鳴海璃生
「……えーッッ! 何やてぇーッ」
大声を上げた私の耳に、漸くことの重大さを納得したか、というような小さな溜め息が聞こえてきた。が、今の私には、そんな些細なことを気にしている余裕などない。フロッピーの中身が消えていた---そのひと言だけが、頭の中でぐるぐると回転している。
---まさか俺、まじで違うフロッピーを送ってしもうたんか。
そんなはずはない、と思っていても、はっきりとは断言できない。事実、片桐の手元に届いた私のフロッピーの中には、何も入っていなかったらしいのだから---。それに、もし違うフロッピーを片桐の元に送ってしまったのなら、まだ救いはある。私の約1ヶ月と半の間の苦労の結果は、書斎に平穏無事のまま残っているはずだから---。
私は慌てて立ち上がり、コードレスの子機を手にしたまま大股にリビングを横切った。困った時にだけその存在を思い出す神様にも、思わず心の中で手を合わせた。場所柄、私の住んでいるマンションの近くには山ほどのお寺がある---蛇足ながら、カトリックの教会もある---のだから、どこか一つぐらい私の祈りを聞き届けてくれる奇特な神様がいるかもしれない。
「片桐さん。俺、間違って違うフロッピー送ったのかもしれん。今、書斎の方を見てくるから---」
『有栖川さん。送って下さったフロッピーは間違ってないんです、多分…』
片桐が力無く語尾を濁らせる。掌に汗が滲むほどの強さで握りしめた子機から返ってきた声に、嫌な予感が現実のものになる足音が聞こえてきた---気がした。私だって、間違ったフロッピーを入れたとは思いたくない。思いたくはないが、心の平安とこれから数日間の優雅な生活を守るためには、そう思うのが1番ベストな選択なのだ。
ごくりと唾を飲み込み、黙り込んだ私の耳に死刑宣告にも似た重々しい言葉が響いてくる。固く拳を握りしめた左手にも、じっとりと汗が滲んでくる。その不快な感触に、私は掌をジーンズに擦りつけた。
『---すみません。僕の言い方が悪かったんですね』
そんなことはどうでもいいから、早く先を言ってほしいような、言ってほしくないような…。でも何となく、その先の言葉は、私には既に判っているような気がした。そして、例によって例のごとく、嫌な予感ほど何故かよく当たるものなのだ。
『中の文章が消えちゃってるというより、フロッピー自体が壊れているんです』
頭の中で、ゴーンと鐘の音が鳴り響くような気がした。膝から力が抜け、冷房に冷えたフローリングの床の上にへたへたと座り込む。子機の向こうの片桐の声は、まるで遙か彼方から響いてくるように遠くに聞こえる。
『プリントアウトしようとフロッピードライブに入れてみても、読み込んでくれないんですよ』
心なしか、担当編集者の声にも力がない。いや、全ての衝撃が去り、既に覚悟を決めた時というのは、一種の諦めにも似た状態なのかもしれない。
『---有栖川さんッ、バックアップありますよね?』
一つ大きく息を吸い込んだあとの縋るように勢い込んだ声に、私は見えるはずもない相手に向かって緩く頭を振った。子機の向こうの声も泣きそうな声音をしているが、私だって十分泣きたい心境なのだ。
「そんなもん、ありませんよ」
以前はまめにバックアップをとっていたが、余りにフロッピーの量が増えすぎて、最近はまともにバックアップをとっていなかったのだ。最初はちょっと不安だったが、そういう状態でも今までにこれといった問題がなかったから、慣れによる油断があったのかもしれない。
油断大敵。注意一秒、怪我一生。
やっぱり労を惜しむものじゃない、と今さらながらに反省する。いや、今回の場合は、フロッピーを惜しむものじゃない、と言い換えるべきか…。
それにしても、天災は忘れた頃にやってくる…というか何というか。久々に軽く締め切りをクリアーして意気揚々としていた矢先に、まさかこんな落とし穴が待っているとは、夢にも思わなかった。これはやっぱり、私の日頃の行いが悪すぎるのだろうか。いや、もしかしたら、自分だけ仕事をしていることを野生の勘で察知した犯罪学者の呪いかもしれない。
目の前に突きつけられた現実から逃げ出すかのように、とりとめのないことを考える。その私の耳に、力の抜けきった溜め息が響いてきた。お互いに声を出す元気もなく、さりとて、これといった対処のしようもなくて、二人の間に重苦しい沈黙が落ちる。もっとも、「今この事態に対する打開策を、100字以内で簡潔に述べよ」などと言われても、真っ白にブリーチされた私の頭では何も考えつくこともできない。
『---有栖川さん』
やがて、意を決したような片桐の声が、子機の向こう側から響いてきた。声の調子から察するに、今の片桐はまさに目が据わった状態ってやつに違いない。
『今からすぐこっちに来て、書き直して下さい』
力強く言い切った担当編集者の言葉に、私は子機を握りしめたまま目が点になってしまった。凍り付いたように動きを止めた私の耳に、片桐の声が最後通牒を突きつけるかのように朗々と響く。
『ホテルの方は手配しておきますから、取り敢えずワープロを持って社の方に---』
「ちょ、ちょっと待って下さいッ!」
徐々に具体的になってくる片桐の言葉に、私は悲鳴のような声を上げた。簡単に「書き直して」と片桐は言うが、私が今回書いて送った小説は短編ではないのだ。そんなことを彼が忘れているはずもない、と思うのだが、この口調からはそれを感じさせない。
「片桐さん。今回のは短編やないんですよ。書き直せって言われても---」
『一度書いたものなら、頭の中に入っているでしょう?』
「そ、そりゃあ…」
細かい所は抜きにしても、確かに書いたものの内容はまだ頭の中に残っている。真っ新の状態から書くわけでもないので、「書け」と言われれば、それほどの苦労もなく書ける、---かもしれない。
が、しかし、しかしである。口はばったいぐらいにしつこく何度も言うようだが、今回の小説は短編ではないのだ。400字詰め原稿用紙の何百枚---詳しい枚数など口にしたくもない---かの量があるのだ。内容云々はともかく、「書け」と言われて「はいはい」と気軽に書ける分量ではない。
「でも、片桐さん。時間だって---」
『大丈夫です。まだ3日、いえ、ぎりぎり延ばして5日ありますッ』
おいおい、ちょっと待ってくれ。---力強く言い切られた言葉に、軽い目眩を覚える。確かに片桐の言う通り、5日あれば理論的にはやれるのかもしれない。だが、私は機械じゃなくて、人間なんだ。眠るし、ご飯は食べるし、お風呂にだって入るしで、ワープロを打つ以外にも色々と時間を使うんだ。老体---己の都合が悪い時に、この言葉はたいへん便利だ---に鞭打ってまでギネスに挑戦、限界へのアプローチなんぞ、絶対やりたくもないわい。
渋る私に、容赦のない片桐の言葉が続く。
『じゃあ、有栖川さんは原稿を落としたいんですか』
そんな訳はない。どこの世界に、原稿を落としたい作家がいるものか。それに、もし落とすとなると、問題は私一人のことでは済まなくなる。作家としてのプライドと責任と、体力の限界への挑戦と---。しがらみの狭間で汲々たる私は、返す言葉もなく返事に詰まる。いや、私だって本当は判っているのだ。この状態で、一体どうすることが最良の道なのかは---。
『有栖川さんッ!』
電話の向こうから響いた声に、私は一つ息を吐いた。こうなったら、やるしかない。私は、力無く承諾の返事を返した。お人好しのレッテルをべったり貼られているとはいえ、さすがにそこは編集者。やる時ゃやります、鬼にもなります、ってか---。ああ、本当に我が担当編集者殿は、編集の鏡だ。さらば、私の優雅な日々よ。
斯くして私、大惚けこいた---どうしても自分のせいだとは思えないのだが---推理作家の有栖川有栖は、ワープロと簡単な着替えをバックに詰めて、東京へと向かう羽目に陥ってしまった。◇◇◇ 棚の上に荷物を置き、私は倒れ込むように座席に腰を下ろした。既に頭の中は真っ白、霧の彼方に幻影が見えるっ、てな状態だ。とにかく眠くて、眠くて、眠くて…。四ッ谷のホテルからここまで辿り着いただけでも、思わず自分を誉めたくなってしまう。
まぁ、四ッ谷から東京までは、オレンジ色の中央線で一本の乗り換えなし。時間にしても10分ぐらいだから、いくら私が寝不足で惚けていたからといって、乗り間違えたくても乗り間違えるような器用な芸当ができるわけはない。
ただ中央線は終点の東京駅で折り返すため、心地よい電車の揺れにへたに眠ってしまうと、気が付いたら高尾の山の中…という、笑えない冗談になってしまうことはありえた。詰まるところ私は、中央線の中で眠らないように、と必死の努力をしたわけである。
中央線のホームのある丸の内口から中央通路を通り、新幹線の改札のある八重洲口へと向かう。いつもながらの人の多さと、広い東京駅を突っ切る長い道程に、温厚な私の機嫌もだんだんと斜め方向を向き始めた。おまけに今日は最低最悪の寝不足を引きずっているのだから、普段は気にならないことも、ささくれだった神経に逐一引っ掛かってしまう。
「…ったく、人が多すぎるんや」
ぶつぶつと口中で文句を唱えながら揚々の態で新幹線のホームに着いた時には、もう電池が切れる寸前だった。ふらふらの情けない足取りで席に着いて、ほっと息をついた途端、発車のベルを聞く前に私は眠りこけてしまった。
睡眠不足で空洞状態の頭蓋骨の中身というのは恐ろしいもので、私は自分の乗った新幹線が新大阪止まりではなく、博多まで行く新幹線だということを、すっかり失念してしまっていた。いや、覚えていたからといって、果たして起きていられたかどうかは、自信がないのだが---。
しかも、運の悪い…というか、偶然の悪戯というか、たまたま私が乗った車両が自由席---混んでいたら指定席に乗り換えようと思っていたのだが---だったために、東京駅を出て新横浜を通り過ぎる頃に一度検札が来ただけで、あとは思う存分睡眠不足の解消に努めることができた。いや、できてしまった。
「着きましたよ、起きて下さい」
柔らかに肩を揺すられ、漸く目を覚ました私は、寝ぼけ眼もそのままにホームに降り立った。きょろきょろと辺りの様子を見回してみても、目に写るのは私の見知った風景ではなかった。
---へんやなぁ。まだ寝ぼけてるんやろか、俺。
2度、3度と目を擦り、ついでに惚けた頭も2、3回叩いてみる。漸く頭がはっきりしだしてきた私の目に飛び込んできたのは、『新大阪』の案内板ではなく、『博多』と書かれた案内板だった。
---博多…? 何やねん、それは。
思考が、脳味噌の表面だけを上滑りしていく。
「う〜ん博多、博多---」
目に写る案内板の都市の名前を凝視しながら、それを何度か口にしてみる。一向に要領を得ない思考を何とか拾い集めている内に、私の双眸は驚愕に見開かれた。
「博多…って、あの博多なんか?」
ごしごしと目を擦り、頭上の案内板を穴が開くほど見つめてみる。いくら目を凝らしてみても、そこにあるのは、でかでかと書かれた『博多』の文字。そしてその下には間違いようもなく、『福岡市博多区』と小さな文字が書き込まれていた。
「嘘やろーッ! 俺、新幹線乗り過ごしたんかいな」
思わず漏れた大声に、周りから白い視線が一斉に注がれた。慌てて口を噤み、私はこそこそとホームの一番端にある簡単な待合い場所を目指した。
平日のためか人も疎らなその場所の、一番端っこのプラスチックの椅子の上に荷物を置き、どさりと隣の椅子に腰を下ろす。途端、大きな溜め息が私の口から漏れた。
寝過ごしてはいけない、と中央線の中であれほど気をつけていたにも拘わらず、何と新幹線で乗り過ごしてしまったなんて---。余りのアホさ加減に、自分で自分が情けなくなってくる。しかも、新横浜で検札に起こされた後は、物の見事に一度たりとも目を覚まさなかったのだ。
もしここが岡山、広島辺り、いや大目に見て下関辺りならまだ同じ本州だし、笑って自分のドジを見過ごすことができる気がする。が、ここは九州、博多なのだ。寝ている間に関門海峡を越えて、海の向こうにまでやってきてしまうなんて---。
「情けなぁ〜。こんなん火村に知られたら、完璧にバカにされるわ」
前髪を掻き上げながら、口の悪い友人のことを真っ先に思い出す。そういえば、火村に何の連絡もせずに東京に行ってしまったが、もしかして心配しているだろうか。
「ん〜、ガキじゃないんやし、んな事もないわな」
ちらりと頭を過ぎった疑問に簡単に結論をつけ、今一番の大問題に思考を切り替える。さぁて、これから一体どうしよう。
腕時計に視線を落とすと、時間はまだ午後5時前。帰ろうと思えば、余裕で大阪に取って返すこともできる。
「でも、せっかくここまで来たんやからなぁ…」
膝に肘をつき、その上に顎をのせて、ぼんやりとホームを行き交う人を見つめた。怒濤の5日間を終え、何となく2、3日ぼーっとしておきたい気もする。
「ん〜、どうしようかなぁ…」
独りごちながらも、既に私の気持ちは殆ど決まっていた。福岡といえば、美味しい魚に、美味しいお酒。豚骨ラーメンに、水炊き、もつ鍋。屋台に温泉、エトセトラ---。「ようこそいらっしゃいました」と、私を手招く誘惑の数々に逆らえるはずもない。どうせ暫くの間は締め切りもないことだし---。
「よし、決めたッ」
すくッと勢いよく立ち上がり、私は傍らに置いた荷物を手にとった。ずっしりと重いワープロも何のその。改札へと向かう私の足取りは、青空に浮かぶ白い雲よりも軽かった。
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