南果ひとみ
ホットケーキはわかる。アリスが言うのならば幾らでも焼いてやる。
メープルシロップもいい。ホットケーキミックスにはだいたい付いているものだし、付いていないのならスーパーに買いに行けばいい。
だが、ちびくろさんぼのバターとはいったい何ぞや?
ちびくろさんぼという絵本は、アリス曰く「幼い少年が知恵と勇気で勝利を掴むかわいい(?)お話や」というもの。
あいにく火村は幼年時にその絵本を読んだことがなかったのだが、アリスには宝物の1冊だとのこと。
その絵本を初めて目にしたのは、ここ夕陽丘の某推理作家の本棚の隅。掃除をしていて、参考資料に使ったらしい写真集や画集の中に1冊だけ手垢で汚れた本が混じっているのがふと目についた。わざわざ一人暮らしの部屋にまで持ってきているくらいなのだからよほど気に入りの一冊なのだろうと思い手にとれば、裏表紙に「ありすがわありす」とひらがなでかかれた名前。幼いアリスがページを繰ったのかと微笑ましく思い、最後まで読んだ。
少年が最後に手に入れた勝利は、バター……トラがぐるぐる回っているうちにバターになったというおそろしい代物だ……をたっぷり使った、おなかいっぱいのホットケーキ。いかにもアリスが好きそうなラストだっただ。
(ちびくろさんぼのバターってのは、つまりはトラが原料のバターか?)
そんなものあるわけねーだろーがと心の中でつっこむ。
が、しかし……。
いくらアリスとてそんなことは百も承知だろう。いくらアリスでもこの年齢までそんなものがあると信じているはずがあるまい。だとするならば、そういう商品名の代物があるのかもしれない。
(仕方がない……奥の手を使うか)
火村は、傍から見れば非常に真剣な表情でリビングの壁に設置された受話器をとった。
おやつのトレイ片手の火村がアリスの仕事部屋のドアを開けた瞬間、アリスの嬉しそうな声が響いた。
「よしっ、できた〜っ♪」
「終わったのか?」
「うん。とりあえず大まかなトコはな。あとは推敲と誤字と脱字のチェックやな。一応の目安はついたから、これで一安心や」
にこにことアリスは笑いながら、ディスクにバックアップをとっている。
ワープロに比べ容量も大きくさまざまな作業ができるパソコンは便利だったが、いつどのようにして壊れるかわからない為、外部バックアップをマメにとるというのが何度かひどいめにあったアリスの学習成果だった。
「それは、ごくろうさん。ちょうどよかったな」
「ひむら〜、ありがとな。君のおかげや」
「どういたしまして、ほら。リクエストの品だ」
トレイの上には、ふんわりとしたホットケーキ。かすかにメープルシロップ特有の甘い香りが漂っている。
「火村、なんで『ちびくろさんぼのバター』がわかったんや?」
アリスが目を丸くする。
メープルシロップの小ビンの隣には、おそらくは大阪でしか売ってないだろうトラ印の阪神タイガースバター。
そう、これこそが『ちびくろさんぼのバター』の正体だった。
「以心伝心ってことにしておいてくれ」
火村は口元に薄い笑みを浮かべる。
何のことはない。単にアリスの実家に先日の餅の礼の電話をかけ、そのついでに、見た目は良家の奥様風だがひとたび口を開けばパワフルな浪花女であるアリスの母にそれとなくリサーチした結果である。ちなみに、本当はどちらがついでだったかは言うまでもない。
「君はホンマ何でもわかるのやな」
「わけねえだろ。ま、お前のことくらいだな」
「正月早々、何言うてるのや。ん、これ、ふっくらよう焼けとるな。火村、ホットケーキミックス、どこの使うたん?」
「日清だったかな?いつものスーパーで売ってヤツだぞ」
「えーっ、何やそれ差別やろ」
「何の差別だよ……」
「だって、ダマダマにもなっとらんし、中もベタベタしとらんわ」
「……それは単に生焼けなだけだろう」
「でも、俺が焼くとどういうわけかそういうのばっかりなのや。ちゃんと同じホットケーキミックス使っとるのに〜」
不満げにアリスが頬を膨らませる。
どうせアリスのことだから、牛乳も卵も適当にいれるに違いないし、焼くときも火加減など特に注意しないのだろう。
たかがホットケーキ、されどホットケーキ。ホットケーキは、分量をきっちりと計り、根気よく丁寧に焼かないと決してうまくできない繊細なものなのだった。
おやつの後もアリスは真面目に仕事をし、ほぼ仕事の目途がついたせいか上機嫌だった。上機嫌ついでに夕食は自分で作ると言い出したくらい。
「今夜の夕食は俺が作るわ。火村はのんびりしとって」
アリスお得意の豚汁にするというから、ほおっておくことにする。この手の汁物はきちんと材料を切ることさえできるのならば、失敗する方が難しいくらいだ。
(さてと……)
買い物に行くアリスを送り出すと、火村はベットルームの片づけにとりかかった。
大掃除をした後だし、アリスはほとんどソファで仮眠しかしていなかったのでベッドルームは綺麗なもの。とはいえ、ここは新年。やはり初めての夜はきっちりしたいもの。ざっと掃除機をかけ、手早く拭き掃除をする。ただし、ベットの周囲は念入りに。
シーツにはぴんとアイロンをかけ、カバーはすべて交換。パジャマは風呂場のストッカーにちゃんと新しいものが用意済だ。
(…別にパジャマなんていらないけどな)
まあ、脱がせる楽しみがないわけでもないからいいかと一人で納得する。
そう。火村が心に留める新年の行事なんてようは一つだけ。
『姫初め』というヤツである。
アリスに負けず劣らず上機嫌な火村は、口笛など吹きながら丸めたシーツをもって洗面所へと足を向けた。
to be continued
さりげに可愛い話題をまき散らしながら、だんだんと夜に向かっていってるんですねぇ〜。---っていうか、某助教授の頭の中には『夜』のことしかないみたいだけど(笑) しかし、嬉しそうにベッドを整える助教授を見た時には私、本当にこれをピンクピンクにして正解だったなぁ…と、先見の明に自画自賛。新年の行事が『姫初め』だけなんて、相変わらずただれてる…。 南果さんがバッチリビッチリ『姫初め』まで行き着けるのかどーかは、全て助教授の入れ込み具合にかかってるって感じでしょうか。でもここでハズシたら、助教授の恨みが怖いような気がしないこともないような---。 |
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