そろそろ卒論が頭を悩ませ始める季節。
火村と食堂で昼食を摂った後、図書館へ向かおうとしたアリスを背後から誰かが呼び止めた。
振り向いて声の主を確かめたアリスはそのまま硬直してしまう。そこにはミス英都大学・綾小路貴子が立っていたから。
貴子は火村と同じ社学の学生だ。アリスが思いつく限りの英都の女学生・職員の中でも、ダントツの美人。ただ美人であるだけでなく、勇気と行動力のある女の子だとアリスは思っている。なにしろバレンタインデーに、あの火村にチョコを手渡そうとしたのだから。他の女学生は南極のペンギンですら氷漬になりそうな、火村のツンドラ・タイガー・ブリザード並みの視線の前に、チョコを渡す事はおろか近づく事さえできなかったのだから。なのに貴子は、バレンタインに容赦なく火村に撥ね付けられても屈することなく、誕生日にもプレゼントを持ってきた。貴子のチョコレートはアリスとアリスの母親の胃袋に消え、プレゼントは食堂のゴミ箱に投げ捨てられる運命ではあったが。
その貴子姫が、アリスに話があるという。
女の子全般に弱いアリスが、英都の女王・社学のお姫さまと呼ばれている貴子の誘いを断れるわけがない。常々貴子に対する火村の態度は冷たすぎると感じていたことでもあるし。
「ちょっと火村のことで聞きたいことがあるん。時間とってもらわれへんやろか?」
タカビーだ、性悪だと火村は散々悪口を言うけれど、(まあ、多少そんなところもあるかなとアリスも思わないでもないが)今日の貴子はいつもりよずいぶん控えめで、むしろ儚げでさえあって、アリスの鼓動はどきどきと早くなる。
(こんな美人を袖にするなんてバチアタリは火村くらいや。モテる奴はええよな〜。)
などと考えてはいるが、アリス自身、貴子とどうこうなりたいと思っているわけではない。最近手ひどくフラれたばかりだし、貴子ほどの女性が自分なんかを相手にするはずがないと信じているので、これは純粋に火村の友人として相談があるのだろうと快く引き受けた。
(この機会を逃したら、もう、いつ美人とお話できるかわからんし)
アリスの返事を聞いた貴子は、目に見えてほっとした様子だった。そんなことすら、アリスは好ましいと思うのだけれど。どうして火村はああまで貴子を嫌うのか、アリスにはよくわからない。
社学の棟の裏側で待ち合わせたアリスと貴子は、貴子の叔父さんがオーナーだという小さな画廊に向かった。その、こぢんまりした応接室に通される。喫茶店や居酒屋くらいしか縁がないアリスは、一味も二味も趣が異なるその部屋を興味ぶかげにしげしげと眺め回す。
「コーヒーでよかった?アイスコーヒーのがよかったかな?」
「あ、おかまいなく。けど俺がアイスコーヒー好きなん、なんで知ってるん?」
「学食でいつもアイスコーヒー飲んでるやん。有栖川、猫舌ってわけでもないよね?ラーメンもおうどんも、ものすごい勢いで食べてるし」
貴子がこんなに気さくに話し掛けてくれることがアリスには意外だった。他の女の子と違って、どこか近寄りがたい雰囲気さえあると思っていたのだ。
「うわっ。よう見てんねんなぁ、自分」
だからアリスの口調も、だんだん親しげになってくる。
「ふふふ。学食でいつも火村と一緒やからね」
ああ、そうか、とアリスは納得する。貴子が見ているのはアリスではなく火村なのだ。
「綾小路さんにコーヒー淹れてもらうなんて、役得や」
それでも美人のおもてなしは純粋に嬉しい。
「わたしが淹れたんと違うよ。持ってきただけ」
はにかむように笑うのを見て、やっぱり綺麗だな、と思ってしまう。さりげない指の動きも優雅で、さすがは元公家のお嬢様だと感心する。アリスの母親には絶対無い優雅さだった。
「こんなとこまで連れてきてごめんな。けど、誰にも聞かれとうなかったから…」
カップのコーヒーを華奢なスプーンで静かに掻き回しながら、貴子が話し始める。アリスは少し緊張したが、貴子が話しやすいように場を和ませようとする。
「ええよ。画廊なんて、一生縁ないかもしれんし。楽しんどるから」
それに、美人と一緒やし、と言えるほど、調子のいい事を言える人間ではなかったが。
「ふふ。有栖川らしい…な」
笑いかけた貴子姫が言葉を詰まらせて…
「あ、綾小路さん?」
ポロポロと白い水滴を頬に伝わせた。
「ごめん。ごめんな…」
取り出したハンカチで涙をぬぐい、顔を隠すようにしたハンカチの奥で鼻をすする。
「あー、もう。みっともないとこ見せてもうて。ほんまにごめん」
泣き笑いする貴子の前で、アリスはオロオロするだけだった。
「…俺、なんかした?」
「有栖川のせいやない。ちょっと、羨ましかっただけ」
「…………?」
ふふっ、と貴子が笑った。
「わたしが火村の事好きなん、知ってるやろ?」
それはもちろん知っている。あんなに大胆に、あんなに堂々と火村にアプローチしたのは、アリスが知ってる限り貴子だけだ。その現場にたいてい自分がいたわけか、と頭の隅で考える。
「火村がわたしのこと嫌っとることも」
「いや、それは…」
アリスが言いかけるのを遮るように貴子が続ける。
「ええねん。わかっとるし。有栖川に向ける目とわたしを見る目、全然違うもん。ううん。有栖川だけやない。他の女の子に向ける目とも違う。わたしだけ…」
貴子の綺麗な瞳にまたしても涙が滲んでくる。
(こんな美女を泣かせるなんて。女の子を泣かせるなんて、火村、君は罪な奴やで)
女嫌いを公言して憚らない、そのくせモテまくる友人の顔を思い浮かべ、パンチを数発見舞ってやった。レスリング部の猛者を一撃でマットに眠らせることができる火村本人にむかっては、とてもできないことだったが、アリスの得意とする空想の中ならオチャノコだ。
「なんでやろ。なにがあかんねんやろ。好きになってくれとは言わへんけど…せめて嫌われとうないのに…どうしたらええのかわからんねん。アホみたいな話やけど、火村が初めてや。初めて好きになった男やのに…ほんまに…どうしたらええのかわからへん」
これがあの、いつも毅然としている貴子なのかとアリスは目を疑った。けれど、考えてみればアリスの知っている貴子は、火村に挑んでいる時の貴子だけだった。その、尊大にさえ見える態度が実は、不器用さゆえだとしたら…。好きな人に振り向いてもらいたいが為の、精一杯の自己表現だったとしたら…?
「…朱雀院は?婚約者やて聞いたけど?」
「そういうことになってるみたいやけど、子供の頃、親同士が冗談で言うてただけ。小さい頃からずっと一緒やったから仲はええけど、兄妹みたいなもんやし」
「ほな、朱雀院もその…綾小路さんの気持ちを知っとるん?」
「うん。けど冷ちゃんは、わたしやとあかんて。火村はわたしには捕まえられんて言うんよ。なんで、て聞いても笑うて答えてくれんけど。なあ、有栖川はどう思う?わたしの何があかんねやろか」
アリスは言葉につまってしまった。どう答えるべきだろう。
火村が貴子を「態度のでかい慎みもない女」だと思っている、などと言っていいものか。
けれども、どうやらそれが貴子の本性ではないらしいと感じ取ったアリスにしてみれば、はっきりと指摘してやった方がいいのではないかとも思えてくる。
「あのレスリングの時、覚えてる?」
レスリング部恒例の交流試合で、前座として火村がマットに上がったのは初夏の事。火村の貴子に対する態度に腹を立てたメンバーが、火村に恥をかかせてやろうと目論んだ陰謀だった。
「綾小路さんがプレゼンターで、勝った火村に花束渡した時やろ」
「火村がなんであんな試合に出るんかわからんかったけど、あれ、有栖川の原稿取り返す為やったんやてね。」
「火村の勘違いやったんやけどな」
「あの時火村、皆の前でわたしのこと抱き寄せたやろ」
花束を渡そうとリングに上がった貴子を火村が抱き寄せ、それからその唇に…
「あ…けど、火村、ほんまにキスはせぇへんかったって言うとったで」
しばらく貴子は無言で冷めたコーヒーを掻き混ぜ続けた。
「…そう。有栖川にはそう言うたんやね」
声と細い肩が震えているのに気がついて、アリスはすっとんきょうな声を張り上げる。
「って、えっ?ほんまはしよったんか、あいつ。英都の女王になんてことを!」
貴子は黙って首を振った。
「してへんよ。花束で遮って、わたしにキスなんかせぇへんかった」
公衆の面前で、どんどん迫ってくる火村の端正な顔。腰に回された腕。動悸が早くなるよりも先にパニック状態の貴子はただただ火村に翻弄された。身体を硬くして、ぎゅっと閉じていた瞳をようやく開けた時に見たものは、マットの上にくず折れた貴子を心配そうに抱き起こす幼馴染の顔だった。
火村本人はとうに貴子の前から姿を消していたのだ。
「火村はわたしなんかとはキスしとうないんや」
「綾小路さん…」
「せやのにこないだ、社学の飲み会の時、有栖川とキスしてたやろ」
罰ゲームと称した悪ふざけだった。クジに当たった者がその場にいる誰にキスをしてもいいというゲームの中で、たまたま参加していたアリスが当たった。失恋の自棄酒でベロンベロンになっていたアリスは、貴子や他の連中の前で火村を押し倒してスッポンのようなキスをかましたのだ。
「あっ、あれはっ…俺、酔っ払っとったし…あれは火村のせいやないでっ」
アリスは真っ赤になって弁明した。あの時の自分は普通じゃなかった。おまけに、好きでもない女の子とのキスなんて、アリスには考えられない背徳行為だった。だから、シャレで済ませられそうな火村を選んだのにすぎない。
「火村は酔うてなかったよ。女の子が飲まそうとしてたけど、ちゃんとセーブしとった」
「う。そういえば…ちゃんと俺のことおぶってしっかりした足取りで歩いとったっけ」
「火村がその気やったら、有栖川からキスされる前に逃げてたと思う」
「………」
「火村が有栖川のこと気絶させたんは、有栖川が服脱ぎ始めようとした時や」
「お、俺、服脱ぎ始めてたん?」
記憶の無い己の醜態に冷や汗もののアリスだった。
「火村の服も脱がそうとしてたで」
「げっっっ」
「火村は有栖川がキスしようとしても逃げへんかった。男の有栖川とはキスできるのに…わたしやと…わたしやと、キスするんも嫌なんや…」
声を引きつらせた貴子は、ハンカチを口元に押し当た。懸命に声を殺そうとして、肩が大きく震えだす。
「綾小路さん…」
「…わたし、そんなにひどい女やろか?火村に好きやって言う値打ちもないほど?」
「あほな事言いな!」
「けど…」
「綾小路さんはミス英都やで!俺らのお姫さんや。火村なんかにもったいないわ!綾小路さんの魅力に気ぃつかん、あいつがアホなんや。ほんまにあのボケッ、いっぺんシメたらなあかん!」
「有栖川…」
「ええか、綾小路さん。よう聞きや」
アリスは義憤にかられてぐぐっと身を乗り出した。貴子の上辺だけを見ていたのは火村だけではない。自分も同じだという罪悪感があった。だからこそ、なんとかこの誇り高い仮面の奥に、驚くほど純な心を隠し持ったお姫様の役にたちたいと思った。
「火村はモテる。腹たつほどモテよる。けどな、俺の知る限り、あいつは誰に対しても心を許してないで。何人か深い仲の女もおるみたいやけど、みんな一線おいとぉる。そんな中で、考えてみたら綾小路さんだけや。火村が良かれ悪しかれ反応するんは」
「けどそれは…他の誰よりわたしが嫌いやから…」
「違う!聡いあいつのことや。綾小路さんが嫌いやからやのうて、綾小路さんの気持ちに応えられへんから、そやから、へんに期待させるようなことするより、冷とう拒む方がええと思うとるんや」
「………」
「ちょっと…いや、だいぶひねくれとぉるけど、あいつ、優しいとこもある。なかなか人にはそう思われんみたいやけどな。せやから…」
「有栖川は優しいな」
興奮しているアリスの前で、貴子が静かに笑った。
「え?え?」
その微笑があまりにも寂しげで…。アリスのトーンを一気に下げた。
「火村が有栖川の側を離れんのもようわかるわ」
「え、いやあの…」
「わたしが有栖川やったらよかったのに。有栖川みたいな性格やったら、きっと火村も…」
「綾小路さん…」
「ありがとう有栖川。聞いて貰て、なんやすっきりしたわ。冷ちゃんの言うとおり、わたしには火村は無理みたい。ああ、心配せんでええよ。初恋って実らんもんやて言うやん。ちょっと遅すぎたから、ダメージ大きかったけどな」
「綾小路さん。恋愛経験もそうないし、いっつもフラれてばかりおる俺の言うことやないけど…。ありのまんまの綾小路さんで告白してみたら?あかんで元々やん。火村も…俺も…綾小路さんの事、だいぶ誤解してたとこあると思う」
アリスの言葉に、貴子は消え入りそうな笑顔で応えるばかり。
アリスはもうそれ以上何も言えなくて。
貴子に別れを告げ、画廊を後にした。
貴子はそんなアリスの背中を見ながら一人呟く。
――― ほんまに冷ちゃんの言う通り。
火村との時間を少しでも作りたくて、初めてゼミの飲み会に参加した。「有栖川を引っ張り出すことができれば火村は現れる」という幼馴染のアドバイスに従い、世話役の学生に法学のアリスを誘う事を提案した。
(わたしなんか、全然かなえへんわ)
ほろ苦い胸の痛みは残ったけれど…
けれどそれは、決して不快なものではなかった。
End/2001.06.19