「それじゃ、ペンペンをよろしく」
マンションの一階玄関で、シンジはヒカリに、ペンペンの入った籠を手渡した。
特別宣言D‐17の発令に伴い、第3新東京市の半径五〇キロ圏内の住民には、非難命令が出されていた。北米大陸を消滅させたエヴァ、いや、使徒は、次は第3新東京市にやってくることが予想された。
九体の使徒。これまでにない総力戦を前に、ミサトはペンペンをヒカリに預けることにした。サードインパクトの後、ミサトは昨晩遅くに一度だけ自宅に帰ってきた。部屋から出てこようとしないアスカにため息をついた後、シンジにペンペンを疎開させることを告げた。そしてそのまま、ミサトはペンペンと朝まで飲んでいた。
朝、ミサトは平気な顔をして出勤していったが、ペンペンは酔ったまま籠の中で眠っていた。
「それじゃ、お預かりします」
ヒカリは両手で重そうに、籠を受け取った。
「…アスカ、どうしてる?」
ヒカリは心配そうに尋ねた。
「うん…相変わらず部屋に閉じこもりっぱなしなんだ。食事の時も出てこないし」
シンジは渡す機会の無いままの指輪を思い出す。
「それじゃ、食事はどうしてるの?」
「部屋の前に置いておくと、何時間かすると空になってる。ちゃんと食べてはいるみたいだよ」
「そう…それならいいけど…」
ヒカリはうつむいて口ごもる。少し逡巡した後、思い切ったように顔をあげる。
「碇君、アスカをお願いね」
「え…」
「アスカを助けてあげて」
突然のヒカリの言葉にシンジは呆然とする。
「助けるって、そんな、僕なんかよりアスカの方が…」
「違うわ!」
アスカの方がずっと強いじゃないか、そう言おうとしたシンジの言葉をヒカリが遮る。
「アスカは本当は弱い子よ、精いっぱい強がってるだけなの。このままじゃアスカ、壊れちゃうわ。お願い、アスカを助けてあげて…」
ヒカリの後ろでクラクションが鳴った。ヒカリは車の家族を振り返る。
「ごめんなさい、時間がないの…それじゃあ、またね。アスカによろしく」
「うん…」
シンジはヒカリの言葉を理解しきれないまま、車に乗り込むヒカリを見送った。
部屋の窓から、アスカは去ってゆく車を見ていた。
視界から車が消えると、アスカはベッドの上に倒れ込み、右腕で顔を覆う。
「誰か…私を助けて…」
消え入るようなか細い声で呟く。右腕で覆った目から、一筋の涙が頬を伝う。
アスカは、泣いていた。
住民の疎開の進む第3新東京市では、来るべき総力戦を前に戦闘準備が進められていた。
兵装ビルの修理補修はもちろん、国連軍重砲大隊を接収、未稼動の兵装ビルによる死角を埋めていった。
配備の指揮を取っているミサトは、これら通常兵器が使徒に対して有効だとは夢にも思っていなかった。しかし彼我の戦力差は三倍、一秒でも敵の足を止めることができればそれでよいと考えていた。
おそらく敵はアメリカ第一支部と共に北米大陸を蒸発させたのと同じ作戦、中央に指揮機が、それを取り囲むように残り八体が布陣しての超振動攻撃を行うだろうと考えられた。
作戦局二課ではマギを使用し、第一支部跡の地形変化から超振動攻撃の効力を計算していた。その結果と第3新東京市周辺の地形を元に、敵の布陣予想位置を逆算してN2地雷の敷設を行っていた。
九体の敵をできる限り分断し各個撃破、それがミサトの立てた基本作戦だった。作戦と呼ぶほどの内容では無いことはだれもが承知していたが、常に数の上では優位の戦いを行ってきたネルフにとって、今回のような状況での戦闘は想定外であった。
作戦局一課では不眠不休で作戦立案とシミュレーションが繰り返されていた。
しかし、
「無駄ね、これは」
ミサトは作戦室のディスプレイを埋めるデータの山と、デスクと床を埋め尽くさんばかりのプリントアウトに囲まれた自分の惨状に声をあげた。その一言で作戦室全体の時間が止まる。
「いくらなんでも無駄ってことはないでしょう」
新たなプリントアウトを抱えた日向がミサトに振り向いて答えた。
「いくら第七世代のマギと言っても、初期条件が不確定だらけじゃあ、まともなシミュレーションなんか期待できないわ」
「しかし、敵の出現状況は二課のシミュレーション結果がかなり有効と思われますし、敵固体の能力もこちらのエヴァの能力と第十三使徒との戦闘から概算できます。初期条件はかなり絞り込めると思いますが」
「いくら初期条件を絞り込んでも、時間経過と共に状況のパターンは爆発的に増大するわ。バタフライ効果もあるし、仮に最適解が求まったとしてもそんなタイトなプラン、実際に現場で運用できるとは思えないわ」
日向はデータの散乱する作戦室を見渡すと、ひとつため息をついた。
「…この惨状を前に言われると、説得力はありますね」
「エヴァ三機で可能なフォーメーションのシミュレーションに絞りましょう。基本となるフォーメーションさえ確立できれば、あとは現場合わせでなんとかなるわ」
「…三機使えればいいんですけどね」
日向がぽつりとつぶやく。アスカの最後のハーモニクステストでのシンクロ率は起動限界ぎりぎりだった。その後の状況からも楽天的になれるような要素は何一つ無い。
「無駄口たたいてないで、フォーメーションパターンの生成、急いで」
ミサトの叱咤に作戦室は再び動きはじめた。
その人気のない廃虚のような集合住宅は、月明かりにコンクリートの肌を浮かび上がらせていた。規則正しく並ぶ巨大な白い直方体は、まるで林立する墓標のようだった。
レイは下着姿でベッドに寝転がっていた。その白い肌は、窓から差す満月の光に、いっそう白く浮かび上がっていた。
レイは左腕で両目を覆っていた。彼女は、自分の心の中の喪失感に気付いていた。レイは、自分が世界で唯一人の自分になったことを知っていた。そしてはるか東に出現した強大な者の存在を感じていた。その東方の存在感は日増しに強くなってきていた。今夜のような静かな夜、一人になるとそれは特に強く感じられた。
〈私、どこから来たの。私、何者なの。私、どこへ行くの…〉
レイは、自分がその答えを全て知っていることを知っていた。そして自分の心に満ちてくるこれまでに無い感情にとまどっていた。
〈契約の日がくる。それはもうすぐ。私の魂が呼ばれるのがわかる。待ち望んでいたはずのその日。でも、今は、恐いの…〉
レイは、自分の心が理解できなかった。
第3新東京市に特別宣言D‐17が発令されてから三日。コンクリートとアスファルトに覆われたこの街からは、人の姿が消えていた。
この地球が三回転する間に世界の様子はすっかり変わっていた。
北米大陸跡に流れ込む海水のせいで海流は無茶苦茶になっていた。赤道付近の一部では水温が四十度にも達し、温度変化に弱い海生生物の一群は、一気に絶滅の淵へと転がり落ちていった。逆に極地では水温の異常低下の影響が徐々に出始め、グリーンランドでは早くも氷河の拡大が報告されていた。この状態が続けば、ベーリング海峡が氷に閉ざされ、サードインパクトに残ったアラスカの一部が、ユーラシア大陸と陸続きになることも遠い将来のことではないだろう。そうなった場合に太平洋北部、特にアラスカ海流とアリューシャン海流がどのような挙動を起こすか、そして周辺の気象に及ぼすであろう、その影響はだれにも予測がつかなかった。
太平洋、大西洋岸の海岸線は徐々に後退を始め、セカンドインパクトで海中に没した街並みが姿を現していた。人々はその幽鬼のような廃墟に、自分達の未来を幻視した。
第一支部跡の周辺には国連太平洋、大西洋艦隊の大半が展開し、エヴァ伍号機を始めとする九体の使徒を二十四時間監視に置いていた。
周辺には計測機を満載した無人艦船を配置、上空にはN2爆雷を装備したA‐12攻撃機が二十四時間哨戒飛行を行い、一日数回、RF‐23Dが超低空での強行偵察を行っていた。この危険な超低空の超音速飛行により、三日間にすでに二機のRF‐23Dが事故で失われていた。しかしどのような損失が出ようとも、この厳重な監視体制は緩められることはなかった。
これら国連軍によって得られた貴重なデータはネルフ本部に集結され、マギシステムがその解析を行っていた。
エヴァ伍号機以下は外見的にはすでにほとんどの修復を終え、活動再開はすでに時間の問題だった。
シンジは日中の本部待機を命じられていた。朝、ネルフ本部へと向かい、夜帰宅する。部屋に残してきたアスカのことが気になったが、シンジは彼女に対して積極的な行動をとることはできないでいた。
本部は初期の混乱から立ち直ってはいたが、この三日間で予定されていたハーモニクステストはすべて中止となっていた。レイと顔をあわせることはあったが、シンジはいつも無関心を装って彼女に近づこうとはしなかった。シンジはその態度が、第3新東京市に来る前の自分の行動だったことを思い出した。それはとてもいやな気分だった。
本部待機中は基本的に本部周辺にいて、携帯電話への非常召集の連絡が受信できる状況であればよく、特に拘束されることはない。シンジはその時間を加持の残した畑か、本部の図書館ですごすことが多かった。その図書館はネルフ本部の福利厚生施設もかねているため、ぶ厚い専門書や外国語の書籍と混じって一般書も収蔵されていた。割合的には圧倒的に少数であったが、蔵書の絶対数が膨大なので、少数とはいえかなりの量だった。
シンジはそこで暇にまかせて無作為に本を抜き取り、ぱらぱらとめくったり、静かにSDATを聞いたりしてすごすことが多かった。
シンジは六人がけの机の角の席で、昔の推理小説のハードカバーを開いていた。とくに興味をそそられるような内容ではなかったが、彼には他にすることがなかったし、時間をつぶすことができればよいと思っていた。
正面でかたん、といすを引く音がした。シンジが顔を上げると、正面の席には、綾波レイが一冊の本を持って座っていた。
ここ数日そうしているように、シンジはレイから離れようと立ち上がった。
「どうして私から逃げるの?」
シンジがレイに背を向けたとたん、レイがそう問い掛けた。
「逃げるなんて…そんな…」
「見たんでしょ」
シンジはその言葉に振り返る。レイはまっすぐにシンジを見ていた。
「綾波は、知っていたの…」
レイは静かにうなずいた。
「私は、六年前まであそこにいたから」
「え…」
「私は、二人めだから」
シンジは、レイの発した言葉の意味がわからなかった。いや、わかってはいるのだが、それを理解したくはなかった。彼の脳裏にターミナルドグマで見た、大量の綾波と同じ物が、水槽の中で崩れ落ちるそれの姿がよみがえる。
ワタシハ、フタリメダカラ…
シンジは、自分の目の前にいる、自分が知っているはずの少女が急に遠い存在になったような気がした。
レイは、そんなシンジの様子を見て、とても悲しそうな目をした。
その時、二人の鞄の中で、断続的な呼び出し音が鳴った。レイはそれを聞くと椅子から立ち上がった。
「非常呼集。行きましょう」
レイはそう言うと歩きはじめた。シンジは言われるまま、その後ろに続く。
二人の会話はそこで打ち切られた。
足音が部屋の前で止まったかと思うと、唐突に扉は開かれた。
ベッドの上で膝を抱えていたアスカはその招かれざる客を見た。黒いスーツに黒いサングラスの二人連れだった。
「惣流・アスカ・ラングレーさんですね。ネルフ諜報部の者です、お迎えにあがりました。至急、本部までご同行下さい」
アスカは、シンジすら入れたことのない自室に、彼女の許可もなく足を踏み入れた無礼な二人から視線をはずすと、抱えた膝に顔を埋める。そしてゆっくりと問い掛けた。
「私が必要?」
「至急、本部へお連れするようにと」
「ふん、私なんて連れていっても、なんの役にもたたないわよ」
「至急、お連れするように、と」
男は先とまったく同じ口調で答える。
「いやだと言っても、無理矢理連れていくんでしょ」
「その必要があれば。ご協力ください」
アスカは何もしたくなかった。しかし、ここで無礼な侵入者と無意味な会話を続けるのは、もっといやだった。
アスカは大きくため息をついた。
「…着替えるから十五分待って」
「五分待ちます」
「いいから私の部屋から出てってよ!」
アスカはそう叫ぶと枕元にあった目覚し時計を男の顔に投げつけた。男は右手でそれを受け止めると、黙って部屋から出ていった。
「嫌いよ…」
アスカはそう一言つぶやくと、のろのろとベッドから立ち上がった。
「先発の第6戦術偵察小隊三機、まもなく目標に接触します」
日向はそう言うと正面スクリーンに赤外線映像をまわした。その映像は第一支部跡のエヴァ伍号機と八体の使徒の構成するサークルへと向かう、国連軍太平洋艦隊所属第六戦術偵察小隊の一番機のカメラからの映像だった。この作戦の指揮権はネルフに譲渡されている。ネルフ本部の発令所にいるミサトは、衛星回線の数秒のタイムラグをおいて、地球のほぼ裏側で行われる作戦の指揮をとっていた。とはいっても、作戦自体は綿密なタイムスケジュールにしたがって行われていた。ミサトが実際に指揮を行うのは、予期せぬ緊急時のみである。
「小隊、散開します」
タイムスケジュールを監視している日向がそう報告した。映像が衛星回線を通り抜ける時間が経過すると、散開してゆく二番機と三番機が正面スクリーンの端に一瞬映り込む。
三機のRF‐23Dは三方向からタイミングを合せて、マッハ2・6の最大戦速で、エヴァ伍号機以下、九体の使徒の強行偵察を行う。後続にはN2爆雷を搭載したA‐12攻撃機三個中隊が、同じように超低空侵攻を試みていた。この攻撃隊は、先行する第6戦術偵察小隊の偵察結果を元にわずか二十五秒で攻撃態勢を編成、N2爆雷による精密攻撃を行う。そのさらに後方には、戦果確認のための第11戦術偵察小隊が三十二秒‐N2爆雷の爆発後のEM効果が収まる最低時間‐だけ遅れて追随していた。このようなスピードでの作戦をこなせる飛行隊は世界で三隊もいないだろう。彼らは超一流のパイロット、ライト・スタッフだった。
先行するRF‐23Dのパイロットは、時計を確認すると左手のスロットルを一番上まで押し上げた。搭載された二機のジェネラルエレクトリック・F120‐GE‐400エンジンが合計六八七〇〇lbの最大推力を吐き出し、高度一〇〇メートルという超低空で機体をマッハ2・6の最大速度に押し上げる。機載カメラのレンズを覆う涙滴型のキャノピーが、空気摩擦の熱で虹色に輝く。
それを映すカメラは存在しないが、機体の後方は衝撃波で海が二つに割られ、V字型の水の壁ができているはずだった。
ネルフ本部のスクリーンに映し出される映像の左上には、エヴァ伍号機との接触予定時間に向けて、作戦時間が勢いよくカウントダウンしていた。その数字はまもなく三桁を切る。
「Tマイナス二秒に一番機がサークルの内側へ進入します。2番機はTプラス一秒、三番機はTプラス〇・八秒にサークルへ進入します」
日向はタイムスケジュールとの誤差を正面を向いたまま報告する。その後ろに腕を組んで立つミサトは、スクリーンから目を離さずに、だまってうなずいた。
「…接触予定まであと五、四、三、二、一、零、一、二…」
カウントダウンから電波が衛星を経由する時間だけ遅れ、画面に一機のエヴァが流れ去り、その二秒後にエヴァ伍号機が画面に入ってくる。そしてRF‐23Dが伍号機の直上を通過した瞬間、画面はブラックアウトした。
「攻撃中止!全機反転!」間髪をおかずにミサトが絶叫する。
直上に展開していた人工衛星第21サーチは、その二十秒後に第一支部跡で三十六個のN2爆雷の爆発を確認した。
その直後、発令所のスクリーンに航空機からの映像が再び転送されてきた。転送元は後続の第11戦術偵察小隊だった。
「反転しなさい!命令です!」ミサトが強い口調で再び命令する。
永遠とも感じられる数秒が経過する。
『目標との接触まで、十二秒』
帰ってきた返事はそれだけだった。
画面が無傷のエヴァ伍号機を捕らえた瞬間、映像は切れた。
「攻撃隊、戦術偵察隊、共にビーコンは確認できません。…全滅です」
〈なんのための指揮官なんだか…〉
ミサトはうなだれて、唇をかみ締め、絞り出すような声で命令する。
「第二種戦闘配備を第一種へ移行。次はここへ来るわよ」
プラグスーツに着替えたシンジとレイのいる待機室の扉が開いた。扉の向こうには、両側を黒服の諜報部員に挟まれた、プラグスーツ姿のアスカが立っていた。
アスカは中にいるシンジとレイに気付いたが、すぐにうつむいて視線をはずす。そして左の男に促されると待機室に足を踏み入れた。その後ろでドアが閉まる。
アスカはシンジ達とは離れた長椅子に腰掛けた。膝にひじをつき、両手を顔の前で祈るように組む。
シンジは立ち上がると、アスカの正面へ行く。
「…ひさしぶりだね、顔を合せるの。…大丈夫?」
シンジの問いに、アスカは顔を上げようとはしない。その視線は彼女の足元へと伸びていた。
「また、エヴァに乗らなきゃいけないの? …私が乗ったって、なんの約にも立たないわよ…」
「…乗りたくないの?」
アスカは口を閉じたまま答えない。
シンジは、アスカの態度に軽い既視感を感じる。シンジはそれがヤシマ作戦直前の自分の姿だということに気付いた。
うつむいて座るアスカの小さな肩を見て、シンジは驚いた。アスカの肩はこんなに小さかったのだろうか。自信にあふれ、自分よりも大きく見えた彼女が、今は抱きしめると折れてしまいそうな、見つめていないとどこかに消えていってしまいそうな、そんなたよりない存在に見えた。
シンジは息を吸い込み、口の中にたまった唾をのみこんだ。
「じゃあ、ここにいたら」
シンジは思い切って、アスカにそう告げた。アスカは驚いてシンジを見上げた。
「着替えて、シェルターへ行くんだ。わかるね」
アスカはしばらく唖然とした表情でシンジを見つめていたが、ふっ、と自分の足元に視線を戻した。
「私なんか、いらないんだ…」
アスカは涙声でそう言った。
レイは二人の様子を黙って見ていた。
その時、室内にサイレンの音が響き渡った。
『エヴァ全機発進準備。繰り返します…』
繰り返されるアナウンスを無視して、シンジは一息ついてから静かに話始めた。
「二学期の期末試験の時のこと、覚えてる? 試験前夜に物理を教えてもらった時のこと…アスカのおかげで、あの時は赤点をまぬがれたんだ。あとペンペンが散歩に出たまま帰らなくて、ミサトさんも戻らない日でさ、二人で近所を探しまわったこと…」
シンジは持っていたポーチから小さな箱を取り出す。アスカの右手を取り、その箱を握らせる。
「この前の、指のお礼。ハンカチ、ダメにしちゃったろ」
アスカがゆっくりとシンジを見上げる。
「…自分がいらないなんて、そんな悲しいことを言うなよ」
シンジはアスカに右手を伸ばす。
「仲間じゃないか。一緒に行こう」
「仲間…」
アスカはしばらくその単語を噛み締めていた。そして手渡された箱を開ける。中には戦乙女の描かれた、銀の指輪が光っていた。
「一つ…聞いてもいい?」
アスカはシンジを見上げ、目尻の涙を拭いながら訪ねた。
「シンジはファーストのこと、綾波って呼ぶのに、私のことは名前で呼ぶのね。どうして?」
シンジは予期せぬ質問に、ふいを突かれた。招集のアナウンスはとうに終わっていたが、サイレンはあいかわらず繰り返し鳴っていた。
「どうしてって…家族…だから」
「それだけ?」
アスカはシンジの目をまっすぐに見て、さらに問う。
「あ…えっと…」
シンジはどう答えてよいのかわからず、耳まで赤くなる。
「…いいわ。今は、家族で」
そんなシンジを見て満足したのか、アスカは差し出されたままのシンジの右手に手を伸ばす。その手をしっかりと握ってすっくと立ち上がった。
「さ、いくわよ」
そう言って扉に向かって歩き出す。が、数歩進んだ後、立ち止まってレイに向き直る。
「あんたも、来るのよ。…仲間なんだから」
それだけいうときびすを返す。
三人の先頭に立って、アスカは歩きはじめた。
第一支部跡に展開する九体の使徒は、自己修復を終えて稼動状態にあった。
「パイロット、全員そろいました。いつでもエントリー可能です」
「アスカは?」
報告してきたマヤにミサトが問い掛ける。しかしマヤがそれに答えるよりも早く、ゲンドウが命令した。
「パイロットをエントリーさせろ、全機出撃準備だ」
「…はい」
「各機パイロット、搭乗してください」
パイロットを乗せたエントリープラグがエヴァに挿入される。
「プラグ固定終了。第一次接続に入ります」
もう何十回と繰り返された手順である。しかし、弐号機の状況にミサト達は神経を張り詰めさせていた。
「…初期コンタクト、全機異常なし」
「弐号機の状況は?」
「コンタクトは完全です…今のところはですが…」
マヤはいつのまにか自分の後ろに立っていたミサトへ振り向いて報告する。
「とりあえず一安心、か」
突然発令所に緊急警報が鳴り響いた。
「直上の衛星軌道より高速移動物体! まっすぐこちらへ向かってきます!」
青葉が叫ぶ。
「直撃、来ます! 四、三、二、一、」
青葉のカウントダウンをが零になるのと同時に、本部をすさまじい衝撃が襲った。
衛星軌道から飛来した光に覆われたそれは、第3新東京市の中央へ突き刺さり、特殊装甲をすべて貫通してもその勢いを衰えさせることはなく、ジオフロントに到達。そのまま大深度施設をも破壊する。
「各部、損害を報告!」冬月が指示を飛ばす。
すべての機器が沈黙し、発令所は暗闇につつまれた。しかしその一瞬後に赤い非常灯の灯った発令所に、各部の損害報告が集まってくる。
「主電源、電圧ゼロ!」
「第八層から第十七層まで、壊滅状態です!」
「第二十三層で爆発事故発生!消火システム、作動していません!」
次々と集まってくる報告はネルフ本部のほぼ全層に渡っていた。
「エヴァは!?」
「エヴァ零号機から弐号機、機体には異常ありません。ただ、補機類に重欠損多数!」
ミサトの質問に日向が答える。
「マギシステム、自己診断モードに入ります」マヤがキーボードを叩きながら報告する。
眼下の立体投射スクリーンに本部全体の図が映し出される。そこに警告音と共に次々と現れる欠損個所を示す赤い光点は、セントラルドグマ最下層まで一直線に連なり、その周囲にも甚大な被害を与えていた。唯一、エヴァの格納庫への直撃を免れたことは幸いであった。
「予備電源、入ります」と青葉。
発令所の照明が、赤い非常灯から通常照明に切り替わり、発令所の機能が順々に回復してゆく。
日向は、目の前の異常なデータを、始めはセンサの故障だと思った。しかし第3新東京市周辺に敷設されているセンサのデータと照合した結果は、そのデータが正しいことを示していた。
「直上に、高エネルギー反応…パターン、青です!」
「なんですって! 映像は!」
「もう少し待って下さい…映像、出ます!」
正面の主モニタスクリーンに映像が回復する。
着弾跡のすぐ脇の兵装ビルの上。そこにはロンギヌスの槍を持った、純白のエヴァが立っていた。その三本の平らな角を持つ、まるで冠を頂いたその純白の姿は、神の御使いたる「使徒」の名を持つにふさわしい姿だった。
「ロンギヌスの槍、か」とゲンドウ。
「伍号機だけでも厄介なのに、おまけ付きとはな。…少し外させてもらうぞ、すぐ戻る」
冬月はそう言うとエレベータへと消えた。
ゲンドウは冬月を一瞥したが、なにも言わなかった。
マヤは茫然と主モニタスクリーンを見上げていたが、自分のコンソールの発する、短い警告音に我に返った。
「メルキオールに進入者! コントロールを受け付けません!」
「どこから!?」
「解りません! 進入者の実体がどこにあるのか、追跡できません!」
「メルキオールをスリープモードへ。急げ」
ゲンドウがマヤに指示する。
「ロジックモードを変更、メルキオールをスリープさせます」
マヤはコンソールを叩き、メルキオールの処理速度を限界まで低下させる。進入者の速度は低下するが、根本的な対策ではない。それにこの対応によって、マギシステム全体の能力は三分の二以下に低下する。
「エヴァ、発進できる?」ミサトが日向に質問する。
「重欠損の補機をバックアップに切り替え中ですが…現在のマギの処理能力では三機を同時にバックアップできません。それと主電源の復帰がまだです。現状では一機分のバックアップしか保証できません」
「一機でいい。出撃させろ」とゲンドウ。
「そんな! 敵の戦力は未知数です! 三機で出撃させるべきです」ミサトがゲンドウに向かって振り返り、反論する。
「可能ならそれがベストだ。しかし出撃準備が整うまで、敵の蹂躪を許すわけにはいかん」
ゲンドウの命令は正論だった。ミサトはくちびるをかみ締めながら、正面へ向き直る。
「…出撃可能は?」
「弐号機だけです…」
「かまわん。時間をかせいでくれるだけでいい。出撃させろ」
不服そうな日向の言葉を意に介さず、ゲンドウは重ねて命令した。
『弐号機、緊急発進準備!零号機、初号機は現状にて待機』
ミサトの号令にケイジが慌ただしく動きだす。初号機、零号機の補機欠損で整備員が慌ただしく動く中で、弐号機の出撃準備が進められて行く。
「アスカだけ? ミサトさん、どうして!?」
シンジは反射的に問い掛ける。
『さっきの攻撃のダメージで、すぐに出撃できるのが弐号機だけなのよ。あと十五分でシンジ君とレイも出撃可能よ。それまで待機、いいわね』
「でも、アスカ一人じゃ…」
『私なら、大丈夫よ!』
アスカが通信に割り込んできた。その口調はここしばらくの彼女の様子を知っている者には彼女のものとは思えなかった。
「でも、一人じゃ…」と、シンジ。
『あんた、誰に言ってるのよ。弐号機、いつでも出撃できるわ』
ミサトは弐号機からの返事に呆然としていた。先日、退院の時に病院に迎えに行ったときの様子からは想像できない事だった。
〈シンジ君…かしらね〉
ミサトは苦笑した。
『アスカ! 初号機と零号機の出撃まで時間をかせいで。無茶をしてはだめよ』
「りょーかい! まかせて!」
弐号機が射出口に固定される。
「シンジ!」
『何?』
アスカはエントリープラグに持ち込んだ指輪を見た。そして、すこしはにかみながら一言告げた。
「…ありがと」
『エヴァ弐号機、発進!』
弐号機はリニアレールを駆け上がり数秒で地上に到達する。
アスカの視界に第3新東京市の光景が広がる。彼女は弐号機の周囲に吹く、冷たい風を感じていた。
「第1支部跡上空の第21サーチが空間微動をキャッチ! 残り八体に動きがあります!」
青葉が報告した。
「いよいよね…」
ミサトはサブスクリーンの第21サーチから転送されたデータを見ながら言った。
アスカの視線の先には純白のエヴァがいた。低く、暗い雲に覆われた街で、そのエヴァだけが輝いているようだった。
アスカの視界を、白い破片がそっと落ちてゆく。
「雪…」
アスカは黒い空を見上げた。
第3新東京市に、無数の白い薄片が静かに降りそそいでいた。
予告
今、常夏の街に氷雪が舞う。
世界の終わる刻、
それを導くのは九体の使徒。
迎えるのは一人の少年、そして二人の少女。
終局の始まりが、幕を上げる。
次回
[index|NEON GENESIS EVANGELION|EVANGELION Another World.]
Copyright(c)1996-2000 Takahiro Hayashi
Last Updated:
Sunday, 09-Sep-2007 18:42:48 JST