鳴海璃生
「本当にご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
目の前に立つ一つ年下の担当編集者に向かって、私は深々と頭を下げた。そう、私こと専業推理作家の有栖川有栖は、作家になって初めて---、というぐらいのどでかいミスをやってしまったのだ。今この時においても、そのミスが私のせいだとはとても思えないのだが、でも原因が判らない以上、やっぱり私のせいなんだろうな、と思うしかない。
「大丈夫ですよ。原稿の方も何とか間に合いましたし、気にしないで下さい」
お人好し全国大会があったら、必ずや東京代表に選ばれるであろう担当氏、片桐光雄氏は、恐縮しまくっている私に向かってにっこりと微笑んでくれた。が、目の下に浮かんだ隈と、疲れたような表情は隠すことはできない。これも間違いなく自分のせいだな…、と思うと、ますます身の縮こまる思いがする。
「それより有栖川さん---」
身の置き所のない私の気を紛らわせるためか、片桐は唐突に話題を変えた。
「本当に今日これから、お帰りになるんですか。もう1日泊まって、ゆっくりしていって下さっても構わないんですよ」
心の籠もった優しい言葉に、思わずほろりと涙が零れそうになる。が、それを押し隠して、私はぶんぶんと音がそしうなほどに強く、頭を左右に振った。
「とんでもないッ! これ以上ご迷惑は掛けられませんッ」
普段からのんびりしているだの、惚けているだのと、口の悪い友人から有り難くもない寸評を戴いている私だが、その友人ほど図々しくも、神経図太くもないつもりだ。それに遠慮と身の程という言葉は、京都在住の某私大助教授よりもよぉーく心得ている。
「迷惑っていうこともないんですけどね」
片桐が、口許に苦笑を浮かべた。確かにここまでに掛けまくった迷惑の数々を考えてみれば、彼の言葉に甘えてあと1泊することなど微々たるものだろう。
「それじゃ、僕はこれで失礼しますけど、有栖川さんも気をつけて帰って下さいね。ずっと満足に眠っていらっしゃらないんだから…」
原稿の入った紙袋を小脇に抱え、片桐は軽く頭を下げた。ここ数日、迷惑を掛けたのは他ならぬ私自身だというのに、最後の最後まで私のことを気遣ってくれる担当編集者に、私の心は申し訳なさで一杯になる。
---京都の先生に、爪の垢でも飲ませたいぐらいや。
ぜんぜん関係のない友人に妙な八つ当たりを抱きながら、私も片桐に倣ってぺこりと頭を下げた。いつもの10倍は頭が重く感じられて、気を抜くとこのまま前のめりに倒れ込みそうだ。
「本当に申し訳ありませんでした。次回からは、十分気をつけます」
「そんなに気にしないで下さい。何も全部が全部、有栖川さんのせいという訳じゃないんですから。今回のことは、不幸な事故ですよ」
出来の悪い担当作家を慰めながら、片桐はくるりと踵を返した。足早に絨毯の敷かれた長いを廊下を歩いていき、エレベーターの前で私に向かって軽く右手を上げる。暫くの間手持ち無沙汰にエレベーターを待っていた片桐は、やがて開いたドアの中へと慌てた様子で姿を消した。
片桐の姿がエレベーターの中に消えた途端、私は大きく息をついた。頭と両肩にずしりと重い鉛でも乗っているような気がする。いや、頭と肩が鉛でコーティングされているという感じだ。常以上に重く感じるドアを閉め、ずるずると両足を引きずるように動かして、私は部屋の中へととって返した。
バスルームの前を通り、奥へと進む。正面の壁一面に取られた大きな窓に、朝の光に輝く高層ビルと夏の青空が写っていた。それはまるで、壁に填め込まれた1枚の絵を思わせる。が、ここ数日、それこそモグラのような生活をしていた私には、この清々しい朝の風景は眩しすぎた。
光を避けるように目を細め、この5日間の間私の生活の場となっていた部屋を眺め回す。まだ駆け出しの、売れない推理作家のために用意された部屋にしては、贅沢なほどに広いツインルーム。その中心にあるベッ
ドが「おいで、おいで…」と、私を手招きしている。
老体---と言うほどの歳だとは思いたくないが---に鞭打つようなこの5日間の寝不足を引きずった私は、ベッドの甘い呼びかけに応じて、すぐにもふにゃりと、ふかふかのスプリングの上に倒れ込みたかった。だが、私に付き合ってこの5日間満足に眠っていない担当編集者が、朝一番で仕事に出ているのだ。それなのに迷惑の大原因である私が、のほほんと睡眠を貪るわけにはいかない。
乱れた髪をぼりぼりと掻きながら、私は眠気を少しでも払うためにバスルームへと向かった。チェックアウトの時間まではまだ十分余裕があるから、取り敢えずシャワーでも浴びて、それから荷物を片付けることにする。
---ほんま、もう最低や。
仕事を終えた達成感などは到底なく、朝のうららかな陽の光とは対照的に、私の気分はどん底まで落ち込んでいた。◇◇◇ 今回のこの事件。それは、私の担当編集者である片桐からの慌てふためいた1本の電話から始まった。
その日、珍しくも余裕で原稿を上げ、既にフロッピーも珀友社あてに送ってしまっていた私は、リビングのソファに寝ころびながら、優雅に昼下がりのビールなんぞを傾けていた。
窓の外にはぎらぎらと夏の太陽が燃えさかり、ガラス窓を通して谷町筋を行き交う自動車の音が、微かに響いてくる。だが、優雅なこの空間には、街の喧噪を知らしめる物は何一つとしてなかった。エアコンをがんがんに効かせて、少し冷えすぎるくらいに冷えたリビング。フローリングの床の上には、お気に入りの数冊の本。空気を震わせるような空調の音さえ、気怠い午後の昼下がりを演出する心地よいBGMだ。
「はぁ…。他人様が汗水流して働いている時に、ごろごろしてられるってのは最高やなぁ…」
京都の、あの死ぬほどに暑いお鍋の底で、クーラーも無く汗水たらして試験問題作りに励んでいるであろう口の悪い悪友の姿を思い起こし、私の優雅な午後の昼下がりはますます気分のいいものになる。
やっぱ自由業ってええわ、などと思いながら、うつらうつらとし始めた時、フローリングの床の上に無造作に置いてあったた電話の子機が突然甲高いコール音を鳴らし始めた。
「何や、火村かいな」
たった今、自分と引き比べていた友人の顔を脳裏に描く。と同時に、私の中に好奇心という名の風船が膨らみ始めた。
こんな昼日中から電話を掛けてくる人間を、私は一人しか思い描くことができない。そしてその人物からの電話は、たいていの場合において、彼のフィールドワークへのお誘いの電話なのだ。
優雅な午後の微睡みをじゃまされたというよりは、少々退屈気味の私に、そのコール音は胸の躍るような興奮を運んできてくれた。もちろん、他人様が仕事をしている時に、部屋の中でごろごろしているというのも最高に気分の良いものだ。だがそれよりも何よりも、日本でただ一人の臨床犯罪学者につきあって、フィールドワークのお供をする方が、よほど楽しいに決まっている。
子供のような胸の高鳴りを押さえつつ、私はゆっくりと子機に手を伸ばした。慌てたり、もろに喜んだりしているのが火村に判ると、あとで必ずあの口の悪さの餌食となってしまう。曰く、「アリスは寝る以外、これといった予定が無かったようですから」云々---。
全くもって失礼千万、こんちくしょーってなもんである。1回ぐらい「俺は仕事が忙しくて行けへん」と断ってみたいものだが、如何せん私の好奇心は、火村に対する見栄よりもずーっとずーっと大きかったのだ。
ワクワク、ドキドキ…。まるで待ち焦がれた恋人からの電話をとるような胸の高鳴りを押さえながら、私はゆっくりと子機を取り上げ、通話ボタンを押した。
「はい、有栖---」
耳元に当て、子機に向かって返事をする前に、切羽詰まったような声が鼓膜を震わせた。
『有栖川さんッ。たいへんなんです!』
まるで怒鳴っているかのような大声に、私は子機を少しだけ耳元から遠ざけた。何もそんなに大声で力まなくても…、と暢気に思いながら、私は電話の主の名を口にした。
「片桐さん、どないしたんですか、そんなに慌てて。あっ、私のフロッピー、もう届きました?」
その声---。らしくもなく慌ててはいるが、聞き慣れたその声は、私の想像した京都の犯罪学者のものではなく、大阪の遙か東、日本の首都東京におわします担当編集者のものだった。
『そのフロッピーなんですが、たいへんなんですよッ!』
「は…?」
慌てた中に泣きつくような悲壮さの混じった声音に、嫌な予感が胸の内を駆け巡る。もしかして、別のフロッピーでも送ってしまったんだろうか---。それとも、封筒に入れたつもりで、実はフロッピーを入れ忘れていたとか---。
たらーりと、冷や汗が背中を伝い落ちる。おまけに次から次へと、それこそ推理小説のトリックを考えつく以上に嫌な予感が溢れ出てくる。生産性が低いと言われている私にしては、大したもんだ。
---普段の推理小説のトリックも、これぐらいちゃっちゃか思いついたら、締め切りもめっちゃ楽なんやけどなぁ…。
嫌な予感に慌てふためいているくせに、頭の奥でのんびりとそんなことを思う。
---あかん。現実逃避している場合やない。
頭を振ってずれた思考を戻し、理由を幾ら考えてみても、片桐が慌てるほどのこれといったものは思い浮かばなかった。だいたい幾ら私だとはいえ、そこまでドジだとは思いたくない。---もっとも火村に言わせ
たら、「自分を知らねぇってことは、恐ろしいことだな」とか何とか、あの毒舌でもって反論されそうだが。
とにかく封筒に入れる時、間違いなくフロッピーは確かめたし、入れ忘れなんてことは推理作家有栖川有栖の名に掛けて、絶対にないッ! では、それ以外、と言っても--。
---だめや、何も思い浮かばへん。
ギブアップした私は恐る恐るという風に、言葉を続けた。できれば、小心者の私の心臓に負担が掛からない程度の内容であることを祈りたい。
「あのぉ、片桐さん。一体なにがあったんですか?」
『フロッピーの中身が、全部消えちゃってるんですよぉ』
「……はい?」
受話器の向こうの声は、もう泣きださんばかりだ。だが、片桐が言っている言葉の意味が右から左に通り抜けた私は、間の抜けた返事しか返すことができなかった。
一瞬の沈黙---。受話器の向こうとこちらに、奇妙な間ができる。頭の片隅を滑っていった言葉をゆっくりと引き戻して、反芻してみる。
---フロッピーの中身が---全部、消えてる……。to be continued
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