夢を見る。
 それは完璧な幸福の情景。
 例えば、日曜日の朝の食卓。
 傍らには美しい妻、そして、かわいくて生意気な子供。
 真っ白なテーブルクロス、きつね色のトーストに真っ赤な苺ジャム。目玉焼きはもちろん半熟で。
 揺れるレースのカーテン。ガラスの花瓶には春の花。
 妻は笑みを見せ、子供はしきりにおしゃべりをする。
 まるで銀行のCMにでも出てきそうなモチーフ。
 それは、手を伸ばせばすぐに届くところにあり、そして永遠に手の届かないところにある。
 たぶん、それは夢そのものの幸福。
 それは、たった一つ捨てることができれば簡単に手に入るもの。
 だけど、そのたった一つだけが、どうしても捨てられなかった。
 諦めることも、忘れることも出来なかった。
 この身の内にくすぶる甘い痛みのせいで。




As Close as possible 5
 Sweet Pain (1)

南果ひとみ 





 ピーッという甲高い通信音が、ファックスの終了を告げる。 
「終わりやーっ」
 いつも締め切り前にジタバタするアリスにしては奇跡的なことに締め切りは明後日。余裕をもっての入稿である。
 これから片桐のチェックが入るとしても手直しする時間は充分あるし、次の締め切りまではまだまだ充分余裕がある。
(何、しようかな・・・・・・)
 とりあえず、部屋の掃除とたまっている洗濯を片付ける。それから買い貯めている本も読みたいし、そろそろ衣替えもしたい。
「でも、とりあえずは買出しやな」
 ここ数日のおこもり生活で、冷蔵庫はものの見事に空。入っているのはビールとソースとマヨネーズだけという悲惨な有様だ。
 火村がいないとこうも食生活が貧しくなるのかとの認識を改めたアリスは、カレンダーに目をやった。
 赤いマジックの二重丸は、締め切り日であるのと同時に、火村が二週間の海外出張から帰国する日でもあった。
「明日掃除して、明後日は8時起きやな」
 火村が海外出張から帰国する時は、よほどのことがない限りアリスが関西空港まで迎えにゆくことになっている。別に口に出して取り決めたわけではないのだが、それが二人の間の暗黙の諒解だった。
「その前に買出し、買出しっと……」
 軽やかな口笛を玄関に響かせて、アリスは1週間ぶりの外の世界へと足を向けた。



「あれ?」
 原稿を上げた瞬間の上機嫌のまま、ちょっとした贅沢をしようと阪急にまで足を伸ばした。ここのB1はなかなか充実していて、値段にさえ目をつぶれば暖めるだけで高級店のディナーが楽しめる。
 オークラのハンバーグはアリスのお気に入り。ついでにトロワグロのポテトサラダもプラスして、スープは某鉄人プロデュースの缶入りのオニオンコンソメ。これにアンテノールのケーキがデザートにつけばまさに完璧ともいえるディナーだ。
 ついでに明日帰国する火村の為にもいろいろと買い込み、ご機嫌で帰宅したアリスは、鍵を差し込んで小さく首を傾げる
「閉め忘れたんかな。俺」
 手応えがない。
 足を踏み入れた瞬間、かすかな違和感に囚われた。
 何が違うのかまるでわからなかったのだけれど。
 リビングに続くドアを開いた瞬間、アリスは言葉を失った。
「なんだ、こりゃ・・・・・・」
 あたり一面散乱する紙の束。
 ビデオテープがぶちまけられ、足の踏み場も無い。
「・・・・・・・・・・・・」
 泥棒に入られたという衝撃よりも何よりも、アリスの脳裏に浮かんだのはたった一つだけ。
(火村に怒られる・・・・・・)
 有栖川有栖29歳。地震よりも雷よりも、さらに言うならば火事よりも親父よりも何よりも、火村英生が怖かった。



「何かなくなったものに気がついたらご連絡下さい」
 親切そうな警官は、穏やかな口調で言う。
「はい、どうもすいません」
 これまで警察の捜査に何度か立ち会ったことはあるものの、たかが空き巣とはいえ自分がいざ当事者になるとまるで違うものだった。
「最近、流行りのピッキング泥棒というヤツです。他の階でもさっき通報がありましたので、同じ犯人かもしれませんね」
「ピッキング泥棒?」
「針金に似た道具を使って、鍵穴からシリンダーをひっかけて鍵を開けるんです」
「へぇ・・・・・・。じゃあ、俺が鍵をかけ忘れたってわけではないんですか?」
「ええ。ひっかいた痕がありますから・・・・・・たぶん、ピッキングでしょうね。でも、被害がほとんどなくて幸いでしたね」
「ええ。盗まれるようなもん、ありませんから」
 アリスは苦笑した。
 サイフはもって出たし、通帳類も無事。だとすると、そのほかに金目のものはまったくといっていいほどない。
(きっと、とるもんなくて腹立ってぶちまけたんやろうな・・・・・・)
 散乱していた紙の束はファックスしたての原稿。何かありそうに見えた戸棚にはぎっしりとビデオテープがつまっていただけ。と、すれば骨折り損のくたびれ儲けというやつで腹も立つだろう。
(だいたい、貧乏作家の家に泥棒に入ろうって魂胆が間違っているのや)
 電化製品は重さの割には金にならないだろうし、ブランド物とは縁遠い。やっと手に入れたカーの初版本はよほどのマニアでもなければ二束三文だろうし、考えてみれば本当に金目のものがない家なのだ。
 だいたいからして、駅からそう遠くない絶好のロケーションにあるこのマンションに住んでいることがアリスの最大の贅沢のようなものなのだ。
「いろいろお手数かけました」
「いえ。ああ、あと、鍵は早めに交換した方がいいですよ。今はピッキング対応シリンダーというものがあるようですから」
「あ、はい。わかりました。どうもありがとうございました」
「それでは、失礼します」
 パタン。
 扉が閉まると同時に、アリスは深い溜息をついて座り込んだ。
 何だか疲労感がどっと押し寄せてくる。
「何で俺がこんな目に遭うのや。うちには盗むもんなんて何もあらへんのに、クソ」
 悪態をついてみるが、声に力が無いのが自分でもわかる。
「とりあえず、あれをどうにかせんとな・・・・・・」
 火村が帰国するのが明後日でよかったと、アリスは心底思った。
 一日あれば証拠隠滅をはかるのには充分だった。


to be continued



お久し振りの南果さんのアリスです。
うわぁ〜ん、嬉しいッ!!---とコサックダンスを踊っていたら、何と何とアリスってば初っ端からとんでもない目に…。
でも私、ちょこっとだけアリスの部屋に忍び込んだ泥棒さんが羨ましい、とか思っちゃった。ごめんね、アリス。
今回のお話は、お待ちかねの火村先生 v.s 小鳥遊氏の第一回線だそうです。初めて小鳥遊氏を拝見した時から、私はこの日を待っていましたvvv
間に挟まれるアリスはかわいそうだけど、ハブ v.s マングース的な二人の戦いは。とーーーっても楽しみです。ルンルン♪

南果ひとみさんのステキなヒムアリはこちらで読めます☆