くしゅんっ。
リビングにくしゃみが一つ響く。
「何や、風邪ひいたんかな?」
こしこしと鼻の下をこすりながら、アリスは冷蔵庫から出してきた箱を大切そうにテーブルの上に載せた。
まな板、濡れタオル、包丁……用意は完璧である。
「さて……」
アリスはにへら〜と頬を緩ませながら、おもむろに箱をあけた。
箱の中には、緩衝材に包まれビニールで厳重に封じられた『それ』が鎮座している。
「さっすが火村や、高給取りやもんな〜」
火村によって運び込まれたこの物体の名は『ドリアン』。別名をKING OF FRUIT……すなわち『果物の王様』というトロピカルフルーツの一種である。ただし、大変珍しい代物で、なおかつ、なかなか高価。生憎アリスは一度も食べたことがなかったのだが、火村がプレゼントしてくれたのだ。
ただし、自分が居なくなってから食べるようにとの指示つきで。
「ま、火村あんまり甘いもん好きやないからな〜」
ワクワクしながら、アリスはまず箱からそれを取り出し、袋を開けた。
袋の中でもさらに何重ものラップにくるまれている。
「何たって、高級フルーツや」
アリスの胸は期待に躍った。
ペリペリとラップを剥いていく。
(楽しみやな〜)
生まれて初めて食べるその瞬間を思って、アリスの頬はさらに緩む。
「……っくしゅん……ったく、火村のせいや、絶対」
くしゃみをしたアリスはティッシュを探した。
昨夜の火村による無体なエロ行為……つまり、ベッド上(時にはそれ以外の場所でも)行われるあれやこれ……のせいでアリスは夏風邪気味だった。
まあ、それもこれも『ドリアン』のことを思えば許せる程度のことである。
「よっし」
ラップを全部はがし終えると、『それ』は当初の3割減の大きさになった。
とげとげの角がたくさんついた不思議な形をしている。
(これって栗みたくおいしい実をなかなか食べられんように保護してるんやろか?)
幸か不幸か、アリスはドリアンという果物について、ほとんど予備知識がなかった。その別名が『果物の王様』だというので、ずっと食べたいと思っていた程度。ゆえに、ドリアンが姿を現した時、既に自分の身に突然ふりかかった災難に気づいていなかった。
包丁を手にする。
深呼吸を1回。
丁度真中に包丁をいれると、わりあい簡単にドリアンは二つに割れた。
中にはとろりとしたクリーム色の果肉がつまっている。
「皮と実の境目が、ようわからんわ……」
指で触ってみると、熟しているらしいことはわかったので、おもむろにスプーンを取り出す。
思わずまた頬が緩んだ。
まずは最初の一口。
「………?」
それは予想とはまったく違う触感だった。
入れた瞬間に、ねっとりとした甘味が口中に広がる。
(……これって、ほんま果物なんか?)
果物特有の瑞々しさとか、爽やかな甘味というものに欠けている……というか、そういう要素はまるでない。
非常に濃厚な独特な甘味は、何とも言えない。
(う〜ん、何て言うんやろなぁ……すごく濃い甘さって言うか……何か、砂糖ぶち込んだバターみたいな味やな)
己のボキャブラリーの貧困さを嘆きつつも、アリスはせっせと果肉を口に運ぶ。
想像していたのとはまるで違うが、これはこれで食べられないこともない。
(ま、あんまりおいしいとは思わんけど、何かの話のネタにはなるかもな。それに栄養ありそうやから、ちょうどいいかも)
風邪気味な己を思えば、栄養補給は必要である。植物性脂肪がたっぷりと含まれていそうだから丁度いいとアリスは納得した。
とはいえ、1個まるまるというのはキツかったから、半分は切口をラップして冷蔵庫にしまう。
「……ゴミはゴミ箱に……って、今日生ゴミ出したばっかやん」
面倒だったから、残骸は三角コーナーに捨てておく。
「さて、今夜はゆっくり寝るぞ〜」
何せ安眠を妨害する最大の敵がいない。
アリスはにっこりと蕩けるような笑みを浮かべてベッドにもぐりこんだ。
(……何や?この臭い)
翌朝、アリスは強烈な臭いの中で目覚めた。
「うちはゴミ置き場じゃないんやで……」
そのあまりの臭いに窒息しそうなほど。
鼻をつまんで、あわてて家中の窓を開け放つ。
「……よっ、おはよーさん」
ベランダで、くわえ煙草の隣人と顔を合わせる。
「おはよーございます……」
このクセのある隣人に会うと、ついつい警戒心を持ってしまうのはアリスの習い性である。
「どうしたんだ?朝から家中の窓全開で……」
小鳥遊が言葉を切って顔をしかめた。
「そっちまで臭いするんか?」
「ああ……何だ?ガスか?」
「わけないやろ。ガスやったら俺はとっくに死んでるわ」
「そりゃ、そうだ」
「たぶん、昨日食べた果物の皮が腐ったんやろな。めんどくさくて、三角コーナーに残骸置きっぱなしやったん」
「へえ……何喰ったんだ?」
何の気もない様子で小鳥遊がたずねる。
「えっとな、『ドリアン』っていうトロピカルフルーツや。小鳥遊さん喰ったことある?」
「……ドリアン?」
心底嫌そうな顔をした。
「うん。火村がプレゼントしてくれたんや。まあ、味はたいしたことないけど、別名が『果物の王様』言うから一度食べたかったん」
「……全部、喰ったのか?」
「ううん。半分は冷蔵庫や。」
「……そりゃもう全滅だな」
「は?」
「ドリアンってのはな、ひでー臭いがするんだよ」
小鳥遊が眉を顰めた表情で言う。
「臭いって、もしかして、この腐ったような臭いの元はドリアンなんか?」
「そっ。ドリアンはその臭いで有名なんだ。シンガポールやタイなんかでは、ホテルにドリアン持ち込むのは禁止されているくらいだぜ。火村は何も言ってなかったのか?」
「……言ってた」
そう。自分のいない時に喰えと。
「あの野郎っ……」
「おまえ、完璧ハメられたね」
「……あったま来た」
アリスの怒った表情に、小鳥遊がくっくっと喉の奥で笑う。
「おい、部屋貸してやるよ」
「え?」
「俺、今日から出張だからな。臭いとれるまで部屋貸してやる。荷物まとめて来い」
「めっずらしく親切やな〜」
「何言ってるんだよ、俺はいつだって親切な男だぞ」
無論、彼の辞書には『無償の親切』という言葉は存在しないが。
(ようは遊ばれる隙を見せなければいいだけやし……)
小鳥遊は、火村の古い知り合いとかで、火村をからかう為にしょっちゅうアリスにちょっかいを出してくる。火村にもさんざん言われていることだしアリスとて即座に警戒する相手なのだが、基本的にアリスは性善説を信仰している人間だった。しかも、学習能力に欠けている(つまり懲りないのだ)。
「ありがたく、お言葉に甘えさせてもらうわ」
アリスの目に、小鳥遊の薄い笑みは映らなかった。
「じゃ、俺は今日と明日、東京に出張だから適当につかっといて。これ、合鍵な」
(何だ、全然OKやん)
家主不在ならば、ちょっかいをかけられることも、火村の懸念するような心配もあるはずがない。
(な〜んだ、疑って悪いことしたわ)
「どーも」
「冷蔵庫はアルコール以外は何もない。ビールもワインも補充しといてくれるなら飲んでいいぜ」
「うん」
「おまえの部屋の反転タイプだから、電源とかもだいたいわかるだろう?」
「うん」
「散らかすんじゃねーぞ」
「はーい」
アリスは上機嫌で返事をする。
「それと……」
「何や?」
「レンタル料な」
「へ?」
目を丸くしたアリスの顎に手をかけ、小鳥遊はその唇に口付けた。
不意をつかれたアリスはなすがまま深く探られる。巧みに口内を探る舌に絡め取られて、思わず陶然とした。
「ごちそうさま……」
ニヤリといつもの笑いを残し、小鳥遊はひらひらと手を振って出勤していった。
ややして、アリスはその場に崩れるように座り込む。
「……こ、腰抜けるかと思った……」
(バレたら絶対に火村に殺されるわ……)
キスされたばかりか、上手いと思ってしまったなんて……。
「と、とりあえずは仕事しよ。うん。せっかく部屋借りたんやしな……自主缶詰みたいなもんやからな……」
持ってきた荷物はダンボール箱一つ。
よく使い込まれた辞書とノートパソコンととりあえずの資料を一式。
一番広いダイニングテーブルに広げさせてもらう。
「……やっぱ、何か落ち着かんわ……」
不在とはいえ、そこかしこに小鳥遊の気配がする。
無意識に唇を指でなぞり、赤面した。
(何、思い出してるんや、俺……)
思い出すのが恋人のキスでないあたりが、かなりヤバい。
そして、アリスはこのことは絶対に墓の下まで持っていこうと決意した。
「……もうこんな時間か……」
いつのまにやら気がつけば、外は薄暗くなっている。
「そろそろ、大丈夫かな?……?」
かすかな異音に耳を澄ます。携帯だった。マナーモードにしていたせいで、気がつかなかったらしい。
「はい、ありす…・・・・・・」
「アリスっ、どこにいるんだっ!!!」
有栖川と続けようとして、火村の怒鳴り声にかき消された。
「……火村?何そんなに怒ってるんや?」
まだ反響している耳を押さえつつ、アリスは聞き返す。
「あたりまえだろうっ。何度電話しても出やしねえっ。出かける予定は聞いていないし、しかも、家中の窓全開のままで、どこ行ってるんだ?」
「火村こそ、どこにいるんや?」
「まだ、大学だ」
「何で、うちの窓あけっぱなしだってわかるん?」
それは至極最もな疑問である。
「森下から電話があったんだよ。おまえ、こないだ泥棒に入られたばっかりだろうがっ」
「大丈夫やって、俺、隣やし……」
「は?」
「小鳥遊さんの部屋に居候してるんや」
電話の向こうの空気が凍った。
「火村?」
「アリスっ、おまえ俺が言った事忘れたのか?」
「忘れてないけど、仕方ないだろ。困ったときはお互い様。遠くの親戚より近くの他人て言うやん」
ちょっと……いや、かなり違う。
「だいたい、君のせいで俺の部屋は悲惨だったんやで…もう、ゴミの中に埋まってるかと思うくらい物凄い臭いだったんやから」
あの何とも形容し難い臭い……。いくら風邪気味だったからとはいえ、よくもあんな中で一晩眠れたものである。
「……………」
「おかげで肩身の狭い居候生活や」
家主不在で清々していることは秘密。無論、レンタル料が何だったかなんて口が裂けても言えるはずがない。
「……そんなに凄い臭いなのか」
「当たり前やろ。今朝、目が醒めた瞬間なんか、あまりの臭いに窒息死するかと思ったわ」
「…………」
「………火村?」
声にならない空気が震えていた。
「だったら、そんなところにいつまでもいるな」
「え?」
呟くような声音にアリスは耳を澄ます。
次の瞬間、夜の闇の中に火村の絶叫じみた声が響き渡った。
「北白川まで来いっ」
End/2001.06.25