火村英生―――教鞭を執る母校・英都大学では、機嫌の悪い時には半径5メートル以内には近づくなという暗黙のルールが学生達の間で囁かれるほどの男―――は、その威圧感はどこへやら、なんとも心許ない表情で、朝も早くから大阪は夕陽丘にある某マンション、702号室の扉を見つめていた。
指をチャイムのボタンに触れるか触れないかの位置で彷徨わせ、やがて息を吐き出すと、その手を白いジャケットのポケットに入れた。指先に触れる、ぬくもった金属の感触。
アリスが。
いつでも、火村の望む時に来ていいのだと、火村の全てを受け止めてくれた証。
差し込んで右に回すと、カシャンと小さくロックの外れる音がした。優しいとさえいえる動作で鍵を再びポケットへしまい、おそらくはまだ眠っているであろう住民を起こさないよう静かにドアを薄く開いてみると、チェーンはかかっていなかった。普段だったら、その不注意さに舌打ちのひとつもするところだが、今日に限っては安堵にほっと胸を撫で下ろした。
アリスが、まだ火村に帰って来てもいいと示してくれているのだ。
そんな優しさに、些かの照れ臭さと幸せを噛み締めながら火村はドアを押し開いた。
途端。
火村は一瞬、呼吸を止めた。
「これはこれは、また随分早いお時間のお出でで」
にっこりと、アリスは笑った。
マリンブルーのTシャツとジーパン。有栖川有栖という人間を語る上で欠かすことのできない珠玉の瞳が、いつになく精彩を欠いている様子からは、一睡もしていないであろうことが明らかで。すらりと長い足を交差させ、左肘で壁に凭れるように立っているその姿勢は、火村への穏やかならざる感情を、間違いなく表していた。
大体、アリスが火村に対して標準語を使う時は、その綺麗な発音と穏やかな口調とは裏腹に、噴火寸前の活火山だ。
「俺としたことが、ついに有明の月を待ってもうたわ」
忌々しげに、アリスはふん、と鼻を鳴らした。
「有明の月?」
しかし答えがくるはずもなく。
くるりと踵を返すと、そんな時さえ荒々しさを感じさせず、アリスは部屋の奥へと姿を消した。
アリスに、少なくとも今は火村と話す気がないことは、バタンと閉じられた寝室のドアの音で知らされた。
それでもアリスは「帰れ」とは言わなかった。
火村はそれに安堵している自分に苦笑し、靴を脱いで部屋へ上がった。
自分がアリスの立場だったら、やはり心配で、無事な姿を認めるまでは、眠ることもできずに待っていただろう。
申し訳なさは、冷蔵庫の中を覗き込んだ途端、限度などないくらいに膨れ上がった。
そこには、手の込んだアリスの手料理達が、箸もつけられず、ラップを被って寂しそうに並んでいた。
ちょうどぶつかる週末とアリスの締め切りと。前日までに絶対仕上げて送れと言ったのは火村だ。アリスの手料理が食べたいと言ったのも、そのメニューを決めたのも。
「有明の月を待った、か」
呟いて、火村は書斎に目を向けた。
パソコンを拝借し、ネットで検索すると、目的のものはすぐに見つかった。
今来むと 言ひしばかりに 長月の
有明の月を 待ちいでつるかな
(今すぐに行こうとあなたが言うから、その言葉をあてにして待ち続けていましたが、
あなたは来ず、有明の月が出るまで待ち通してしまいましたよ)
カサカサと音を立てるポリエチレンの白い手提げの中には、角の喫茶店のモーニングセットが入っている。アリスの好きな、野菜とハムがたっぷりのベーグルサンドだ。テイクアウトはメニューにないが、顔馴染みのマスターは快く、袋に丁寧に詰めてくれた。
火村はテーブルの上にそれを置くと、馴れた足取りでシンクに向かった。アリスが出版社のパーティの、ビンゴゲームで獲得したという小洒落たフォルムのケトルに水を汲み、コンロに乗せて点火する。
次に向かうは、奥の寝室。
ドアの前で一瞬考え、ココンッと軽くノックした。
数秒、中の気配を窺い、動き出す様子がないのを確認してからドアを開ける。
その瞬間。
「!!!」
文字通り、火村は固まった。
ベッドの中にはアリスと―――もう一人分の小山がひとつ。
頭の中が真っ白になった。優秀な頭脳も、ことアリスに関しては情報伝達を誤るようだ。心が、途端に臆病になる。
しかし、状況から見て、そんなことはありえないと、残った理性の欠片が告げる。
火村はベッドサイドに足を進め、掛け布団をはぎ取る勢いで捲り上げた。
そこには―――
予想通りの展開に、火村は一気に脱力した。
そんな火村の気持ちなんかは知る由もなく。
「なんやもう……」
むにむにと両手で目をこするアリス。
可愛い。可愛いのだが……
「おはよう」
ちゅっ(はあと)
「なんでそいつなんだよ!!」
「んん〜?」
アリスはペンギンのぬいぐるみに抱きついたまま、そこに佇む男を見上げた。
「なんや、おったんか」
火村は、がっくりと肩を落とした。
どこをどうとっても自分が悪い。それは重々分かっている。急な仕事が入ってきたが、こんなものはすぐ終わると高を括って連絡も入れず、気づけば机の上でうたた寝をしており、時刻はすっかり朝だっただなんて。
けれど、この仕打ちはあんまりだ。
「俺が悪かったよ。謝る。だから機嫌直してくれ」
火村だって、楽しみにしていたのだ。昨晩アリスの料理を堪能して、その後アリスも堪能して。自業自得とはいえ、そんな素晴らしい予定が台無しになった挙げ句、恋人にまでつれなくされて。機嫌を損ねたいのは火村の方だ。
「仕事やってんやろ。お互い立派な大人やし、しゃあないて分かっとる。俺かて、締め切りやいうて、君んこと振り回しとる自覚あるし。怒ってなんかいてへんよ」
―――って、目一杯怒ってんじゃねぇかよ。
火村はこっそり嘆息した。
食事の時も、椅子の隣にひでぽんを立たせ、時折片手でその頭を撫でながらも火村とは一言も口を利かず、テーブルの上に乗っているのはアリスの好物にも係わらず、楽しいはずの朝食は、ただ胃袋の欲求を満たすためだけの行為に終わった。
その後も、コーヒーの入ったマグカップと共にリビングに移動したのはいいが、定位置のソファに腰を下ろした火村とは距離を置き、アリスはひでぽんを脇に抱えたまま、読みかけの本を広げて、火村の方を見ようともしなかった。
アリスの不機嫌さは睡眠不足と空腹によるものが大きい。だから、6時間の睡眠を取った後は、美味しい物を食べさせて満腹になれば機嫌は自ずと回復するはず。火村は軽く、そう考えていたのだが。
「煙草吸うなら、あっち行けや」
目で促すのはベランダ。
「ひでぽんに臭いがうつる」
「うつるって何だ。人を病原菌かなんかみたいに」
「よう言うわ。病原菌より質悪いクセに」
「そいつを向こうへやればいいだろ」
「いーやーや」
アリスは更に、強くひでぽんを抱きしめた。もし生きていたのなら、「うぎゃ」の一言も発せられていただろう。
「だったら知るか。匂いがついた方が、俺がいない時でも寂しくなくていいだろ?」
アリスは呆れ顔で、いや、嫌そうに火村を見つめた。
「君、それでええんか?」
「……いやかも」
「俺もいやや」
「そうだよな。俺の方がずっといいよな?」
「ひでぽんにお前の代わりなんかさせたない」
ここはひとつ、忍耐忍耐。
分かっちゃいるが、やはりカチンとくるのは止められなかった。
「やっぱ、そいつどっかやっちまえ!」
「せやから、いややて! あ、腕引っぱんな! 可哀想やんか!」
「こんなもんに可哀想もなにもあるか!」
「もげたらどうすんねん!」
「余りの毛糸で縫いつけとけ!」(※「推理作家たちの日常」参照)
「いややってば、もう離せ!」
いつの間にか、ひでぽんの引っ張り合いになっていた。
こんなはずではなかったのだ。今日は2人で、言葉はなくとも幸せな雰囲気に包まれて過ごすはずだったのに。何やってんだ、俺達は?
火村の我慢も限界だった。
「いい加減、怒るぜ?」
「怒るってなんや、怒るって! なんで君が怒るんや。怒るんは俺や!」
けれど。
「うるせぇ! アリスが欠乏してんだ、触らせろ!」
その言い草に、アリスの身体から力が抜けた。呆れた瞳が火村を見つめる。
「君な、それやとほんま、おやじやぞ?」
「ふん、なんとでも言え」
開き直りながら、火村は長い腕でひでぽんごとアリスを抱きしめた。
その火村のやっと安心したという表情に、アリスは抱き込まれたまま火村の頭に片腕を伸ばした。
「……あんな、君は君を慕ってくる学生さん達を、五月蠅いとか鬱陶しいとか言いよるけどな」
アリスが突然、脈絡のないことを話し始めるのには、長い付き合いだけあって、「また始まった」というだけのことだが、そこに自分が登場するとなると、そうも言っていられない。
「俺も好きで作家になったわけやし、周りを気にせんで好きなことに没頭できるこの環境は気に入ってるし、自分に合っているとも思う。人に言われるほど愛想も良くないし、大勢の中に居るのが好きなわけでもない。せやけど、ふと気づいて後ろを振り返った時、そこには誰もいなくて。腹が減っても一人きりの味気ない食事。そんな毎日が続けば、俺かて、人恋しい思うこともある。誰かにそばにいて欲しいて思う時もある。一仕事終わらせた後は、特にそんな気分になる」
アリスが言わんとしていることが分かって、なんて俺はバカなんだと、火村は自分を心から責めた。よりにもよって、アリスがそんな寂しい気持ちでいる時に俺は!
「ほんま、怒っとるわけやないんや。君が忙しいのは知っとる。疲れていても、無理をしてでもここへ来てくれとるのも。せやけど。電話の1本、してくれてもええやんか」
たくさんたくさん心配して。心配しすぎて火村の無事な姿を見た途端、泣きたいくらいに安心して。だから反動で当たってしまった。
意地っ張りのアリスが不器用に、火村の身を案じていたのだと伝えてくれる。
溢れるほどの愛しさで、火村は胸が詰まるほどの歓喜と後悔に見舞われた。
「君は君や。ひでぽんを君の身代わりなんて、そんな、余計寂しなるようなことできるわけあらへん」
アリスは気づいていないようだが、これを熱烈な愛の告白と言わずして、なんとしたらいいだろう?
火村は驚きに目を見開き、その表情を次第に優しい笑みに変えた。
「ペンギン」
突然呟かれた不似合いな言葉に、アリスは訝しげに顔を上げた。
「もう1体さ、今度は俺が買ってやろうか。こんなに大きいのは無理だけど」
「な、なんや急に」
「こいつだって、ひとりじゃ寂しいだろ?」
そのセリフにやっと、アリスは自分が吐露した言葉がどんなものかに、白い頬を桜色に染めた。
「名前は、そう、“ありぴー”なんてのはどうだ?」
「いらんっ」
「なんだよ、人がせっかく」
「ひでぽんには俺がおるからええんや!」
ムキになる腕の中の恋人に、火村はすっかりいつもの自分を取り戻した。
「馬鹿言ってんじゃねぇよ。お前は俺のだろ?」
「あほ……」
桜色の顔(かんばせ)をアリスはなおかつ薔薇色に染めた。
End/2001.06.18