東京とは名ばかりの千葉県浦安市。そのかつては海だったという埋立地に、日本、いや、世界有数のおとぎの国が広がっている。敷地面積は実に15万坪あまり。この広大な夢の国の主人は、人ならぬネズミ。それも世界で一番有名かつ活躍しているネズミである。
「……ア〜リ〜ス〜……」
火村の恨みがましい視線にアリスはにやりと笑った。
「男の約束やからな、火村」
「…………」
なるほど、旅行の話を持ち出すときあんなにも遠慮しながらだったのには、こういう理由があったのだ。
ふと目をやれば、昼近くだというのに入園パスポートを求める人の列はまだ続いている。中に入ればさらに人で溢れているだろうことは容易に想像できた。
そもそも迂闊なことに、現在この場に立つまで火村はこの旅行の目的地を予想もしていなかった。キップの手配をしたのはもちろんアリスだったし、新幹線のチケットだけは前もって渡されたものの予備知識はゼロ。火村自身、アリスと旅行ということで浮かれており目的地などまるで気にしていなかったということもある。兎にも角にも、今更、何を言っても遅いということだけは確かだった。
「ホテルまで行っている時間が惜しいから、荷物はコインロッカーでええやろ。とりあえず、中に入ろう」
「……計画的犯行だな、アリス」
唸ってそう言う火村の凶悪な視線に、アリスは笑顔のままで応じる。
「人聞き悪いこと言うな。俺は嘘はつかんかったよ。言わんことはあったけど、君かて聞かなかったし……ええやん、クリスマスなんやから……」
「俺は無神論者だ。神の子の誕生日など祝う気にはならん」
「知っとるよ。でもクリスマスってのは別にキリストの誕生日だけとは違うやろ」
「何だよ」
「誰かが誰かをしあわせにしたくてがんばる日や」
半ば機嫌が下降気味だった火村も、アリスのその回答には感心した。
「なるほど」
「だから、俺へのプレゼントだと思ってつきあってな」
な、とアリスは軽く首を傾かせた。30になろうという男がそんな仕草するな!と言いたくなるが、どういうわけかアリスには似合ってしまうのが困りものだった。(しかも凶悪にかわいい)
「……わかったよ」
火村は降参というように両手をあげた。
(なんだこれは……)
予想を越える人・人・人……。
「ここはワールドバザールって言ってな、いろんな店があるのや。お土産は帰りに買えばええんやけど、パスポートケースを買わんと……火村、何がええ?」
「何って、何だよ」
「ケースだっていろいろあるんや。せっかくクリスマスやから、俺はこれにするわ」
(……おい……)
クリスマスモチーフの首から下げるらしいそれを示されて、火村は思わずまわれ右をした。
「どこ行くんや?中の売り場はもっと混んでると思うんやけど……」
そうじゃない、そうじゃないのだがこの場合何を言えばいいのだ。
「……任せる」
「じゃあ、火村はこっちのプーさんのに……」
「すいません、これ下さい」
火村はアリスの手にとったものをきっぱりと無視して、無難そうなバッヂタイプのものをワゴンの売り子の女の子に差し出した。
「任せるって言うたくせに……」
ぶつぶつとアリスは文句を言う。
「気が変わったんだよ」
(……あんなの首から下げられるわけないだろう)
しかし、アリスは平然とそれを首から下げている。それがまた違和感がないのだから問題だった。
「うわぁ、火村、クリスマスツリーや。なあ、もっと近くで見よう」
子供のようにアリスは火村のジャケットの袖をひく。
ツリーの前は写真を撮る人間でごったがえしていたが、アリスはものともしない。
「大きなツリーやなぁ」
「そうだな」
ツリーの下で音楽隊がクリスマスソングを演奏している。
腹の出た中年のトランペッターを見ながら、火村は何とはなしに同情を覚えた。音楽隊の着用しているモールやら何やらで装飾過多な制服は、着用する人間を選ぶ。腹の出ている彼には、ひどくそぐわない制服だった。だいたい仕事とはいえそんなものを強制させられるのは何とも理不尽である。もちろん、本人が納得してよろこんで着ているのなら別にかまわないが、もし自分があの制服を強制されたら間違いなく辞表を提出すると思った。
火村は、己が志したのが、学問の世界であったことを心の片隅で本気で安堵した。
「何だ?あの列」
メインストリートを抜け、このおとぎの国の創造主と世界でいちばん有名なねずみの像を横目で見つつ、高くそびえる城の方向に足を向ける。
「ああ、ステージを見るための列やろ。クリスマスのショーをやってるんや。チケット並ばんといい席で見れんのや。今日はもうチケットダメやから、明日にしような」
「明日?」
(つまり、明日は並ぶのか……)
「そう。とりあえず今日はパレードがメインイベントやな。アトラクションは君が乗りたいのでええよ。でも、まずはプラザのワゴンをのぞいてな。クリスマス限定のケーキがあるんや」
「ケーキ?」
「うん。ロッジをイメージしたケーキなんやて」
「……詳しいな」
「下調べはばっちりや。おかんに聞いたからな」
「ああ……」
アリスにそっくりな若々しい女性の顔と彼女の趣味を火村は即座に思いだした。なるほど、あの長電話はそういうわけかと今になってみれば思い当たる。
ぐるりと円状になった庭園部分に、物語のワンシーンが再現されていた。あいにく火村にはよくわからなかったがその一つ一つをアリスは嬉しそうに見ている。
ふっと、視線に気がついた。
火村がそちらを向くと、あわてたようにそのカップルは視線を逸らす。
(……やっぱり目立つな)
30男が二人でこんな場所に来れば目立つのは当然だった。何を言われているかもだいたい想像がつく。火村はそんなことはどうでもよかったが、アリスが傷つくことは我慢がならない。
(だが……)
どうしようもないのが事実だった。いかに火村とて、できることとできないことがある。
(アリスが気づかなければいいんだが……)
今のところは大丈夫なようだった。
「火村、あれ、見てみ、あれ」
クリスマス限定らしいサンタの格好をしたキャラクターのぬいぐるみのワゴンをアリスは指差す。
「……欲しいのか?」
「まだええ。荷物になるからな」
(……まだ?)
と、いうことは帰りには買うのだろう、きっと。
「アリス」
「何や?」
振り向いたアリスの目は好奇心で輝き、心なしかやや上気している。まるっきり子供のようだった。
「……いや、いい」
そんな表情を見せられたら、何も言えない。
無意識で胸ポケットに手を伸ばした。
「ここ禁煙やで、火村」
すかさずアリスのチェックが入る。
しかし、ダメと言われれば余計に吸いたくなるのが、当然の心理。ヘビースモーカーの火村にとって、煙草を禁止されるのは食事を禁止されるよりキツい。
(とんだクリスマスだな……)
アリスに気づかれぬよう、火村は小さく溜息をついた。