前には一糸纏わぬリツコの姿があった。彼女の周りを十二枚の黒石版が立ち並ぶ。
「私は何の屈辱も感じていませんが」
 リツコは普段と代わらぬ毅然とした態度で、その黒石版のむこうにいるキール議長へと答えた。
「気の強い女性だ。碇が側におきたがるのも解るな」
「だか、君を我々に差し出したのは他でもない。碇君だよ」
 リツコに向って周囲から様々な声が飛ぶ。
「零号機パイロットの尋問を拒否。代理人として君をよこしたのだよ、赤木博士」
 正面から響くキール議長の声。リツコにはそれが彼女を嘲っているように聞こえた。それまで毅然とした表情を崩さなかったリツコの眉がぴくりと動く。
〈レイの代わり…私が…〉
 リツコの心の中で、なにかが外れる音が響いた。

「よくもまあ、毎日飽きもせずに来るわね」
 アスカはシンジの背中にそんな言葉を投げつけた。ベッドの上で膝をかかえて、シンジの反応を待つ。
 シンジは洗面所での手を止めると、花でいっぱいになった花瓶をアスカに見せる。
「わぁ…」
 窓からの光に彩られる色とりどりの花にアスカは言葉を失う。
「洞木さんから。昨日来たんだけど入れなかったからって、家に持ってきてくれたんだ」
「ヒカリが? …変だと思ったんだ。馬鹿シンジが花束持ってくるなんて、柄じゃないもん」
 アスカは花瓶を受け取って花の中に顔を埋める。しかしふと顔をあげて尋ねる。
「入れなかった? どして」
「関係者以外立ち入り禁止なんだ。今」
 歯切れ悪くシンジが答える。ベッドサイドの椅子に座ると、持ってきた荷物の中から一つの包みを取り出す。
「リンゴ、食べるだろ」
 アスカはこくんとうなずく。シンジは包みをほどき、真っ赤なリンゴと果物ナイフを取り出す。
「アスカには、花よりこっちの方がいいと思って」
「花より団子、とでも言いたいわけぇ?」
 小さなまな板の上でリンゴを両断するシンジをアスカがにらみつける。シンジは慣れた手つきでリンゴをむきながら答える。
「驚いたな、そんな日本語知ってるんだ」
「私、試験の問題が読めなかったでしょ。そしたらヒカリがね、国語辞典を読みなさいって教えてくれたの」
「そうなんだ。他に何を知ってる?」
「えーと、腹八分目に医者いらず、でしょ」
 アスカは指をおりながらいくつかのことわざをあげる。
「なんか食べ物関係が多くない?」
「ほっといてよね」
 笑いながら指摘するシンジに、アスカは頬を膨らませて答える。
「はい」
「ん、ありがと」
 アスカは手渡された楊枝で、皿の上のリンゴを一つ突き刺す。リンゴを噛み砕くと、口の中いっぱいに甘酸っぱい香りが広がる。リンゴをかじりながら、サイドテーブルに置かれた花を見る。外からの強い陽光に照らされたそれは、無機的な病室の中で唯一生命に満ちた場所に思えた。
 その花の彩を見ているうちにふとアスカは気付いた。外の明るさと、室内に差し込む光の強さに。
 それはリンゴの季節のものではなかった。
 セカンド・インパクトとそれに伴う地軸の移動で、世界の気象は大きな影響を受けた。そして世界の農業、植生は大きな影響を受けることとなった。アスカの生まれたドイツでもリンゴは北方の一部でしか取れない貴重品となっていた。日本に来てからは売られているのを見たことも無い。
 アスカは小さいころ、風邪を引いたときに母親がリンゴをむいてくれたことを思い出した。目の前のリンゴは、思い出の中と同じ味がした。
 アスカは残り半分のリンゴを剥くシンジを見つめる。リンゴの入手には苦労しただろうに、そんな様子は微塵も見せない。
「莫迦…」
 アスカは小さな声で呟く。
「え?」
「なんでもないわ」
 顔をあげたシンジにアスカは軽く答え、皿のリンゴに手をのばす。
「立ち入り禁止って…この間のあいつのせいなの?」
 シンジの肩がびくんと震える。手元を狂わせ、ナイフで左手の人差し指を切ってしまう。
 ぱっくりと開いた傷口から、真紅のルビーのような血が流れ出す。シンジはそれを呆然と見ていた。
「かしなさいよ!」
 アスカはシンジの左手をひったくると傷口を口にふくむ。
「ア、アスカ…」
 シンジはアスカの突然の行動に驚く。
〈だまりなさい〉
 アスカは目でシンジに伝える。口の中に鉄錆の味が広がる。
 指に伝わる温かさがシンジの心を落ち着かせる。
「…僕はカヲル君を殺したんだ。それが僕の役目だったし、彼もそれを望んでいたと思う…」
 シンジはその温もりに、心に溜まっていた思いを吐露する。
「でも、考えるんだ。僕は正しかったのかなって。彼は本当に倒すべき敵だったんだろうかって…痛ッ」
 アスカが咥えていたシンジの指に歯を立てる。右手でサイドテーブルからハンカチを取り出すと、シンジの指をはなす。
「右手で手首を握る! 強く!」
 アスカの指示にシンジは黙って従う。アスカは両手でハンカチを持つと、歯を上手に使ってハンカチに切れ目をいれる。両手に力をいれ、ハンカチを裂くと、手早くシンジの指の傷に巻き付ける。
「あんた、馬鹿?」
 シンジの指にハンカチを結びながらアスカは答える。
「使徒は私たちの敵なのよ。やつらを倒さなきゃ、私たちが死んじゃうじゃないの。私はシンジに…」
 感謝している、と言おうとしてアスカはいったん言葉を区切る。その言葉は同じパイロットとして使いたくはなかった。
「…シンジが間違っていたとは思わないわ。…それに、私はあいつが嫌いだったもの」
 アスカはハンカチを巻いたシンジの指を自分の人差し指ではじく。シンジが痛みに顔をしかめる。
「できあがり。あとでちゃんと診てもらいなさいよ」
 シンジはダンゴになっている指先のハンカチだったものを見つめる。
「…ありがとう」
 その感謝の言葉が怪我の手当に対するものなのか、今の自分の言葉に対するものなのか、アスカにはとっさに判断できなかった。そのシンジの素直な言葉に気恥ずかしくなったアスカは、とっさに普段なら決して口にしないような話題を口にする。
「ファースト、どうしてるかしら」
「昨日退院したって」
「…よくご存知ですこと」
 アスカはぶっきらぼうに答える。自分の心に暗いものが立ち込めるのを感じながら、そんな質問したことを後悔する。
「そんな、何度かお見舞いに行っただけだよ」
 シンジのその何気ない答えは、アスカの心に鋭く突き刺さった。
「…馬鹿」
「へ?」
「…馬鹿って言ったのよ!」
「…どうして?」
 アスカは自分の心に沸き上がる理解できない感情に苛立っていた。と、同時にその自分をまったく理解していないシンジに強い憤りを感じた。
 感情にまかせて持っていた爪楊枝を投げつけようと右手を振り上げる。強く結んだ唇に大きく見開かれた目の端に涙が浮かぶ。
 そのまま右手を握り締め、拳をベッドに打ち付ける。
「この卑怯者!汚らわしい!あんたの顔なんて見たくない わ!!」
「…ごめん」
 さっきまでとはうってかわったようなアスカにあっけにとられていたシンジは反射的に謝罪の言葉を口にする。
「なんで…」
〈なんでシンジが謝るのよ! あんたは悪くないでしょ!!〉
 とっさに自分の思いを口にできず、アスカは唇を強く噛む。彼女は暴走する自分の心を押さえることができなかった。
「帰って! 帰ってよ!」
 アスカはそれだけ言うとがばっと布団をかぶってシンジに背を向ける。
 シンジはそんなアスカを呆然と眺めていた。そしてひとつ大きく息を吐き出すと荷物をまとめて立ち上がった。
 その場から立ち去る前にシンジはアスカに声をかけようとした。しかしシンジは布団の中で丸くなっているアスカにかける言葉を思いつかなかった。しばらく逡巡したあと無言で病室を後にする。
 アスカは布団の中で立ち去るシンジの足音と扉の閉まる音を聞いた。彼女の目からは止めどなく涙があふれてきた。しかし、アスカにはその涙の理由がわからなかった。

「そりゃアスカが怒るのも無理ないわね」
 その日の夕食のテーブルで、病院での顛末を聞いたミサトは答えた。
「どうしてですか?」
 シンジが急須にお湯をそそぎながら、さっぱりわからないという顔で質問する。
 ミサトはすこしあきれた顔で答えた。
「女の子と一緒の時に、ほかの女の子の話なんかするものじゃないわ」
 そう言ってから気付く。シンジはまだ十四才の子供だということを。彼がこれまで学んできたことよりも、もっと多くのことをこれから学ばねばいけない存在だということを。
 ネルフの作戦部長としては、シンジはいまや頼りにできるトップエースである。その意識が、いつのまにかシンジが子供であるという認識を薄くさせていたに違いない。
 シンジがミサトの前にまだ新しい湯飲みを置く。礼をいって受け取り、一口飲んでから付け加えた。
「シンちゃんも、そろそろ女心って物を理解できるようにならないとね」
「…よくわからないな」
 シンジは困ったように答えた。
「考えなさい、自分で。あなたには、まだ時間があるもの」
 戸惑うシンジに、ミサトはやさしく言った。

 その夜、シンジは眠れないでいた。暗闇で一人になると、先日からの疑問が彼の心を捕らえて離さなかった。
〈僕は、使徒からみんなを守るために戦っている。…でも、使徒ってなんなんだろう〉
 シンジが目を閉じると、彼の中で時間が逆行を始める。
 昼間、アスカにいわれたことを思い出す。
『使徒は私たちの敵なのよ。やつらを倒さなきゃ、私たちが死んじゃうじゃないの』
 使徒を倒さねば、なぜ自分達が死んでしまうのだろう。
 第十四使徒がジオフロントに侵攻してきたとき、加持に言われたことを思い出す。
『地下に眠るアダムに使徒が接触したとき、サードインパクトが起こり、人類は死滅すると言われている』
 地下に眠るアダムとは何だろう。
 先日、渚カヲルを追って、ターミナルドグマの結界の内側で見たものを思い出す。
 十字架に架けられた巨大な人間の上半身。
〈あれが、アダムなのか…〉
 そして、初めて第3新東京市に来た日のことを思い出す。
 第三使徒「サキエル」の襲来、ミサトとの出会い、ジオフロント、エヴァ初号機、レイ、父親との再開、そして初めての実戦。瞼の裏にその光景がまるで昨日のことのようによみがえる。
 初めての戦闘が終わってエントリープラグ内で気付いた時に見たもの。鏡張りのビルの壁面に写ったエヴァの素顔、その姿を思い出してシンジははっと目を開ける。
 そしてカヲルの言葉を思い出す。
『エヴァは僕と同じ身体でできている。僕もアダムより生れしものだからね』
 シンジの中で、エヴァと地下のアダムの姿がオーバーラップする。
〈アダムより生まれし者、エヴァ…。ターミナルドグマ、いったいそこに何があるんだ〉
 シンジの疑問は一つの形を持った塊として、彼の心に根をおろしていた。
 彼は一つの決心をした。



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Last Updated: Sunday, 09-Sep-2007 18:42:47 JST