静かな雨

河野はるか 




雨のにおいがした。


「さっきまで降ってたみたいだな」
 地上に出ると、水を浴びたアスファルトが涼しげに潤っていた。通り雨だろう。頭上に高く、雲がぐんぐんと流れてゆく。
「地下鉄に乗ってると、天気どころか季節も分からなくなる。いつの間に降ったのか、だまされた気分やな」
 雨の名残を感じながら、アリスは辺りをぐるりと見回した。
 駅前のささやかな商店街に人影はまばらで、バス通りの車の音だけが絶え間ない。人の行き来の途切れは雨のせいでなく、昼から夕方にかかる、束の間に穏やかな時間帯の為だろう。
「アリス、こっちだ」
 さっさと歩き出す火村を、アリスは慌てて追った。この土地をアリスは知らない。ここで友人を見失ったら、今おりた駅へ戻って東京まで引き返し、そのまま大阪の自宅へ帰るしかないのだ。
 アリスは昨日、大した用ではないが火村の下宿を訪れ、遅くなったのでそのまま泊ってしまった。それでも勤め人の友人に迷惑をかけないよう、彼の出勤に合わせてきちんと起床し、いっしょに下宿を出たのだ。だが、大学へ行くとばかり思われた火村は、途中から違う方向へ歩き出した。
「お、おい、火村。どこ行くねん」
 慌てて訊くと、「東京方面」と、素っ気無い返事が返る。
「大学は?」
「休講を届け済みだ」
「せやって、荷物は? そんな身軽なナリで……」
「日帰りだからな」
 何をしに行くのか火村は説明しなかった。
 けれど、休講を届けてあることから、目的のある外出だとは理解できる。
 ……東京方面へ、何をしに、わざわざ日帰りで?
 理解できた分、却ってアリスにはそれが訊けなくなった。
 火村英生の性格には、ひとくせもふたくせもあるが、言葉を惜しんで人をじらすような意地の悪さはないのだ。
 それなりの理由があるから、説明を控えるのだろう。
「……俺も行ってええ?」
 火村は立ち止まると、溜め息に似た呼吸の後、少し情けなさそうに言った。
「俺は、そんなに思いつめた顔をしてたか?」
 アリスが思わず同行を申し出てしまう程。
 思いつめた顔を、してた。
 夕べから、してたのだ。
「いや、別に、そういう訳やなくって、俺も暇やし、散歩がてら……」
 いっぱいいっぱいの言い訳。
 さり気なく、さり気なく。そういう気の遣い方を本当はしたかった。夕べ、いつもと酒の飲み方が違うと気が付いた時から、さり気なくいたいとアリスは思ったのだ。だから今朝だって、きちんと火村に合わせて起きたではないか。
「……随分と時間と金のかかる散歩だな」
 火村は目を丸くして、けれど面白がるように言った。
「知らなかったんか? 日本列島は俺の庭やで?」
 さり気ないフォローは無理。アリスは開き直ると、胸を張って同行を主張した。
「大きくでたな」
 火村は笑って、また歩き出す。どうやら無言の了解だ。
 途中、駅の立ち食いそばで昼食もすませ、地下鉄を乗り継いで着いたのが、この駅だった。
 火村は商店街の花屋へと迷わず入って行く。
 店内は狭そうだったので、アリスは店の外で待った。花屋の前に男ひとりで立つのはどうにも気恥ずかしく、通りに背を向け、店先の花々を眺める。
 ……分からん。なんの花だ?
 ポピュラーな花であれば多少は分かるが、分からない花の方が圧倒的に多い。大体、アリスに限らず、男性はあまり花屋へ行くこともないのだ。
 職場の歓送迎会や、お見舞い、墓参り。
 そんな時だけだろうとアリスは思い、火村は今日、そのどれの為にここへ入ったのだろうと考えた。
 墓参り。
 本当は考えるまでもなく、火村が花屋へ入った時点で、そう察した。
 ただ、場所からしても、肉親の墓参りとは思えなかった。
 誰の墓なのだろう。
 疑問は強くなる一方だが、アリスは抑えた。直接は関係ない、しかも面識もない人物であっても、人の生死という意味では火村は過去に多くのかかわりを持っている。
 そう考えると、墓参りは別に意外なことではないのだ。
 買うものを買って現れた火村を見るまで、アリスはそんな風に思っていた。
 だが、一瞬で考えは変わった。
 お見舞いかもしれない。
「ひ、火村、それって」
「カスミソウだ。それくらいなら、分かるよな?」
 分かるから、驚いている。
 火村は、白くはかないカスミソウをいっぱいに抱えて花屋を出て来たのだ。
 ちなみに2人は知らないが、花言葉はオトメチックに「清い心、切なる願い」などである。
 口をあけたまま、アリスは火村について歩いて行った。

 だが、着いた先は墓地だった。
「あじさい寺とか呼ばれてそうやな」
「ああ。ありがちだな」
 さきほどの雨に葉を輝かせたあじさいが、あちらこちらに盛大に花を咲かせている。梅雨が終わり、初夏に向かって季節が走り出す頃、植物は急速に、青くみずみずしく地面から伸び上がる。
 圧倒的な緑と、それにまじる雨のにおい。
 その中を歩くうち、アリスは徐々に痛々しい気持ちになってきた。地面にしっかり根を張って咲き誇るあじさいに比べ、火村の抱える花束は、あまりに人工的で弱々しい。
「……まだ、10歳だったんだ」
 殺された時、と火村はぼそっと言った。
 ひとつの墓石の前で立ち止まる。
「小生意気な女の子だったよ。病弱な分、両親に甘やかされて育った感じの。でも、頭のいい子だった」
 顔は墓石に向けたまま、それでも間違いなくアリスに、火村は話しかけていた。
「……かなり昔の話か?」
「昔だな。まだ学生の頃。アリスと知り合った頃だ」
 だとしたら、フィールドワークとしてかかわった事件ではない。しかも、火村が個人的にかかわった成り行きなら、それは事件ではなく、出来事だ。
 それに当時は火村もまだ大学生だ。相当にショックな出来事ではなかったかと、アリスは思った。
「知り合いの見舞いに行った病院で、3・4回、会っただけの子供だ。そこに長く入院していたんだな。その子の話す内容は大抵、家族や親戚とか、近所の人たちのことで、生意気にも大人批判なんかもまじえて、よくしゃべる女の子だった。カスミソウが好きだとか言われて、バイト代からひねり出して買って行ったこともあったな。高くて参った」
 アリスには分かる気がした。
 火村のようなカッコいい大学生に、女の子が好意を抱かない訳がない。
「殺されたことは新聞で知った。その程度のつきあいだったんだ」
「……犯人は?」
「間もなく捕まった。その子の親に対する怨恨で、捜査の手はすぐにのびた。彼女の身近な人物だったよ」
 アリスは痛ましさを覚えながら、それでも少しだけほっとした。
 火村は事件にかかわった訳ではなく、ただ単に被害者と顔見知りだっただけだ。ふと思い出して、お墓参りに行くくらいのかかわりだったのだ。
「俺も初めはそう思っていたさ」
 アリスの考えを読んだように、火村は肩をすくめた。大きな花束をそっと墓前に供え、手を合わせる。
「だけど、違った」
 顔を上げると、火村はゆっくりアリスの方へ向き直った。
 その瞳はまっすぐに、アリスだけをとらえている。
 アリスは目をそらすべきか迷った。耳をふさぐことも考えた。けれど、できなかった。
 その時ふと、気が付いたのだ。夕べから火村の様子がおかしかった理由。昔の事件に対する苦さは勿論あるが、「聞き役」を自分にふってしまうことへの葛藤もあったのではないだろうか、と。
 恐らくずっと黙っていた、事件へのわだかまり。
 アリスはそれを、まるで「話せよ」というように、墓参りの前日に現れ、ここまでついて来たことになる。
「……違った、て?」
 アリスは先を促した。
 聞くことくらいなら、自分でもできる。聞くことくらいしか、自分にはできない。
「気になって、新聞社に詳しい事件の内容を問い合わせてみた。地方紙の記者は親切に教えてくれたよ」
 後に、臨床犯罪学者の道を選択することになる大学生は、その当時から既に殺人事件への真剣な興味を抱いていたのだ。
「記者の説明を聞いて、俺は愕然とした。俺の手には、その事件のピースは全部あったんだ」
「え?」
 ピース。パズルのようなミステリの、ヒントたち。
 アリスは首を横にふった。
「手にあった、て。せやけど、火村……!」
「ちょっと立ち止まって、親身になって考えれば、事件は予測できたんだ。多分、ふせげた」
 そうかもしれないとアリスは思った。火村の頭のよさは知っている。
「でも、火村。君は親身になる程、その女の子と近い存在だった訳やない。結果論だけど、予測することも、ふせぐことも実際には無理やった」
 言いながら、また雨が降ってきたなとアリスはぼんやり思った。腕のあたりに、ぽつりと水を感じる。
「まあな。だから、せめて俺は彼女の為に泣きたかった。ところが、涙が一滴も出やしない。多分、何もできなかった自分が悔しくて、後悔が大きすぎたせいだろうが。でもな……」
「火村」
 アリスは言いかけて、絶句した。
「泣けない自分に、俺はぞっとした」
 そう言った火村の横顔はあまりに冷たく、アリスのどんな言葉もとどかないように思われたのだ。
 泣けなかった自分を、火村は許していない。
 アリスの緊張した視線に気付くと、火村はゆっくりと表情を和らげた。
「それで後ろ暗くて、何年かごとの命日月に、こうして墓参りをしてる訳さ。彼女が好きだと言ったカスミソウなど持って」 
 語り終えると、火村は墓石に目を戻した。
 しんと、沈黙がおりる。
 アリスの頭の中で、10歳の女の子が笑った。ぼんやりした輪郭でふわふわと。
 たまに病院で会う大学生に、かまってもらおうと一生懸命に話しかける。気をひきたくて生意気なことも言ってみる。
 本当は花に興味はなかったのかもしれない。でも、病弱な女の子のイメージだから、カスミソウが好きだとかも言ってみた。
 そうしたら、彼は本当に買ってきてくれた。
 めんどくさそうに、それでも手渡してくれた火村は、照れているように見えた。
 また買ってねと言うと、かんべんしてくれと苦笑いされた。 
 おかしくて笑った。
 嬉しかった。

 まだ、10歳だった。

「……なんでお前が泣けるんだよ?」
 アリスの頭に軽く手をのせ、火村は柔らかく問う。
「うるさい。作家の想像力をいたずらに刺激するんやない」
 火村に顔を見られないよう、アリスは下を向いた。そのまま、火村から遠ざかるべく、歩き出す。
 図られたのだ。
 そういえば、大した用ではなかったが、一応の用があって昨日は火村の下宿を訪ねたのだ。しかも、都合がいいからと昨日を指定したのは、火村ではなかったか?
 火村は自分に「罪を告白したかった」のではなく、自分の代わりに、ここで彼女の為に泣いて欲しかったのだ。
 泣けない自分の代わりに。
「おい。待てよ、アリス」
 追いかけてきた火村は、アリスをつかまえると頬を両手ではさんで上向けた。悔しくて、アリスは暴れる。
「言っておくが、目から出てるように見えるのは、雨やぞ」
 増えていく空からの糸を幸いに、アリスは言ってやった。
 火村は笑う。笑いながら、目許に、頬に、唇に、くちづける。
「変だな。雨なのに、しょっぱい」
「あああ、もうっ。君ってヤツは……!」
 真っ赤になって火村をにらんだアリスは、その瞳があまりに穏やかで拍子抜けした。その隙に抱き寄せられ、再びくちづけられる。
 強く拘束する腕に、アリスはあえて逆らわなかった。
「悪かったな、泣かせて」
 しばらくして耳元でささやかれた言葉に、アリスは溜め息をつく。
「そういうセリフを素面で言える君の感性が、俺にはよう分からん」
「はい、はい。そうですか。俺は結構、お前の感性には助けられてるけどな」
 アリスは首を傾げ、「どういう意味や?」と問う。火村は微笑んで答えない。
 答えないまま、空をあおいだ。
「もうやんできた。本当に通り雨だな」
「夏が近いんや。空気の感じも変わってきたやろ?」
「ほら、そういう感性がさ」
 アリスはもう問い返さなかった。


 雨上がりの病院の庭で彼女と会った時、話をしていて火村は怒られたことがある。
「どうして分かんないの? するのに、雨のにおい」
 火村が「そんなもんかな」と言うと、彼女は、「ああ、もう」と顔をしかめた。
「カンセイのモンダイね。大人ってつまんない」
 彼女お得意の『大人批判』だなと思い、火村は相手をしてやるかと腰をすえた。
「大人の中にもそういう感性のヤツはいるよ。この前、俺の大学の友達も同じことを言っていた」
「雨のにおいがするって?」
「そう。作家になりたいっていうヤツなんだけど」
「女の人?」
「男だよ」
 火村が答えると、にっこりと笑う。
「そういう大人のカンセイは、大切にしなきゃね。見習ってよ。私、その人と話してみたいな」
 その大人びた口のききようがおかしくて、火村は吹き出すのをこらえた。
 本当に会わせてみたいものだと、面白いかもしれないなぁと、思った。



 墓前に供えたカスミソウは、雨の粒を光に反射して、いっそう白くみずみずしく見えた。
 ふたりで再び手を合わせ、駅に向かってゆっくり歩き出す。


 雨のにおいがした。


End/2001.06.28



河野さん、すっごくステキなお話をありがとうございました。
現在テニプリ月間(笑)にも拘わらず、こんなステキなお話を書いて頂けて、めっちゃ嬉しいです。
お話を呼んでいる間、ずっと耳許で柔らかな雨音が響いているような気分でした。
河野さんのお話を読み終えるたび、いつもホゥ〜と感嘆の息が漏れてしまいます。優しくて、少し切なくて、そして大切な何かを気付かせてくれる、そんな河野さんのお話がとっても大好きです。
もちろん今回も…。ちょっと切なくて、でもふんわりと優しい気持ちを味合わせて頂きました。本当にありがとうございます。
テニプリへの浮気も良いけど、アリスも忘れないで下さいね。

河野はるかさんへのご感想メールはこちらです





NEXT