『ワンス・アポン・ア・マウス』というタイトルのネズミのレビューを見て、それから時間があったのでジャングルクルーズに参加し、昼間パレードを見た場所近くに席を占めた。苺味のチュロスを明日にしたかわりに、アリスの手にはベーグルのチップス。飲み物はブルーベリー風味のバニラドリンクという火村には何とも恐ろしそうな代物だった。
「やっぱ、この敷物もってきて正解やったな」
銀色の敷物はNASAで開発した繊維を使っているという優れもの。薄いものだったが、わずかな熱も反射して逃さない。昼間はさほど気にならなかったが、さすがに夜は直接地面に座っていたらかなり冷たい思いをしただろう。
周囲はすっかり陽が落ち、海から吹きつける風が冷たい。皆、防寒対策には気をつかっていて毛布や薄手のシートクッションまで持ち込んでいる人間もいる。
「この用意周到さが作品に生かされるといいんだがな、先生」
「うるさい、締切りのことなんか思い出させるな」
アリスが口をとがらせる。
「……締切り、終わったんじゃなかったのか?」
「短編が一本。年明け早々に締切りや」
「商売繁盛でごくろうなことだな」
「こっちはデビューしたての駆け出しや。依頼くれるだけありがたいわ」
「そりゃあ、そうだ」
「某大作家の穴埋めやけどな」
アリスはふぅと溜息をつく。
「穴埋め?」
「そっ。肺炎で入院しちまったんだとさ。一昨日電話があったんや」
なるほど突発的な依頼というわけか。と火村は諒解する。
「よかったのか?こんなところにきて」
「……大丈夫や。まあ、帰ったら暮れも正月もなくなるやろうけどな」
ハハハとアリスはかわいた笑いをもらした。
「別にそんなに無理してまで今日こなくてもよかっただろうが……」
火村は眉を顰めた。
「せっかく当たったのや、無駄にするのはもったいないやろ」
「それはそうだが……」
「それに、無理してでもクリスマスに、どうしてもここに君と来たかったんや」
そう言ってアリスは周囲をぐるりと見回した。
ライトアップされ、あるいは電飾で飾られた光景……夜のおとぎの国はまた別の表情を見せる。
「何でだ?」
「試したかったんや」
アリスはまっすぐな眼差しで火村を見る。
何をだと問おうとした火村の声は、歓声にかき消された。
パレードがはじまったのだった。
(……アリス?)
一瞬だけ見せた、まるで泣出す寸前の子供のような目の色が脳裏に灼きついて離れなかった。
「……あれが白雪姫の魔女やろ。それから、あれは人魚姫。んで、あの遠いのは、たぶんアラジンと魔法のランプの魔神や」
おとぎ話に疎い火村の為に、アリスはやってくるフロートの説明を一つ一つする。その楽しげな口調からは、さっきの様子はまるで伺えない。
目の前を通り過ぎて行く色とりどりの電飾で飾られたフロート。やはり同じように電飾で飾られた、およそ衣裳とは思えぬような服を着たダンサー達が目を楽しませる。
「あのまんま立っててもろうたら、ええスタンドになりそうやな」
「あんなスタンドいやだね、俺は」
「ホンマに立っておられたら、俺かて嫌や。デザインの話やデザインの」
ずるずるしたマント姿の怪人の姿に泣出す子供、列の中盤過ぎからはおなじみのキャラクターがやってくる。
「あのな、さっき思うたんやけどな、ウォルト=ディズニーはほんまに動物がすきやったんやろか?」
「あん?」
「ミッキーマウスは、なるほど世界で一番愛されたネズミや。ディズニーの映画には人間より動物がいっぱい出てくるわ。だけど、ウォルト=ディズニーはほんまは動物は嫌いやったのかもしれんと思うたのや」
「何でだ?」
「だって、ここには本物の動物はおらへんもん。全部作り物の機械仕掛けや」
「そうだが……」
広大な埋め立て地に人工的に創り出された夢の国。そこに住むのは作り物の動物達。清潔で整然とした街並みに、人間は住んでいない。
「だから別に何と言うわけではないのやけどな……人間もまた動物や考えればこんなに溢れるほどおるわけやし……現実問題として、本物の動物つかっとったら絶対に動物愛護団体からクレームがくるやろうし……」
「労働基準法に違反してるってか?」
「そう。虐待やってな……」
クスクスとおかしげにアリスが笑う。
電飾の花火で、パレードはおしまい。人波の半分くらいはいっせいに家路を辿る。
「泊まりやと電車の時間を気にせんで遊べるのがええな」
「気にしたことがあるのか?」
「だって、もし今日帰るのやったら急がんと新幹線に間に合わんわ。これから花火があるんやで。もったいないやないか」
「毎日、花火があるのか?近くに住んでいる人間にはいい迷惑だな」
「そのおわびに近くの人には優待券とかパスポートをプレゼントしてるんやって。それに、近くのマンションではこの花火が見れるってのを売り文句にして売り出したところもあるって新聞か何かで読んだわ」
推理作家といえど作家は作家。雑学知識は豊富である。
「なるほど」
さすがアメリカ資本主義の最も成功したモデルケースだけある周到さに火村は感心した。
喫煙所を見つけ、今日やっと二本目のキャメルに火をつける。
「俺にも一本」
「珍しいな」
「何となく吸いたい気分なんや」
アリスのくわえたタバコに、自分のタバコから火を移してやる。
その瞬間の表情の、何とも形容しがたい奇妙さを火村は訝かしんだ。
「アリス?」
「何や?」
応えたのはいつものアリスだった。まるでさっきのが火村の見間違いであるかのように。
だが、見間違いではない確信が火村にはあった。
「……さっき、試したかったって言っていたな」
そして、どこかおかしなアリスの様子に問わずにはいられなかった。
「…………」
「何を、試したかったんだ?」
なるべく感情的にならぬように冷静な口調を心がける。しかし、火村がそういうしゃべり方をするとおもいっきり冷ややかに響くのだった。
「アリス、答えてくれ……」
アリスは唇を噛む。
「アリス……」
向き合った、アリスの肩をゆする。アリスは顔を伏せて、火村を見ない。
「……俺を……俺を試したかったのか?」
喉の奥からしぼりだすように、火村は言った。
ばきっ。
それがアリスが自分の頭を殴った音なのだと、しばらく、火村は認識することができなかった。
「………アリス?」
「……ふざけるなっ。俺は、君の気持ちなんて試したりせんわ。どあほうっ」
アリスの顔は興奮からかやや紅潮している。
「俺が試したかったんは、自分や。自分の気持ちや」
アリスは自分の胸に手をあてる。
「……アリス?」
アリスの言っている意味がまるでわからなかった。
「……隠すつもりなんてあらへんし、それが悪いことやなんて思わんけど、堂々と公表できる類のもんでもないんや、俺達の関係は」
幸い周囲にほとんど人気はない。皆の意識はちょうどはじまった花火に釘付けである。
「…………」
「前から、君には気をつけろとか言うていたけど、実際には、俺は見ず知らずの隣人にバレそうになっただけで目の前が真っ暗になったわ。どないしようかって……」
「隣人?」
「隣の空き部屋に越してきた人がいるんや。大学の先生やっていう変な男で……そんなんはええんや。問題はそんなんじゃない。問題なんは、それで動揺した自分や」
アリスは睨めつけるような眼差しで火村を見る。
「動揺?」
「そうや。隠すつもりはない……その気持ちに変わりはない。そうやけど、でも、その時に俺は何て言っていいかわからなくなったんや。相手が誤解してるのをいいことに、俺の恋人は君なのやと人に言えなかったんや」
アリスは唇を噛む。
「ほんとんところはな、俺は気がついてなかったんや。君と恋人同士でいるっていうことの意味に」
「意味なんて……」
「俺らが一緒におるんは、好きだという気持ちだけではおられへんよ。そんなの、君はとうにわかっとるんやろ」
「アリス……」
「俺は、君に庇護されたいわけやないし、保護されたいわけでもない。俺は保護者なんていらへんのや」
嘘やごまかしを許さないその眼差し。アリスの瞳に、自分がどう映っているのか火村ははじめて不安を覚えた。
アリスはまっすぐと火村を見据えて言った。
「俺が欲しいのは、対等な恋人や」